きんようブログ 社員エッセイを掲載。あの記事の裏話も読めるかも!?

橋下徹大阪市長の怖さは「真空」にある

<北村肇の「多角多面」(83)>
橋下徹大阪市長の怖さは「真空」にある

 橋下徹大阪市長に対する評価に「いい加減」がある。確かに言動をみていると、一貫性に欠け、筋の通った柱もない。実は、橋下氏の怖さはそこにある。

 橋下氏は時に、小泉純一郎氏と同列に論じられる。一見、怖い者知らずの「歯切れの良さ」が重なるからだろう。ただし、それは「開き直り方」のうまさでしかない。小泉氏の有名な言葉「人生いろいろ、会社もいろいろ」はその典型だった。窮地に追い込まれると、わけのわからないことを堂々と宣言することで煙に巻く。この点では、まさに天才的だった。一方の橋下氏も「脱原発」の大見得を切ったかと思うと、急転、「市民のために大飯原発再稼働はやむなし」と掌を返す。見事なまでの変身ぶりだ。

 彼らはなぜ、かくもいい加減になれるのか。しかも、そのことが政治生命の死につながらないのか。理由は、二人とも「真空」だからだ。何もない、だからどんな色にも染まる、大衆の空気を読みいくらでも路線を変えられる。この可塑性の強い「いい加減さ」こそ、強さの源なのだ。

 言うまでもなく、真に強い人間は「筋」を曲げない。だが、社会が歪んでくると、それが徒になることがある。強い人間の足を引っ張ることで自分を強く見せる。そうした思惑のある人間が大挙して「筋」を崩しにかかる。いい加減な人間なら、たまらず「筋」をぐにゃりとさせて凌ぐかもしれない。しかし、自分の考えをしっかりと持った人は、何としても耐えようとする。その結果、残念ながら、ポキリと折れてしまうことがある。

 一貫性も柱もなく、どんなことでも吸い込んでしまう「真空」人間は、何があろうと折れることはない。だから、ある意味で強いのだ。こうしたいびつな強靱さの危険は、毒を飲み込んだときに、恥も外聞も良心もなくまき散らすことにある。

 仮に新自由主義の亡者たちが橋下氏の中に入り込んだらどうなるか。彼らの声を「歯切れ良く」代弁する。力強く、堂々と、自信満々に。一片の良心でもあれば、どこか後ろめたさが出るものだが、「真空」人間にはそれがない。だから、閉塞状況にあえぐ社会では聴く者の多くが知らぬ間に洗脳されてしまうのだ。

 橋下氏は社会の鏡である。意図的に「敵」をつくっては叩く。そんな手法を用いる彼がカリスマになる背後には社会の歪みがある。このことを踏まえたうえで、さまざまな角度から、橋下氏を徹底批判していかなければならない。(2012/6/29)

2012年の鍵となる言葉(5)「地域政党」

<北村肇の「多角多面」(64)>
 いたずら坊やにしか見えない。いくら背伸びしたって大人の政治家になれるわけがない――。橋下徹大阪市長に対する私の評価はまったく変わっていない。だが、現実には、あっという間に権力者になりつつある。なぜか。本人ではなく周りが変わったからだ。

 民主党、自民党は、「地域政党」の風に吹き飛ばされる強い危機感をもつ。たとえ有象無象の候補者であろうと、「大阪維新の会」や「減税日本」の看板を背負っただけで大量の票を獲得するのではないかと。大いにそれはありうる。「小泉郵政選挙」のときも「民主党圧勝選挙」のときも、何の実績もない候補者が続々、当選したのだから。そこで、支持率の低迷する両党は、橋下氏にすりよるしかないと方針を転換した。さらには、野田政権に批判的な小沢一郎氏や「石原新党」も、橋下氏との連携に色気をみせている。要するに、周りが勝手に“大物”にまつりあげてしまったのだ。

 ところで、地域政党の定義とは何だろう。公職選挙法による政党要件は「国会議員5人以上」ないし「直近の国政選挙で有効投票の2%以上の得票を獲得」。これにあてはまるのは、鈴木宗男氏が北海道で立ち上げた「新党大地」(現在は「新党大地・真民主」)のみだ。同党以外に国会で議席をもっているのも沖縄社会大衆党しかない。後は、地域の県議会や市町村議会で活動する議員の組織だ。55年体制以降、「自民・社会」「自民・民主」の二大政党制は盤石であり、地域政党が国会に足場を持つ余地はなかった。だから、明確な定義もされてこなかったのであろう。

 では、果たして橋下ブームや河村たかしブームにより、永田町の構造は大転換するのか。私は、それほど単純ではないと思う。既成政党の狙いは所詮、政権維持や政権奪取であり、「地方の自立」をまともに考えているわけではない。仮に「大阪維新の会」や「減税日本」と連立政権を組むことになれば、政権をとった後に、じわじわとその力を削いでいくはずだ。第二の社会党にしてしまおうとの魂胆である。

 もし、橋下氏の「力」が異様に肥大化した場合はどうか。民自は大連立に走る可能性がある。その場合、年内解散はない。1年もたてば「地域政党」ブームは去るだろうとの計算が働くからだ。いずれにしても、民自両党にとって橋下氏は使い捨てカイロでしかない。ただ、忘れてならないのは、既得権者への怒りには、「東京一極集中」への不満があるということだ。その怒りをバネに、全国で「第二の橋下、河村」が誕生する余地はある。これは、民主主義の成熟なのか退廃なのか。いまのところ正答はないが、地域政党の伸張を橋下氏のキャラクターに収斂してしまっては、本質を見失う。(2012/2/10)

2012年の鍵となる言葉(2)「抑圧か解放か」(下)

<北村肇の「多角多面」(61)>
「地震、雷、火事、親父」が怖いものの代名詞だった時代は、どこまで遡るのだろう。1952年生まれの私が小学生のころは、すでにピンとこなかった。「親父」に叱られた記憶はまったくない。養父だったからか。でも、友人から聞かされる愚痴はもっぱら「うるさい母親」だった。「怖い親父」は当時、すでに絶滅危惧種になりかけていたのだ。

 戦前の父権主義は天皇制や軍国主義と不可分の関係があるとして、戦後は「ものわかりのいい父親像」が求められた。そのこと自体は間違っていない。たとえ親子でも、理不尽な叱責や体罰が許されていいはずはない。子どもは親の所有物でも奴隷でもない。基本はあくまでも「対等」である。もちろん、長幼の序を軽視する気はない。自分より体験の豊富な人を尊敬するのは当然だ。しかし、年上だから、親だからといって、目下の人格を無視した“押しつけ”はだめなのだ。

 2012年、鍵を握る人物の一人は橋下徹大阪市長だ。以前、この欄でも触れたが、橋下氏の人気は「既得権者をたたく」姿勢によるものだけではない。彼の持つ“父性”に秘密がある。「黙って俺についてこい」という雰囲気が票を集めるのだ。小泉純一郎元首相にもそうした面はあった。だが、実際の生活も含めて“父性”は希薄だった。むしろ、石原慎太郎東京都知事に似ている。信じられない暴言の数々がなぜか大問題化せずにきたのも、「お父さんの言うことだから仕方ない」という“赦し”があったからだろう。

 閉塞した社会で鬱屈した現代人が「父親についていけば安心」という感覚に憧れるのは理解できる。公務員たたきの橋下氏の姿に「いじめっ子をやっつけてくれるお父さん」という像を結んだとしても、単純な批判はできない。彼ら、彼女らもまた虐げられてきた“子どもたち”なのだ。だからこそ、いまの状況は極めて危険で不安である。

 抑圧者は、おうおうにして解放者の顔をして登場する。あなたを抑圧する敵を倒してあげよう。その声は力強く、甘いささやきでもある。実態は判然としないが何となく社会から抑圧されていると感じる人は、無条件に“父親”に従うことで解放されると信じる。むろん、それは幻想にすぎない。真の解放は「個の自立」から生まれる。そして、それを担保するためには「差別無き社会」「思想、良心の自由」が前提となる。橋下氏が救世主になることはありえない。

 野田政権の命運は尽きている。その後釜に「解放者の顔をした抑圧者」が座る事態を防ぐにはどうしたらいいのか。日本社会は正念場を迎えている。(2012/1/20)