きんようブログ 社員エッセイを掲載。あの記事の裏話も読めるかも!?

大阪からの手紙(1)

シジフォスの希望(41)

 不定期だが、このところ月に一度くらいの頻度で「大阪市都島区友渕町」から手紙が届く。差出人名は「林眞須美」。最高裁で死刑が確定し(2009年7月22日)、その後、再審請求をしている死刑確定囚だ。大阪拘置所から出された白い封筒には、いつもブルーのボールペンで書かれたやや硬い筆跡の文字が並んでいる。最近では、封書の裏側(差出人)を見なくとも、「ああ、眞須美さんからだ」と判るようになった。

 私信ではあるが、ご本人の承諾を得て、手紙の内容を少しずつ紹介していくことにする。というのも、これは私宛に来ているものだが、内容はと言えば、多くの人に伝えてほしいというご本人の意図がよく理解できるからである。もちろん、それ以外の内容を書き連ねるつもりはない。

 最近の封書に入っていたのは、島田事件(1954年3月、静岡県島田市で発生)の犯人とされ、死刑確定囚として34年8カ月の監獄生活を送り、1989年に無罪が確定した赤堀政夫さんからの「ご挨拶」と表記された一文のコピーである。文末に「2007年12月9日」との日付。和歌山市内で開かれた支援集会に赤堀さんが「ゲスト」として参加したときの「ご挨拶」だと思われる。3年近く前の一文がなぜ今ごろ送付されてきたのかは、この内容を紹介していくことで推察されると思う。
 島田事件は、免田事件、財田川事件、松山事件とともに「四大死刑冤罪事件」の一つとされる。この一文の中で島田事件の内容にも触れているので、まずはその部分から紹介しよう。

〈元無実の死刑囚赤堀政夫です。
 私は昭和29年(1954年〉5月24日、岐阜県鵜沼市を放浪中、全国指名手配者として、不当な逮捕をされました。しかも、逮捕は別件逮捕です。即日、島田署に連行されました。
 取り調べでは、同年3月10日に島田市内で起きた「幼女・強姦殺人事件」の容疑者に変わりました。
 私は事件当日には島田に在宅しておりませんでした。
 横浜の「外川神社」の縁の下に寝ていました。
 この外川神社は、私の記憶と絵図面を頼りに支援者が見つけ出してくれたもので、重要なアリバイとなりました。〉
〈島田市へ連行され、警察に初めて「幼女殺人事件」を知らされました。
 身に覚えがないのに、それを「拷問」・「誘導」で私を締め上げました。
 知らないことは、知らないのです。
 島田警察署と検事は、自分達の勝手な想像で描いた「作文」を、「自白調書」に仕立てました。
 そのうえ、私の腕を無理矢理つかみ、その紙に名前を書かせ、指印を押させたのです。
 警察の偽装工作はこうして始まりました。〉                     つづく
                                   (2010年8月25日・片岡伸行)