きんようブログ 社員エッセイを掲載。あの記事の裏話も読めるかも!?

東京スカイツリーを下町に建てるなんて、愚の骨頂だ

<北村肇の「多角多面」(77)>
「何とかと煙は高いところが好き」と言われるが、高所恐怖症の私は大いに肯く。ましてや、下町に634メートルのランドマークなど、とんでもない。石礫を投げつけられようが槍が飛んでこようが、断言する。東京スカイツリーに浮かれる人は江戸っ子でも下町っ子でもない。

 などといきがってはみても、子どものころは仁丹塔が誇りだった。浅草寺にお参りした後は、ほんの少し足を伸ばして見上げたものだ。この塔のモデルは、明治から大正期にかけて、まさに東京のランドマークだった浅草凌雲閣(浅草十二階)。関東大震災で崩れたため取り壊されたが、52メートルの偉容は写真に残っている。

 まあ、結局のところ、凌雲閣がそびえていた時代は過去となり、高層ビルの林立する新宿やら渋谷に東京の中心を奪われた、そのうらみつらみからくる幼い私怨だった。だからなおさら、仁丹塔なきあとは「下町らしさ」にこだわってきた。

 ほんの少し大人になってから考えたのは、「下町」とはなんぞやということだ。歴史的には、武士の住んでいた山手に対し町民の暮らす下町と区分けされるが、いま、私の中の「下町っ子」像はこうだ――庶民を抑圧したり管理する為政者に対し徒手空拳でも敢然として文句をつける、正義感は強いが、ちょっとおっちょこちょいのはね上がり。

 当然、庶民を睥睨するかのようにそびえる電波塔は下町に似合わない。どうしたって権力の象徴にしか見えないし、だいいち、センスのかけらもない。某ビールメーカーのウンチビルに匹敵する代物だ。ちなみに、原則として私は某社のビールを飲まない。

 高いものや大きなものに憧れる時代は終わった。何かというと上を見る態度は捨てよう。目線はもっと下に置こう。試しにしゃがみ込んで地面を眺めてみる。コンクリートの隙間に控え目な雑草が生えている。ちろちろと風に揺れている。ほんの少し顔をのぞかせた土の表面はキラキラ光っている。そこには「命」がある。それを見つめる私も生きている。

 大切なのは目線だけではない。「心線」ともいうべき、「心の目」の高さだ。他者を上から見下ろす人間はろくでもない。すべての命は同じ地平にある。そこには階級も優劣もない。差別意識は「高見に立つ」ことから生まれるのだ。

 ガキじゃあるまいし。「世界一のタワー」なんてくそ食らえだ。(2012/5/18)