きんようブログ 社員エッセイを掲載。あの記事の裏話も読めるかも!?

[この国のゆくえ36……生活保護者への差別は、障がい者、高齢者排除につながる]

<北村肇の「多角多面」(55)>

 初霜をふいて公園のベンチに座る中年の男性。世捨て人のような雰囲気を漂わせる背中はしかし、すぐに文学的な表現を拒否する。世を捨てたのではない、世に捨てられたのだという叫びが聞こえてくる。思い過ごしかもしれない。でも、そうではないことは、表情から読み取れる。働かないのではない、働けないのだ――。

『読売新聞』が8日から「急増 生活保護」の連載を始めた。同紙は新自由主義の立場に立った報道が多く、意外な気がしたが、1回目を読んで納得した。「働けるのに働かない人間には支給するな」というトーンだったのだ。たとえば以下のような記述がある。

「自治体関係者の間では、『(年越し)派遣村』の“副作用”を指摘する声も少なくない。生活保護を受けることへの抵抗感を弱め、受給者増の一因になった、というものだ」「生活保護制度に詳しい鈴木亘・学習院大教授(社会保障論)は『派遣村の時は、養ってくれる親族の有無などの調査が短期で済まされ、働く能力がある人も受給した。以降、これが各自治体で前例となり、申請増に歯止めがきかなくなったのではないか』と指摘した」

 ところが皮肉にも、連載のスタートした8日、東京地裁で「生活保護義務づけ判決」が出た。東京都新宿区で路上生活をしていた男性(61)が、生活保護申請を却下されたのはおかしいと区を訴えていたものだ。報道によれば、川神裕裁判長は「実際に働いていなくても、働く意思が客観的に認められれば、自ら生活を維持しているといえる」と述べ、区に生活保護を義務づけた。この国ではいま、働きたくても働く場がなかなかない。特に中高年ではそうだ。「働いていない」と「怠けている」は合致しない。妥当な判決だ。

 厚生労働省の統計によれば、生活保護受給者は205万人に達した。過去最多である。人口比で考えれば戦後混乱期ほどではないとの見方もあるが、深刻な事態であることに変わりはない。しかも、捕捉率(生活保護を受けられる人がどれだけ受けているかを示す率)は18%程度といわれる。さまざまな理由で、受けたくとも受けられない人が多い。「本当は働けるのではないか」と白い目で見られることも影響しているはずだ。

 人はだれにでも生きる権利がある。そして国には、「健康で文化的な最低限度の生活」をすべての国民に保障する義務がある。だが政府は、財政健全化のために「生活保護費」を減らそうと考えているようにみえる。しかも、一部のマスメディアがそれを支持する。こんなことがまかり通ったら、障がい者や高齢者には「財政の足を引っ張る対象」との烙印が押されかねない。すでにその徴候もある。許せない。(2011/11/25)