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第23回「週刊金曜日ルポルタージュ大賞」佳作入選作

「認知症」病棟で働く 

 前澤ゆう子

おむつに始まる
    
 「認知症」病棟の朝は早く、まだ暗い。常夜灯だけが点いている。
 午前一時頃になると、フミコ女史(*1)はすでに起きていて、看護室前のデイルームのテーブルで書き物をしている。
「まだ早いので、もう少し寝んで下さい」
というと、
「いいじゃないの」
と意に介さず、背を丸め、ノートに顔をくっつけて夢中で書いている。デイルームは消灯しているので、看護室からもれる明かりをたよりにしているようだ。
「何を書いているの?」
と問うも、こちらのことなど眼中にない様子で応えず、黙々と集中している。分厚いノートをそっと覗いてみると、米粒ぐらいの小さな文字がぎっしり並んでいる。内容は判読できない。本人だけが解っている(?)ようだ。
 こうして四十五歳から約二十年の入院期間中、ずっと書き物を続けてきたらしい。彼女の、九十度に曲がった腰と眼瞼下垂の腫れた眼が、その永い歴史を物語っている。
 しかしながら、六十五歳でこれほど腰の曲がった人を、世間ではあまり見ない。さらに、両足はソーセージのように浮腫んでおり、その歩く姿は、自分の体重ほどの人を背負っていて今にも転びそうな、覚つかない足取りになる。またどれほどの「作家」といえども、彼女のような眼瞼下垂の人を、私は知らない。瞼が四分の三ほども重く垂れ下がっていて、一見すると眼を開けているかどうかはすぐには分からない。それらの姿態が入院当初からでは決してないことは、二十年前の彼女の写真を見ても明らかである。フミコ女史はそのうちウトウトと居眠りを始めた。
 ヨシコさんもデイルームの椅子に腰掛け、背を丸めて眠っている。一時間ほど前に、椅子から滑り落ちそうだったので自床に誘導し、布団をかけて寝んでもらってのだが::。
なぜか自分のベッドでは落ち着かないようだ。ふたたび
「布団の上で寝もうね」
と促し、二人三脚をするように一緒にふらふらしながら自床に誘導。
「ここがヨシコさんのベッドだから心配しなくて良いよ」
といいながら背中をさすると、やっと安心したようだ。一人で寝るのが怖いのかもしれない。彼女の定位置はいつも看護室の中が良く見える場所である。自己主張が少なく大人しいので、いじめられ易いタイプのようだ。
 彼女は、寝るときも、食事のときも、トイレに行くときも、いつも大事そうに、それが唯一の財産のように、腕に布製のバックを下げている。中身はハンカチとティッシュペーパーだけだ。
 イサムさんも起きてきて、デイルームの時計を見ている。
「まだ早いので寝みましょう」
と声をかけると、
「なに~い」
とヤクザのように大声をあげて叫ぶ。人差し指で「しーっ」と静かに、の合図をすると、少し間をおいて考え了解したようで、頷いて大人しくベッドに戻っていった。
 三時の仮眠に入る前に最後の巡視をする。巡視は原則一時間おきなので、消灯の九時から数えて六回目となる。懐中電灯を下に向け、忍者のように足音を立てずに早足で歩き回る。
 先ほどの不安が的中、イサムさんは多量に失禁していた。スウエットの上下もシーツもびっしょりぬれている。きっと気持ちが悪くて起きてきたのだろう。急いで着替えを介助し、シーツも交換した。「ヤクザ」氏は子供のように素直に従い、布団を掛けてあげると安心した表情でふたたび眠りに就いた。
 隣室のマコトさんも起きており、何か悪いことでもしたように部屋の隅で着替えている。こちらも失禁したようだ。足元が覚つかなく倒れそうなので、着替えを手伝った。彼は、太っている上に寒がりらしくポロシャツを三枚も重ね着しており、しかも濡れているので時間がかかる。気がつくと床も濡れている。トイレに間に合わなかったらしい。更衣のあと急いで拭き掃除をする。床が濡れていると滑って転倒しやすいのだ。
 マコトさんは先日、夜間のトイレ起床時に転倒している。幸いかすり傷程度ですんだが、最近転倒の回数が増えている。骨折でもしたら大変だ。睡眠薬はとくに夜間にふらつきが出るので要注意だ。主治医に報告して薬を調整してもらうことにした。
 一般的に、尿量は、当然のことながら水分摂取量に比例している。向精神薬はとても喉が渇くという副作用があるので、多量に飲水する人が多い。服薬していない人のおよそ  一・五~二倍は飲水している印象がある。若い人は、多くて数?飲んでいる人もいるという。だから尿失禁も衣類から滴り落ちるほどになる。したがって、病棟のおむつや洗濯物も一晩で山のようにでる。
 
 「おはようございます」
夜勤の相棒の金沢氏が起きてきて、交代して休むように言ってくれた。今晩は男性スタッフ(*2)なので、ある意味たよりになる。肉体労働系はやはり男性だ。彼は看護師の資格はないが、この病院では勤続七年のベテラン看護助手(以下「ヘルパー」とする)である。汚い仕事もいやな顔をせず、冗談をいいながら笑顔で働いている。患者にも優しく、よく気がつく。超3Kの仕事であるのにそれ程の気負いもなく、適度に患者やスタッフと楽しみながら働いており、しかし、いざという時にはたよりになる存在だ。
 この病棟の夜勤は、患者四十五人に対して(准)看護師(以下「ナース」とする)二人、またはナースとヘルパーのペアで、夕方四時半から翌朝九時半までの約十七時間勤務である。仮眠時間は二~三時間あるものの、非常事態があれば一睡もできないことがある。資格者(ナース)一人の場合、医療的責任は当然重くなる。緊急時は他の病棟(*3)から応援を頼むことも可能ではあるが、一人で四十五人の患者の責任を負うことは不可能という他なく、ある程度の開き直りとド根性と楽観性が必要になってくる。
 
 午前三時すぎ、仮眠室に入りやっと横になれた。ひどく疲れた。脱力感があり軽い眩暈を覚える。頭も身体も鉛が入っているように重くて痛い。神経だけが張りつめている。目覚まし時計を五時半に合わせて、何も考えずに眠りに就く。
 ウトウトしているうちに目覚まし時計の音で眼が覚めた。すぐに飛び起きる。緊急時に備えてスラックス式の白衣のまま横になるので、身支度は五分でできる。軽く体操し、仕事への態勢を整え気合いを入れる。急いで朝食のパンとコーヒーを摂る。食欲も味わって食べる余裕もない。とにかくエネルギー源を摂らなくては、という思いでモソモソと食べる。

 看護室にもどり、相棒の金沢氏から仮眠中の報告を受ける。失禁以外は何事もなかったようだ。六時からいよいよ本番のおむつ交換に入る。一日の仕事のスタートだ。
 病棟は、東側の女性部屋とデイルームをはさんで西側の男性部屋がコの字に分かれているので、スタッフ二人が両側から二手に分かれて仕事を始める。
 私は東側の女性部屋から入る。まだ眠っている人もいるけれど、
「お早うございます。おむつ交換始めますよ」
といいながら窓のカーテンを開ける。朝日が射してきて、寝不足の眼にはくらくらするほど眩しい。それに気付かずに眠っている人、眼を覚ましても虚ろな表情をしている人がいる。さっと起きてトイレに行く人、洗面する人、デイルームに行って食事を待つ人、おしゃべりしている人などおり、少しずつ病棟の活気が出てきた。
 おむつ交換は効率上、手のかからない人から始める。汚れたおむつを入れる大きな袋がセットされたワゴンを押しながら、病棟内を走る。尿もれがなく、腰を浮かして協力できる人は一、二分で終わる。これは患者の筋力低下の予防にもなるので、スタッフはなるべく
「はい、腰を浮かして」
と声かけしている。腰を上げられない人には、介助で左右に体位交換しながらおむつを当てる。同時に発赤やおむつかぶれなども確認し、清拭後軟膏を塗布する。
 こちらも腰痛などの予防のため、無理な体勢はとらないよう注意している。できるだけ患者の身体に向き合って接近し、ベッドに膝を立てるのがコツだ。ベッド柵につかまってもらうなど、ちょっとした患者の協力も必要だ。皆さん慣れていて、こちらの要請に応えてくれ、とても協力的である。
 排便をしている人は清拭後お湯で洗浄する。お湯は台所用洗剤などの空き容器に入れて持ち歩く。終わったら窓を開けて換気する。
 テイコさんは、就寝時に大小3枚のおむつを重ねて当て、途中二時ごろに
「看護婦さ~ん」
と呼ばれたので再度交換したのだが、パジャマもシーツも尿汚染している。彼女も日中の飲水量が多く、股関節の変形のため横向きに寝るので、尿もれしやすい。おむつと衣類を交換し、車椅子に移動介助し、洗面所まで誘導した後、シーツを交換する。彼女は自ら洗面を始めた。昨夜叫んでいた(よく悪夢を見るらしい)のが嘘のように朝は静かだ。疲れたのだろうか。
 テイコさんのようにパジャマやシーツまで汚染する人は、一晩で数人ぐらいいる。おむつの当て方など、スタッフはそれぞれ創意工夫しているものの、これがなかなか難しい。結論的には、消灯から朝までの間に何度か様子を見てこまめにおむつを交換することが患者、スタッフ双方にとって一番良い、というのが私の考えだ。そうしなければ、患者は不快感が持続しおむつかぶれを起こす誘因にもなるし、スタッフは朝の更衣とシーツ交換に多くの時間が奪われてしまう。
 いずれにせよ、二十五人のおむつ使用者というのは、とくに夜勤二人体制においては限界ラインを超えている。二人のスタッフで少なくとも、消灯前と夜間、朝方と、患者一人当たり平均三回×二十五人=七十五回はおむつ交換をしていることになる。それに失禁者の更衣やシーツ交換の仕事も加わる。ほとんどの夜勤者は、腰痛、肩や膝の痛み、頭痛、眩暈、不眠、うつ状態などの症状を抱え、薬を常用していたり、整体や鍼灸、マッサージなどに定期的に通っている人も多い。半ば病人が患者の看護や世話をしている、というキケンな状況にある。
 マサコさんは排尿困難のためカテーテルを挿入しているので、蓄尿パックに溜まった尿量を測定し破棄する。長期間カテーテルを挿入していると細菌感染などの合併症に罹りやすくなるため、尿に混濁や浮遊物がないかどうかも確認する。
 彼女の足は、ゾウのように浮腫んでしまい、ここ一~二年間で徐々に歩行困難になり、車椅子生活になってしまった。二年前、この病棟にきて初めて彼女の足を見たとき、その尋常ではない浮腫みに驚いた。内科受診の結果利尿剤が処方されているものの、浮腫みはあまり改善していない。したがって、看護の側ではマッサージや足の挙上などで工夫するしかない。本人からは足の痛みやだるさなどの訴えはない。訴えてもしょうがない、と思っているのか、向精神薬で感覚が麻痺されているのかもしれない。
 マサコさんはいつも、
「お早うございます。ご苦労様です」、
「看護婦さん大変ね。いつも良く働くわね」、
「お願い看護婦さん、ちょっと手伝って」
などと、人懐っこい笑顔で話しかけてくれる。彼女も十年以上の長期入院者であり、スタッフの「扱い方」にこなれた老練な患者という印象を受ける。
 軽くなった蓄尿パックを車椅子に装着し、そこへの移動を介助する。あとは自ら車椅子を動かすことができる。彼女も洗面し、ていねいにお肌の手入れをしている。
 二年前、新病棟に移行し男女混合病棟になってから、とくに女性はオシャレになった、とナースの間では話題になっている。
 汚れたおむつが床に落としてある。また、トイレを勘違いしたのか、廊下に排尿した形跡がある。キミコさんのベッド付近からは便臭がする。便が二、三個「落ちて」いた。患者がその上をあるいての転倒や汚染の拡大を防ぐため、急いで掃除する。
 気がつくと、キミコさんの着衣やシーツにも便が付着している。一緒に洗面所に行って彼女の手を洗い、更衣を促し、シーツを交換する。彼女は
「誰がやったのかしら」
と他人事のように言い、周囲を見回している。彼女はいつもニコニコしているので、こちらも苦笑するしかない。注意すると逆切れされることがあり、よけいに始末に負えなくなるのだ。八十歳にしては、普段はおむつを使用せず一応トイレに行けているので、元気な方だと評価すべきだろう。が、朝の忙しいときの便汚染は、やはり泣きたくなってしまう。自由に動ける人の便汚染は、実際どこまで拡大しているのか分からないのだ。
 そうして、相棒の金沢氏と、二十五名のおむつ交換、六個のポータブルトイレの洗浄、十四名の車椅子への移乗、掃除、消毒、洗濯物の整理などに約一時間半かかった。ハアハア息切れして汗が滴り落ちてきた。重い身体にも爽快感をおぼえ、ようやくエンジンがかかってきたようだ。
 看護室にもどり手洗いの後、排泄チェック表に記入し、便秘者の確認をする。日勤ナースが下剤の調整や浣腸、摘便(*4)などをしやすいよう申し送るためだ。
 この病棟のおむつ使用者は、四十五名のうち半数以上(常時使用者が十六名、夜間のみ使用者が九名)、車椅子使用者が十七名いる。また歩行困難などの理由により、自室でのポータブルトイレの使用者は六名、トイレへの誘導が必要な人は三名となっている。
 したがって、ここでは排泄関連の仕事が大きな比重を占めている。C病棟の仕事といったら、病院のスタッフはだれしも「おむつ」を連想する。しかし、ナースもヘルパーも多くは仕事熱心であり、「汚い仕事だからやりたくない」という人はあまりいない。人間はどんな環境にも慣れるという。私も一週間で慣れた。というより、尿も便も患者の状態を把握するための単なる物質、という認識になりつつある。
 エプロンと使い捨て手袋を使用し、手洗い、消毒をきちんとすれば、清潔面では特に問題はない。3K(キツイ、キタナイ、キケン)のうち最大の問題は、「キツイ」ということだが::。
注 
*1 個人名は、患者、医療スタッフを問わず、全て仮名とする。
*2 この病院で働くナース、ヘルパー、作業療法士などを「スタッフ」と表現する。
   C病棟のスタッフ数は、ナース十一名(正看護師三名、准看護師八名)、ヘルパー十
名、作業療法士2名、病棟医一名(兼任)、ケースワーカー一名(兼任)となっている四十五名の患者数に対しては、監査上ぎりぎりの人数といわれている。
*3 この病院は、B(内科)病棟、C(認知症)病棟、D(急性期)病棟、E(慢性期)病棟、F(開放)病棟と五つの病棟があり、いずれも男女混合病棟となっている。
*4 摘便とは、下剤や浣腸などでも排便できない頑固な便秘者に対して、指で便を掻き出す処置のことをいう(勿論ビニール手袋を使用する)。 
向精神薬の副作用として、ほとんどの患者は便秘を経験しており、C病棟では、ほぼ全員、毎日下剤を服用している。とくに高齢者は、年齢とともに腸の動きや腹圧が弱くなるため、さらに頑固な便秘に悩まされている人が多い。便が詰まると腸閉塞というリスクもあり、C病棟のナースにとって、排便コントロールは重要な仕事である。

ランナーズ、ハイ

 七時半ごろになると、
「きたよ~」
といつもヨシオさんが知らせてくれる。エレベーターで配膳車が病棟に上がってきた、というのだ。急いでエレベーター前に行き、栄養課の職員から配膳車を受け取る。ほとんどの患者はすでにデイルームの自席に座って待機している(おむつ交換の直後に、必要な人は自席に誘導している)。
 いよいよ皆さん待望の朝食が始まる。朝食時には早出のスタッフが一人出勤するので、合わせて三人で介助する。配膳は、スタッフ一人で二人分のトレイを持って、座っている患者のテーブルまで運ぶ。他の病棟では各自取りに来てもらっているが、この病棟では、こぼしたり、落としたり、人とぶつかったり、といった不安があるので、全てスタッフが運ぶことになっている。トレイは、ごはんと味噌汁はふたつきの保温食器に入っており、それに副食を加えると一人分約一、五kgの重さになり、かなりの力仕事だ。しかも味噌汁をこぼさないよう注意しなければいけない。腕の筋力トレーニングのつもりで配膳作業を行う。
 食事は、常食、キザミ食、ミキサー食、糖尿食、腎臓食、肥満食、大盛りなどに分かれているので、間違いのないよう本人と食札を確認する。急いで食べる人、他人の分まで食べようとする人がいるので、そういう人は後回しにして、まずは、問題なく自力で食べられる人から先に運ぶ。
 全体に配膳した後、マンツーマンでの食事介助を始める。といっても、全て介助が必要な人は六名、半分介助や見守りが必要な人は七名ほどいるので、三人のスタッフではとうてい間に合わない。そこで、スタッフ一人当たり四名ほどの介助を同時進行させていくのだ。マンツーマンならぬマンツーフォーマンといったところか。何事も経験がものをいう。
「ゆっくりよく噛んでくださいね」、
「なるべく自分で食べようね」、
「野菜も残さず食べようね」
などと言いながら、「一対四」の同時進行をする。患者のペースと息がピッタリ合っている。(患者が合わせてくれているのかもしれない)
 いちばん危険なのは、急いで口に入れて食べものを喉に詰めてしまうことだ。高齢になるとともに人間は、噛む力や飲み込む力が弱くなるので、窒息しやすくなる。とくに向精神薬は、筋力(噛む力や飲み込む力とも関連している)低下などの副作用もあるので、長年服薬している人はさらにリスクが高くなる。
 サトルさんやハルオさんは時々むせながら食べている。食物が気管に入ると誤嚥性肺炎になり易い。むせがひどい人には、食物にトロミをつける「トロミアップ」という粉末を混ぜて飲み込み易くするが、それでもむせることはある。だから、スタッフは個別に介助しながらも、常に全体を観察している。とてもとても気を遣う場面だ。
 軽い脳梗塞のあと車椅子生活が続き、筋力低下とともに脱力感が増強しているハルオさんの「むせ」があまりにも酷いので、主治医の細井医師に報告し、
「いちど食事の場面を見てください」
と依頼したことがある。ナースの話を重要な情報源としている彼は、早速「見学」にきて数メートル先からじっと観察し、学者のように何か考え込んでいる様子だった。ハルオさんは、よだれを流しながら食物を口に入れると、すぐにむせて吐き出してしまう。そのような動作を、時間をかけて何度も繰り返している。ナースはその都度彼の背中をタッピングする。よだれと吐き出した食物でエプロンがびっしょり汚れてしまい、それが床にまで流れ落ちている。そして他の患者が食べ終わってもなお、一人むせ込みながら食べている。結局半分ぐらい食べられたのだろうか。細井医師は自らの「治療の結果」を目の当たりにして、少し衝撃を受けているようにも見えた。その後すぐに薬が減量され、ハルオさんの「むせ」はかなり軽減している。どんなに偉い大学病院の先生でも、薬は患者の生活場面、「現場」を観て処方してもらいたい、とナースの間ではよく話題になっている。
 介助が終わると食事が終わった人から下膳を始める。残飯をバケツに入れ、食器を種類ごとに分けて大きな容器に戻す。これは自力で出来る人が半数ぐらいいる。皆さん長年の習慣で慣れており、元気な人は手伝ってくれる。ついでに残った物をこっそり食べる人もいる。残飯に手を入れて食べようとした人が見つかってからは、スタッフが注意し、残飯バケツは早めに引き上げるようになった。
 八時すぎになり、ほとんどの患者の食事が終わった。寝たきりで全面介助の人二名とマイペースでゆっくり食べている人が二名残っているが、あとは金沢氏たちに任せる。
 次は服薬だ。歩ける人と車椅子を自力で動かせる人は一列になって並んでいる。一人ずつ確認しながら服薬介助する。間違いのないよう声を出して名前をいう。
 
 患者たちは、食後のデザートのように、一日三~四回、一回に三~十錠もの薬(向精神薬と内科や外科の薬)を長期間にわたって服用している。この病棟においては、何年服薬を続けても退院できるという保証はない。「症状安定のため」というのが服薬の理由とされている。
 服薬を拒否した場合、少しぐらい良い、という医師もいれば、注射の指示を出す医師もいる。患者が服薬を拒否する理由は、倦怠感、脱力感、眩暈、口渇、よだれ、ふらつき、便秘、思考力や記憶力の低下などの、向精神薬の副作用にあるようだ。逆に、薬に依存的になったり、睡眠薬などは長期服用により耐性ができて効かなくなり、追加の薬を要求する人もいる。
 この病院において、医師は薬を処方することが主要な「治療行為」であり、患者は薬を服用することが主要な「役割」になっている。そしてナースには医師の指示を忠実に実行する「役割」がある。とはいえ実際、多少の拒薬は見て見ぬふりをする人も少なくない。何が何でも服薬しなければならない「意味」など、この病棟にいる限り見出せないからだ。逆に、筋力低下や歩行困難、転倒、嚥下(飲み込むこと)困難、排尿困難、失禁、便秘、内科疾患などの、副作用と観られる症状~平均年齢六十九歳にしては、高齢化だけとも思われない、それらの症状があまりに多くかつ深刻である~と日々格闘しているナースにとっては、「出来るだけ減らしてほしい」というのが本音である。

 デイルームでの服薬介助は終わった。あとは、自室に戻ってしまった人、トイレや喫煙室に行っている人など、「行方不明者」を捜したり待ったり::。これが、なかなか時間がかかる。なにしろ、コの字になっている廊下の端から端までの距離が、百メートルほどもあるのだから。まだ数人分の薬が残っているが、九時の申し送りまで時間がないので、看護記録を先に書き始める。
 日勤のスタッフが一人、また一人と出勤してきた。食事介助など、すぐに残っている仕事を手伝ってくれる。お互い夜勤の大変さは解っているので、皆こうして助け合っている。この連帯感があるからキツイ仕事を何とか頑張れている。しかしこの連帯感は、職員増などの要求には、今のところ結びついていない。「夜勤三人体制」の要求はホットな話題になっているが::。
 九時になり、日勤スタッフが全員(ナース五人、ヘルパー四人、作業療法士二人)そろった。申し送りの時間だ。残っている仕事を後回しにして、申し送りを始める。
アドレナリンが過剰に放出し神経が高ぶっているので、頭痛もちの低血圧の頭でも意外によく記憶しており、メモを残しておけばスムーズに申し送ることができる。四十五名の患者についての十七時間の間の出来事を、早口で二十分ほどで申し送った。(変わりのない人は省略する)発熱や転倒など特別な事態があれば更に時間がかかることもあるが、今回は何事もなく無事に終わった。残りの記録を急いで記入する。ここまで来れば一刻も早く帰りたい心境だ。
 日勤スタッフはすぐに朝のミーティングを始めている。
 相棒の金沢氏はまだ洗濯物などの後始末をしている。
「お疲れ様でした、あとは日勤者に任せて帰りましょう」
と声をかける。
 喉がカラカラに渇いた。休憩室に入り、スポーツドリンク500mlを一気に飲む。
「今日はウンがついていたね」(排便患者が多かった、という意味)
などと、金沢氏と夜勤の感想を言い合う。
 身体は鉛のように重く脚がひどく痛い。今にも倒れそうなのに、神経だけが昂揚している。夜勤明けは、ランナーズ、ハイのような、心身の緊張が一気に脱力するような不思議な解放感がある。この「麻薬のような快感」があるから何とか続けられているような気がする。

入浴介助という仕事

 その日は火曜日の日勤で、週2回の入浴日にあたり、私はその係になっていた。入浴介助は、おもに四人のヘルパー(浴室係二人、誘導及び介助係二人)が中心になって行い、ナースが一人つくことになっている。ナースは、転倒などの事故の防止とその対応、患者の観察(床ずれ、皮膚や腹部の状態、移動時の状態など)、風呂上り後の処置(消毒、軟膏塗布、ギプスやコルセットの装着など)、患者の誘導や衣類の着脱の介助、その他、することは山ほどある。
 午前中は女性から始める。検温などで状態を確認してから入浴の声かけをする。自力で入浴できる人は、浴室のドアが開いたらさっさと入っている。ふらつきのある人や車椅子利用者などの要介助者に、声かけし、誘導する。ミヨコさんは「入りたくない」と拒否しているので、少し様子をみる。
 浴室前の廊下にはすでに車椅子組が数人並んで待機している。要介助者用のバスタオルと着替えとおむつ一式は、前日のスタッフが個人別にまとめてセットし、準備してくれている。
 浴室の中では、二人のヘルパーが、短パンにTシャツとビニールエプロン姿で、誘導されてくる患者を受け入れる。外のスタッフは車椅子の人を更衣室に誘導、
「さあお風呂に入ってきれいになりましょう」
と声かけしながら、着衣をすばやく脱がせおむつを外して、入浴用の車椅子に移乗させ安全ベルトを装着する。中のヘルパーは準備万端の態勢、
「は~い、いらっしゃい」
とすぐに受け入れ、シャワーでお湯をかけ身体を洗い洗髪する。自分で洗える部分はなるべく手を動かしてもらっている。
 洗い終わったあと、入浴用の車椅子をレールにつなげて前進させ、ストッパーをかけてスイッチを入れると、リフトのように車椅子ごと自動的に湯船に入れる仕組みになっている。
 湯船に入ると皆気持ち良さそうな顔をしている。歌い始める人もいる。そこで眠ってしまいそうな人や溺れそうな人もいるので、要注意だ。
 入浴用の車椅子は2台あるので、外のスタッフは順次患者をそれに移乗させて中のスタッフに託し、そして、湯船から上がってきた人を受け入れる。
 身体をすばやくバスタオルで拭き、個人の車椅子へ移乗させると同時におむつを当て、衣服を着用、これをおもに二人のスタッフで行う。この作業は、スタッフの一人が立っている患者の身体をしっかりと支え、もう一人がその時にすばやくお尻を拭きおむつを着用することがポイントとなる。途中で失禁する人もいるのでスピードが勝負だ。そして、何よりも安全に行うには、スタッフの声をかけながらの連携プレーと「技」が重要になってくる。
 少しでも立てる人にはこれらの介助をスムーズに行えるが、サトミさんは足の筋力低下のため立つことが困難であり脱力感もある。そこで、身体を拭いた後、バスタオルを三枚ぐらい掛けて車椅子で急いで自床に誘導し、ベッド上でおむつと衣類を着用させる。この方がはるかに安全であり、患者、介助者双方の負担が軽減する。これは自力で立てない人が増えてきたので、必要に迫られてスタッフが考えだしたものだ。この方法での要介助者は女性が四名、男性が三名いる。
 時間をかけてのんびり入浴している人には、
「あとが支えているので早くしてね」
とスタッフが急かせている。モタモタしている人には、つい介助してしまっている。本当は皆さんにゆっくり入ってもらいたいのだが、昼食までに終わらせなければならないので仕方がない。スタッフは常に時間とスケジュールに追われているのだ。
 
 更衣室では風呂上り後の人に順次、おむつかぶれや水虫などの軟膏塗布、傷の消毒など簡単な処置を行う。裸になっている時の方が全身を観察しやすい。排便があると言う人でも腹部膨満感があったり、本人が気付かずに傷をつくっていたり、水虫がひどくなっていたり::。やはり観察は看護の基本だ。腹部膨満感、脚の浮腫み、腰や膝の変形、皮膚の発疹、水虫などの症状が目立つ。
 床ずれの処置は時間がかかるため各部屋で行う。ゴロゴロと処置台のワゴンを押しながら病棟内を走る。リョウコさんの床ずれの処置をする。毎日洗浄し、二~三時間ごとに体位交換し、クッションを当てるなど工夫しているが、良くなっていない。おむつをしていて不潔になりやすい部分だ。日中は寝たきりにならないよう、なるべく車椅子に座ってもらっている。が、最近は体力がおちてきたのか
「横になりたいよ」
と言うことが増えてきた。一年ぐらい前にはなんとか歩行できていたのだが::。彼女は七十四歳で入院歴三十年以上になる。家族の面会はない。
 
 入浴を拒んでいたミヨコさんに再度促してみる。気が変わったのか今度はさっと入ってくれる。浴室が混み合っている時は落ち着かないようだ。彼女は、自力歩行は何とかできるものの、向精神薬が多く脱力感とふらつきがある。最近は転倒することも増えてきており、衣服の着脱から入浴全てにおいて介助と見守りが必要になっている。
 一般的に、自力歩行できる場合は車椅子を使用しない方が良いに決まっているが、そのリスクを考えると車椅子を使用せざるを得ない場合が多々ある。ミヨコさんのようにふらつきながらも歩行できる場合、その判断が難しい。車椅子を使用したほうがより安全に介助できる。しかし、常時使用すると患者の筋力低下が急速にすすみ、その依存度が高くなり歩行困難になる。だから、そのときの状態を観ながらケースバイケースで対応している、という現状だ。結局、ミヨコさんには入浴時とふらつきが強い場合に車椅子を使うようになっており、その使用頻度は徐々に高くなっている。
 十一時四十五分、昼食近くになり、女性の入浴がやっと終わった。入浴担当者は早目に昼休みに入る。浴室係のヘルパーは全身汗ビッショリになり更衣している。

 午後一時半からは男性の入浴が始まる。浴室係と誘導係は交替する。湯船のお湯は入れ替えてある。スタッフは、できれば同性介助が良いとされているが、この病棟では男性スタッフが四人しかいないので、なかなか理想どおりにはいかない。日勤、夜勤入り、夜勤明け、代休とローテイションを組んでいるので、男性の日勤者は一人いるかいないかである。
 ケンジさんは、入浴時間になるといつもベッドの下やトイレに隠れてしまい、スタッフを困らせている。そこで、
「今日は美人のヘルパーだよ」
と伝えたら、いとも簡単にさっと入ってくれた。そして、身体を簡単に洗ったあと、湯船に入りながら美人ヘルパーの短パン姿の脚をじっと「観察」している(美人ヘルパーは仕事に集中しているので、全く気付いていない)。他方、そんなことには全くおかまいなしにマイペースで入っている人もいる。ろくに洗わずに湯船に入ったり、すぐに出てきたり、湯船で泳いだり、もぐったり、時に失禁してしまったり::。
 突然、中のヘルパーが「ヒエー」と大声をあげた。湯船に便が浮かんでいるという。どうもタカシさんのようだ。彼は悪びれた様子もなく、他人事のようにして湯船につかっている。ヘルパーは仕方なく浮かんでいる便をすくい、湯船のお湯を排水している。もはや銭湯のような湯船にお湯をためる時間がないので、あとの人にはその旨を説明し、シャワーのみにしてもらう。夏だからまだ良かったが、冬なら風をひいてしまいそうだ。患者たちはそれほど驚いた様子もなく、「またか:」といった表情をしている。男性は寡黙な人が多く、午前中とは打って変わって静かだ。スタッフのかけ声だけが響いている。
 ミツルさんは体重が80kg以上あり、脳梗塞の後遺症があるため、介助者の負担は大きい。毎日熱心にリハビリを続けているので片足で何とか立つことはできるものの、転倒の不安はあり、移動時の介助は主に男性スタッフが行う。
「は~い、しっかり立って」
と言いながら彼が身体を支え、もう一人が素早くおむつを外し入浴用の車椅子に交換する。
 ハルオさんは体重50kgぐらいで軽い方だが、自力で立つことが出来ない。五十代で軽い脳梗塞にかかり、車椅子生活を続けているうちに足が拘縮してしまったようだ。彼の場合も女性スタッフ一人では抱えきれないので男性スタッフが介助する。体重が軽くても脱力感や拘縮があると、とても重く感じて介助しにくいのだ。
 ミツルさんやハルオさん(ともに60歳代)は、男性スタッフが不在のときには女性スタッフが二人がかりで抱える。彼らはその時、若干ヨロコビの表情を見せる。
 男性患者数は十八人で女性より九人少ないので、入浴は一時間半で終わった。

 ヤスオさんは発熱と咳の症状があったため入浴は中止にし、自室で全身清拭と更衣を行う。熱い蒸しタオルで上から順に手早く拭いたあとから更衣していく。仙骨部が発赤しているので蒸しタオルでタッピングして血流を促す。
 二~三時間おきに体位交換しても寝たきりになると発赤しやすくなり、それが床ずれへと悪化していく。彼は車椅子に座れなくなったため、日中はベッドの角度をつけてなるべく上半身を起こすようにしている(痰の貯留を防ぎ、新陳代謝を促すため)。咳が辛そうだが彼はあまり弱音をはかない。食事を勧めても
「いらないんだよ」
とハッキリ言う。誤嚥性肺炎をきっかけに体力がおち食事量も減ってきている。最近は夜間にうなされているような声を聞くことが度々ある。彼も入院歴三十年以上、七十四歳の「ベテラン患者」だ。

 この精神科病院では、とくに管理職や他病棟の職員は、C病棟のことを「認知症」病棟または「老人」病棟と呼んでいるが、個々の患者のカルテを見ると、「認知症」とされている人は数名ぐらいである。その多くは、「統合失調症」、「躁うつ病」、「うつ病」などの病名がつけられており、長期入院者がほとんどだ。その入院期間は、五年以上が76%、二十年以上が50%と、気が遠くなるほどに、圧倒的に長い。いちばん長い人で四十数年という人もいる。病院というより施設に近い。
 全国平均では、精神科入院患者約三十二万人のうち、入院期間五年以上が41%、二十年以上が14%とされている。全国平均よりもさらに長い、この病院のC病棟は、つまり、長期入院者ばかりを集めた病棟であるといえる。患者の高齢化(平均年齢六十九歳)問題はその帰結である。
 ちなみに日本の精神科病院の平均入院期間は約300日であり、これは諸外国と比較しても桁違いに長い。(米、仏の約50倍、独の約12倍、英の約5倍:日本以外の国の平均は約18日) 
 
見つめる男

 皆が食事をしたり体操やゲームをしたり音楽を聴いたりするデイルームの、全体が見渡せるいちばん端の席に、いつもその人は車椅子に座っていた。ある脳の病気がもとで、自力では口も手足も身体も思うようには動かせないので、スタッフが介助しやすい位置に座らされていた、という方が正確だろう。
 その人サトルさんは、しかし、その場所に座っているだけで、私たちスタッフの仕事を鋭くチェックしているような、不思議な眼力と存在感があった。自力では食事もトイレも入浴も出来ず、彼のすべての生活がスタッフの介助に頼らざるを得ないのだから、それは当然とも言えた。
 彼の一日の生活は、誰に、どのように介助されるかで快、不快が決められる、全て受身の立場ではあるが、その眼だけはきわめて主体的に語っていた。
 たとえば、彼の嫌いなものを無理に食べさせられたり、おむつの当て方がずれていたり、便秘でお腹が苦しかったり、偽善的な猫なで声で話されたりすると、彼はときに苦痛の表情を浮かべ、ときに相手をにらみ返すのだった。イエスとノーは、頷いたり首を横に振ったりして応えられるのだが、その他の自己表現はすべて、彼の大きくて海のような色の眼が引き受けているようだった。
 そのせいか、スタッフたちはツトムさんに積極的に話しかけ、コミュニケーションをとろうと努めていた。食事介助のときなどは、それが美味しいかどうか、熱くないかどうか、順序が良いかどうか、その量が適切であるかどうかなど、その都度彼の意思を確認するのだ。彼の眼が多くを語っていたため、スタッフは自然に饒舌になってしまうようだった。
 サトルさんの眼は、スタッフの仕事をチェックする試金石のようなものであった。
ひょっとして彼は、この病棟における自らの役割をスタッフの「教育係」としているのではないか、とさえ思えた。
 私は、サトルさんの存在を意識し彼に評価される仕事をしよう、と自らに課していた。
しかしそれは、彼個人への看護やケアだけではない。彼は他の患者へのスタッフの対応をも観察していたのだから、仲間のことも考えていたに違いない。私は「患者代表としてのサトルさん」を意識していたのだ。
 そうしなければ、日々のおむつ交換や食事介助や入浴介助やアクシデントに忙殺され、自らの人間性が消耗し、枯渇してしまいそうだった。私は何よりもそれを恐れていた。
 なぜなら、看護(介護)労働者に人間的な処遇がなされていなければ、患者の人権を尊重した看護やケアは困難であり、過重労働の現場においては、よほど意識的でなければ患者への人権侵害を生み出す。サトルさんを意識し、彼(に代表される患者)とコミュニケーションを図ることで何とか自らの人間性が保たれ、それが仕事内容にも反映する、そうした「相互作用」が現場には、そして私には必要だったのだ。

 ある日、そんなサトルさんのところへ、少し「認知症」になりかけたシゲコさん(八十歳)が現れ、彼の手を握り、その眼を見つめて、久しぶりの再会のように笑顔で話しかけた。
 「この人は昔、私の彼氏だったよ。お互いずっと好きだった。私は真面目だからこの人一筋だったよ::」
 その時のサトルさんは、それまで見たこともないようなとびっきりの笑顔で「うん、うん」というように頷き、シゲコさんの手を思いっきり強く握り返した。その顔は、
「うん、そうだよ、憶えているよ、オレもそうだったよ、嬉しいよ」
と言っているように見えた。
 シゲコさんはサトルさんよりも二十歳以上も年上で、一見白髪の老婆だったが、そのときの彼女はとてもチャーミングで、二人とも輝いて見えた。事実はどうであれ、「恋愛」には年齢も病気も障害も関係なく、それらを乗り越える力があるのだと、今更ながらに教えられた。いや、病気や障害が年齢を超えた強い絆をもたらしていたのかもしれない。

ヒロシさんの訴え

 「頼むから行かしてくれや、お願いしますよ。どうして行けんのじゃ、自分の金だろ、どう遣おうと勝手やないか::」
ナースステーションで、徳田看護師長に向かって七十二歳のヒロシさんが抗議している。銀行に行って自分のお金を下ろしてきたい、というのだ。
「そ、それは、そうですけど、主治医の外出許可が出ていないんですよ。も、申し訳ありませんが::」
師長は恐縮し、ドギマギしている。患者にとってはあまりに正当な要求だからだ。
 普段の彼女は、
「患者様は長い間入院生活を送られており、人生も残り少ないので、できるだけ好きなことをさせてあげたい」、
「外出は健康のバロメーターであり、生活に活気がでるので、なるべく続けていきたい」
といつも口癖のように話している。だからよけいに自責の念にかられているのかもしれない。
 徳田師長は、これまでの病院の歴史や体質の責任をも一身に引き受けているかのように、ただひたすらに低姿勢で謝っていた。謝ることで彼がおとなしく諦めることを願っていたのかもしれない。それは、彼女の、長年の看護師長としての処世術のようにも視えた。しかしヒロシさんは、彼女がどんなに低姿勢で謝ろうと諦めなかった。
 本来ならば、主治医である細井医師が外出を禁止しているのだから、彼からヒロシさんに納得のいく説明がなされなければならない。それが出来ないのには理由があった。
 以前、ヒロシさんが外出した際、銀行から自分のお金を下ろしてそれを投資などに遣ってしまい、そのことが家族に知れ、家族から「本人を外出させないでほしい」と細井医師に依頼されているのだ。
 ヒロシさんは家族に外出を止められていることを知らされていない。本当のことを知れば、今度は彼の怒りの矛先が家族へと向かう。医師(病院)は、入院と引き換えにそのような家族の関係調整をも引き受けているようだ。そのため、細井医師はヒロシさんに納得のゆく説明が出来ない。「ダメだからダメ」といっているようなものである。だからヒロシさんは、病棟の責任者である徳田師長にその「不当性」を主張し、怒りをぶつけるしかない。その日も次の日も彼の訴えは続いた。
 「外出させてくれや、お願いしますよ」
という哀願口調と、
「どうして行けんのじゃ、自分のお金をどう遣おうと勝手やないか、こんなことは人権侵害じゃ」
という抗議口調が微妙に交差している。元来人の良いヒロシさんだが、週二、三回の外出は変化のない入院生活の中で彼の唯一の楽しみだったのだから、それを奪われてはたまらない。ヒロシさんの訴えは彼の午前中の日課になってしまっていた。午後になると疲れて諦めてしまうようだった。
 長期入院者ならばそうした要求は無理だと経験的に判っていてすぐに諦めてしまうのだが、彼は入院三年で病棟内では短い方だ。大学を卒業後定年まで働いており、社会常識も良く分かっている。だからよけいに「病院のやり方」に納得がいかないようだ。彼の訴えは毎日休まず続き、その怒りはますますエスカレートしていった。
 「ヒロシさんの外出要求が頻回にあり、興奮状態が続いています」
ナースリーダー(*1)が細井医師に報告し、面接後、ヒロシさんの薬が増量された。「鎮静」効果のある向精神薬である。
 それを服薬して一、二日後から、ヒロシさんの要求はピタリと無くなってしまった。同時に、彼の活動力も眼に見えて低下し、日中でも臥床しがちになり、歩行時のふらつきが見られトイレに行くのにも手すりを伝わって歩くようになった。口からはよだれが出、食物を口に入れて咀嚼し飲み込むという一連の動作にも支障をきたし、他の患者が食べ終わっても一人残って食べている有様だった。
 ヒロシさんが夜間のトイレ起床時に転倒したのは、そうした途上での出来事であった。額をベッド柵にぶつけて受傷し、シーツの枕元が真っ赤に染まるほど出血、三針縫合している。彼はますます動けなくなり、手が震え、トイレに間に合わずに失禁するようになり、自力での歩行も覚つかなくなくなってきた。安全のため、ベッドの横にポータブルトイレを設置し、夜間はおむつを使用するようになった。彼は外出のことは全く口にしなくなり、すっかり忘れてしまったようだった。
 ヒロシさんが突然三十九℃台に熱発し全身がガタガタ震える悪寒がきたのは、向精神薬が増量されてから十日前後のことだった。主治医に報告すると、早速、血液検査と一日三本の点滴、向精神薬一時中止の指示が出た。直後の血液検査の結果は、風邪などの感染症特有の数値であった。
 ヒロシさんは憔悴してほとんど寝たきりになり、常時おむつを使用、食事もおかゆを介助でやっと食べられる状態に陥った。
 ところが、三日間の点滴が終わった頃だろうか、解熱した彼は、自力でゆっくりと食事し、多少ふらつきながらも介助でトイレに行けるようになった。よだれを流して辛そうだった表情は消え、スッキリとした感じの笑顔も見られるようになった。十日もすると、転倒する以前よりもしっかりと歩行し、煙草も吸えるようになった。
 
 このように、転倒や熱発などで一時的に向精神薬の中止または減量になると、患者はふらつきや歩行困難が解消され、重くどんよりとした印象が消えてスッキリとした表情になり、それ以前よりも元気になる場合が少なからずあった。
 抵抗力が弱く新陳代謝が低下している高齢者は、向精神薬の影響を受けやすく、それ故の転倒や感染症のリスクも高くなる。だから薬を減量することがリスクの回避にもなり得るのだが、お医者様方はヒロシさんのようなアクシデントがない限り減量することはまずない。逆に、転倒や熱発などのアクシデントがあれば大抵の場合、薬の減量や中止の指示が出る。ということは、医師は向精神薬のリスクを充分認識しながら処方していることになる。
 とはいえ、この「リスク感」は、患者にいちばん近いところにいて日常的に接しているナースやヘルパーの方が、週1回、数分間の面接のみで患者と話す医師よりも何倍も深刻に感じ取っている、というのが現状であろう。(医師の人員上の問題もあるが:*2)
 私は、患者のふらつきが見られたらなるべく早く、そしてしつこく主治医に報告することにした。
「この状態をこのまま放置しても良いのですか?転倒しても責任は負えませんよ。転倒の責任はあなたにも、いやあなたにこそあるのですよ」
という意味を込めて。
 この病院では、患者が転倒して打撲や受傷、骨折などの事故に遭遇した場合、「アクシデント・レポート」の提出を義務付けられているのは、日勤帯ならばその日のナースリーダー、夜勤帯ならば当直責任者ということになっている。C病棟における患者の転倒は、常に患者に付きっきりでない限り防ぎようがない不可抗力である。それにも拘らず、まず責任を問われるのは現場のナースになっているのだから。
 
 ところで、その後のヒロシさんは、風邪のあと一時は元気を取り戻したものの、再び向精神薬が処方された。今度は増量される以前の内容である。彼の外出要求を再び聞くことはなかった。転倒や熱発や副作用などでよほど懲りたのか、外出する気力も体力も無くなってしまったように観えた。彼はまた自床で過ごすことが多くなり、今度は緩慢に、真綿で頸を絞められるように活動力が低下してきた。患者だからといって媚びることなく自己主張がハッキリしていて元気の良いヒロシさんだったが、何の意欲もない本当の老人になってしまった。
 父子家庭で息子を男手一つで育てたヒロシさん。「出世した」自慢の息子のことをよく話題にしていた。経済問題に詳しく、
「今後の経済の動向はどうなるのでしょうね?」
と質問すると、
「あかんなあ、不景気になるよ」
などと話していた。子育てのことにも親身に相談にのってくれた。父子家庭で苦労した人らしく、普通の男性にはない優しさがあった。
「頼むから行かしてくれや。自分のお金をどう遣おうと勝手やないか」
という彼の言葉が、今も私の中でこだましている。

*1 日勤帯では、病棟の東側と西側をそれぞれAチームとBチームに分けて仕事を分担し、毎日交代で各チームのナースリーダーが決められ、リーダーが医師への報告や相談、夜勤者への申し送りをすることになっている。
*2 一般病院の医師数は入院患者16人に対して1人必要とされているが、精神科病院では、入院患者48人に対して1人で良いとされている。(医療法、人員配置基準)
   つまり、精神科病院の医師は、人数的には一般病院の三倍の患者を診なければならないことになる。

窒息事故

 C病棟では週一回、売店への買い物日があり、スタッフに同行された患者がそれぞれ好きなもの(お菓子や飲み物、日用品など)を購入し、病棟にもどってそれを食べる、という「お楽しみ日」があった。スタッフが用意する三時のおやつは週三回出ていたが、小さな売店であれ自分の欲しいものを選べるのは、この日だけだった。
 買い物は午後からというのに、患者たちは朝から準備臨戦態勢に入っており、歩行困難な人は「車椅子を用意して」とか、あれこれの日用品もついでに買いたい、といった要求が頻繁にあり、看護室は物資不足時の買い出しみたいに騒然としていた。
 確かに、自分の欲しい物、自分の眼で見て選べる物、自分でお金を出して買える物、という意味での、「物資不足」はあったのだ。
 買い物希望者は寝たきりの人(スタッフが代理購入する)以外はほぼ全員であり、男性と女性は別の曜日に分かれていたとはいえ、患者やスタッフにとっては入浴日と並んだ二大メーンイベントであった。
 患者たちは何故か菓子パン類を購入する人が多いので、喉詰めの危険性が高い。病院食ではお粥を食べている人でも、この日はパンを食べるとなると、かなり神経を遣う。普段お粥を食べている人は、充分咀嚼せずに飲み込んでしまう習慣がついているので、ジュースなどを飲みながらパンを咀嚼することがなかなか難しい。更に、歯のない人や入れ歯の人も多く、長年向精神薬をのんでいる人は嚥下力(飲み込む力)もおちている。おまけにパン類は唾液と混ざるとグルテン化して喉にくっつきやすいのだ。
 「パンは怖い」という観念は、私の約三十年の看護経験の中でも、すでに脳裏に深く定着していた。病院の朝食は、早出の厨房職員の都合もあり一般的にパン食のところが多かった。そのため、とくに高齢者の多い内科病棟では、パンを喉に詰めるアクシデントが度々あり、夜勤の朝、患者の喉に指を入れて食物を掻き出す、という「仕事」を何度も経験していた。
 この病院の朝食は、過去のそうした教訓から「学んで」パン食を中止にしたようだ。それにもかかわらず徳田師長は、
「買い物は、患者さんたちの唯一の楽しみであり、生きがいでもあるから、是非続けていきたい」、
「なるべく好きなものを買わせてあげたい」
と自分の信念のように強調し、できればリスクを回避したいスタッフたちと意見が対立していた。私も、「今のスタッフ不足の態勢では、いずれまた事故が起きるであろう」と危惧していた、そんな矢先の出来事であった。
 病院食ではお粥を食べているミヨコさんが、カステラを喉に詰まらせてしまったのだ。
その場にいた私を含めたナース二、三人は、急いで彼女の背中を叩き、喉に指を入れて掻き出すが、なかなか取り出せない。掃除機(*1)で吸引して少しカステラが出てきたものの、彼女はグッタリして顔面にチアノーゼ出現。緊急コールで内科病棟からも応援を依頼し、人工呼吸器が装着され救急蘇生を開始。同時にカステラも吸出され、ようやく助かったのだ。

 この事故を機に病棟では再び「買い物論争」が起こり、話し合いの結果、いくつかの改善策が立てられた。買い物日を月一回に減らし、担当スタッフを多目につけること。普段粥食の人は、パンに牛乳などを浸して少しずつ食べるよう注意しながら介助すること。特に危険性の高い人は、なるべくパン類を避けてプリンやヨーグルトなどにしてもらい、マンツーマンで介助すること、等々。少し考えれば自明のことだったが、そんなことにも気付かないほどスタッフたちは皆仕事に追われ、冷静な判断力を欠いていたようだ。
 そして、この「論争」でも患者は蚊帳の外であり、徳田師長からは、事故の説明もなく、「要介助者が増えてスタッフの負担が大きくなっているので、今後の買い物は月一回にしていただきたい」
「みなさんにご迷惑をかけて申し訳ありませんが、何卒ご理解のほど宜しくお願いします」
といった、一方的な説明だけで終わった。一回あたりの買い物の量が増えたとはいえ、その回数が週一回から月一回と大幅に減らされてしまったので、不満を持つ患者も少なからずいたが、師長の低姿勢な「お願い攻撃」を、しぶしぶ受け入れざるを得なかったようだ。
 それはいつものことではあったが、要するに患者の楽しみとか「生きがい」とかリスクの回避とかいうことが、すべて「病棟の都合」や専門家のロンリでギロンされ、当事者抜きで決められていたのである。
 そして、その中の「専門家」のはしくれである私自身も、食べ物で患者を釣っているような師長のやり方に不快感をもちながらも、それに異を唱え、患者との話し合いを提案する余裕もないほどに疲れ果てており、「これ以上リスクのある仕事はしたくない」という気持ちに支配されていた、というのが正直なところである。

*1 C病棟では、食物を喉に詰める患者が多いため、掃除機のホースの先に吸引用のノズルを接続したものを看護室に設置している。医療用吸引器よりも掃除機の方が、吸引力が強く効果がある。

母子家庭の母

 母子家庭の苦労など大したものではない、と当初は高をくくっていた私であったが、やはり身体のほうは正直であった。熟年離婚後の再就職だったこともあり、この仕事を続けること自体、毎日身を切られる思いがした。なにか巨大な手で脳を鷲づかみにされているような激しい頭痛や眩暈に悩まされ、立っているのがやっとの日もあった。とくに夜勤に行くときは、大げさにいえば「戦場」に行くような命がけの覚悟が必要だった。過労死の不安も何度か頭をよぎった。
 働きすぎて精神の病にかかった、「かつての母子家庭の母」も入院していた。他人事ではない、と思い彼女たちの苦労話を聴いた。

 「夫は四十歳代で病気でなくなった。昼も夜も働きながら三人の子供を育てたよ。長男は頭が良かったのでどうしても大学に入れたくて、頑張って働いたよ」
という六十五歳のノリコさん。日中は工場で、夜はお店の皿洗いをして働いたという。
 髪は白髪、入れ歯を外しているせいか年齢よりも老けて見える。その顔には、彼女の苦難の歴史とその密度を物語るいくつもの深いしわが刻み込まれている。今は大企業の管理職をしている、という長男のことを話すとき、笑顔のしわがいっそう増える。
 ノリコさんは食事も入浴もトイレもほぼ自力で行えるが、その全てにおいて驚くほど動作が速い。かつて、家事や仕事をより速く、そしてより多くをこなしてきたように、その生活習慣が彼女の身体に染み付いているようだ。
 病院の生活は彼女にとって退屈すぎるのだろう。何かをせずにはいられないように、いつも鉛筆でノートに書いている。忘れそうなことはみな書いている。新しい患者や職員に会うとすぐに名前を訊いて、ノートに書いている。それで職員、患者の名前を全て憶えてしまった。いつも何かを忙しそうに書いている。度々訴える「お家に帰りたい」という気持ちを払拭しているかのように。
 「頭が良かった」長男は、母思いらしく他の兄弟よりも面会に来ることが多い。久しぶりの再会、その笑顔は母の顔だ。この母の犠牲の上に自分たちの成長があったであろうことを充分解っている様子の息子も、笑顔で母に話しかけている。申し訳なさそうに。
「お家に帰りたい」母を引き取りたくても、それが出来ない「事情」がありそうだ。
母と息子との会話はそれほど長くは続かず、面会は早々に終わった。面会後まだ数分も経たないうちに母は、
「息子が無事に帰宅したか心配でしょうがない」
と小さな子供を案じるように、何度も電話をかけていた。この母も数倍息子思いのようだ。息子のためには、長期入院でもなんでも出来そうな母かもしれない。

 こちらのシゲコさんは今年で八十歳になるという。彼女の顔にも木の年輪のようないくつもの深いしわが刻まれ、歯はすべて無くなり、髪は真っ白だ。身体は干からびてやせ細っているが、その手足は働き者を想わせる頑丈そうな骨が浮き出ている。 
 シゲコさんの夫は戦後、肺結核にかかり二十歳代で亡くなったという。その後、二人の子供を育てながら、りんごの行商をして生計を立てていた、
「リヤカーを買うお金もないので、背中に担いで歩き回っていた、本当に大変だったよ」
と話す。行商をしていた人らしく普段は人懐っこい笑顔で話すシゲコさんだが、この時は昔を思い出したのか、とても深刻な表情をしていた。
 いつも咳をしているのに、
「煙草はやめられないよ」
という。
「身体に良くないから少し減らしましょう」
とあるスタッフが話したら、興奮して大声で怒った。
「好きなことをして死にたいんだ」
と。女手一つで子供を育てた人らしい。気が強く、自己主張もハッキリしている。スタッフへの「媚び」も観られず、人間として堂々としている。
 日中はいつもデイルームの席に座って、テレビを観たり他の患者と談話したりして過ごしている。だいぶもの忘れがすすんできたが、話は何とか通じる。昔の労働の後遺症なのか、背は四十五度ほど曲がり、足はびっこを引きながらも自力でトイレに行けている。ある日突然、思いついたように看護室にきて、
「おれはここで死ぬつもりだ、一生ここにおいて下さい」
と訴えていた。

 七十六歳のヨウコさんは、昼も夜も臥床していることが多い。長年の疲労物質が金属のように重く沈殿し、もはや自力ではそれを背負いきれなくなってしまったように。食事と喫煙、入浴、トイレ以外は、ほとんど横になっている。他の患者との交流もあまり見ない。
 が、そんな彼女に話しかけると昔のことを話してくれる。話題はやはり子供や孫のことだ。立派に成長した子供達の写真も見せてくれる。自慢の娘さんはきれいな着物を着たとても美しい人だ。「仕事が忙しくて面会に来られない」という息子さんも、立派なスーツを着ている。今では彼女の手に届かないほど遠く離れてしまった子供たちではあるけれど、それが自らの人生の結晶であるかのように、感慨深そうに写真を見ている。
 夫と離婚後、洋裁をしながら二人の子供を育てたという。二人とも
「頭が良くていい子だった」
という。疲労の色が刻み込まれた黒ずんだ彼女の顔が一瞬、ぱっと明るくなる。が、すぐにもとの疲れた顔に戻る。元気を出して、体操や音楽や映画会などに参加しましょう、と誘うが、少しだけ参加してすぐに自室に戻ってしまう。ここでは彼女にとって楽しいことなどないようだ。
 
 彼女たちは、母子家庭を維持するために無我夢中で二人分以上働き続け(一般的に女性は、男性の約二分の一の低賃金であるから、子供を「普通に」育てようと思えばそうせざるを得ない)、心身ともに疲弊して発病し、気がついたら「認知症」病棟に来ていた、という印象だ。
 私もそうならないという保証はない。が、唯一の「希望」は、入院費月十数万円を捻出する経済的余裕が我が家には今後もないだろう、という皮肉な現実だ。

ミチコさんの入院

 C病棟では珍しく、外部からの認知る症患者の入院があった。看板に掲げている以上、「積極的に入院を引き受け、地域にも貢献しましょう」という経営方針のようである。
 すらりとした長身で知的な美人の面影のある、七十八歳のミチコさんが、家族に伴われて車椅子で入院してきた。ニコニコしているが、かなり痩せていて少し顔色が悪い。独居生活できちんと食事をとっていなかったようだ。
 彼女は入院当初から
「なにか食べ物を下さいよ」
としきりに訴えていた。食事のあとも、おやつのあとも、同じように訴えている。それは誰かに向かっての訴えというより、「独語」に近い印象だった。彼女にとっては、常に、何らかの「飢餓感」を覚えていることに、違いはないのだろう。食事もおやつも驚くほどの速さで食べ、
「もっと下さいよ」
と訴える。いくら食べても満腹感を覚えない様子だった。
 彼女との会話はなかなか成立せず、息子さんの顔も認識できなかったとはいえ、自らの名前と住所はなんとか答えることができた。
 入院して間もないある日、ミチコさんはガムを噛んでいるように口をもぐもぐ動かしていた。よく見てみると、そばにあったティッシュペーパーを口に入れていたのである。それは食べ物ではないことを説明し、吐き出すよう促すも、頑強に拒否する。半ば強引に取り出そうとすると、かなりの抵抗があったが、スタッフ二人がかりで何とか取り出すことができた。
 またある時は、彼女の口の中やその周りに白い物が付いていた。その匂いをかいでみると、なんとそれは歯磨き粉であった。彼女は側にある物は何でも口に入れてしまいそうな「勢い」があり、かなりの危険性が観られた。
 この病院では過去に、自らの紙おむつを千切って口に入れ窒息死した患者もいた、とのこと。その経験者でもある徳田師長が中心になり、早急にミチコさんへの対応策が立てられた。
 ミチコさんの日中の定位置を、看護室前のデイルームの見えやすい場所にすること。彼女の周囲に危険なものを一切置かないこと。自らの紙おむつを取り出せないよう、つなぎ様の病衣を着用させること。車椅子から立ち上がれないよう、彼女の腰部を車椅子に拘束すること。夜間はベッド上で腰の拘束帯を使用すること::等々。ただし、日中は積極的に彼女と会話し、時間があるときは拘束を解きスタッフがマンツーマンで付いて歩行練習をすること、という補足はあったが、おおむね危機管理優先の内容であった。
 日頃から「患者のプライド」や「人間的な看護」を口にしている我が師長にとっては、苦渋の決断だったようだが、現状のスタッフ体制では致し方ない、ミチコさんの生命を守ることが最優先である、という結論に落ち着いた。私を含めたスタッフも同調せざるを得なかった。
 患者の拘束など誰しもしたくはない。しかし、彼女の拘束に反対するということは、二十四時間ミチコさんに付き添う覚悟が必要であり、それは現実的に不可能であった。ミチコさん以外にも、夜間のみ、ベッドからの転落防止のために腰部を拘束している人がすでに三人いる。この病棟においては、スタッフが多少増えたところで、拘束をやめることはとても困難に思えた。
 ミチコさんは相変わらず、
「何か食べ物を下さいよ」
としきりに訴え、自らの指や病衣をしゃぶったり噛んだりしながらも、拘束中の彼女の眼は、やはり、辛く切ない様子だった。拘束を解いて病棟内を一緒に散歩するときは、ニコニコして嬉しそうにはしゃいでいた。
 いくら「認知症」とはいえ拘束の意味は分かる。自分が「拘束が必要な状態にある」と白衣を着た人間たちに観られ、そのように扱われていることは、直接的に身をもって分かるだろう。拘束は人間としての自由と誇りを根こそぎ奪うものだ。それは「今」を生きる認知症患者だからこそ、よく分かるのではないか、と彼女の表情を見て思った。
 「私は、結婚して男の子を二人産み、専業主婦として家事、育児に専念し、それなりに幸せでした。
 あれから五十年ほど経ち、夫が亡くなり、子供たちも自立し、たった一人になってしまいました。近所付き合いはなくなり、友人知人とも疎遠になり、息子たちはほとんど帰ってきません。
 誰とも話さない生活が長く続き、毎日がとても空しく、寂しく、心細く不安でした。
これからどうして生きていったら良いのか分からなくなり、食べる意欲もなくなってきました。しばらくボーッとして無為に過ごしていました。
 そうしたら息子らしい人が来て、いきなり、私をこんなところへ連れてきたのです。自分を犠牲にして、あんなに愛情いっぱいに子供たちを育ててきたのに::。それが何よりも辛く切ないです。私の人生はいったい何だったのでしょう。それを考えると、気がおかしくなりそうです。
 私が本当に欲しいのは、「食べ物」なんかじゃないのです。それを誰も解ってくれません。何の説明もなく、いきなり知らない人ばかりのこんな所へ連れてこられたら、誰だって混乱し、動揺し、「失見当識」に陥ります。だから、何かを口に入れて気を紛らわせていたのです。そうでもしていないと気持ちが落ち着きません。それなのに誰も私の気持ちを解ってくれません。そればかりか逆に、こんなふうに身体を縛られてしまったのです。こんな理不尽なことがあるでしょうか。私はよけいに苦しくなり、混乱し、認知症にでもならなければ、とても生きてはいけません::」
 ひょっとしてミチコさんは、こんなことを言いたいのではないか、と想像した。
 時間の許す限り、彼女の拘束を外して病棟内を一緒に歩いた。他の患者に紹介し会話してもらう。デイルームに飾ってある絵や習字、生け花を、ともに観賞する。窓から外の景色を見る。体操やボール遊び、コーラスなどに一緒に参加する。他のスタッフも同じようにミチコさんに関わった。
 そんな関わりを繰り返しているうちに、ミチコさんは、
「ここはどこですか?」、
「お家に帰りたいです」
と、はっきり言うようになった。
「何か食べ物を下さいよ」という訴えは相変わらず続いていたものの、その回数は徐々に少なくなってきた。が、少し眼を離したすきに、またお菓子の袋などを口に入れようとしている。やはりまだ不安だ。そうして試行錯誤しながら、ミチコさんの人間性を少しでも取り戻せるだろうか。拘束を完全に止めないところで、そんなことを願うのは自己矛盾だろうか、と思い、悩む。
 理想的には、ミチコさんの専属スタッフを二十四時間体制で付ければ、解決できる問題だろうか。また、ベッドからの転落防止のための夜間の拘束にかんしては、畳の部屋などにすればよいのかもしれない。しかし、そうした発想は、管理職や病院当局にはもちろんない。国の看護基準(*1)を満たしていれば良いのであり、他に何が問題であろう?という考えだ。
 
 歴史的にみても、とくに日本の精神科病院においては、「自傷他害のおそれ」という理由で、患者の拘束、隔離、拘禁という暴力支配が当たり前のように行われてきたし、現に行われている。
 2007年の厚生労働省の調査によれば、精神科病院(入院患者三十二万人)における、身体拘束患者数は6786人、保護室への隔離患者数は8247人とされており、この数は年々増加している。また、鍵のかかった閉鎖病棟への入院患者数は全体の半数以上にものぼっており、更に、任意入院患者の約40%が閉鎖病棟への入院を余儀なくされている、という異常事態が続いている。
 驚くことに、入院患者への行動制限は、精神保健福祉法36条(*2)によって国が認めているのである。

*1 国の看護基準 一般病院では入院患者三人に対して看護職員が一人必要とされているが、精神科病院では、入院患者四人に対して看護職員一人配置すれば良いこととされている。なお、当分の間、看護職員は患者五人に対して一人の基準を確保し、看護補助者と合わせて患者四人に対して一人の基準でも認められている。
   この病院のC病棟のスタッフ数は、ナース十一名、ヘルパー十名であり、患者四十五名(定床五十名)に対しては監査上足りている、と評価されている。しかし実際は、ナース十一名のうち、三名が週一~三日の非常勤、四名が六十歳以上であり、夜勤ができない人がおよそ半数にもなり、戦力的には全く不充分である。また、ヘルパーの仕事の中には病棟の掃除も含まれており、日勤者1~2名は広い病棟の掃除にほぼ半日費やされている。つまり、監査基準を頭数では満たしていても、患者への看護やケアの観点からすると、とても「足りている」状況とはいえないのである。

*2 精神保健福祉法「(処遇36条) 精神科病院の管理者は、入院中の者につき、その医療または保護に欠くことのできない限度において、その行動について必要な制限を行うことができる。

「ナチュラルコース」

 かなり痩せて食が細くなった、九十歳というC病棟では最高齢になるヨネさんが、内科病棟から転入してきた。認知症の顕著な症状はなく、高齢にともなう内科的機能と運動機能の低下が観られたとはいえ、日中はなんとか車椅子で生活できる気丈な、しかし笑顔の愛らしい老女であった。いつもデイルームの自席で患者やスタッフたちの動きを穏やかな笑みをうかべて見ていた。スタッフたちは、自らの祖母のようなヨネさんに度々声をかけ、なんとかコミュニケーションもとれていた。
 しかし、転入後の環境の変化のせいか、自ら摂れる食事量と水分量が少しずつ減少し、車椅子に座っている体力がなくなり、日中も臥床しがちになった。微熱が続き風邪症状が出現してからは、ほぼ寝たきりの状態に陥った。
 プリンやヨーグルトなど、彼女の好みのものを売店から買ってきて、少しずつでも摂れるよう、スタッフたちは時間をかけて辛抱強く介助した。それでも一日に200~300mlほど摂れるのがやっとであり、ときには口をかたく閉ざし、首を横にふって拒否するようになった。
 一般的にこのような場合、一日に1000~1500mlの点滴をして脱水状態の治療をおこなうと、とりあえず症状は改善し、元気をとり戻す。
 ヨネさんの主治医である金田医師(内科医)の方針は、「ナチュラルコース」つまり「延命処置は何もしない」ということだった。点滴、酸素吸入、人工呼吸などの処置を一切行わない、という意味らしい。家族の同意もとってある、という(ヨネさんには遠い親戚しかいなかったが)。彼女の転入の際にも、金田医師は、
「何もしなくていいから」
という、きわめて乱暴な「指示」であった。
 病棟スタッフたちは一様に、
「何もしない?」
と首を傾げた。ドクターがたとえ何もしなくても、ナースは、患者の苦痛を緩和させ、少しでも安楽に闘病生活が送れるよう援助することを使命としているが故に、
「何もしないわけにはいかない」
と皆口々につぶやいた。とくに仕事熱心なナースたちは、
「わがナイチンゲールの教科書には『何もしない』という言葉はない」
と言わんばかりだった。
 私自身の経験からも、「延命」目的というより患者の苦痛を緩和させる意味で、点滴や酸素吸入ぐらい当然と思っていたので、とても疑問に感じた。
 ナースの仕事は、「延命」などという抽象的で冷たい言葉とは対照的な具体的、実践的行為であり、それは、患者の人間性を尊重した対応、苦痛の緩和、安心、安楽、受容と共感などの精神が背景にある。たとえ死を間近にした人に対しても、体位交換やマッサージ、痰の吸引、口腔ケア、清拭などを行い、苦痛を緩和し、清潔を保つ。死の恐怖や不安が観られるならば、手を握って側にいるだけでも良い。
 それは、ナースとしてというより、人間として当然の行為のように思えた。それは一見、誰にでもできる行為でありながら、医療スタッフの誰もができる行為ではなかった。
あまりにも多忙な仕事は、ときに医療スタッフの人間性をも奪う。それ故、ひとつひとつの具体的行為は、ひとりひとりの人間性と思想を問うていた。
 点滴も酸素吸入もされないヨネさんは急速に衰弱し、呼吸が苦しそうに昼も夜も「アーッ、アーッ」と呻き声をあげるようになった。ムセないようトロミをつけた水分をほんの少量ずつ、吸いのみで口に入れるのがやっとであった。あと二~三日もつだろうか?と同僚たちと話していた頃、私の当直の日がやってきた。
 当日、ヨネさんは38℃台に熱発し、多量の黄色粘調性の痰、呼吸苦、肺の雑音、血中酸素濃度の低下など、肺炎特有の症状が観られた。自らの判断で痰を吸引し、当直医師に状態を報告した。
 夜勤のアルバイトでまだ経験の浅い精神科医である彼は、主治医の「ナチュラルコース」と記載されているカルテを見ながら、「ウ~ン」と悩み、考えこんでいた。
「内科の当直医に相談してみたらどうでしょうか?」
という私の「アドバイス」に救われたようにすぐに同意し、その結果、
「とりあえず酸素吸入だけでもやりましょう」
という指示をなんとかだしてもらえた。
 それを受けた私は早速、酸素吸入を開始し、その後、いったん、ヨネさんの呼吸苦は緩和しつつあった。しかし、その原因である肺炎や脱水状態の治療をしなければ、それは対症療法にすぎなかった。もはや意識レベルが低下し、ゼーゼーと痰が喉に貯留し、苦しそうに呻吟しているヨネさんにできることは、多量の痰を度々吸引し、体位交換し(床ずれや痰が喉に詰まるのを防ぐため)ガーゼで口を湿らせて少しでも「渇き」を食い止めることぐらいしかなかった。
 翌日、朝の申し送り後、徳田師長は、「ナチュラルコース」を指示した金田医師にヨネさんの状態を報告した。突然、彼は師長に対して大声で怒鳴り始めた。カルテを指しながら、
「ここに『ナチュラルコース』と書いてあるじゃないか、何故酸素吸入をしたんだ、これまで患者の最期を看取ったことがあるのか、いったい何年看護師をやっているのだ、そういうのを『生殺し』というんだ::」
と、まるでヤクザのような口調で師長を罵倒し、傍若無人ぶりを発揮していた。
 それは、この病院に長年勤務し(金田医師よりも数倍の勤務経験がある)、病院の「発展」に充分寄与してきたであろう、十歳程も年上の「先輩」に対しての言葉とは思えなかった。この病院のしかるべき地位に就くことを約束されているらしい金田医師は、人格も理性もない人間が権力を目の前にするとこうなる、という見本を充分周囲に示してくれた。
 医局ではいちばん若いのに、眼がトロンとしてやる気のなさそうな山本医師でさえ、
「ちょっと、これは言い過ぎですよねえ:」
と少々びびって小声で私に呟いていた。
 医局の中ではいちばん人望が厚く、仕事熱心で、患者やスタッフにも対等に話す、我らが「希望の星」大田医師もその場に居合わせていた。私は彼に、「なんとかこの場を治めてもらえますか?」という期待と信頼の眼で見つめてみたが、実際は何も言うことができず、少し苦しげな表情をして下を向いていた。金田医師と大田医師が「闘争」をすれば、知力も体力もありそうな大田医師の方がきっと優勢だろう、とふんでいただけに少々がっかりした。
 緊張のためか顔を真っ赤にしたわが師長は、言いたいことが言葉にならず、ドギマギうろたえていた。こういう理不尽でワケの分からぬ激昂にもじっと耐える、苦難の道を歩むことが、看護師長として生き続けるための必要条件であろうか。
 しかし、酸素吸入を指示したのは当直医であり、師長をはじめとする看護職の責任の範疇ではない(そもそも看護師の判断で酸素吸入は行えない)。私は金田医師に、当直医の指示で酸素吸入を行ったことを説明したが、彼は怒りと興奮のあまり全く聴く耳を持たず、師長ばかりの「責任を追及」している。医師同士の連携の不備や当直医への「不信感」の問題を師長に責任転嫁するのは御門違いであり、八つ当たり、パワハラ、弱い者いじめでしかない。
 私は過去三十年以上ナースをやってきて、酸素吸入をしたことがこれほど問題になったのは初めてであり、とても驚いた。呼吸苦があり血中酸素濃度が低下すれば酸素吸入を行うのはもはや常識となっており、それは在宅医療においても同様である。
 結局のところ、金田医師の意味する「ナチュラルコース」とは、患者の苦痛の緩和や人間性の尊厳といった精神とはかけ離れたものであり、単に「放置せよ」と言っているにすぎず、これこそ「生殺し」ではないかと思った。
 酸素吸入を外され、点滴もされず、もはや意識がなくなり「アーッ、アーッ」と苦しそうに喘ぎ呻いているヨネさんにできる看護はもはや限られていた。たびたび痰を吸引し、身体をさすったり、体位交換をしたり、渇いた口を湿らせたり、手を握って話しかけたり::。
 気丈なヨネさんは、主治医の対応に最期の生命をふりしぼって抗議するかのように、ナースたちの予想に反して、その後五日間ほど生命を維持していた。それは側にいるだれもが驚くほどの、強靭な、そして不思議な生命力であった。
 その間、入れ代わり立ち代り彼女の部屋を訪れたのは、ナースをはじめ、ヘルパー、作業療法士などの職種の一部の人々だった。それぞれにヨネさんの手を握って最期の挨拶をした。それは「仕事として」というより、仕事を通じて関わったヨネさんへの尊厳と感謝の気持ちの表現であった。
 看護や介護をする者は、患者の病や障がいを共有し、生命を支える仕事を通じて、ひとりひとりのかけがえの無い人生や命の大切さを日々教えられている。苦しい仕事を続けられるのは、そこに生身の患者がいるからに他ならない。厳しい環境にありながらもなお、逞しく、そして時にユーモアを交えて生きている患者たち。彼、彼女たちと日々関わることで、私たちは、どれほど教えられ、励まされ、生かされてきただろうか。
 ところで、
「亡くなってから連絡してくれれば良い」
と言った「主治医」金田医師は、やはり、一度も現れなかった。電話の一本さえかけてこなかった。家族のいない、余命いくばくもない患者には、「無駄な」お金や労力をかける必要はない、とでも思っていたのだろうか。「安楽死」=「生殺し」=苦悶死、という言葉がふと頭をよぎった。
 ヨネさんが、意識がなくなる直前に、彼女の手を握っていたスタッフに言った、
「カワイイネエ、ウラヤマシイ」
という最期に発した言葉が忘れられない。

入院歴四十年

 精神科の病院に入院して四十年というマサオさんがいた。大学三年のときに発病、病名は「精神分裂病」(今は「統合失調症」に変更)とされている。この病院での入院歴は三十数年、それ以前は他の病院で何度かの入退院を繰り返している。入院中に両親は亡くなり、家族の面会は月一回ぐらいのペースで兄弟が来院している。
 毎日同じ時間に起床し、一日三回の食事と服薬、三時のおやつ、週二回の入浴、買い物の他にはとくにスケジュールもなく、日中は、テレビや新聞をみたり、喫煙したり、他の患者と談話したり::といった生活だ。作業療法士が中心になって行っている、体操やゲーム、音楽会、映画会、読書会などにはあまり参加していない。スタッフが誘っても「いいです」と断ることが多い。
 彼は多くを語らない。話しかけると、万年青年のようにはにかみながら、ひとことふたこと言葉を返してくれるが、それ以上は語らない。いつも何かに耐え、悩み、痛み、悶え、苦しみ抜いたような、そして、それらの苦悩が沈殿して堆積された岩石のような、深淵な眼をしている。その眼はいつも、私たち医療スタッフの姿を映している。
 一定の患者の入院により病院経営が成り立ってきたということは、病院経営者はもとより、そこから賃金を得て生計を維持している立場の者は皆、患者の長期入院という犠牲の上に生きることを許されてきた、といえる。つまり、マサオさんの入院によって私(と家族)の生活が支えられてきたということだ。かつては瑞々しいエネルギーに満ち溢れていたであろう、若いマサオさんの生命力を吸い尽くし、奪い尽くして、私たち医療スタッフは生き延びてきたのである。
 この事実は、たとえ、私がどんなに患者の人権を尊重した「やさしい」看護をしたところで、どんなに自己犠牲的に患者に奉仕したところで、そして、どんなに経営者や医師と闘ったところで、「帳消し」になるものではない。寡黙なマサオさんの深淵な眼は、そのことを鋭く透視している。
 この病棟の私を含めたスタッフたちが主観的には患者の人権を尊重し熱心に仕事に当たっていることも、あまり病棟には現れないがときたま顔を見せる総師長(看護課のトップ)が不気味なくらいに患者に笑顔を振りまいていることも、徳田師長が患者に対して妙に慇懃で低姿勢なことも、心のどこかに何らかの「後ろめたさ」があるからに違いない。
 「高齢者のプライドを失わせないように(高齢者はプライドを失うと生きる意欲を失う)、職員の言葉遣い、態度に気をつけ、人生の先輩として尊敬し、笑顔で接するよう心がける:」
と我が師長はあるレポートに書いている。それは欺瞞という新たな罪である。マサオさんたち長期入院者の「プライド」など、とっくの昔に身ぐるみ奪われてしまっているのだから。
 マサオさんは、しかし、笑顔を見せることもある。家族が面会(*1)に見えたときだ。そのときには、差し入れられたおやつを食べながら、人が違ったような表情で談笑していた。しかし彼は、あくまでも医療スタッフに対しては、多くを語らない。完全黙秘がただ一つの抵抗手段であるかのように。
 私は彼に依頼されて、定期的に彼の左足の魚の目の処置をしている。歩くときにそこが痛むと言う。なぜか身体がやや左側にくの字に屈曲しているので、ちょうど左足の魚の目の部分に体重がかかってしまうようだ。削っても、削っても、同じ場所にまたできる。だから私は、二週間おきぐらいに彼の魚の目の処置をする。処置をしながら彼の「患者」人生を想う。
 いつもサンダルを履いている彼の足の裏は、長年肉体労働をしてきた人のように黒ずんで硬く、そして、石のように冷たい。四十年間入院し、向精神薬をのみ続けるということは、長年の肉体労働に匹敵するほどの心身への負担になるのだろうか。また、その足の冷たさは、身体全体の循環障害を想わせる。六十五歳にして心電図や肝機能の数値にも異常がみられる。日中も臥床しがちなのは、身体がだるく疲れ易くなってきているのだろうか。
 夜勤帯の皆が寝静まった時間に、寡黙な彼の表情を想いつつ、褐色に変色して破れかけている何分冊かの分厚いカルテを読んだ。それは彼の三十数年の「患者」人生における苦難の歴史であっただろう。
 しかし、それは、医療者側からの記録であり、彼自身の自らの記録ではなかった。
「食欲あり」、「夜間良眠」、「日中臥床しがち」、「レクレーション不参加」、「無為自閉的」、「自発語が少ない」、「他の患者との交流なし」、「表情暗い」::。それらの、形式的かつ表面的な「観察記録」が、どこまでも続く。そして薬の処方内容は、「do」、「do」、「do」::と、どこまでも「同じ」内容が記録されている。
 三十数年間、精神医療の対象として、まるで動物の観察記録のように一方的に観察され、記録され、「看護」、「治療」され、「指導」されてきたであろう証拠のカルテからは、マサオさん自身の内面は読み取れない。が、常に主体を奪われてきた「される」側であった、というまぎれもない事実が克明に記録され、そのことこそが彼の深淵な苦悩を物語っているように思えた。
 彼は何か犯罪をおかした訳でもないのに、青春の一時期に何らかの理由で「精神の変調」を来たした、というただそれだけの理由で、終身刑のように隔離された空間の中に、人生の半分以上もの間、「入院」させられている。「病的症状」はすでに消失しているにも拘わらず。
 この病棟は、彼のような長期入院者がほとんどを占めている。彼、彼女たちは皆、国の制度や病院、家族の問題などにより退院できなかった、そして、今もなお退院できない、今さら「恐ろしい社会に退院したくない」社会的入院者ばかりだ。

*1 C病棟の面会室は一部屋しかないので、面会者が重なった場合は、デイルームを利用することが多い。この病棟では面会のない患者が多く、彼、彼女たちは、他の患者の面会を複雑な表情で見ている。

第21回「週刊金曜日ルポルタージュ大賞」選外期待賞入選作

在日米軍基地移転の中のグアム

 篠崎正人

はじめに

 沖縄で起きた少女暴行事件に対する沖縄県民の怒りが高揚し、基地負担の軽減を求める世論が高まった1996年頃、西太平洋に浮かぶマリアナ諸島のグアムから「沖縄の米軍基地を受け入れてもいい」という意思伝える州知事などの発言が相次いだ。その後、沖縄県宜野湾市の海兵隊普天間基地を名護市辺野古地区に移設する計画が行き詰った今日、長崎県内の大村市や佐世保市、佐賀空港、徳之島など九州各地への移設が話題になる一方、沖縄に駐留する第3海兵師団の一部をグアムに移駐させることが日米で合意された。
 しかし、沖縄に駐留する海兵隊の一部をグアムに移転させることが沖縄の負担軽減にとって解決策なのか、今年3月6日から9日まで、原水禁九州ブロックのグアム調査団に同行して取材した。

南海の楽園の今

 グアムは、沖縄の3分の2にも満たない南北に最長45キロ、東西に最大10キロ、人口17万人弱の小さな島である。グアムは16世紀、大航海時代のスペインによる占領から1899年の米西戦争による米国統治、アジア太平洋戦争時の日本の占領、そして再び米国の信託統治を経て現在は米国の準州(自治領)となり今日に至っている。ベトナム戦争当時はB52爆撃機などの出撃拠点として、また1980年代の東西冷戦が激化したときは西太平洋における海軍と空軍の補給・支援拠点として全土の3分の1を米軍基地が占めるほどの「基地の島」であった。
 グアムやサイパン、テニアンなどマリアナ諸島には古くから「チャモロ族」と呼ばれる海洋民族が住んでいたが、米国の占領と統治が開始された後、チャモロ独自の言語や文化は失われていった。今日ではわずかに残された遺跡や食文化にその痕跡をとどめるだけとなっているが、それとても米軍の都合では、たとえばファロン・デ・メデニラ島の「聖地」のように先住民グループの反対を無視して爆撃場に使用される場合がある。
 グアムの主要な産業は漁業と観光だが、最大のものは軍需であった。この小さな島に、最盛期には空軍や海軍の基地と補給センターなど各種施設が集中し、「西太平洋の中軸(ハブ・センター)」(星条旗新聞記事)と呼ばれていた。
 しかし、冷戦終結後に始まった米国の「国防基地閉鎖と関与政策の見直し」により4箇所の主要基地が米本土やハワイへ移転あるいは閉鎖、縮小された。この結果、2104人の軍関係者と2665人の民間従業者が職を失い、2421人が移動を余儀なくされた。そのほか、フィリピンから移駐してきた艦船修理所が閉鎖されたことにより663人が失業し、合わせ約1万人以上が失業あるいは移転を余儀なくされた。1996年発行の地元経済誌「ビジネス・アルマナック」は「基地閉鎖がグアムに大打撃」と報じていた。1994年には軍人・軍属、民間人、外国籍合わせて約2万5千人を抱えていたので、基地閉鎖はグアム経済に大変深刻な状況をもたらした。
 グアム州政府と米国政府は基地跡地を一部地元に譲渡する一方、1996年には国防予算から5200万ドルを支出するなどの支援を行ったが、それまでの軍関係支出が約7億ドルから8億ドルであったことから比較すると、効果はきわめて限定的であったようだ。
 グアム自治州政府は水産資源の有効利用として缶詰工場も整備したが、大きな産業にはならず、観光産業も折からの日本の経済不況などの影響もあり、新たな雇用を生み出すカは不足していた。
 連邦政府もさまざまな支援策を講じて地域経済の安定を図ったが、産業基盤が軍需関連産業以外は成長していなかったため大きな効果は上がらなかった。観光と漁業以外に多くの産業を望めず、軍関係の産業に支配されていた状況では、新しい産業を興すにも限界があった。しかも、不要になった群用地を民間に返還したといっても、米国政府の都合で再接収ができる、という条件付であったから、地元に根付いた伝統産業を復活させる基盤さえ与えていない中での返還であった。この条件はその後、グアムに再び軍事基地が進出する下地でもあった。

今も残る広大な基地とインフラ

 グアムには1996年以降の大規模な基地閉鎖プログラム後にも全土の3分の1を占める広大な土地が米国政府財産として残っている。これらの用地、たとえば北部のアンダーセン空軍基地の近くに広がる原生林や海岸、近くの広大な住宅地区などは州政府を通して民間(先住民)に返還されることになっていた。しかしそれらの土地の一部はさまざまな有害物資で汚染されており、有害廃棄物を除去しない限り再使用できない状態で、汚染除去が進まないため今もって住民に返還されず、また再開発の方法も示されないままであった。
 フィリピンでは1991年に閉鎖されたクラーク空軍基地やスービック海軍基地など米軍基地跡に残る有害物資による汚染のため多くの住民に健康被害が広がっているが、グアムでは幸いなことに再利用が進まないためだろうか、被害の発生は確認できなかった。
 明らかになった米軍移転計画はこれらの土地への再配置を構想しているが、それらの土地はもともと先住民の土地であって、一部の用地は基地閉鎖計画により住民に返還されたものである。しかし、その土地を再接収して、たとえば射撃訓練場や事前集積基地を建設しようとするのが今回の構想だ。
 再利用の対象となっている主なものとして中部のアプラ海軍基地の埠頭や艦船修理所、アガナの弾薬庫、補給廠と北部にあるアンダーセン空軍基地及びその周辺設備と住宅地があり、それらの施設は1996年に訪問した当時と同じように、まだ十分使用が可能な状態に維持されていた。
 さらに、近くの無人島には爆撃訓練場がある。また、米国の支配下にあるグアムではないが、隣接する北マリアナ連邦のロタ島、テニアン島には使用可能な滑走路もあり、サイパン島周辺には海兵隊や陸軍、空軍の物資を満載した第3事前集積艦隊に所属する輸送艦の停泊場所としても使用されている。BRACによる基地閉鎖が始まった当時にはなかった光ファイバーケーブルも民間会社により設置運営されている。
 グアム商工会議所が調査会社メリル&アソシエーツ社に委託して1998年10月に行った島民の意識調査によれば、8割の住民が基地の存在を支持しているという。しかし、同調査でも50%の住民は現在の規模が妥当だとして、これ以上の基地建設には同意していないことも明らかになった。
 では、住民は沖縄から海兵隊の部隊が移転する計画をどのように受け止めているのだろうか。

カヌーは一杯

 私たち原水禁九州ブロックのグアム訪問は現地の新聞社としても関心があったようだ。
 私たちがグアムに到着する前から訪問の予定記事を掲載し、到着後は「日本の陳情団が來島」「先住民グループと交流」などの見出しで連日報道していた。また、訪問3日目に知事公邸や州議会で意見交換したときの様子はテレビでも放映された。
 今回のグアム訪問は、沖縄に駐留する海兵隊の移転問題だけでなく、米国戦略や戦力構成、さらには米軍の再配置計画の中での海兵隊の位置づけやグアムの戦略的位置などについても、当然、私たちの関心の対象であった。私たちは2日間に亘って副知事、州議会、住民グループと意見を交換し、米軍基地の受け入れの問題などを話し合ったが、それぞれの立場を要約すると次のようになる。

副知事:合衆国を構成するものとして、地域の安全保障にとってグアムは戦略的に重要な位置にあり、大多数の島民は愛国的立場から基地の受け入れには賛成だ。私たちは合衆国の一員として、海兵隊の存在には敬意を持っている。海兵隊は危険だと皆さんは主張するが、海兵隊と暮らすほうが(アフガニスタンの)タリバンと暮らすよりも安全だと確信している。しかしこれ以上、グアムに多額の資金を投入し大規模な部隊を受け入れることは地域インフラの不足をもたらし、住民福祉の点から限界だ。
グアムの象徴(旗の文様)であるカヌーに例えれば、もうカヌーは一杯になっていて、これ以上乗せればカヌーは沈んでしまう。

州議会:州議会としては合衆国連邦議会に海兵隊のグアム移転問題では住民の意見を聞くよう議会決議で求めている。グアムは米国の自治(国連の信託統治)領であるためさまざまな権利が認められていない。たとえば、私たち州議会議員でさえ米本土に出かけるときはパスポートが必要とされている。税金は納付しているのに大統領選挙の選挙権も与えられていない。上院議員の選出もできない。日本政府の費用でグアムに基地を移設するなら、日本政府はまず、グアムの住民が合衆国内で平等な立場で意思決定できるよう支援してほしい。
 グアムでは1995年以降の基地閉鎖により一部の土地は州政府に返還された。しかし基地跡地では有害廃棄物による深刻な土壌汚染が明らかになっている。返還された土地も土壌の浄化作業が済んでいないため2割程度しか利用できず、今だにほとんどの土地が利用できていない。
 米軍(政府)は現在でもグアムの3分の1の土地を所有している。もし日本から海兵隊の基地を移転するというのであれば、基地受け入れはその範囲で行うべきだ。新たに住民の土地を接収するのには反対している。米軍の再編計画については議会で公聴会を行い、住民の意見をまとめオバマ大統領に伝えた。議会決議では土地の強制収用や先住民族の文化財破壊、観光や漁業を妨げる海岸の占有、環境を破壊する工事を許さず、現在の施設の範囲で対処すべきとした8項目を確認した。

住民団体:「チャモロ・ネーション」は先住民の組織として、23年前から権利回復の取り組みを行っている。米軍再編を機会に米軍基地を抱えている国の人々との交流を始めた。米国は先住民の承認を得ずに基地を拡大してきた。今また、射撃場建設のために先住民の土地を補償もなしに取り上げようとしている。米軍占領下の沖縄で起きたことと同じことが再びグアムでも起きている。私たちは特別に基地の存在に反対しているのではない。
 基本的には、グアムのことはグアムの人々に任せてほしい。基地がなくなったらグアムの経済はどうなるかという心配があるが、現実の土地もない中では検討もできない。土地があればさまざまなアイデアが出てくるだろう。まず、基地用地の返還が必要だ。

進まなかった基地の返還

 4年前の2006年1月、米軍が撤退した後の状況を調査するためフィリピンに出かけたことがある。1週間かけた取材旅行では、当時極東最大の広さを誇っていたクラーク空軍基地があったアンヘルス市、同じくスービック海軍基地があったスービック市とパンパムガ市で進められている基地跡地の再開発の現状と課題についてそれぞれ取材した。
 スービック湾に隣接したキュ一ビー・ポイント住宅地区も含め、ルソン島にあった米軍基地は1991年に起きたピナツボ火山の噴火と降灰の被害を受けて閉鎖され、用地はフィリピン政府に返還された。しかしその用地はさまざまな重金属や化学物資、廃油で汚染されており、移り住んだ住民の間で健康被害が広がり、白血病、皮膚病、腎臓病、心臓病、喚起の言う生涯(肝機能障害?)、悪性新生物による被害は今なお住民を苦しめていた。
 結局、返還された米軍基地跡地のかなりの面積は汚染が除去されないため使用できず、そのまま放置されていた。住民の間では汚染の原因者である米国政府を相手に訴訟を起したグループもあったが、いまだ米国政府の責任は認められていない。
 グアムでも同様のことが起こっているという。州議会での意見向寒の折、フィリピンや沖縄での基地跡地汚染問題について意見を聞いてみると、やはりグアムでも返還された土地の汚染が深刻なもので、除去作業が進まないため新たな利用もできていないということであった。
 基地の跡地利用が進まなかったのは、決して利用計画の不備や実行能力がなかったためではなく、汚染された土地の浄化作業を原因者である米国政府が行わなかったからであった。
 面白いことに、フィリピン・クラーク空軍基地跡地の再開発を進めているCDC(クラーク開発協同組合)の広報担当者であるロペス氏もチャモロ・ネーション代表のデビさんも同様のことを言っていた。「土地と知恵があれば、できますよ」と。
 用地の再利用を進めるためには、まず返還した土地の汚染を米国政府の責任で浄化することが必要なのだ。

なぜグアムに基地なのか

 ハガニアにある知事公舎での会見の中で会見に応じてくれた副知事は行政の責任者としての立場と愛国的立場から現在の軍事基地の存在には賛成する一方、グアムをカヌーに例え「小さな船にこれ以上詰め込んだら沈没する。」と、これ以上の基地増強には明確に懸念を表明した。
 また、州議会も95年以降の基地閉鎖の中で疲弊したグアム経済の現状を心配しながらも、本来住民に返還すべき土地が汚染除去の遅れから計画通りに進まない中で、逆行するように計画されているこれ以上の土地取り上げには反対する決議を採択し、政策決定に対する連邦政府との平等な権利を保障するよう求めた、そして住民団体は「グアムは米国の所有物ではない。もしグアムに基地を建設しようとするなら、その必要性を説明すべきだ。」とし、米国政府が今年7月にも計画している北部にある射撃場用地の強制接収には体を張って抵抗する、と強調した。そしてその土地には日本国民の税金で基地が建設され、住民への補償はない。背景には占領下の沖縄で起きたことと同じ「自治領・グアム」での先住民の人権問題がある。なぜ、グアムにこれ以上の基地が必要なのか、という問いに明確な答えは示されていない。

再び西太平洋の主軸に

 日本では沖縄や岩国、神奈川で、韓国では平澤で、そしてグアムでは州政府や議会、住民団体の反対や環境破壊への懸念を無視して基地建設を強行しようとする理由は米軍再編である。ともすれば日本では「在日米軍再編」と誤解されがちであるが、米国政府が進めているのは「全地球規模での米軍再編」(グローバル・ポスチャー・レビュー)である。東西冷戦終結は東アジアに大規模な米軍が駐留する根拠を希薄にし、韓国や日本、とりわけ沖縄で軍基地縮小・撤去を求める動きが広がった。米国政府は戦略を大規模地域紛争や対テロ戦争に重点を移す中、軍事基地を6っに分類し再編成に着手した。そこで焦点になったのが西太平洋・東アジアでの戦略的主軸をどこに配置するかである。沖縄で広がった反基地運動に「沖縄の負担軽減」で対処しようとし、沖縄県内移設や本県などへの一部基地の移転が構想された。しかし、いずれの計画も沖縄を「主軸Jとする構想であり負担軽減にはつながらないことは明らかで、今なお計画は進んでいない。そこで「愛国心を持つ人々からなる米国領土」(グアム商工会議所白書)であるグアムが西太平洋の主軸基地として浮上した。グアムの北にある北マリアナ連邦のサイパンやテニアンなどの島々と一体化した構想で、サイパンには現在も海兵隊の戦闘装備を積載した貨物輸送艦が常時停泊している。北マリアナ連邦政府は米軍基地の受け入れも表明している。
 しかし今回の調査で明らかになったことは、州政府(自治体)、議会、住民に理解されない基地建設は受け入れらないのはどこでも同じ、ということであった。軍事という「公共事業」による利益を振りまいても安定した環境の基地は存在しない。それは沖縄でも長崎でも、グアムでも同じことである。
 なぜ今基地なのか、ということの説明が今こそ求められている。
(以上)

第21回「週刊金曜日ルポルタージュ大賞」佳作入選作

「おくりびと」の先に
――ある火葬労働者の死が問うもの――
 

 和田通郎

はじめに

 昨年アカデミー賞をとって話題になった映画「おくりびと」のきっかけになった青木新門さんの「納棺夫日記」(青木新門著:文春文庫増補改訂版)に、次のように書かれている。
「医者や看護婦だって、警察の鑑識員だって、納棺夫よりひどい死体を扱っているではないか、と思ったりした。しかし、冷静に考えれば、社会通念的に無理がある。葬儀屋の社会的地位は最低であるし、納棺夫や火葬夫となると、死や死体が忌み嫌われるように嫌われているのが現状である。」
「職業に貴賎はない。いくらそう思っても、死そのものをタブー視する現実があるかぎり、納棺夫や火葬夫は、無残である。
 昔、河原乞食と蔑まれていた芸能の世界が、今日では花形になっている。士農工商と言われていた時代の商が、政治をも操る経済界となっている。そんなに向上しなくても、あらゆる努力で少なくとも社会から白い目で見られない程度の職業に出来ないものだろうか。」
 全国には一九〇四カ所の火葬場(恒常的に使用されているもの:厚生労働省二〇年度統計資料)があり、政令指定都市では、五十数カ所の公営の火葬揚で約四〇〇名の労働者が働いている。
 大阪市の場合は六カ所の火葬場(公営五カ所、民営一カ所)があり、五十数名の労働者が働き、火葬件数は年間三万体弱(二〇〇九年度)である。
 今年(二〇一〇年)二月一七日、新聞やテレビは、「心付け問題」を大阪市の新たな不祥事として一斉に報道し、平松大阪市長は「服務規律確保プロジェクトチーム」を設置し、専門チームの「環境局斎場事案特別チーム」で問題を糾明して、再発を防止するよう指示した。
「心付け」とは、世話になった人に感謝の気持ちを伝え「お礼」として提供されるものです。結婚式などの冠婚葬祭や、病気などで入院したときに医師や看護師、旅館の仲居さんなどに渡す、広く世間一般に習慣としてあります。
 葬儀に際しての「心付け」は、親類縁者が自らの近親者の火葬を託す気持ちとして、霊枢車やタクシー、マイクロバスの運転手、火葬場の職員などに金銭を提供するもので、長年に亘って慣例的に行われてきた。現在でも、民間の火葬場では当然の如く「心づけ」があり、冠婚葬祭のマナー集にも、「心づけ」の金額や包装の仕方、額や渡す時期などについて事細かく記載されているものもある。
 大阪市においては、二〇〇二年に、公務員が職務に関わって規則などで決まっているもの以外の金を受け取ることが問題となり、各斎場に「職員に対する心付けは一切不要です」と看板が設置され、心付けを受け取ってきた職員は公務員にあるまじき行為として文書訓告処分にされ、今後一切の受け取りが禁止された。
 しかし今回、一部で心付けが存続していることが判り、問題が再燃することとなった。その後約一年を超える混乱は、行政、マスコミ、議会、警察などを巻き込む異常な事態に発展し、その混乱の中で一人の労働者が自らの命を絶つ事態に至った。

1.自死の訴えること

 二〇一〇年三月一日、一人の火葬労働者(Kさん)が自らの命を断った。勤続二四年、管理主任などの要職を歴任した職場一の年長者で享年五七歳、妻、娘二人と母の五人暮らしであった。
 彼が首を吊り死に選んだ場所は、彼が長年働いた職場の中央で、死後の身体の弛緩による職場の汚れを避けるため紙おむつを着け、鼻に栓を詰めるという周到さであった。それは何よりも、職場の同僚に要らぬ世話を掛けさせないための心遣いであった。
「職揚の皆様へ」と題する遺書が彼の机の上に残されていた。筆跡に乱れはなく、三枚にわたって死を選択した彼の気持ちが綴られている。
遺書は書く。
「現状の一連の流れの中で、北朝鮮のごとく警察に売り渡す様な局(大阪市環境局)の対応に腹立たしく思う…」
「部下を指導教育するわけでなく、おとしいれる事だけを考え、私利私欲だけで動いている上司の元で働く気力もなくなり抗議のために死を選ぶ事にしました。」
 自死の意図は明確である。彼の死は、大阪市当局の「心付け問題」に対する対応への抗議であった。
 翌日、新聞にも取り上げられたが、自殺の動機とその背景を正確に報道したものは皆無である。中には、「大阪市斎場職員自殺調査に『心付け』認め、悩む?」(三月一日付毎日新聞夕刊)など、心付けの受領がばれてそれに悩んでいたかのようなトンチンカンな報道もある。報道機関の想像力の欠如は如何ともしがたいが、報道の元になった当局の情報提供が、当局に対する抗議の死であることを隠し通そうと、恣意的意図的であったことが伺える。
「職場の皆様へ」と題する遺書は、自殺の連絡が入ってすぐに、斎場担当課と労務担当課が、職員や家族を労うどころか遺書を誰の許しも得ないで引ったくるように持ち帰られた。自殺が当局に対する抗議であることを、当局は自殺の当日に明確に認識していた。心付け問題に対する当局の対処方法が、問題を複雑に深刻にしてきたことの責任を回避したいばかりに、一人の労働者が命をかけて訴えたことをヤミに葬ろうとした意図は明白である。

遺書の最後に次のように書かれている。
「こんなになさけない思い、くやしい思い、みじめな思いまでして、どうして人がいやがる様な仕事を選んでしまったのか。我人生のこの二四年間はなんだったんだろうか、なさけなく思います。」
 二四年間も働いた労働者に「なさけなく、くやしくて、みじめ」な思いを抱かせ、死に至らしめたものは何なのか。そして、二度とこの様な悲しいことを繰り返さないためにも、その事実と背景が十分に検証される必要がある。

2.事件の概要

 (1)事件の発端と警察への捜査依頼
 二〇〇九年の春頃から、大阪市直営の火葬場の一つで、心付けの配分を巡って職員間でトラブルが発生し、それを原因として業務に影響が出て、市民や業者、行政を巻き込んだ問題が発生した。この問題は、当局が業者などに謝罪をして収束したが、問題の発端であった「心付け」について、今後どのような対応をするのかが大きな問題として残った。この年の暮れに開かれた現場主任会でも話題になり、早期に問題解決が図られるよう現場労働者から多くの意見が出されたにもかかわらず、具体的な解決策が当局管理者から述べられることはなかった。既にこの時、当局は、「心付け」の全容解明のためと称して警察に捜査依頼をし、その捜査結果をもって一挙に問題の整理を行おうと決めており、捜査の進展の妨げにならないよう、現場労働者に警戒心を抱かさせることのないよう細心の注意を払って情報管理が行われていた。(当局の大阪府警への捜査依頼は二〇〇九年七月――「環境局における心付け事案に関する報告書」)
 本来であれば、どのようなトラブルであれ、まずその実態を把握するために当事者から直接事情と事実を聞き取り、その調査結果をもってしかるべき措置を嵩じるものである。その措置の方法も選択肢は幾通りもある。特に労働現場で起こることは、その背景となる労働実態やそこに働く労働者の意志、意欲、想いを抜きに考えることは出来ない。多くの場合間われているのは、個々の労働者だけではなく、問題を引き起こした職場システムである。そのことを抜きに問題の全容を解明し再発を防止する手だてを講じることは出来ない。近くには、JR福知山線脱線事故が、国鉄分割民営化以降の職場の荒廃と、収益中心主義による苛酷な労働実態が存在したことを見れば明らかだろう。
 今回問題に引き寄せて考えれば、「心付け」は、斎場労働の報われぬ労働実態だろう。「心付け」と「斎場労働(正しくは火葬労働)」は、表裏一体、コインの裏表であり、その一方を取り出して、公務員倫理だけを理由に断罪することは、そこに働く労働者に対する冒涜だろうし、不当の誹りを免れられないばかりか、その立場が雇用者として実権を持った管理者である場合には、自らの責任を労働者に転化しようとする姑息な犯罪行為ですらある。元々、大阪市に於ける心付け問題は長い歴史と経過を持っている。問題が出るごとに、当局は労働者に対して心付けの禁止を要請するが、強権的に一律禁止に踏み込むことは出来なかった。その背景には、劣悪な労働実態と、社会的偏見による雇用確保の難しさがあった。
「金を受け取るなと言うが、当局はこれまで何をしてくれたのか?」(一九八五年分会交渉)マスコミなどに指摘されて、その時だけ事態を糊塗して真剣に労働現場に向き合おうとしてこなかった当局者の姿勢が問われてきたのである。今回の場合も本質的には同様である。ただ事情が違うのは、公務員に厳しく少しの誤りに対しても懲罰感情がきつい世論の動向だろう。今回の当局者も、その様な世論に乗って、労働者と労働実態に向き合うことはなかった。当局が選択した事態把握策は、大阪府警に実態の把握と立件を求めるという、およそ考えられないものであった。このことが、問題を複雑かつ深刻にした最大の原因といえる。
理事者は言う。「平成一九年にも調査をしたが、正直に事実を述べなかった。」
「現場労働者に聞いても本当のことはいわない。領収書のない世界で、実態を明らかにするには強力な捜査権限を持った警察以外にはできない。」

(2)警察の強制的な取り調べと桐喝
 二月一七日早朝、出勤した斎場職員M氏に大阪府警から携帯電話がはいる。大阪府警捜査二課は、瓜破斎場の裏門に府警の車を横付けにして、任意聴取にも関わらず有無を言わせず、M氏を職場から半ば強制的に大阪府警に連行した。勿論、心付けについての取り調べである。取り調べが終わったのは、日付が変わった一八日の午前〇時を過ぎるという苛酷なものであった。その間トイレにも行くことも許されなかった。取り調べの主要な点は、心付けを出している業者名、心付けを受け取っている職員名、業者と会食したか否か、海外旅行の有無と費用の出所、心付けをもらっている業者に仕事上の便宜を図ったか否かである。
 本人は取り調べ後に作成した上申書で、取り調べについて次のように書いている。
「(金銭については)こちらから請求は一切なくわれわれの職種に対して「『ご苦労様』と言う気持ちで発生してきたもの」として金銭の受領を認め、業者との会食などについては、「便宜の疑いを持たれたことも事実ですが、本来ならば行政側が行わなければならない業者指導」であり、「それによって、業者に便宜を計ったこと一度も有りません。釜(炉)取りの件については、月一度程度上司から、どの業者に関わらず市民サービスの一環として火葬時間の変更及び予備炉の準備をして下さいとの指示及び了解のもとで行われていることです。私達には、上司の指示及び了解が得られないことにはできないことです。まして、職務権限もありません」と述べている。
 当事者から事情聴取するまでの間、大阪府警は各方面に捜査の網を広げ、葬儀業者にも数回に亘り事情聴取をしている。
 その中で、大阪府警が着目したのは、A業者の社長とM氏が海外旅行していた事実であった。取り調べでは「A業者は旅行費用を経費で落としており、A業者の丸抱えでないのか」と何度も何度も聞かれている。特にA業者への便宜供与の事実をつかむために、当該斎場の関係書類を悉くチェックして、収賄の立件に血道を上げることとなる。警察のクリアーしなければならない問題は、提供された金の性格が心付けの延長なのか、賄賂なのかの一点である。大阪府警の捜査官も、「金が、(世間的に)嫌われる仕事に対して提供されたものか否かの区別が難しい」(大阪府警捜査二課捜査官)と述べている。
 一般に、役所に出入りする関係業者が自らの儲けの中から、斎場職員に金銭を提供する場合、何の見返りもなく出す筈はないと考えるのが普通である。大阪府警の捜査官も同様に考えたはずである。(職場の実態や仕事の中身を知らない当局関係課長なども同様であるが)
 結果として大阪府警は「単純収賄」等での立件を断念する。その事は、「心付け」と「便宜」を結びつけ犯罪に仕立て上げようとするシナリオが破綻したことを意味した。
 この捜査で当局が果たした役割は重大である。関係職場の業務関係資料は悉く大阪府警に資料提供され、関係労働者の住所や顔写真など個人情報まで提供された。この顔写真などを使って、張り込みや尾行が行われている。
 また、当局に内部告発したものを警察への情報提供者として全面協力させている。その者への見返りを当局は、調査報告のとりまとめの中に十分に用意することとなる。

(3)新聞報道
 警察の立件断念を受けて、二月二五日、五大紙が一斉に新聞報道に踏み切る。
 産経新聞の見出しは「斎場利用業者に便宜か」であり、サブタイトルには「『質より量』炉の確保やっき」とある。記事には「『質より量』を求め、より多くの葬儀をこなしたい一部業者にとって、火葬炉の確保と時間の短縮は経営を左右する重要課題。一部の職員と結託することで、火葬を優先的にさばく構図を作り上げていたとみられる。」と書き、また、「市環境局によると、高齢化による死亡率の増加で、市立斎場五カ所の稼働率は高く、死者が増える冬揚に至っては『炉は予約で満杯。五日待ちになることもある』という。」
 読売新聞は「市関係者によると、複数の斎場職員が「部の葬儀業者に対し、火葬の順番を早めたり、駐車場から近い火葬炉を割り当てたりするなどした謝礼として、数十万円を受け取ったとの疑惑が持たれている。」とある。
 また朝日新聞は「大阪市によると、昨年職員から内部告発を受けて調査を開始。……。見返りとして業者が求める火葬炉の場所や火葬する時間などで融通を利かしていた職員もいたという。」とある。
 これらの報道の共通点は、警察の問題意識と同様で、金銭の授受→火葬時間の変更などの便宜供与→収賄とする図式である。各紙に共通したこの様な思いこみは、取材元から提供されたニュースソースや事情説明そのものが誤りであったからに他ならない。取材元とは当然の如く環境局であり、その事情を説明した当局者であり、職場の労働実態を本当に知らないか、意図的な説明を敢えてしたかの何れかしか、この様な誤りが記事に反映することはない。
 手元にある大阪市の過去五年間の統計資料によると、大阪市の死亡者数は約八〇〇件増加している(二〇〇五年二四、五二〇名、二〇〇九年二五、三四四名)。この増加は、各斎場で平均しても二日に一件程度である。火葬件数も一五〇〇件増えている(二〇〇五年二二、二二〇名、二〇〇九年二八、七五一二名)。この増加は、各斎場で平均しても一日に一件程度である。この件数からは、新聞記事のような火葬炉の確保に難渋する様な実態は考えられない。斎場労働者からの聞き取りでも、新聞報道が描くような切迫した火葬炉の確保難等は存在しない。
 この様な記事が書かれる根本には斎場労働への認識の欠如がある。斎場の労働者と葬儀業者との関係は、一般的な市役所の仕事を受注する業者と仕事を発注する市職員という図式に当てはめられない。贈収賄が成立するような余地は殆ど存在しないと言っていい。我々が考えるより、業者と職員との関係は公と民を超えて親和性が強く、その関係は家族的な領域に達していると考えた方がよいし、葬儀を通じた共同作業者としての連帯感が強い。それは、社会にとって必要不可欠な仕事であるにも関わらず、社会的には評価は低く差別的偏見の対象である両者が、被差別の絆で結ばれているからだ。外面的には利害対立し仲が悪そうに見えても、対外的には共通する感情の共有がある。その事を見通すことなく「心付け」問題を報道すれば、この様な事実誤認と思いこみの記事になってしまうのだ。記事が、今回問題をただ単なる「公務員の不祥事」としかとらえられない限界は、報道機関の如何ともしがたい想像力の欠如と世間の公務員への懲罰感情への迎合としか言いようがない。

(4)当局の調査開始
 マスコミの報道を受ける形で、当局による調査が開始された。調査は、調査期間(二〇〇三年四月~二〇一〇年一月)に斎場に勤務したもの全員対象に行われた。聞き取りの前段に、誓約書の提出が半ば強制され、言わば警察官による被疑者尋問の如きものであった。警察では事前に憲法に定められた自己防衛権に基づく黙秘権の告知が必要であるが、それすら反故にされ有無を言わせぬものであった。誓約書には、事実と違うことを言った場合は如何なる処分も受けるとされており、白紙委任状まがいのものである。
 この調査には、驚くことに警察が介在する。前出のMさんには警察から電話が入り、「警察で言ったことを正確にしゃべれ。警察で言ったことと違うことを言うな!」と桐喝し、担当課長の処に電話せよと指示される。その電話によって、調査期日が入ると言った異様な状態で調査が行われた。
 この調査の中で担当課長は現場労働者を「おまえ」呼ばわりをし、U氏に対しては何の脈略もないのに、「Kが死んだのはおまえらのせいだ!」(三月二三日:U氏事情聴取)と罵倒した。このためU氏は、「言われた途端、頭の中が真っ白になり、それから後のことは全然覚えてない。唯、調書に捺印をさせられたことだけは僅かに記憶にある。」(U氏)状態になり、職場に帰っても動作に異常をきたし、同僚の薦めで病院に行き、事後「自律神経失調症」の診断で二週間の休業を余儀なくされた。(現在労災の認定請求中)
 U氏だけでなく、Kさんの死が現場労働者に与えた衝撃は、並大抵のものではなかった。Kさんの死んだ朝、職場は混乱と怒号が渦巻いていた。過日、大阪市の統括産業医がカウンセリングを実施したが、死後三ヶ月経った今も、精神疾患の疑いのある労働者が三名もいる状態である。
 当局の調査の方法は、相手の意志とプライドを破壊して、自らに都合のよい供述を引き出そうとする検察官気取りの悪辣な手口である。職場の同僚であり先輩であるKさんの死が職場に与えた衝撃を思いやる気持ちの一片すら感じられない。ここには同じ職揚に働く労働者同士としての関係は存在すら許されず、あるのは取調官と被疑者としての関係のみである。
 又、葬儀業者に対する事情聴取においても大阪府警の捜査が先行する。業者の帳簿は悉く調べられ、会計処理の不具合などを捕まえて立件すると脅しつけ、心付けの提供を有無を言わせず認めさせる。その上で、大阪市の調査に協力せよと迫り、担当課長への連絡と情報提供を強制している。
 この様な警察の圧力と人権侵害を伴う調査によって得られた個々の調査結果は、明らかに失当だろう。

(5)大阪市議会での論議
 三月一八日、大阪市議会の民生保健委員会で「心づけ問題」の質疑が行われた。辻義隆市会議員は、「なぜ、環境局独自でまず調査をせずに、いきなり警察に相談をすることになったのか」(大阪市市会事務局の議事録より、以下同様)と問いただしたのに対して、渡邊斎場担当課長は「これまで職員研修や業者への周知を行ってきたにもかかわらず、今回の情報が事実であるとすれば、業者と癒着した悪質なものと考え、内部調査では限界があると判断」したと答えている。この答弁は、議員がなぜ当該たちを問いただすこと無く警察に捜査を依頼したのかとの問いに何ら答えていない。
 また、議員は内部告発文書をもとに「(今回の問題は)いつから、どうやって、なぜ、だれの指導のもとに、心づけが復活したのかということが大事なポイント」
として「現場の指導的立場にあったA氏、B氏、C氏の三名が中心となって、心づけを復活すべく葬儀業者へ出向き、積極的なあいさつ回りを展開した。各職場に点在する後輩職員を抱きこみ、加速度が増すように業者からの心づけが復活」したとの情報があるが真相解明のためにしっかり調査を求めている。しかしながら、調査は根本の疑惑に一切答えるものとはならなかった。
 又同委員会で、斎場労働者の置かれている差別実態についても質疑がなされた。
「長い斎場の歴史の中で、職員全員が入社時から退職時まで別名(源氏名)を名乗っています。斎場勤務の中で顔を隠すためにサングラスやマスクを着用しています。知人が斎場に来ると、隠れて業務を離れることがあります。斎場内では撮影は禁止されていますが、…我々職員の顔写真が、知人など世間に知れ渡ることを恐れているんです。今回の心づけの問題は、金銭授受の調査だけではないんですよ、根っこにある。:・大阪市の職員の心の中に、うみのようにたまったわだかまりがある。
それがみんな、ここにおられるような幹部職員のほうに向けられているんですよ。
現場で汗流して働いている人間、ましてこういった差別の構造を変えずにほったらかしてきたような事実。今回の問題は、現業職だけの問題ではありません。…決してトカゲのしっぽ切りにならんように、根本的に、抜本的に解決することが必要…」として、平松市長の答弁を求めた。市長は「例えば職員の側から、実は実名を使いたくないんだというような話があったときには、しっかりとそれを守ってやる、実名を使わずしてどうして自分の存在があるんだというようなことを含めて、しっかりとみんなで支え合うような組織にならなければ、本当の意味で人権先進都市であるとか、国際人権都市であるとか言うことはいえない。」と答えている。
 しかしこの議論を受けて、環境局がとった対応は、職場の備品への源氏名の記載禁止と、実名名札着用の強制であった。

(6)当局の調査結果と疑問
 当局は三月三〇日、調査結果をとりまとめた。(以下は三月三〇日付環境局調査結果に基づく)
 斎場に勤務したもの九三名から聞き取り調査を行い、二三名が受け取りを認め金額は一〇〇〇円~五〇〇〇円程度とされた。また、業者との会食、ゴルフ、海外旅行が確認された。参加費は、業者との折半である。
 この調査に基づいて、「服務規律確保プロジェクトチーム」において第二次調査が行われ、再発防止策の検討と行政処分が行われることになる。
 この調査報告にはいくつかの問題がある。まず、調査期間である。調査期間は平成一五年四月~平成二二年一月までとされている。当局は、「平成一五年四月には一部斎場で心付けの授受が復活していたとのことで、職員、業者間で}致している。」と調査期問の根拠を示している。なぜ、前回の処分(平成一四年五月)から以降にしなかったのか? 平成一四年五月~平成一五年三月までの期間を対象から外す必要は何なのか。調査対象者の範囲は、「転出者も入れた平成一四年四月以降勤務者」であるにも関わらずである。ここに意図的な作為が存在しないか。「平成一四年夏頃から(心付けは)有ったと思います。」(Mさん上申書)「平成一三年秋頃に寸志が廃止になり約半年後に復活をし…」(Fさん上申書)と述べている。この証言は何故無視されるのか? 内部情報提供者を庇護するために、意図的に調査期間を短縮したのではないのか。情報提供者と目される人物が、平成一五年四月から心付けの授受を止めたこととの関連はないのか?
 また、会食やゴルフ、海外旅行が金銭の授受とどうリンクしているのか明らかでない。会食について調査報告資料は、一五名が参加し一三名が心付けを受け取っていたが二名は受け取っていなかったとしている。また、海外旅行は以前からの友人同士である。(Mさん)
 心付け問題の全容解明を計るという方針にもかかわらず、葬儀業者への調査は、大阪市登録業者(四九六業者)の五%に満たない二一業者に過ぎない。又、業者との会食は、調査対象とされた業者団体の「桜会」以外にもいくつもの団体があり、その会食には、現職の市議会議員や国会議員が参加したものもある。それらについて一切触れられていない。調査の方法と結果は、あらかじめ決めたシナリオに沿つた意図的なものと言わざるを得ない。
 今回の調査報告の信慧性に大いなる疑問がある。

(7)懲戒処分
 五月三一日、大阪市は一〇名の懲戒免職を含む四二名の処分を行った。
 処分に先立つ五月二九日、朝日新聞は「斎場「心付け」七人免職一五人停職」と報道した。新聞社の誤報(大阪市総務局)とされた報道を受けて処分の量定は加算され、懲戒免職者を三人増やす処分を発令したこととなる。当局の懲戒処分基準・処分手続などには不透明で不明な点が多々ある。懲戒処分された労働者は処分の取り消しを求めて裁判所に訴える決意と聞く。裁判の中で、公務員にとって「死刑」
に等しいとされる懲戒免職の不当性が明らかにされるだろう。

3.事件の背景にあるもの

 事件の背景を知るために、まず、過去に環境局が行った二回の「職員意識調査」
を見てみよう。その報告には、日頃口には出さない火葬労働者の心が見て取れる。
(1)第一回目「職員意識調査」
実施年度:一九八九年
調査目的:「…清掃事業に従事していることにより、社会的関係において被っている不利益(いわゆる『清掃差別』)を撤廃するための行政施策を策定するにあたり、その参考に資する」
回答率;九七・〇%
以下は、各設問に対する斎場・霊園労働者の回答率である。
ア、清掃労働差別の体験について
Q:「清掃労働者は、差別されている」という意見についてどう思いますか?
A:「根強くある」五七・七%
Q:「ここ一~二年間で、仕事中に「差別された」と感じたことがありますか?」
A:「良くある」一六%
イ、結婚差別と職業差別について
Q:「あなたの縁談の際に、相手の方は、あなたの仕事のことを気にしましたか?」
A‥「かなり気にした」一七・七%「少し気にした」二一・五%
Q:「お子さんの縁談の際、相手の方はあなたの仕事を気にしましたか?」
A:「かなり気にした」二五・〇%
Q:「将来、自分が結婚する際に、現在の仕事が妨げになると思いますか?」
A:「妨げになる」一六・七%
Q:「将来、子供が結婚する際に、現在の仕事が妨げになると思いますか?」
A:「妨げになる」三三・〇% 「少し妨げになる」三三・〇%
ウ、「仕事について話しているか」について
Q:「あなたの仕事の具体的内容を配偶者(妻や夫)は知っていますか?」
A:「全く知らない」七・五% 「殆ど知らない」三・二%
Q;「子供は仕事の内容を詳しく知っていますか?」
A:「全く知らない」二五% 「殆ど知らない」二五%
Q:「何かの書類で勤め先や職種を詳しく書くようになっているとき、あなたはどうしますか?」
A:「書かない」一一・七% 「ボカして書く」五二・四%
エ、闘き取り調査
・一番辛いのは、挨拶がわりに、今、何をしているとか、どこで働いているかとか聞かれることがあるからです。そんな時には『わしは遊んでますねん』とか言って、『市役所に勤めています』とも言えませんでした。同窓会に行くのも足が重くて、五回に一回ぐらいしか出席しません。仕事のことが話題になると、私らの職場の場合、一歩も二歩も後ずさりしますね。」
・「子供のことが一番気がかりで言いにくいところです。仕事の中身については、未だにはっきりとは言ってません。結婚は、この仕事についてからですが、いろいろ悩みが多いです。とにかく計りしれんほど重圧です。仕事の中身を明かしたのも、結婚してからでしたね。」
・「斎場の仕事に対する正当な評価をするということで、副読本で取り上げても、個々の人間が表に立つとなると、今でも近所に隠しているのにどうでしょうかね。……。現在の仕事に伴う世間からの差別と偏見を打破するためには、どうしても自分自身を卑下するところがありますので、これを取り除いて、世間と対等の立場に立てればと思いますが。」

(2)第二回「職員意識調査」
実施年度;一九九八年
調査目的;「より効果的な職場研修を実施するため」
取りまとめられた報告から斎場職場を特定するデータは抽出出来ないが、「聞き取り調査」の項に次の記載がある。
・「共同住宅にいた時、『なんで自分の家に人が遊びにこないのかな』と、思ったことがある。結婚の時も、色々あって。破談になった例もある。職業はやはり言いにくい。『(この仕事が)何で悪いんか』とも思うが、まわりがやはり気になる。自分の家族のことを考えて、家を移る人もおる。特に、子供のことを考えると、『子供に影響がないように』と思い、職場から遠い所に転宅してしまう。
 だけど、『誰かがこの仕事をせえへんといかん』のではないか。『人間のする仕事というのは、尺の測り方のちがいでかわる』もので、(世間の人に)どう変わってもらうかが問題だと思う。」
・「以前、斎場に孫と一緒にきたおばあちゃんが、『しっかり勉強せんと、ああいう風になるで』と言ってたことがある。学歴社会ははたして良いのかどうか。
『何で、この仕事だけが差別されるのか?』と思う。考えれば考えるほど、答えが出て来ない。差別されんようにするには、これ以上、何をしたらよいのか。はっきりわからない。
 自分の仕事は、恥でもないし、誇りを持っている。『これについてはプロ』という意識をもっている。ただ、自分の大事な家族のこと、特に子供への影響が、どうしても気にかかる。このシンドイ気持ちをどう訴えるか…」
 調査の最後の「若干の問題提起」は、「なお、斎場のありようについては、別途、慎重に考察する必要がある。」と締めくくられている。

 この二回わたる調査が明確に示しているように、火葬労働者が世間から差別されている現実に対する認識は鮮烈である。しかしながら、出口と展望のない中で労働者自身が暗中模索している姿や、いい訳がましい理由を付けて現状を合理化肯定する姿が垣間見える。差別が重いが故に、職場外に出て広い視野を獲得するチャンスすら妨げられている。相互通行のない斎場労働者は、精神的に非常に孤独である。
 当局が差別の現実を認識してきたこと、差別解消の施策が必要なことは二度にわたる調査報告でも明らかである。調査をしていながら、何ら差別解消の施策を推し進めなかった当局者に、「心付け」を受け取った火葬労働者の弱さを断罪する権利は有るのか?はなはだ疑問である。
 当局は六月四日、「服務規律の確保について」とした文書を各事業所長等宛に出した。併せて、局長自筆の「斎場に勤務する職員の皆様へ」とする氏名札の着用に関する文書が出された。
「斎場に勤務する職員のみなさんは、これまで、ご遺体を受け入れ、火葬し、骨上げを行うという一連の業務を通じて、故人とのお別れにあたってのご遺族の方々の心情を察するとともに、一つひとつの業務を丁寧に心をこめて対応されてきました。こうした厳粛で誇り高い職務に従事する者として、きっちりと名札も着用し、『市民のため、故人のため、ご遺族のための職務』であるとの誇りを胸に精励していただくようお願いします。」
 二回の調査結果で、斎場職員に対する差別が根強く存在すること、個々の労働者はそれを打ち破る自信も展望を見つけ出せていないことが明らかになっている。第二回調査報告の最後に、「若干の問題提起」として「なお、斎場のありようについては、別途、慎重に考察する必要がある。」とあえて記述したのは、個々の労働者の自覚と責任を超えたところに問題の所在があり、総合的な施策が必要であることを示したものである。それからすると、局長があえて個人名で出した文書も、これまでの環境局の差別に対する取り組みからの著しい後退ではないのか。劣後させたものはなにか。そこにこそ、今回の「心付け問題」に対する当局の姿勢の根本的問題がある。
4.「涙」をぬぐって、「弱さ」を自覚することから
 Kさんの葬儀は、今や廃れた「葬れん」の賑わいを思い出させた。昨今、近親者だけの他人の介在しない葬儀が多い中で、通り一遍の儀礼に過ぎない葬儀ではなく、心から別れの時と空間がそこにはあった。多くの葬儀業者が参列し、お棺をのぞき込み、鳴咽を堪えてKさんに最後のお別れをする。葬儀を請け負った業者は、身内の葬儀のような心遣いをして誰悌ることなく、涙を拭こうともせず、Kさんの棺に寄り添っている。皆の気持ちは、何故死ななければならなかったのか? 死に追いやった者への激しい憤りである。直属の上司である斎場担当課長などは、姿すら見せなかった。
 Kさんは、こそ泥のように卑しい拝金主義の輩として自らを位置づけられることを拒否し、自らの尊厳を取り返す為に死を選んだ。シラミのように押しつぶされる前に、自分の尊厳を守る唯一つの道として自死を選択した。自らの労働者としての誇りを押しつぶそうとする組織に対する抗議の意志を明確にし、組織規律や公務員倫理という名の不条理と抑圧に対する告発の意志が死を選択させた。
 しかしながらその死は、労働者の側に決定的なダメージと戦力ダウンをもたらした。二月二六日、私は彼と深夜遅くまで語り尽くした。今回問題の核心とは何なのか。打開の方法はあるのか。私は、「今こそKさんの出番だ。」と彼を励ました。個々の当局への対応は有るにせよ、職場をまとめて差別に挫かれている自らの弱さに気づき、闘うことで自覚と強さを獲得するためには、彼が職場の中心でまとめ役をしなければならない。彼をおいてそれを出来るものはないと考えたからだ。彼は、「少し元気になってきた。」といって、その晩は、翌日からの対応を約束して分かれた。まさか、彼が元気になったのは死に時を見つけ、その決断が付いたと言うことだったのか。それを悔いても取り返しは付かない。同席したものにも、「僕の寿命は、あと数日」と言っていたと言うし、次の日には時間の空いているときに紙おむつを購入するために席を外したという。
 彼は人のために生きることを人生の核に置いた。彼は、自らの骸を当局の前に投げ出し、後輩達を守ろうとした。彼は彼の人生の方針を死の中にまで貫徹した、しかしその方法は、相手である当局者が鶴の様なものであることを、判断の中で欠落させたとしか言いようがない。
 差別根絶の主体は、当局者ではなくあくまで直接火葬業務に従事している労働者をおいて存在しない。心付けを受け取ることは、差別の負の側面であり、火葬労働者が差別に打ち勝つ展望を見つけ出せない中で当然起こりうる一つの帰結点に過ぎない。弱さを断罪し、その意志をくじくことで、差別から解放される展望は開けるのか。苛酷な労働で有るにも関わらず報われ癒されることのない現実を、少しの金を受け取ることによって癒さざるを得なかった労働者の気持ちは如何ばかりであっただろうか。
 Kさんの死は、死によってしか守れなかった労働者としての尊厳と、それを奪い取ろうとした組織を変革し、僅かの金銭に頭を下げるのではなく、差別をなくし胸を張って生きれる社会を作って欲しいという後輩達への遺言であった。
 彼の死に涙しているときは過ぎた。

第21回「週刊金曜日ルポルタージュ大賞」佳作入選作

ハイチ地震の傷跡

 水島伸敏

ハイチ地震の傷跡(ハイチレポート第一部)

 23万人という犠性者を出した、ハイチ地震。4ヶ月以上経った今ではほとんどニュースや新聞では目にしない、人々の記憶からはもう過去の出来事として薄らいでいる、その一方で最貧国に残された震災のつめ跡は広く、深い。

 首都ポルトープランスから東に車で約20分走った郊外にペルマーという地域がある、ここに孤児院やシェルターホームが何カ所か隣接している。数ヶ月前、キリスト敵バプティスト派の団体がハイチの子供を許可なく海外に連れ出そうとした事件があった。彼らが人身売買に関わっているかどうかは別として、この国には手助けを必要としている子供が大勢いるのは事実である。
 孤児院と呼ばれる所には養子が認められている施設と禁止されている施設との二つに分けられる。その一つ、養子ができるほうの施設H.I.S.Home For Childrenを訪ねた。中に入ってアメリカ人のスタッフが多いのにびっくりする、聞いてみたらみんなアメリカからのボランティアで、中には昨日着いた人もいるそうだ。個人差はあるが、1、2週間から数ヶ月居る人もいるそうだ。出迎えてくれた責任者の一人のクリスさんが案内をしてくれた。
 二階建ての施設の大きな一部屋に10人の赤ちゃんたちがそれぞれ小さなベットで体んでいる。健康そうに見える子もいるが、実際は彼らの半数以上は重度の病気と闘っていて、今すぐにでも手術が必要な状態なのだ。震災後、最悪の衛生状態のテントの中で生まれ、病気になってしまった子もいる。幸いにもこの赤ちゃんたちはアメリカでの手術が決まっているという。

 一人の赤ちゃんが目にとまる、カルメロくん。年齢は約1歳半だというが身体は明らかに小さく、それに比ぺて包帯がゆるく巻かれている彼の頭は、通常の3倍ほどの大きさがある。重度のハイドロセファルスである、頭蓋骨の中に髄液がたまってしまう水頭症。同じ病気を持つ他の子に比べてもその大きさは倍近くあり、病気の深刻さが誰の目からもはっきりとわかる。
 アメリカでの手術はいつ? という質問にクリスは小さく首を横に振り、
「アメリカには行かない、手術も受けない、この子は、もうすぐ死んでしまうの……」と言った。震災後、病院から病院へと渡り、母親もあきらめ手の施しようがない状態になってここに来たのだ。
 目の前にいる小さな小さなこの子がもうすぐ死ぬ……その事実を受け入れられずにいた。ただ彼を観ていた。彼の死を受け入れることは、彼の生を諦めることになる。それが私にはどうしてもできないでいた。
 クリスの手がカルメロくんの脇腹あたりをさすっている。彼のお気に入りの場所らしい、目も見えず、耳も聞こえない彼にとって唯一残された皮膚の感覚、彼はわずかに寝返りをうって彼女に答えた。
 私も親指ほどの彼の手に触れた、お気に入りの脇腹をさすった。彼は生きている、当たり前だがそう感じる。それが事実で、そのことがとても大切に思えた。

 子供達は外で元気に遊んでいた。震災で両親を亡くしたり、親から養育をあきらめられた子供達である。
 彼らの半数以上はアメリカやフランスなどに養子に行くことが決まっているが、現状の養子の手統きには2年近くかかってしまう。養子に行けるのは16歳までと法律で定まっている。実際は12歳までがほとんどで、それ以上になるとその確率はぐっと減ってしまう。
 ちょうど12歳ぐらいの男の子がいた。彼はそのことを知っているのかもしれない、私のいるあいだもずっと下の子供たちの面倒をみたり、新しく入ってきた子の世話をしていた。
 私が子供たちにカメラを向けると彼は小さなその子供たちを前に出して、自分はす一とファインダーの外へと消える。そんな写真の外にある彼の姿は、この国で生きることを、自分の力で生きることを決意をしているかのように私には見えた。

 一人の女の子が近寄ってきて、私の頬にキスをしてくれた。もうすぐ12歳になるジュニアンだった。彼女のその振るまいが何処か大人っぽく感じた。
 保護されるまでテント暮らしをしていた彼女は、その4ヶ月の間で何度もセクシャルアビュースにあった。それは彼女一人ではない。おそらくジュニアンのような見えない被害者が大勢いるだろう。そしてそんな彼女たちの多くは未だにテント暮らしをしている。公園や空き地、ストリート、競技場や校庭、いたるところに数えきれないほどのテントが密集している。犯罪は頻繁に起こるが、警察も滅多に入いらない。国連の治安維持部隊も周りをパトロールするだけが現状だ。
 クリスたちは養子にもいけないそんな子たちが、安心して暮らしていける家を今作っている。数週間後にできるその家にはもうすでに5、6人の受け入れが決まっている。彼らの活動によって少なくても何人かの女の子は安心した生活が送れるようになる。

 どのような境遇にいても明るく強く生きている子供達がいる、まもなく死を迎える子の数日後の未来を強く待ち望む姿がここにはある ハイチの未来を変えられるのは間違いなく彼らなのだ。私たち大人は彼らの手助けになっているだろうか? 少なくてもその妨げにはならないように。彼らを見ているとそんな思いになる。

協力 Haitian Interdenominational Shelter Home(H.I.S.Home For Children)
email:hishomeforchildren@hotmail.com
http://www.hishomeforchildren.com

NGOグループの活動支援のあり方(ハイチレポート第二部)

 震災以前からここハイチでは多くのNGOグループが活動し、震災後は更に多くの国際的な援助をうけ、確実な支援活動が続けられている。その一方、支援にたいする依存が行政だけでなく地域住民にも蔓延し始めている。

「物を与えるだけの援助は本当の意味での援助にはならない、この国に必要なのは、長期的な支援と彼ら自身が運営できるシステム作りだ」と韓国のNGOグループ、グッドネイバースのスタッフのアシェリーは語る。彼女自身も半年以上の滞在予定で、なかにはこの先5年間、ハイチで活動を続ける予定のスタッフもいる。彼らの存在は最も震源地に近かったここレオガンではとても頼もしく思える。

 現在彼らはハリケーンシーズンに備え、家を失った人の為に300棟の仮設住宅の建設に取りかかっている。シングルマザーや孤児、障害者が優先に入れる。3年以上の耐久性を持たせるためその家は、阪神大震災で使われていたものなどを参考にデザインが繰り返された。
 ハリケーンがくる9月前までに終わらせるため、作業は急ピッチで行われる。デザイナーはもちろん、資材や職人、大工まで韓国からくるというから驚きだ。

「いろいろなことが以前に比べだいぶましになってきました。震災直後、目立つところだけに支援をして、それっきりという団体もある。これからもそんな大手NGOグループの支援が届かないところに我々の手を差し伸べていきたい」とNICCOの第二期のプロジェクトマネージャーを勤めた中川さんと語る。

 NICCOの活動は始めに食料支援が行われ、そしてまもなく第二期の物資の搬入とトイレの設置も終わろうとしていた。
 調達されている物資のほとんどは隣国ドミカ共和国からで、国境を通過するだけで何時間も待たされる。そうして運ばれたビニールシートや木材などがテントやトイレの趙設に使われている。
 かれらの作るエコサイクルトイレは、尿と便を分けて処理することにより、衛生面、環境面にも考慮されている。アフリカのマラウイで、その活動をしている秋本さんの指導のもと、現地のひとたちが自ら作り、そしてその働きに対してお金が支払われる。
 これはここハイチでは地元出身のミュージシャンのWyclef Jeanが率いるYele Haitiなどが精力的に行っているMONEY FOR WORK=働きに対して支払われるお金、援助と同時に雇用を生み出す今までとは違う支援のやり方で、今世界中の貧困国や彼災地で用られつつある。

 そんなNGOグループの大小さまざまな活動のもと、この国ほ復興への道をゆっくりと進み始めている。しかし、その一方でハイチの人々はそれにちゃんと答えているのだろうか?

 配給時には、やっと争わないで、列をつくり並ぺるようになったものの、協力して作ったものも気がつけば制作者の親戚の名前ばかり書かれていた配給リストや、また配給時にだけ何処からかテントに人が現れるいわゆるゴーストテントと呼ばれるものも未だ多く存在している。

 レオガンからの帰り道、ある男性と知りあい、崩壊した彼の家を見せてもらった。早く自分の家に戻りたいと語る彼にこんな質問を投げかけてみた。「さっき見たあなたの家は4ヶ月以上経った今も崩れたままの状態でした……あなたはそこの瓦礫をひとつでも運びましたか?」。彼は少し不機嫌に「No」と声を裏返し、そして逆にこう聞き返してきた。「それをしたら誰が私にお金をくれるのですか?……」。

 NGOの人たちが自分のことだけを考え、お金の為にこんな遠い国で活動しているとは私には到底思えない。その彼らをハイチの人はどう見ているのだろうか?
 貧困や震災のなかで暮らすここハイチの人たちは相当なタフさと強さを持っている、ただ何かが欠けているのもまた事実だ。

協力 NICCO(社)日本国際民間協力会 http://www.kyoto-nicco.orgGOOD NEIGHBORS USA http://www.goodneighbors.org/(English)

学校と教会 教育と宗教(ハイチレポート第三部)

 生徒達は眩しいくらいの白いシャツを着て折り目がきれいに入った深緑のパンツを履いている。そういえば、ストリートやテントの周りでは必ずと言っていいほど洗濯をしている人や身体を洗っているひとがいる。ここハイチの人は意外なほど清潔好きだった。

 ポルトープランスの中心にあるセカンダリースクール、その校庭に建てられた仮設の教室で生徒たちは授業を受けていた。私を見ると騒がしくなり集まってきては質問をあびせ、授業どころではなくなってしまった。
 明るく好奇心に溢れるその姿を見ていると彼らにとって学校の存在は大きく、大人が考えているよりはるかに希望の見いだせる場所なのだとわかる。
 この学校はおそらくかなりまともな方なのであろう。校庭や校舎に人が住み着いてしまって、仮設の教室も建てられず、再開もできない学校も未だに多くある。そして学校にいけないでたむろしている子供たちをストリートでは目にする。細い路地裏を抜ければノートをひろげて勉強している若者の姿もある。どちらの子供達にも一日も早く学校が必要なことにはかわらない。

 日曜日の朝、ストリートはいつもの騒がしさが消え、嘘のように静まり返っていた。この国の信仰心の強さのひとつの表れだ。ハイチでは95%のキリスト教信仰のうち80%はカソリックと言われている。一番大きなカテドラルと地元の教会に行った。
 崩れかかっているカテドラルの中庭では朝のミサが終わり結婚式が行われていた。ここにくる人の多くはミサの後、聖書の勉強会に参加する。老人から子供までいくつかのグループに分かれて、聖書を片手に熱心に耳を傾ける。学校の勉強では習わない道徳的なものをハイチの人たちは宗教から学んでいる。

 教会には皆綺麗な服装でいく、おそらくこのなかで私が一番だらしない格好をしていると思われる。門をくぐったすぐ脇に物乞いをする老婆がふたり地べたに横たわっている。すぐ正面の大きなテントの下で大勢の人がお祈りをし、彼らの前で司教たちは聖書を読む。やがて始まった賛美歌の歌声に物乞いの老婆の声はあっさりとかき消される。
 ここにいる大勢の人たちは何を祈っているのだろうか? そんな疑問を持った。世界中から見ても信仰心がかなり少ない日本人の自分には逆にニュートラルに近い状態で宗教に接することができる。
 建物のなかに一歩はいれば、壁や天井は崩れ、ステンドガラスは割れ、懺悔室は潰れたまま、震災後ほぼ手つかずのままだとすぐにわかった。私のなかにはますます疑問がわいてきた。毎週多くのひとが祈りにここにくるが、どんだけ祈ってもこの崩れかけた建物は勝手にはもとには戻らない。彼らは何を祈っているのだろうか?

 おそらく日本は世界中でみても便利で豊かだ、そんな社会のなかで暮らしていればもしかしたらそれほど宗教は必要ではないのかもしれない。かえせば苦しんでいるひとたちの為に宗教はあるのだろう。
 しかしその宗教がほんとうの意味で彼らを救っているのだろうか? 助け合う、分け合うといった精神は今や弱き自分、貧しい自分たちが助けてもらえる、分けてもらって当然という気持ちに為り変わってしまい、祈ることに慣れてしまっている彼らは自分の力で乗り越えられる苦しみや悲しみがあるのも忘れてしまっている。そんな教えは彼らにとって逆に足かせになっているとさえ思えてくる。
 もちろん宗教が大勢の人の精神的な支えになっているのも確かだ、またキリスト系のたくさんの団体がここハイチでもすばらしい活動をしている。ただハイチの人個人個人の意識はどうなのであろう?

 私の通訳をしてくれたダーリンという女性がいる。彼女もまた震災でご主人を亡くしてしまったシングルマザーの一人だ。大学で学んだ会計学も経済活動がほとんどないこの国では役に立たず、タクシードライバーをしている。毎週教会にもいく。そんな教育も信仰もある彼女ですら平気で車からゴミを捨てる、気がつけば私のペンや携帯は彼女のバックのなかにある。確かに一つ一つはとるに足らないことにも思える、しかしその背景に常に私はある違和感を感じていた。
 二度日に車の窓からゴミを捨てた時に私たちは大げんかをした。一回目の時にもう二度としないと約束させていたからだ。疲女は忘れていただけだといったが、いっこうに拾いにはいかない。私は車を降りて拾いにいった。頭にきたので、ドアをおもいっきりバーンと閉めた。
 心のどこかでは悪いと思っていながらも彼女はけして謝らない。「大したことではないのになぜそんなに大きな声を出すのか」と私を非難した。ゴミを捨てたことより、それを拾いに行かない、大したことと思っていないことに腹がたった。
「だから、この国の道にはゴミがあふれている。ハエがたかり、虫が湧く、そのなかで人は暮らし、子供は病気になる。誰も辞めなくても、まずは自分が辞める、それはきっと5ヶ月になる娘のクララのためにもなる。どうして気がつかない。母親なら子供の環境も考えろ」。車をその場に止めてしばらく話をした。

 これは彼女だけの話ではない、この国全体に蔓延している意識の問題だ。つまり今のままの学校教育や、教会で説かれている聖書の物語ではこの国の人の意識はけして変わらない。感じていた違和感が実感になった。
 タクシードライバーで働いている今もダーリンは窓からゴミを捨てているかもしれない。ひょっとしたら何度かに一度ぐらいは思い出してくれるているだろうか。
 そんなことを考えていたら電話が鳴った。受話器の向こうからハイチの騒音に混じってダーリンの声が聞こえてきた。

協力 Sacre Coero Church, Sainte Trinite Episcopalian Cathedral, Rycee Pecron School

高まる不満と未来への希望(ハイチレポート第四部)

「オバマ大統領にやってほしい」この国の今後について聞いたらこう答えた人がいた。同じカリブ海の島国プエルトリコのように、コモンウェルスつまリアメリカの保護領になることをみんな望んでいるという。彼の言葉は全てにおいて自分以外の何かに依存し続ける今のハイチの象徴に思えた。そしてこれが本音で、本当はそうなることが望ましいのかもしれない。

「AN NOU REKONSTWI… Pl BYEN PI BEL…」クレオール語で「This is your country. Let’s make it better」と書かれた青や黄色のT-shirtを着てストリートを掃除している入たちがいる、復興活動に参加している若者たちだ。この国で見た唯一の希望の色だ。

 その反対側の歩道を埋め尽くすように物売りの人たちが並んでいる。衣類、靴、帽子などのアメリカからの支援物資、崩腹したショッピング街からの流れ物も多くある。
 何故、平等に行き渡らなければならないはずの支援物資が道ばたで売られているのか? この国の腐った政治がそこには見え隠れする。外国からの支援金や物資が市民に届く前のどこかで消えてしまうようなことは、ハイチに限らず支援に頼っている国ではよく耳にする話だ。
 パルティモアから来ている新聞配者はホテルのバーでしきりにハイチ政府を非難していた、「Who took the money?」と繰り返す。もちろんその答えは大統領を含む多くの政治家であり、なんらかの権力者たちであるのはわかるが、無貴任に非難をし煽るだけの彼のようなメディアの言葉に私は素直には頷けなかった。

 夕方になると水汲み場には大勢のひとが集まりはじめる。私は毎日1時間ほどぼーとその光景を見ていた。
口のうまいやつは瓢々と割り込みをする、綺麗な女は色目を使い、えばった男は力ずくでホースを横取りする、そしてそれをただす人もいなく、子供らははじき出されるたびにしぼらくまわりで遊んでいる。
 列も作らなければ並びもしない、こんな小さなところでもいろいろな権力が乱用される。これを見てると彼らの代表である政治家が私利私欲だけを考えるのは簡単に想像がつく。
 日が落ちればあっという間にあたりは暗くなる、私とふざけて遊んでいたこの子供たちはいつになったら水が汲めるのだろうか?

 以前は貧困層からの支持もうけていた現大統領ルネ・ガルシア・プレヴァル氏にも実際は多くの国民は不満を募らせ、その任期が切れる2月まで待てず、今すぐの退任を望んでいる。この日も市の中心で、警察や各国の軍隊が衝突しながら大規模な反政府運動のデモが行われた。
「政府は警察や軍隊にお金を払って、我々には何もしない」参加した一人が叫ぶ。しかし、そんな彼らの誰に聞いても次の大統領にふさわしい人の名前はあがらない。今のところおそらく誰がやっても大差はないのだろう。
 大体どの国の政治も多かれ少なかれ似たようなものだ。確かに不正を非難し不平等を叫ばなければ国民の声はどこにも届かない。ただそれだけではこの国は負のスパイラルからは抜け出せない。小さくてもなんらかの行動が必要なのだ。地域内での助け合い、町ぐるみの協力体制、外国グループとの連携、政府を通さないでもやれることはいくらでもある。まずは一人一人が動き出すことだ。叫ぶだけでは変わらない。「AN NOU REKONSTWI… PI BYEN PI BEL…」にはそんなメッセージが込められているのではないか。
 Wyclef Jeanの名を大統領候補にあげたい国民も少なくはないはずだ。ハイチ国民に絶大な人気を誇る地元出身のミュージシャン、そんな彼が大統領になる日がくるのだろうか。
 Ye le Haitiを率いる彼はハイチの未来に必要な様々な活動をしている。国民の支持も申し分ない。確かに一国を変えられるのは彼のようなカリスマ性を持った人物の出現が必要なのかもしれない。しかし今のこの国では彼は政治家としてはやってはいけないだろう。もちろん彼自身そんなことはわかっているはずだ。
「もし私が大統領だったら、金曜日に当選して、土曜日に暗殺されて、日曜日には埋葬される……」そんな歌が彼のアルバムにあったのを思い出した。

 Wyclefの存在はハイチ国民にとって希望の光になっているのだろうか? 多くの人たちにとってはまだそれはただの恵みの光にしかすぎないように思える。今、この国でどれだけの人が彼と同じように夢を持てるのだろうか、未来への可能性を信じれるのだろうか。
 彼らにあきらかに欠けているものは夢をみる心だ、そしてこの国にはそれを支える環境もまた欠けている。
これからはその為の教育と環境、そして支援が必要なのだと思われる。

 未来を生きる子供たちのためにそうした礎を作るのは今であり、そしてそれは我々大人の役目である。そんな小さな希望のひとかけらを彼らに届けることを私も始めよう。大好きなミュージシャンが大統領になって活躍する、彼らが大人になる10年20年後にはもしかしたらそんなハイチが存在するかもしれない。

協力 Yele Haiti
http://www.yele-haiti.org/

第20回「週刊金曜日ルポルタージュ大賞」佳作入選作

修復的正義は機能しないのか
~高知県警白バイ事件の真相究明を求める~ 

 山下由佳

 平成一八年三月三日、高知県春野町で、スクールバスと県警交通機動隊の白バイが衝突して隊員が死亡した交通事故をめぐり、業務上過失致死罪で禁固一年四カ月の実刑判決を受けた片岡晴彦さんの冤罪の訴えが繰り広げられている。この事故処理と裁判の経緯については、ブログや雑誌やテレビ報道によって、全国で「合理的な疑い」が湧き起こり、ありのままの事件の真相究明が要請されている。
 筆者も、県内の人権活動仲間から救援依頼の手紙を受け取って後、さらに、事件を雑誌『冤罪File』で知って以来、支援者達と同様の疑問を抱き、現在、学術調査研究中。筆者の最大の疑問は、対向車線遠方から事故の一部始終を目撃したとして、裁判で証言台に立った同僚隊員の証言の信憑性である。というのも、高知県の交通機動隊の損害賠償事案の人身事故は年間一件程度であり、ましてや死亡という特殊なケースである。確率論から考えても、あまりにもできすぎた偶然だと思うからだ。同僚の市川幸男隊員の「私は白バイが時速六〇km、バスが時速一〇kmで動いて衝突するのを目撃した」との供述が、片岡晴彦さんの有罪を確定させた。
 片岡晴彦さんは昨年、高知県警を「証拠隠滅罪」で告訴。その不起訴処分に対して、検察審査会は、平成二一年一月二八日、捜査不十分と「不起訴不当」決定。その後、検察庁の再不起訴処分を経て、現在、被告高知県知事や県警本部長以下の関係者に対する一〇〇〇万円の「国家賠償請求事件」が係争中。また、事故処理から裁判経緯に納得がいかない片岡晴彦さんは再審請求を準備中である。

不可解なスリップ痕と
二台目の白バイ

 事故は、国道五六号沿いのレストランの駐車場から出発して、中央分離帯付近にいたスクールバス全長約九mの右側前方角のバンパーに、右側の国道から来た白バイが衝突したもの。隊員は胸を強く打ち、約一時間後に死亡。片岡さん側は「左右の安全を十分に確認して、駐車場から国道に出て、中央分離帯付近道路中央で右折確認のため、車線を通る車をやり過ごしていた停車中に、白バイが高速で衝突してきたのだから過失はない」と主張。一方、検察側は「バス前輪が路面に残したスリップ痕や、衝突後に白バイを数メートル引き摺ったような擦過痕から、バスは安全確認を怠り国道の中央分離帯付近に向けて一〇km程で進行中だった」として、右方安全確認義務違反で懲役一年八カ月を求刑。公判では、バスが衝突時に動いていたのか、止まっていたのかが最大の争点となっていた。
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第20回「週刊金曜日ルポルタージュ大賞」審査員特別賞入選作

マハラバの息吹―もうひとつの1960年代―

 藤井孝良

 コンクリートの岸辺に打ち上げられた魚。
 舞台の上の「彼ら」の肉体は演技としての動きを超えた生々しさがあった。どんな名役者であったとしても「彼ら」を超えることはおろか、その演技を真似することすらもおそらくできないだろう。なぜならば、「彼ら」は今こうして「」を付される存在だからだ。
 『平成18年身体障害児・者実態調査結果』等によれば、日本における障害者の延べ人数は、724万人。これは現在の埼玉県の人口を上回る。しかし舞台上の「彼ら」はこの724万人の中で、いや埼玉県民の誰よりも強烈な存在を私たちに印象づける。
 連休最後の日曜日、私はJR土浦駅前にある茨城県南生涯学習センターの大ホールにいた。脳性マヒ、ポリオなどの重度障害者9名によって構成される演劇集団、「劇団態変」の公演がある。「マハラバ伝説」と題されたその劇の存在を知ったのは2009年4月24日の『茨城新聞』朝刊の「伝説の”障害者解放区”描く」という見出しの小さな囲み記事だった。

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第19回「週刊金曜日ルポルタージュ大賞」佳作入選作

北朝鮮の日本人妻に、自由往来を!

 西村秀樹

ドロボー暮らし

「北朝鮮でどうやって暮らしてきたんですか」とわたしが訊くと、
「泥棒ですよ、ドロボー」
 目の前にいる、少しやせ気味で高齢の女性の返事は、わざと冗談めかした口調で、それまでよりちょっと大きな声で、そう応えた。自嘲的というのか偽悪的というのか照れた表情だが、目は笑っていなかった。
 こうして北朝鮮から命からがら逃げてきた日本人女性へのインタビューが始まった。
「そうでもしないと、六人の子どもを抱えて生きていけない。だから…………」
と言い訳した。いたずらを先生に見つけられた小学生のような、はにかんだ表情を見せた。と同時に、母は勁(つよ)しと、わたしは心に刻んだ。
 女性は松川淑子という。まだ家族が北朝鮮に残っているから、世間に発表するなら仮名にしてくれとやさしくお願いされたので、本名を替えてある。目尻にくっきりと刻まれた皺、ささくれだった指先がままなく七〇歳代半ばを迎える年齢と、それ以上に、かの地の苛烈な暮らしぶりを想像させた。
 二年前(二〇〇六年六月)、二女マミ(仮名)といっしょに北朝鮮の鴨緑江を渡り、中国国内で活躍するNGOグループの手助けを得て中国のあちらこちらを転々と移動し、九月、中国国内の日本領事館に駆け込み、いまは大阪府八尾市内で娘と二人、静かに暮らしている。

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第19回「週刊金曜日ルポルタージュ大賞」佳作入選作

この壮大なる茶番

和歌山カレー事件「再調査」報告プロローグ

片岡 健

 

 和歌山カレー事件の発生は今から一〇年前、一九九八年七月二五日のことだ。和歌山市郊外の園部という町で催された夏祭りで、ヒ素が混入されたカレーを食べた六七人がヒ素中毒に罹患し、うち四人が死亡した。この事件の被告人・林眞須美(四七歳)は、一、二審で状況証拠のみ、動機も未解明のままに有罪・死刑判決を言い渡されたが、今も無実を訴えて上告中である。
 本稿は、公判記録などを元にこの事件を再検証した結果の一端を報告するものだ。最初に表明しておくが、私はこの事件を冤罪だと思っている。この事件が冤罪と聞き、ピンとこない人も多いだろうが、公判でも林眞須美が犯人とは断じがたい事実が数多く明らかになっている。それが、報じられてこなかっただけである。
 ただ、規定の紙幅で同女の無実を論証し尽くすのは、私の筆力では難しい。そこで本稿の目標にしたのは、事件発生当時に洪水のように報じられた同女の保険金殺人・殺人未遂疑惑――夫や知人にヒ素や睡眠薬を飲ませ、保険金を詐取していたらしい――に関する誤解を少しでも解くことだ。あの「別件」の疑惑が、同女がカレー事件の犯人だという世間の予断の大本と思えるからである。
 結論から言うと、この事件の初期報道は大半がデタラメで、林眞須美は保険金詐欺はやっていたが、保険金目的で人の命を狙った事実は一切ない。本稿によって、少しでも多くの方がそのことを理解し、同女がカレー事件の犯人だという思い込みを捨ててくれることを私は期待している。
 ではまず、林眞須美の保険金殺人・殺人未遂疑惑がどんなものだったか確認しておこう。これは「別件」の疑惑ではあるが、裁判でも、カレー事件の状況証拠として有罪の立証・認定に使われている。
 公判で検察は、同女が夫や知人ら計六人に対し、保険金目的でヒ素や睡眠薬を使用した事実がカレー事件以前に計二三件あると主張。うち六件が一、二審で同女の犯行、もしくは関与があったと認定され、「被告人は、人の命を奪うことに対する罪障感、抵抗感が鈍磨していた」(二審)などとして、カレー事件の有罪判決の根拠にされているわけだ。
 しかし公判では、検察が主張した林眞須美の保険金殺人・殺人未遂疑惑二三件は、根本から大嘘だとしか思えない事実が次々と明らかになった。以下、被害者とされた六人について、一人ずつ論証する。

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第19回「週刊金曜日ルポルタージュ大賞」優秀賞

この命、今果てるとも

――ハンセン病「最後の闘い」に挑んだ90歳――                             

入江秀子

 全国に13箇所ある国立ハンセン病療養所の施設を地域に開放し、同時に、高齢化する一方の入所者たちの終生在園と快適な生活を保障するための「ハンセン病問題基本法」(ハンセン病問題の解決の促進に関する法律)が、08年6月11日、成立した。超党派の国会議員による議員立法として、提出されていた議案であった。
 ハンセン病問題は、01年のあの歴史的な熊本判決により、すでに解決しているのではないかと思われているようだが、黒川温泉(熊本県・南小国町)の宿泊拒否事件に象徴されるように、ハンセン病回復者に対する根深い差別は依然として続いており、全国に約2800人(本稿執筆時)いる療養所入所者のなかには、いまなお、帰郷も両親の墓参も果たせない人が多数いるのである。また直近のニュースでは、北京五輪の組織委員会が発行した外国人向け「手引」の中に「ハンセン病患者は入国できない」という一項のあることが伝えられている。
 熊本判決から7年経った今、この訴訟を闘った人たちが、さらにまた、かつて「強制収容所」だった療養所を、地域に開かれた、福祉、医療、文化の拠点にしたいという理想に燃え、新たな闘いに立ち上がった。そして法案成立時には実に93万人を超える署名を集めたのである。その運動の核となったハンセン病回復者の人たちは、平均年齢79・5歳。いわば命を賭けた最後の闘いでもあった。

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第19回「週刊金曜日ルポルタージュ大賞」優秀賞

『推 定 有 罪 すべてはここから始まった~ある痴漢えん罪事件の記録と記憶』

前川優

「無罪の推定」は刑事裁判の原則か?

 ボクたち家族は今、ほとんどどん底の生活を味わっている。二〇〇七年十一月二十九日に横浜市教育委員会から「免職にする」という辞令を受け、ボクの収入が途絶えることですっかり生活が変わってしまった。しかし、これはあくまでも経済的にであって、精神的にはこれまでに経験したことがないくらいの「家族らしい」家族生活を実感している、と言ったら悔し紛れに聞こえるだろうか。 この投稿の続きを読む »