きんようブログ 社員エッセイを掲載。あの記事の裏話も読めるかも!?

[この国のゆくえ28……完全なモノは存在しない、それこそが真理]

<北村肇の「多角多面」(47)>

 ニュートリノの速度は光速より早い――このニュースを聞いたときは飛び上がった。タイムマシーンがSFの世界にとどまるのは、「光より早く飛ぶ物質はない」というアインシュタイン説をだれもが信じてきたからだ。もし、ここがひっくり返ったなら、時々現れる「未来から来た人」の中には“本物”がいるのかもしれない。
 
 この6月、イタリア発の不思議なニュースが話題になった。シチリア島ですべてのデジタル時計が15分間進んでしまったというのだ。おもしろがりながらも「何か科学的な原因があるのだろう」と考えていた。でも、「時間」の概念が根底からあやしくなるのなら、何が起きても不思議ではない。オカルトがオカルトではなくなる。

 宇宙に関する本を読んでいると、最近は「ナゾの解明が近い」といった言説を目にする。しかし素人の私からみると「ナゾだらけであるとわかった、そのことが進歩である」としか読めない。物理学の進展とともに、宇宙はますます人知を超えた世界になっているのではないのか。そこに降ってわいた相対性理論への疑問。現代物理学はアインシュタインなくしては存在しえないのだから、ひょっとすると、すべては一からやり直しということになりかねない。

 あまりに自明のことだが、科学は万能ではない。というより、未来永劫、人類にとって科学が万能になることはありえない。なぜなら、人間自体が不完全な存在なのだから。「神」になりえない人間が生み出す科学は、どこまでいっても完全たり得ないのだ。

 しみじみ思う。科学万能主義者は人間を信じていないのだろう。不完全なモノは、科学にとって忌み嫌うべきモノでしかない。だから、人間より科学が優先される。そうした彼ら、彼女らの“心の貧しさ”がどれだけの人間を傷つけてきたのか。

 あえて持ち出すまでもないが、原発の安全神話は科学万能主義のもたらしたものだ。一部のまともな学者は「制御できない技術は危険」と指摘した。とともに、私を含め、具体的なことはわからないものの、感覚的、直感的に「原発は危険と感じた」人間もいた。しかし、いずれも非科学的と軽んじられた。

 人間は、一人の例外もなく欠陥だらけだ。だからこそ、お互いを認め合い、支え合ってきた。完璧ではないからこそ、愛おしい。それが人間である。「科学する心」も、「完全なモノは存在しない」を前提にして初めて成り立つ。(2011/9/30)