編集長コラム「金曜日から」 編集長のコラムを公開しています。

「経済難民」を不可視の存在にしてはならない

「派遣村」に関し、一部に、はらわたの煮えくりかえる報道があった。「ホームレスの人もいた」ことを、さも大問題のように報じたものだ。確かに「村」の趣旨とは外れるかもしれない。主催者の困惑ぶりも聞いた。だが、「経済難民」では共通している。重箱の隅をつつくような、下らない批判にすぎない。こうした、「派遣村」の成果を故意におとしめたり、運動の分裂をあおろうとするような記事は、ジャーナリズムとはかけ離れている。言語道断だ。

 世界の難民は1千万人とも2千万人とも言われる。政治難民、災害難民のほか、経済難民も増えているだろう。各国が対策に乗り出している中、日本の取り組みが弱い事実は広く知られている。ただ、問題は政府の対応だけではない。社会全体に難民への関心が薄いのは否めない。政治難民が、日本政府に非人道的な扱いを受けた例は後を絶たない。しかし、社会運動化することは滅多にない。だから、国を動かすこともできない。つまり私たち市民の責任でもあるのだ。

 そのことが、ホームレスやネットカフェ難民への視線にもつながっている気がする。「派遣村」が耳目を集めたのは、派遣を切られた人=一生懸命に働こうとする意志はあるが、仕事がない、という「見方」があったからではないか。一方で、ホームレスは「働く意志がない人々」とされ、「関心」の外に置かれる。だから、許し難い報道にも目立った批判が起きなかったのではないか。
 
 本誌今週号に「ネットカフェ店員の日記」を掲載した。自らも職を失った男性がネットカフェで働くことになり、「同じ視線」でお客を見つめた。「住居がない」とはどういうことか。現実のほんの一片にすぎない「日記」だが、寄る辺のない生活の不安や絶望を、体温を感じさせながら描いている。
 
「ネットカフェ難民」が普通名詞になったのは、ここ2、3年。だが、はるか以前から、路上難民、公園難民は存在していた。行政ばかりではなく、多くの市民が視野の外に置いてきただけのことだ。

 難民は言うまでもなく「国家」の被害者だが、「社会」の被害者でもある。国を動かすためにも、まず、彼ら、彼女らを、私たちが受け入れなくてはならない。少なくとも、一刻も早く、不可視の存在から完全に脱却させなくてはならない。いつでもだれでも、難民になる時代がきていることを認識しつつ。(北村肇)