編集長コラム「金曜日から」 編集長のコラムを公開しています。

「異物」を受け入れるのか、排除するのかも、参院選の争点だ

 気がついたら、水道水を飲まなくなっていた。健康に悪そうなだけではなく、そもそもまずい。といって、ペットボトルの水がおいしいかといえば、むろん、そんなことはない。まさに「味も素っ気もない」しろものだ。都心を離れて味わう、井戸や清流の水が持つ独特の存在感はかけらもない。

 澄みすぎた川に魚は住めない、のたとえが呼び起こされる。毒素を排除したいがために、無毒あるいは有益な「雑多物」をも死滅させる。後に残るのは、無色透明、無味乾燥な世界だ。

 数年、いやもっと以前からか、クレンジング(浄化)社会の到来を皮膚で感じ、ざわざわした気分の悪さを禁じ得ない。一時、清潔症候群なる言葉が流行した。いまはすでに常識化しているかのようで、こどもに「汚い」ことをさせないと固く誓っている親も多い。「バイキン」がいじめの言葉になったのもその延長線上ではないか。

 少年による、ホームレスへの暴行事件が相次いだ。行政がホームレスの居場所を奪うのが日常化した中で、彼ら、彼女らに「排除してもいい」という意識が働いたのは、容易に想像できる。

 もちろん、地球レベルでみれば「民族浄化」というおぞましき現実があったことも忘れてはならない。民族の違いにより、「命」が異質なものとして存在を許されず、抹殺される。その後に「清潔な国家」が生まれるとの幻想は、だれが、どこから運んできたのか。貧困な想像力しか持ち合わせていない私には、答えがみつからない。

 本誌今週号では、参院選の争点を特集した。先週も触れたように、争点は「年金」だけではないはずだ。「切り捨て」か「寛容」かもその一つと考える。犯罪者、努力の足りない人間、国家に楯突く人間、障がいをもった人間、高齢者……次々と排除し、後には勝ち組だけが残る。そんな日本を「美しい」と考える人に国会議員の資格はない。

 あえて「日本の美しさ」をあげるなら、「すべてを懐に受け入れる寛容さ」もその一つに入るだろう。国家統制型日本を目指す人々とは対極である。

 混沌や矛盾を受け入れてこそ、人は人らしく生きられる。「異物」の存在を許さない世界などまっぴらごめんだ。(北村肇)