きんようブログ 社員エッセイを掲載。あの記事の裏話も読めるかも!?

「孤立死」や「貧困」を庶民の責任に押しつけるな

<北村肇の「多角多面」(71)>

 聴くともなしに聴いていたNHKラジオに、瞬間、耳をそばだてた。いわゆる「孤立死」事件のニュースだった。その最後のセンテンス――「冷蔵庫には食べ物があった」。「餓死ではありませんよ」と強調したかったのだろう。自分が現役記者でもその事実は書く。重要な要素だからだ。でも、何かいらついた。蜘蛛の巣が顔にはりついたような、ぬめぬめとした感覚。死者が侮蔑されたような不快感。とらえどころのない憤懣。

 ふっと我に返り考えた。一体、誰に向かって怒っているのか。記者か、NHKか、政府か、社会か、自分か……。

 半世紀以上前のこと、祖母は箪笥から着物を取り出すと、色あせた紺の風呂敷に包み、三つか四つの私の手を引いて駅近くの「店」に出かけた。事情があって祖父母に育てられていた私は、何であれ祖母とのお出かけはうれしい。なのに、なぜ祖母が沈んだ表情をするのか不思議だった。「店」が質屋であると知るのは数年後である。こんなことは、我が家の特殊事情ではなかった。だれもが貧しかった。でも、少なくとも私の周辺で「餓死」はなかった。

 近所という、いざというときの「お助けコミュニティ」があったからだ。コメもミソも醤油も、なくなったら隣家に借りた。お古の洋服は次々といろいろな家を回った。確かに助け合いの精神にあふれていた。「貧しいながらも楽しい我が家」は、大家族制だけではなく、こうした地域環境があったからこそ成り立っていた。それは事実だ。しかし、「経済大国」になった21世紀、相次ぐ「孤立死」の原因が「家族と地域コミュニティの崩壊」といわれることには強い違和感がある。

「孤立死」で目立つのは、老老介護世帯と障がい者を抱える世帯だ。共通するのは、貧困と行き届かない行政サービスである。日本世論調査会が行なった社会保障制度に関する世論調査によると、現行制度に対し「安心できない」(39%)、「あまり安心できない」(44%)」との回答が合わせて83%に達した。こうした不安感を助長し続けているのは政府であり、解消する責務を負うのも政府だ。

「市民の絆」を何かと強調する国を批判してきた。お上に言われなくたって、庶民には助け合い精神がある。それをやたらと盛り上げ、「瓦礫を受け入れない人は非国民」的な雰囲気作りにまで走る政府の狙いは、失態の隠蔽にある。「孤立死」や一向に減らない自殺もまた、弱者切り捨て政策の誤ちがもたらしたのだ。(2012/3/30)