愛国という名の亡国
2008年4月4日5:00PM|カテゴリー:シジフォスの希望|Kataoka
シジフォスの希望(11)
卒業式・入学式のシーズンだ。「日の丸・君が代」を強制するおぞましくも寒々とした風景が各地の教育現場で繰り返される。安倍「愛国」教育路線を引き継いだ福田政権によって、「愛国心」を植え付ける教育が推し進められようとしているが、強制された愛国とは亡国ではないか。
この国の為政者は気づかないらしい。「強制された愛国心」はそれ自体、パラドックスである。愛は強制の対極にある概念であり、行為なのだから。愛国心を強制しなければならないほどに、この国が荒んでいるということなのだろうが、愛することを強制された心はむしろ、この国への嫌悪の情を育むだろう。本当に人を愛したことのある者なら、とうに気づくはずの簡単な事柄を、この国の為政者・教育者・教育行政に携わる人たちは気づかないのだろうか。強制された愛国の意味を、一度として胸に手を当てて考えてみたことはないのだろうか。
いやむしろ、この国の為政者による「愛国心」強制の目的は別のところにあるのだろう。強制された愛国によって、本来は自由であるはずの個人の好悪・愛憎といった内心を支配することで、国家に従属する人間をつくる。ちょうど日本が政治的・経済的に米国に従属しているように、従属をよしとする人間をつくる。それに反抗・抵抗させない社会土壌をつくる。それが目的ではないか。国に従属する奴隷的人間を大量生産できれば、その生命までもをコントロールすることが可能になる。すなわち、容易に戦争ができる。米国への従属がグレードアップし、米国のように人殺し産業(軍需・兵器産業)も潤う。
国を愛する心を育む唯一の方法は、愛される国をつくることだ。戦争や貧困や差別がなく、人殺し産業が儲かることのない、自由・平和・公正・平等・思いやり・助け合いといった価値観が社会に息づき根付く国をつくることだ。その自信がないから「愛国」を強制するのだろうが、それこそが亡国なのである。(片岡伸行)
(2008年3月31日)