きんようブログ 社員エッセイを掲載。あの記事の裏話も読めるかも!?

森達也はサブカル化するか

批評家、そしてマンガ原作者の大塚英志によれば、ナショナリズムはサブカルチャー化することにより、その認知度は高まり広まったという(『「おたく」の精神史 一九八〇年代論』講談社現代新書より)。
確かに、その通り。端的に情況を表現しているコトバではないだろうか。小林よしのりや福田和也などがマンガや文芸などを使用することにより、タカ派や歴史修正主義のイメージは広まっていった。一方の大塚英志は、いくらか政治力のきくカドカワで、雑誌『新現実』を発刊しているが、護憲派や「戦後民主主義下の子ども」のサブカル化を目論んでいるのだろうか。

さて、おそらく大塚と同じ、「戦後民主主義下の子ども」とおぼしき森達也がエッセイ集『世界が完全に思考停止する前に』を角川書店から出版した。これまで新聞や雑誌などに掲載されたものをまとめたものだが、一部の文章がほぼ原文のままで掲載している点に潔さを見つけた(エッセーのすべての文章については検証することができないので「一部の文章」である)。
というのも、私が唯一知っている本誌掲載分のエッセイは、本誌で掲載されている文章のままではない。森が送ってきた原文が載っているのだ。これはかなり意図的である。
一般的には、媒体に掲載された文章は校閲済みであって、文章という商品としてはより完成品に近い。そのため単行本の編集者は掲載号を集めて本にするのが楽な仕事であるはずだ。だがそれを、あえて編集前の文章を載せる行為は、執筆当時の自分を振り返らなければいけないことは間違いない。すべてのエッセイに関して、そのような態度で臨んでいるのか不明だが、地味ながら手間のかかる作業をしていたようである。
そこに妙な感心をしつつ、さらに納得したのが本の「帯」である。是枝裕和、斎藤美奈子、重松清などメディアの売れっ子が推薦している。いずれも「戦後民主主義下の子ども」たちなのではないか。

そういえば、3年くらい前、当時、森の新作ドキュメンタリーだった『A2』の最後の試写が渋谷であった。森が『AERA』の「現代の肖像」に使う写真を試写室で撮影したあと、ようやく近所の居酒屋で内輪の打ち上げが開かれた。その際、なんとなく私もいたのだが、その場に大塚英志もいた。
当時、いい年をして本当にモノを知らなくて恥ずかしいのだが、私は大塚を知らなかった。そのため、カドカワの編集者がセンセイ、センセイと大塚に気を遣っている意味がわからなかった(知っていたとしても意味がわからなかったかもしれない)。
黒い服を着たカドカワのアニメ系の作家だと思える大塚が、周囲に請われて『A2』評をその場で開陳していた。だが、オウムにそもそも私は関心が薄く、オウムに過剰に反応する人々を疎ましく思うこともしばしばあり、それに加えて先入観もあったため聞き流してしまい、大塚が何を話していたのかはまったく記憶にない。
少なくとも私のほうが取材をしていたこともあり、現場を知らない作家に何がいえるんだと正直いって思ったりもした。

だが最近は、腰の据わった(ここがポイント)プロの編集者と思えてしまう大塚の著作を読み倒している。
月9ではワムや「私をスキーに連れていって」を彷彿させる80年代文化が画面に登場するが、それとは違った、大塚にしか描けない80年代を『「おたく」の精神史 一九八〇年代論』に見つけることができることも幸運である。

注:エッセイにしては長くなってしまったため(いずれにせよマカロニは「裏窓」では長い傾向にあって、多方面から長いといわれる)、コトバが及ばず、表題と本文はズれましたが、「可」とした。

<新潟地震の続報>
寄せられるメールなどによれば新潟県中越地震の被災者にはまだ家屋の修理が進まず、自宅で風呂に入れない人もいる。すでに3週間も経っているし、そんなに難しい修理とも思えないのに、そんな有様だ。
一方、地震に関係のない地域では報道に比例して関心も薄れていく一方だ。これはしょうがないと思う。何かの理由がなかれば、自分の日常生活に関心のない事件・事故は忘れていくものだ。私は「いつ自分の身に降りかかるかもしれない」ということを理由にして、引き続きウォッチングしていきたいと思っている。
(平井康嗣)