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2012年の鍵となる言葉(7)「復興と新生」

<北村肇の「多角多面」(66)>

 ノーベル文学賞をとった大江健三郎が、受賞を祝うストックホルムの晩餐会で「あいまいな日本の私」と題して基調講演を行なったのは1994年12月。その大江は、17年後の昨年6月に発刊された『大震災の中で 私たちは何をすべきか』(岩波新書)で、こう語っている。

「私の言及した『あいまいな日本』は、なお猶予期間にある、あいまいな国でした。……日本人という主体が、この国の現状と将来において、はっきりとしたひとつの決定・選択をしていない、それを自分で猶予したままの状態です。そして他国からもおなじく猶予されている、と感じている状態です」

 そのうえで、沖縄問題に触れ「このまま現状維持する・あいまいなまま続けることが許容されるはずはありません」と述べる。もちろん、そこには原発に対する姿勢、つまり廃炉しかないという宣言も含まれている。

 名目上は野田総理をトップとする復興庁が立ち上がった。福島県では「復興バブル」の兆しが見え始めていると言われる。それでもなお、すべては「あいまいな」ままだ。福島原発事故の原因も、収束の見通しも、責任の所在も、なにもかもがはっきりしないまま、政府は「自分で猶予したままの状態」を維持しつつ「復興」を掲げている。

 しかし、21世紀のいまは“敗戦”の1945年ではない。「他国からもおなじく猶予される」ことはありえない。さらに、「3.11」を一つのきっかけに立ち上がった多くの市民は、決してあいまいさを許容しない。

 政府、高級官僚、財界――既得権益を握った連中は「復興」を旗印にする。ただし、その意味するところは「利益を生み出すシステムを変更させない」ということだ。自分たちの権限はそのままに温存した上で、未曾有の災害を奇貨としてさらなる利益を得ようとの魂胆である。

 私たちが目指すべきは「復興」ではなく「新生」だ。ことが起きるたびに「責任の分散化」が発動され、「加害者」はだれかがあいまいになり、結果として市民にしわ寄せが来る、そんな構造をぶちこわし新しい日本をつくることだ。では、いったい、私たちは何をなすべきなのか。まずは「新生」への意志を自らの心に醸成させることと思う。その先で、一人一人が具体的な行動に出る機会は必ず訪れるはずだ。(2012/2/24)