きんようブログ 社員エッセイを掲載。あの記事の裏話も読めるかも!?

[この国のゆくえ16……人間性を喪失させるマニュアル依存症]

<北村肇の「多角多面」(35)>

 間もなく母親の7回忌を迎える。「死」は必ずしも忌避の対象ではない。それはわかりつつも、忸怩たる思いはなかなかに消え去らない。私さえしっかりしていれば、死期を遅らせることは出来たからだ。

 輸血由来のC型肝炎だった母親にとって、肝臓がんは避けようのない“未来”だった。多少なりとも“その日”を遠ざけるためには、肝炎から肝硬変への移行を食い止めるしか手だてはない。そのためには定期的な検査が欠かせない。毎月、母親が病院から持ち帰る検査結果は私が必ずチェックしていた。その月も、数値上は何一つ異常がなかった。だから、腹水状態がみられて入院したときも、医師に「肝臓の心配はないでしょう」と太鼓判を押され、安心していた。
 
「実は……」と医師から電話があったのは、「念のためにCTをとりましょう」と言われた翌日のことだった。もはや、手のつけようのない段階にまで肝臓がん・胆嚢がんが進んでいた。

 医療関係の取材をしているころ、「医療検査のデータは信用できない」ということを痛感したのは、ほかならぬ自分だった。もっともあてになるのは、まともな医師の“直感”による診断であることも、十二分にわかっていた。なのに、20年近く通っている病院だから、母親の病状はよくわかっているはず、と思い込んでしまったのだ。悔やんでも悔やみきれない。

 検査やデータへの依存はマニュアルへの依存にも通じる。「こういうデータのときはこういう処置」「こういう事態のときはこういう法律に基づき対処」――医師しかり、官僚しかり、頭でっかちの人間が陥りやすいことだ。彼ら、彼女らはこの“依存症”にかかることにより、人間が本来、もっている直感力や感性を失っていく。

 東日本大震災の被災者が生活保護を打ち切られるケースがあるという。厚生労働省が義援金を収入とみなしているからだ。批判が相次いだためか、福島県は、一部、特例とする方針を出した。ほかにも、住民票がないから義援金を受け取れないという例があった。「法律では」「条例では」「規則では」――いい加減にしろと叫びたくなる。何が法律だ、何が前例だ。

 マニュアル依存症は人間性をも喪失させてしまう。(2011/6/24)