きんようブログ 社員エッセイを掲載。あの記事の裏話も読めるかも!?

不当逮捕

不当逮捕

 麻生首相の豪邸を見学するツアーに参加、無届けデモや公務執行妨害の容疑で渋谷警察署に逮捕・拘留された3人のうち2人が本誌の創刊15周年大集会に登壇し、逮捕の不当性を訴えた。上映された逮捕の瞬間や、事前に渋谷署の警官とデモではないことを確認しあっている映像をみると、公務執行を妨害した様子もないし、無届けデモでもない。こんな明白な証拠があるのに12日間も拘留するなんて、まったくひどい話だ。ネットでも放映され、アクセス数が14万を超えたというこの映像がなかったら、黙秘を続けた3人は起訴され、冷たい留置場にいまもつながれたままだったかもしれない。
 
 15周年大集会の当日も2人は実名を明かさず、「渋谷1号」、「渋谷2号」という“ポリスネーム”での登場だった。彼らの話を聞きながら、「新宿8号」というポリスネームをつけられた30数年前の暗い記憶がまざまざと蘇ってきた。

 あれは集会の日と同じ11月の寒い夜、沖縄返還協定に反対する抗議行動に参加して歩道を歩いていた私たちは突如、完全武装の機動隊員に襲われた。まわりにいた通行人も一緒になって逃げ回り、私ははぐれて路地奥の住宅の軒先に潜んだ。……が、すぐに見つかり、数人の機動隊員に取り囲まれ捕まってしまった。ごついカラダをした隊員たちは楯の音をガチャガチャならして威嚇しながら「おイモちゃん、こんなところで何してるの。可愛がってあげようか」なんていう、いま思えば憎むのもアホらしくなるような腐った暴言を吐いて私をこづき回した。

  逮捕容疑は住居侵入。後で取り調べの刑事から、ひさしを借りた住宅の住人から被害届が出ていると聞かされたが、あっという間の出来事なので、住人は私がそこにいたことさえ気づかなかっただろう。ほかの(逮捕されちゃった)人と一緒に広い倉庫のような部屋に集められ、一匹、二匹と動物のように人数確認をされた後、新宿署に連行された。その前に私を捕まえた隊員と並んで「記念写真」も撮られた。逮捕者一人につきなんぼと歩合給でももらえるのか、その隊員はニコニコと上機嫌だった。そういえば、あの男、嬉々として「一匹ホカク!」と叫んでた。

 当時は沖縄問題に限らず、三里塚、70年安保、狭山差別裁判などの抗議集会やデモが頻繁に行なわれていて、逮捕者が出ることもめずらしくなかった。逮捕されたら完全黙秘、というのが第一の心得。取り調べの刑事の、「お前なんかどうせ金魚のフンだ。がんばっても何にもならないよ」、「他の人はみんなしゃべって釈放された。残ってるのはおまえだけだ。早くしゃべって楽になれ」という「説得」を無視し続けたため起訴され、未決囚として東京拘置所、少年鑑別所とたらい回しにされたあげく39日目に突然釈放された。どんなに長くなっても最後まで完黙を貫くぞ!と覚悟を固めていたので、解放された喜びよりも拍子抜けした気分のほうが強かった。

 最後は家裁の優しげな調査官から「不処分です。帰っていいですよ。」と告げられ、最寄りの地下鉄入口まで案内された。抗議行動で捕まった未成年の仲間は「保護観察処分」になった人が多かったけど、私が不処分だったのは完黙を通したからか。

  留置場の同房にはいろんな容疑の人がいた。高校生の私にはみんな温かかった。万引容疑で捕まり、ショックで精神に少し変調をきたしたのか、あと何日で出られると房の鉄格子に張り巡らされた金網の目を毎日数えている人がいて、切なかった。そのうち私も彼女と一緒に数えていましたが。

 最初の数日は、警察の非人間的扱いに腹が立って、夜寝床に入ると涙が止まらなくて困った。地検や別の収監場所に送るために乗せられた護送車の金網越しに、師走の夕暮れの街のざわめきが、手の届かない別世界に見えた。暖房はなく、特に拘置所の独房では、靴下や肌着を重ねても冷気が浸みこんで眠れない夜もあった。早朝、わざとハイヒールの音を響かせて巡回する意地悪な看守もいた。朝の点呼に抗議して返事をしなかった人が激しく叱責され、みんなで抗議をしたこともある。

  こうして書いていると、あのときの光景が次々と目の奥に浮かんで、怒りが込み上げてくる。
 
 渋谷の3人が逮捕された時の映像を見ると、警察の暴挙は当時とまったく変わっていない。許せない。