きんようブログ 社員エッセイを掲載。あの記事の裏話も読めるかも!?

[この国のゆくえ13……「生」も「死」も決定権は一人ひとりにある]

<北村肇の「多角多面」(32)>

 この時期の夕刻、とくに午後6時前後は独特の雰囲気がある。光源がどこにあるのかわからない感じ、とでも言おうか。天空、地表のすべてが、明るからず暗からずの微妙さをまとっている。

 そのせいか、心のありようによって印象が大きく異なってくる。落ち込んでいるときは、少年時代、友だちと別れて家に帰るとき耳にした、もの悲しい豆腐屋のラッパの音が聞こえてくる。逆に、高揚しているときは、夜の短い季節になったことを実感し、大層、もうけた気になる。

「3.11」を経験した今年は、また別の感覚に襲われる。「死」の香りだ。漆黒の夜を迎える前の、一時のあいまいな時間。「その先にあるのは避けようのない『死』」という感覚。この不安から逃れるために、人間は灯りにすがるようになった。街中をネオンの洪水にもした。無益な抗いであることは知りつつ、そうするしかなかった。

 ゆっくりと帳(とばり)の降りる街を歩きながら、自問自答する。人は何を間違えたのだろう。社会は何が間違っているのだろう。どうして2万数千人が死を迎えなければならなかったのか、無数の人々が被曝という危機に直面せざるをえなくなったのか。どうして、どうして……。

 原発震災が発生すれば「決死隊」ができると、心ある識者は指摘していた。まさにそれは現実化した。命を犠牲にして人を救うのは正義か否か。長い間、論議されてきた永遠の難問がいま、私たちすべてに投げかけられている。

 被災に遭われ命を失った方々に報いるためにも、私たちは改めて「死」について、それはつまり「生」について正面から向き合い、考えなくてはならない。自分の中の深い場所に降りていき、自分を見つめなくてはならない。

 その際、最も大事なのは、「生」も「死」も決定権は私たち一人ひとりにあるということだ。重大な危険性と隣り合わせにあった原発は、その決定権を私たちから奪っていたのである。おりから、最高裁は「君が代訴訟」で「起立・斉唱の職務命令は合憲」との判決を下した。統治権力やその周辺は、市民を丸ごと管理しようともくろんでいる。福島原発事故をきっかけに、そこを突き崩さなくてはならない。人はだれでも等しく、そしてだれとも異なる「生」を「死」を、根源的な権利としてもっている。(2011/6/3)