「認知症」病棟で働く
前澤ゆう子
おむつに始まる
「認知症」病棟の朝は早く、まだ暗い。常夜灯だけが点いている。
午前一時頃になると、フミコ女史(*1)はすでに起きていて、看護室前のデイルームのテーブルで書き物をしている。
「まだ早いので、もう少し寝んで下さい」
というと、
「いいじゃないの」
と意に介さず、背を丸め、ノートに顔をくっつけて夢中で書いている。デイルームは消灯しているので、看護室からもれる明かりをたよりにしているようだ。
「何を書いているの?」
と問うも、こちらのことなど眼中にない様子で応えず、黙々と集中している。分厚いノートをそっと覗いてみると、米粒ぐらいの小さな文字がぎっしり並んでいる。内容は判読できない。本人だけが解っている(?)ようだ。
こうして四十五歳から約二十年の入院期間中、ずっと書き物を続けてきたらしい。彼女の、九十度に曲がった腰と眼瞼下垂の腫れた眼が、その永い歴史を物語っている。
しかしながら、六十五歳でこれほど腰の曲がった人を、世間ではあまり見ない。さらに、両足はソーセージのように浮腫んでおり、その歩く姿は、自分の体重ほどの人を背負っていて今にも転びそうな、覚つかない足取りになる。またどれほどの「作家」といえども、彼女のような眼瞼下垂の人を、私は知らない。瞼が四分の三ほども重く垂れ下がっていて、一見すると眼を開けているかどうかはすぐには分からない。それらの姿態が入院当初からでは決してないことは、二十年前の彼女の写真を見ても明らかである。フミコ女史はそのうちウトウトと居眠りを始めた。
ヨシコさんもデイルームの椅子に腰掛け、背を丸めて眠っている。一時間ほど前に、椅子から滑り落ちそうだったので自床に誘導し、布団をかけて寝んでもらってのだが::。
なぜか自分のベッドでは落ち着かないようだ。ふたたび
「布団の上で寝もうね」
と促し、二人三脚をするように一緒にふらふらしながら自床に誘導。
「ここがヨシコさんのベッドだから心配しなくて良いよ」
といいながら背中をさすると、やっと安心したようだ。一人で寝るのが怖いのかもしれない。彼女の定位置はいつも看護室の中が良く見える場所である。自己主張が少なく大人しいので、いじめられ易いタイプのようだ。
彼女は、寝るときも、食事のときも、トイレに行くときも、いつも大事そうに、それが唯一の財産のように、腕に布製のバックを下げている。中身はハンカチとティッシュペーパーだけだ。
イサムさんも起きてきて、デイルームの時計を見ている。
「まだ早いので寝みましょう」
と声をかけると、
「なに~い」
とヤクザのように大声をあげて叫ぶ。人差し指で「しーっ」と静かに、の合図をすると、少し間をおいて考え了解したようで、頷いて大人しくベッドに戻っていった。
三時の仮眠に入る前に最後の巡視をする。巡視は原則一時間おきなので、消灯の九時から数えて六回目となる。懐中電灯を下に向け、忍者のように足音を立てずに早足で歩き回る。
先ほどの不安が的中、イサムさんは多量に失禁していた。スウエットの上下もシーツもびっしょりぬれている。きっと気持ちが悪くて起きてきたのだろう。急いで着替えを介助し、シーツも交換した。「ヤクザ」氏は子供のように素直に従い、布団を掛けてあげると安心した表情でふたたび眠りに就いた。
隣室のマコトさんも起きており、何か悪いことでもしたように部屋の隅で着替えている。こちらも失禁したようだ。足元が覚つかなく倒れそうなので、着替えを手伝った。彼は、太っている上に寒がりらしくポロシャツを三枚も重ね着しており、しかも濡れているので時間がかかる。気がつくと床も濡れている。トイレに間に合わなかったらしい。更衣のあと急いで拭き掃除をする。床が濡れていると滑って転倒しやすいのだ。
マコトさんは先日、夜間のトイレ起床時に転倒している。幸いかすり傷程度ですんだが、最近転倒の回数が増えている。骨折でもしたら大変だ。睡眠薬はとくに夜間にふらつきが出るので要注意だ。主治医に報告して薬を調整してもらうことにした。
一般的に、尿量は、当然のことながら水分摂取量に比例している。向精神薬はとても喉が渇くという副作用があるので、多量に飲水する人が多い。服薬していない人のおよそ 一・五~二倍は飲水している印象がある。若い人は、多くて数?飲んでいる人もいるという。だから尿失禁も衣類から滴り落ちるほどになる。したがって、病棟のおむつや洗濯物も一晩で山のようにでる。
「おはようございます」
夜勤の相棒の金沢氏が起きてきて、交代して休むように言ってくれた。今晩は男性スタッフ(*2)なので、ある意味たよりになる。肉体労働系はやはり男性だ。彼は看護師の資格はないが、この病院では勤続七年のベテラン看護助手(以下「ヘルパー」とする)である。汚い仕事もいやな顔をせず、冗談をいいながら笑顔で働いている。患者にも優しく、よく気がつく。超3Kの仕事であるのにそれ程の気負いもなく、適度に患者やスタッフと楽しみながら働いており、しかし、いざという時にはたよりになる存在だ。
この病棟の夜勤は、患者四十五人に対して(准)看護師(以下「ナース」とする)二人、またはナースとヘルパーのペアで、夕方四時半から翌朝九時半までの約十七時間勤務である。仮眠時間は二~三時間あるものの、非常事態があれば一睡もできないことがある。資格者(ナース)一人の場合、医療的責任は当然重くなる。緊急時は他の病棟(*3)から応援を頼むことも可能ではあるが、一人で四十五人の患者の責任を負うことは不可能という他なく、ある程度の開き直りとド根性と楽観性が必要になってくる。
午前三時すぎ、仮眠室に入りやっと横になれた。ひどく疲れた。脱力感があり軽い眩暈を覚える。頭も身体も鉛が入っているように重くて痛い。神経だけが張りつめている。目覚まし時計を五時半に合わせて、何も考えずに眠りに就く。
ウトウトしているうちに目覚まし時計の音で眼が覚めた。すぐに飛び起きる。緊急時に備えてスラックス式の白衣のまま横になるので、身支度は五分でできる。軽く体操し、仕事への態勢を整え気合いを入れる。急いで朝食のパンとコーヒーを摂る。食欲も味わって食べる余裕もない。とにかくエネルギー源を摂らなくては、という思いでモソモソと食べる。
看護室にもどり、相棒の金沢氏から仮眠中の報告を受ける。失禁以外は何事もなかったようだ。六時からいよいよ本番のおむつ交換に入る。一日の仕事のスタートだ。
病棟は、東側の女性部屋とデイルームをはさんで西側の男性部屋がコの字に分かれているので、スタッフ二人が両側から二手に分かれて仕事を始める。
私は東側の女性部屋から入る。まだ眠っている人もいるけれど、
「お早うございます。おむつ交換始めますよ」
といいながら窓のカーテンを開ける。朝日が射してきて、寝不足の眼にはくらくらするほど眩しい。それに気付かずに眠っている人、眼を覚ましても虚ろな表情をしている人がいる。さっと起きてトイレに行く人、洗面する人、デイルームに行って食事を待つ人、おしゃべりしている人などおり、少しずつ病棟の活気が出てきた。
おむつ交換は効率上、手のかからない人から始める。汚れたおむつを入れる大きな袋がセットされたワゴンを押しながら、病棟内を走る。尿もれがなく、腰を浮かして協力できる人は一、二分で終わる。これは患者の筋力低下の予防にもなるので、スタッフはなるべく
「はい、腰を浮かして」
と声かけしている。腰を上げられない人には、介助で左右に体位交換しながらおむつを当てる。同時に発赤やおむつかぶれなども確認し、清拭後軟膏を塗布する。
こちらも腰痛などの予防のため、無理な体勢はとらないよう注意している。できるだけ患者の身体に向き合って接近し、ベッドに膝を立てるのがコツだ。ベッド柵につかまってもらうなど、ちょっとした患者の協力も必要だ。皆さん慣れていて、こちらの要請に応えてくれ、とても協力的である。
排便をしている人は清拭後お湯で洗浄する。お湯は台所用洗剤などの空き容器に入れて持ち歩く。終わったら窓を開けて換気する。
テイコさんは、就寝時に大小3枚のおむつを重ねて当て、途中二時ごろに
「看護婦さ~ん」
と呼ばれたので再度交換したのだが、パジャマもシーツも尿汚染している。彼女も日中の飲水量が多く、股関節の変形のため横向きに寝るので、尿もれしやすい。おむつと衣類を交換し、車椅子に移動介助し、洗面所まで誘導した後、シーツを交換する。彼女は自ら洗面を始めた。昨夜叫んでいた(よく悪夢を見るらしい)のが嘘のように朝は静かだ。疲れたのだろうか。
テイコさんのようにパジャマやシーツまで汚染する人は、一晩で数人ぐらいいる。おむつの当て方など、スタッフはそれぞれ創意工夫しているものの、これがなかなか難しい。結論的には、消灯から朝までの間に何度か様子を見てこまめにおむつを交換することが患者、スタッフ双方にとって一番良い、というのが私の考えだ。そうしなければ、患者は不快感が持続しおむつかぶれを起こす誘因にもなるし、スタッフは朝の更衣とシーツ交換に多くの時間が奪われてしまう。
いずれにせよ、二十五人のおむつ使用者というのは、とくに夜勤二人体制においては限界ラインを超えている。二人のスタッフで少なくとも、消灯前と夜間、朝方と、患者一人当たり平均三回×二十五人=七十五回はおむつ交換をしていることになる。それに失禁者の更衣やシーツ交換の仕事も加わる。ほとんどの夜勤者は、腰痛、肩や膝の痛み、頭痛、眩暈、不眠、うつ状態などの症状を抱え、薬を常用していたり、整体や鍼灸、マッサージなどに定期的に通っている人も多い。半ば病人が患者の看護や世話をしている、というキケンな状況にある。
マサコさんは排尿困難のためカテーテルを挿入しているので、蓄尿パックに溜まった尿量を測定し破棄する。長期間カテーテルを挿入していると細菌感染などの合併症に罹りやすくなるため、尿に混濁や浮遊物がないかどうかも確認する。
彼女の足は、ゾウのように浮腫んでしまい、ここ一~二年間で徐々に歩行困難になり、車椅子生活になってしまった。二年前、この病棟にきて初めて彼女の足を見たとき、その尋常ではない浮腫みに驚いた。内科受診の結果利尿剤が処方されているものの、浮腫みはあまり改善していない。したがって、看護の側ではマッサージや足の挙上などで工夫するしかない。本人からは足の痛みやだるさなどの訴えはない。訴えてもしょうがない、と思っているのか、向精神薬で感覚が麻痺されているのかもしれない。
マサコさんはいつも、
「お早うございます。ご苦労様です」、
「看護婦さん大変ね。いつも良く働くわね」、
「お願い看護婦さん、ちょっと手伝って」
などと、人懐っこい笑顔で話しかけてくれる。彼女も十年以上の長期入院者であり、スタッフの「扱い方」にこなれた老練な患者という印象を受ける。
軽くなった蓄尿パックを車椅子に装着し、そこへの移動を介助する。あとは自ら車椅子を動かすことができる。彼女も洗面し、ていねいにお肌の手入れをしている。
二年前、新病棟に移行し男女混合病棟になってから、とくに女性はオシャレになった、とナースの間では話題になっている。
汚れたおむつが床に落としてある。また、トイレを勘違いしたのか、廊下に排尿した形跡がある。キミコさんのベッド付近からは便臭がする。便が二、三個「落ちて」いた。患者がその上をあるいての転倒や汚染の拡大を防ぐため、急いで掃除する。
気がつくと、キミコさんの着衣やシーツにも便が付着している。一緒に洗面所に行って彼女の手を洗い、更衣を促し、シーツを交換する。彼女は
「誰がやったのかしら」
と他人事のように言い、周囲を見回している。彼女はいつもニコニコしているので、こちらも苦笑するしかない。注意すると逆切れされることがあり、よけいに始末に負えなくなるのだ。八十歳にしては、普段はおむつを使用せず一応トイレに行けているので、元気な方だと評価すべきだろう。が、朝の忙しいときの便汚染は、やはり泣きたくなってしまう。自由に動ける人の便汚染は、実際どこまで拡大しているのか分からないのだ。
そうして、相棒の金沢氏と、二十五名のおむつ交換、六個のポータブルトイレの洗浄、十四名の車椅子への移乗、掃除、消毒、洗濯物の整理などに約一時間半かかった。ハアハア息切れして汗が滴り落ちてきた。重い身体にも爽快感をおぼえ、ようやくエンジンがかかってきたようだ。
看護室にもどり手洗いの後、排泄チェック表に記入し、便秘者の確認をする。日勤ナースが下剤の調整や浣腸、摘便(*4)などをしやすいよう申し送るためだ。
この病棟のおむつ使用者は、四十五名のうち半数以上(常時使用者が十六名、夜間のみ使用者が九名)、車椅子使用者が十七名いる。また歩行困難などの理由により、自室でのポータブルトイレの使用者は六名、トイレへの誘導が必要な人は三名となっている。
したがって、ここでは排泄関連の仕事が大きな比重を占めている。C病棟の仕事といったら、病院のスタッフはだれしも「おむつ」を連想する。しかし、ナースもヘルパーも多くは仕事熱心であり、「汚い仕事だからやりたくない」という人はあまりいない。人間はどんな環境にも慣れるという。私も一週間で慣れた。というより、尿も便も患者の状態を把握するための単なる物質、という認識になりつつある。
エプロンと使い捨て手袋を使用し、手洗い、消毒をきちんとすれば、清潔面では特に問題はない。3K(キツイ、キタナイ、キケン)のうち最大の問題は、「キツイ」ということだが::。
注
*1 個人名は、患者、医療スタッフを問わず、全て仮名とする。
*2 この病院で働くナース、ヘルパー、作業療法士などを「スタッフ」と表現する。
C病棟のスタッフ数は、ナース十一名(正看護師三名、准看護師八名)、ヘルパー十
名、作業療法士2名、病棟医一名(兼任)、ケースワーカー一名(兼任)となっている四十五名の患者数に対しては、監査上ぎりぎりの人数といわれている。
*3 この病院は、B(内科)病棟、C(認知症)病棟、D(急性期)病棟、E(慢性期)病棟、F(開放)病棟と五つの病棟があり、いずれも男女混合病棟となっている。
*4 摘便とは、下剤や浣腸などでも排便できない頑固な便秘者に対して、指で便を掻き出す処置のことをいう(勿論ビニール手袋を使用する)。
向精神薬の副作用として、ほとんどの患者は便秘を経験しており、C病棟では、ほぼ全員、毎日下剤を服用している。とくに高齢者は、年齢とともに腸の動きや腹圧が弱くなるため、さらに頑固な便秘に悩まされている人が多い。便が詰まると腸閉塞というリスクもあり、C病棟のナースにとって、排便コントロールは重要な仕事である。
ランナーズ、ハイ
七時半ごろになると、
「きたよ~」
といつもヨシオさんが知らせてくれる。エレベーターで配膳車が病棟に上がってきた、というのだ。急いでエレベーター前に行き、栄養課の職員から配膳車を受け取る。ほとんどの患者はすでにデイルームの自席に座って待機している(おむつ交換の直後に、必要な人は自席に誘導している)。
いよいよ皆さん待望の朝食が始まる。朝食時には早出のスタッフが一人出勤するので、合わせて三人で介助する。配膳は、スタッフ一人で二人分のトレイを持って、座っている患者のテーブルまで運ぶ。他の病棟では各自取りに来てもらっているが、この病棟では、こぼしたり、落としたり、人とぶつかったり、といった不安があるので、全てスタッフが運ぶことになっている。トレイは、ごはんと味噌汁はふたつきの保温食器に入っており、それに副食を加えると一人分約一、五kgの重さになり、かなりの力仕事だ。しかも味噌汁をこぼさないよう注意しなければいけない。腕の筋力トレーニングのつもりで配膳作業を行う。
食事は、常食、キザミ食、ミキサー食、糖尿食、腎臓食、肥満食、大盛りなどに分かれているので、間違いのないよう本人と食札を確認する。急いで食べる人、他人の分まで食べようとする人がいるので、そういう人は後回しにして、まずは、問題なく自力で食べられる人から先に運ぶ。
全体に配膳した後、マンツーマンでの食事介助を始める。といっても、全て介助が必要な人は六名、半分介助や見守りが必要な人は七名ほどいるので、三人のスタッフではとうてい間に合わない。そこで、スタッフ一人当たり四名ほどの介助を同時進行させていくのだ。マンツーマンならぬマンツーフォーマンといったところか。何事も経験がものをいう。
「ゆっくりよく噛んでくださいね」、
「なるべく自分で食べようね」、
「野菜も残さず食べようね」
などと言いながら、「一対四」の同時進行をする。患者のペースと息がピッタリ合っている。(患者が合わせてくれているのかもしれない)
いちばん危険なのは、急いで口に入れて食べものを喉に詰めてしまうことだ。高齢になるとともに人間は、噛む力や飲み込む力が弱くなるので、窒息しやすくなる。とくに向精神薬は、筋力(噛む力や飲み込む力とも関連している)低下などの副作用もあるので、長年服薬している人はさらにリスクが高くなる。
サトルさんやハルオさんは時々むせながら食べている。食物が気管に入ると誤嚥性肺炎になり易い。むせがひどい人には、食物にトロミをつける「トロミアップ」という粉末を混ぜて飲み込み易くするが、それでもむせることはある。だから、スタッフは個別に介助しながらも、常に全体を観察している。とてもとても気を遣う場面だ。
軽い脳梗塞のあと車椅子生活が続き、筋力低下とともに脱力感が増強しているハルオさんの「むせ」があまりにも酷いので、主治医の細井医師に報告し、
「いちど食事の場面を見てください」
と依頼したことがある。ナースの話を重要な情報源としている彼は、早速「見学」にきて数メートル先からじっと観察し、学者のように何か考え込んでいる様子だった。ハルオさんは、よだれを流しながら食物を口に入れると、すぐにむせて吐き出してしまう。そのような動作を、時間をかけて何度も繰り返している。ナースはその都度彼の背中をタッピングする。よだれと吐き出した食物でエプロンがびっしょり汚れてしまい、それが床にまで流れ落ちている。そして他の患者が食べ終わってもなお、一人むせ込みながら食べている。結局半分ぐらい食べられたのだろうか。細井医師は自らの「治療の結果」を目の当たりにして、少し衝撃を受けているようにも見えた。その後すぐに薬が減量され、ハルオさんの「むせ」はかなり軽減している。どんなに偉い大学病院の先生でも、薬は患者の生活場面、「現場」を観て処方してもらいたい、とナースの間ではよく話題になっている。
介助が終わると食事が終わった人から下膳を始める。残飯をバケツに入れ、食器を種類ごとに分けて大きな容器に戻す。これは自力で出来る人が半数ぐらいいる。皆さん長年の習慣で慣れており、元気な人は手伝ってくれる。ついでに残った物をこっそり食べる人もいる。残飯に手を入れて食べようとした人が見つかってからは、スタッフが注意し、残飯バケツは早めに引き上げるようになった。
八時すぎになり、ほとんどの患者の食事が終わった。寝たきりで全面介助の人二名とマイペースでゆっくり食べている人が二名残っているが、あとは金沢氏たちに任せる。
次は服薬だ。歩ける人と車椅子を自力で動かせる人は一列になって並んでいる。一人ずつ確認しながら服薬介助する。間違いのないよう声を出して名前をいう。
患者たちは、食後のデザートのように、一日三~四回、一回に三~十錠もの薬(向精神薬と内科や外科の薬)を長期間にわたって服用している。この病棟においては、何年服薬を続けても退院できるという保証はない。「症状安定のため」というのが服薬の理由とされている。
服薬を拒否した場合、少しぐらい良い、という医師もいれば、注射の指示を出す医師もいる。患者が服薬を拒否する理由は、倦怠感、脱力感、眩暈、口渇、よだれ、ふらつき、便秘、思考力や記憶力の低下などの、向精神薬の副作用にあるようだ。逆に、薬に依存的になったり、睡眠薬などは長期服用により耐性ができて効かなくなり、追加の薬を要求する人もいる。
この病院において、医師は薬を処方することが主要な「治療行為」であり、患者は薬を服用することが主要な「役割」になっている。そしてナースには医師の指示を忠実に実行する「役割」がある。とはいえ実際、多少の拒薬は見て見ぬふりをする人も少なくない。何が何でも服薬しなければならない「意味」など、この病棟にいる限り見出せないからだ。逆に、筋力低下や歩行困難、転倒、嚥下(飲み込むこと)困難、排尿困難、失禁、便秘、内科疾患などの、副作用と観られる症状~平均年齢六十九歳にしては、高齢化だけとも思われない、それらの症状があまりに多くかつ深刻である~と日々格闘しているナースにとっては、「出来るだけ減らしてほしい」というのが本音である。
デイルームでの服薬介助は終わった。あとは、自室に戻ってしまった人、トイレや喫煙室に行っている人など、「行方不明者」を捜したり待ったり::。これが、なかなか時間がかかる。なにしろ、コの字になっている廊下の端から端までの距離が、百メートルほどもあるのだから。まだ数人分の薬が残っているが、九時の申し送りまで時間がないので、看護記録を先に書き始める。
日勤のスタッフが一人、また一人と出勤してきた。食事介助など、すぐに残っている仕事を手伝ってくれる。お互い夜勤の大変さは解っているので、皆こうして助け合っている。この連帯感があるからキツイ仕事を何とか頑張れている。しかしこの連帯感は、職員増などの要求には、今のところ結びついていない。「夜勤三人体制」の要求はホットな話題になっているが::。
九時になり、日勤スタッフが全員(ナース五人、ヘルパー四人、作業療法士二人)そろった。申し送りの時間だ。残っている仕事を後回しにして、申し送りを始める。
アドレナリンが過剰に放出し神経が高ぶっているので、頭痛もちの低血圧の頭でも意外によく記憶しており、メモを残しておけばスムーズに申し送ることができる。四十五名の患者についての十七時間の間の出来事を、早口で二十分ほどで申し送った。(変わりのない人は省略する)発熱や転倒など特別な事態があれば更に時間がかかることもあるが、今回は何事もなく無事に終わった。残りの記録を急いで記入する。ここまで来れば一刻も早く帰りたい心境だ。
日勤スタッフはすぐに朝のミーティングを始めている。
相棒の金沢氏はまだ洗濯物などの後始末をしている。
「お疲れ様でした、あとは日勤者に任せて帰りましょう」
と声をかける。
喉がカラカラに渇いた。休憩室に入り、スポーツドリンク500mlを一気に飲む。
「今日はウンがついていたね」(排便患者が多かった、という意味)
などと、金沢氏と夜勤の感想を言い合う。
身体は鉛のように重く脚がひどく痛い。今にも倒れそうなのに、神経だけが昂揚している。夜勤明けは、ランナーズ、ハイのような、心身の緊張が一気に脱力するような不思議な解放感がある。この「麻薬のような快感」があるから何とか続けられているような気がする。
入浴介助という仕事
その日は火曜日の日勤で、週2回の入浴日にあたり、私はその係になっていた。入浴介助は、おもに四人のヘルパー(浴室係二人、誘導及び介助係二人)が中心になって行い、ナースが一人つくことになっている。ナースは、転倒などの事故の防止とその対応、患者の観察(床ずれ、皮膚や腹部の状態、移動時の状態など)、風呂上り後の処置(消毒、軟膏塗布、ギプスやコルセットの装着など)、患者の誘導や衣類の着脱の介助、その他、することは山ほどある。
午前中は女性から始める。検温などで状態を確認してから入浴の声かけをする。自力で入浴できる人は、浴室のドアが開いたらさっさと入っている。ふらつきのある人や車椅子利用者などの要介助者に、声かけし、誘導する。ミヨコさんは「入りたくない」と拒否しているので、少し様子をみる。
浴室前の廊下にはすでに車椅子組が数人並んで待機している。要介助者用のバスタオルと着替えとおむつ一式は、前日のスタッフが個人別にまとめてセットし、準備してくれている。
浴室の中では、二人のヘルパーが、短パンにTシャツとビニールエプロン姿で、誘導されてくる患者を受け入れる。外のスタッフは車椅子の人を更衣室に誘導、
「さあお風呂に入ってきれいになりましょう」
と声かけしながら、着衣をすばやく脱がせおむつを外して、入浴用の車椅子に移乗させ安全ベルトを装着する。中のヘルパーは準備万端の態勢、
「は~い、いらっしゃい」
とすぐに受け入れ、シャワーでお湯をかけ身体を洗い洗髪する。自分で洗える部分はなるべく手を動かしてもらっている。
洗い終わったあと、入浴用の車椅子をレールにつなげて前進させ、ストッパーをかけてスイッチを入れると、リフトのように車椅子ごと自動的に湯船に入れる仕組みになっている。
湯船に入ると皆気持ち良さそうな顔をしている。歌い始める人もいる。そこで眠ってしまいそうな人や溺れそうな人もいるので、要注意だ。
入浴用の車椅子は2台あるので、外のスタッフは順次患者をそれに移乗させて中のスタッフに託し、そして、湯船から上がってきた人を受け入れる。
身体をすばやくバスタオルで拭き、個人の車椅子へ移乗させると同時におむつを当て、衣服を着用、これをおもに二人のスタッフで行う。この作業は、スタッフの一人が立っている患者の身体をしっかりと支え、もう一人がその時にすばやくお尻を拭きおむつを着用することがポイントとなる。途中で失禁する人もいるのでスピードが勝負だ。そして、何よりも安全に行うには、スタッフの声をかけながらの連携プレーと「技」が重要になってくる。
少しでも立てる人にはこれらの介助をスムーズに行えるが、サトミさんは足の筋力低下のため立つことが困難であり脱力感もある。そこで、身体を拭いた後、バスタオルを三枚ぐらい掛けて車椅子で急いで自床に誘導し、ベッド上でおむつと衣類を着用させる。この方がはるかに安全であり、患者、介助者双方の負担が軽減する。これは自力で立てない人が増えてきたので、必要に迫られてスタッフが考えだしたものだ。この方法での要介助者は女性が四名、男性が三名いる。
時間をかけてのんびり入浴している人には、
「あとが支えているので早くしてね」
とスタッフが急かせている。モタモタしている人には、つい介助してしまっている。本当は皆さんにゆっくり入ってもらいたいのだが、昼食までに終わらせなければならないので仕方がない。スタッフは常に時間とスケジュールに追われているのだ。
更衣室では風呂上り後の人に順次、おむつかぶれや水虫などの軟膏塗布、傷の消毒など簡単な処置を行う。裸になっている時の方が全身を観察しやすい。排便があると言う人でも腹部膨満感があったり、本人が気付かずに傷をつくっていたり、水虫がひどくなっていたり::。やはり観察は看護の基本だ。腹部膨満感、脚の浮腫み、腰や膝の変形、皮膚の発疹、水虫などの症状が目立つ。
床ずれの処置は時間がかかるため各部屋で行う。ゴロゴロと処置台のワゴンを押しながら病棟内を走る。リョウコさんの床ずれの処置をする。毎日洗浄し、二~三時間ごとに体位交換し、クッションを当てるなど工夫しているが、良くなっていない。おむつをしていて不潔になりやすい部分だ。日中は寝たきりにならないよう、なるべく車椅子に座ってもらっている。が、最近は体力がおちてきたのか
「横になりたいよ」
と言うことが増えてきた。一年ぐらい前にはなんとか歩行できていたのだが::。彼女は七十四歳で入院歴三十年以上になる。家族の面会はない。
入浴を拒んでいたミヨコさんに再度促してみる。気が変わったのか今度はさっと入ってくれる。浴室が混み合っている時は落ち着かないようだ。彼女は、自力歩行は何とかできるものの、向精神薬が多く脱力感とふらつきがある。最近は転倒することも増えてきており、衣服の着脱から入浴全てにおいて介助と見守りが必要になっている。
一般的に、自力歩行できる場合は車椅子を使用しない方が良いに決まっているが、そのリスクを考えると車椅子を使用せざるを得ない場合が多々ある。ミヨコさんのようにふらつきながらも歩行できる場合、その判断が難しい。車椅子を使用したほうがより安全に介助できる。しかし、常時使用すると患者の筋力低下が急速にすすみ、その依存度が高くなり歩行困難になる。だから、そのときの状態を観ながらケースバイケースで対応している、という現状だ。結局、ミヨコさんには入浴時とふらつきが強い場合に車椅子を使うようになっており、その使用頻度は徐々に高くなっている。
十一時四十五分、昼食近くになり、女性の入浴がやっと終わった。入浴担当者は早目に昼休みに入る。浴室係のヘルパーは全身汗ビッショリになり更衣している。
午後一時半からは男性の入浴が始まる。浴室係と誘導係は交替する。湯船のお湯は入れ替えてある。スタッフは、できれば同性介助が良いとされているが、この病棟では男性スタッフが四人しかいないので、なかなか理想どおりにはいかない。日勤、夜勤入り、夜勤明け、代休とローテイションを組んでいるので、男性の日勤者は一人いるかいないかである。
ケンジさんは、入浴時間になるといつもベッドの下やトイレに隠れてしまい、スタッフを困らせている。そこで、
「今日は美人のヘルパーだよ」
と伝えたら、いとも簡単にさっと入ってくれた。そして、身体を簡単に洗ったあと、湯船に入りながら美人ヘルパーの短パン姿の脚をじっと「観察」している(美人ヘルパーは仕事に集中しているので、全く気付いていない)。他方、そんなことには全くおかまいなしにマイペースで入っている人もいる。ろくに洗わずに湯船に入ったり、すぐに出てきたり、湯船で泳いだり、もぐったり、時に失禁してしまったり::。
突然、中のヘルパーが「ヒエー」と大声をあげた。湯船に便が浮かんでいるという。どうもタカシさんのようだ。彼は悪びれた様子もなく、他人事のようにして湯船につかっている。ヘルパーは仕方なく浮かんでいる便をすくい、湯船のお湯を排水している。もはや銭湯のような湯船にお湯をためる時間がないので、あとの人にはその旨を説明し、シャワーのみにしてもらう。夏だからまだ良かったが、冬なら風をひいてしまいそうだ。患者たちはそれほど驚いた様子もなく、「またか:」といった表情をしている。男性は寡黙な人が多く、午前中とは打って変わって静かだ。スタッフのかけ声だけが響いている。
ミツルさんは体重が80kg以上あり、脳梗塞の後遺症があるため、介助者の負担は大きい。毎日熱心にリハビリを続けているので片足で何とか立つことはできるものの、転倒の不安はあり、移動時の介助は主に男性スタッフが行う。
「は~い、しっかり立って」
と言いながら彼が身体を支え、もう一人が素早くおむつを外し入浴用の車椅子に交換する。
ハルオさんは体重50kgぐらいで軽い方だが、自力で立つことが出来ない。五十代で軽い脳梗塞にかかり、車椅子生活を続けているうちに足が拘縮してしまったようだ。彼の場合も女性スタッフ一人では抱えきれないので男性スタッフが介助する。体重が軽くても脱力感や拘縮があると、とても重く感じて介助しにくいのだ。
ミツルさんやハルオさん(ともに60歳代)は、男性スタッフが不在のときには女性スタッフが二人がかりで抱える。彼らはその時、若干ヨロコビの表情を見せる。
男性患者数は十八人で女性より九人少ないので、入浴は一時間半で終わった。
ヤスオさんは発熱と咳の症状があったため入浴は中止にし、自室で全身清拭と更衣を行う。熱い蒸しタオルで上から順に手早く拭いたあとから更衣していく。仙骨部が発赤しているので蒸しタオルでタッピングして血流を促す。
二~三時間おきに体位交換しても寝たきりになると発赤しやすくなり、それが床ずれへと悪化していく。彼は車椅子に座れなくなったため、日中はベッドの角度をつけてなるべく上半身を起こすようにしている(痰の貯留を防ぎ、新陳代謝を促すため)。咳が辛そうだが彼はあまり弱音をはかない。食事を勧めても
「いらないんだよ」
とハッキリ言う。誤嚥性肺炎をきっかけに体力がおち食事量も減ってきている。最近は夜間にうなされているような声を聞くことが度々ある。彼も入院歴三十年以上、七十四歳の「ベテラン患者」だ。
この精神科病院では、とくに管理職や他病棟の職員は、C病棟のことを「認知症」病棟または「老人」病棟と呼んでいるが、個々の患者のカルテを見ると、「認知症」とされている人は数名ぐらいである。その多くは、「統合失調症」、「躁うつ病」、「うつ病」などの病名がつけられており、長期入院者がほとんどだ。その入院期間は、五年以上が76%、二十年以上が50%と、気が遠くなるほどに、圧倒的に長い。いちばん長い人で四十数年という人もいる。病院というより施設に近い。
全国平均では、精神科入院患者約三十二万人のうち、入院期間五年以上が41%、二十年以上が14%とされている。全国平均よりもさらに長い、この病院のC病棟は、つまり、長期入院者ばかりを集めた病棟であるといえる。患者の高齢化(平均年齢六十九歳)問題はその帰結である。
ちなみに日本の精神科病院の平均入院期間は約300日であり、これは諸外国と比較しても桁違いに長い。(米、仏の約50倍、独の約12倍、英の約5倍:日本以外の国の平均は約18日)
見つめる男
皆が食事をしたり体操やゲームをしたり音楽を聴いたりするデイルームの、全体が見渡せるいちばん端の席に、いつもその人は車椅子に座っていた。ある脳の病気がもとで、自力では口も手足も身体も思うようには動かせないので、スタッフが介助しやすい位置に座らされていた、という方が正確だろう。
その人サトルさんは、しかし、その場所に座っているだけで、私たちスタッフの仕事を鋭くチェックしているような、不思議な眼力と存在感があった。自力では食事もトイレも入浴も出来ず、彼のすべての生活がスタッフの介助に頼らざるを得ないのだから、それは当然とも言えた。
彼の一日の生活は、誰に、どのように介助されるかで快、不快が決められる、全て受身の立場ではあるが、その眼だけはきわめて主体的に語っていた。
たとえば、彼の嫌いなものを無理に食べさせられたり、おむつの当て方がずれていたり、便秘でお腹が苦しかったり、偽善的な猫なで声で話されたりすると、彼はときに苦痛の表情を浮かべ、ときに相手をにらみ返すのだった。イエスとノーは、頷いたり首を横に振ったりして応えられるのだが、その他の自己表現はすべて、彼の大きくて海のような色の眼が引き受けているようだった。
そのせいか、スタッフたちはツトムさんに積極的に話しかけ、コミュニケーションをとろうと努めていた。食事介助のときなどは、それが美味しいかどうか、熱くないかどうか、順序が良いかどうか、その量が適切であるかどうかなど、その都度彼の意思を確認するのだ。彼の眼が多くを語っていたため、スタッフは自然に饒舌になってしまうようだった。
サトルさんの眼は、スタッフの仕事をチェックする試金石のようなものであった。
ひょっとして彼は、この病棟における自らの役割をスタッフの「教育係」としているのではないか、とさえ思えた。
私は、サトルさんの存在を意識し彼に評価される仕事をしよう、と自らに課していた。
しかしそれは、彼個人への看護やケアだけではない。彼は他の患者へのスタッフの対応をも観察していたのだから、仲間のことも考えていたに違いない。私は「患者代表としてのサトルさん」を意識していたのだ。
そうしなければ、日々のおむつ交換や食事介助や入浴介助やアクシデントに忙殺され、自らの人間性が消耗し、枯渇してしまいそうだった。私は何よりもそれを恐れていた。
なぜなら、看護(介護)労働者に人間的な処遇がなされていなければ、患者の人権を尊重した看護やケアは困難であり、過重労働の現場においては、よほど意識的でなければ患者への人権侵害を生み出す。サトルさんを意識し、彼(に代表される患者)とコミュニケーションを図ることで何とか自らの人間性が保たれ、それが仕事内容にも反映する、そうした「相互作用」が現場には、そして私には必要だったのだ。
ある日、そんなサトルさんのところへ、少し「認知症」になりかけたシゲコさん(八十歳)が現れ、彼の手を握り、その眼を見つめて、久しぶりの再会のように笑顔で話しかけた。
「この人は昔、私の彼氏だったよ。お互いずっと好きだった。私は真面目だからこの人一筋だったよ::」
その時のサトルさんは、それまで見たこともないようなとびっきりの笑顔で「うん、うん」というように頷き、シゲコさんの手を思いっきり強く握り返した。その顔は、
「うん、そうだよ、憶えているよ、オレもそうだったよ、嬉しいよ」
と言っているように見えた。
シゲコさんはサトルさんよりも二十歳以上も年上で、一見白髪の老婆だったが、そのときの彼女はとてもチャーミングで、二人とも輝いて見えた。事実はどうであれ、「恋愛」には年齢も病気も障害も関係なく、それらを乗り越える力があるのだと、今更ながらに教えられた。いや、病気や障害が年齢を超えた強い絆をもたらしていたのかもしれない。
ヒロシさんの訴え
「頼むから行かしてくれや、お願いしますよ。どうして行けんのじゃ、自分の金だろ、どう遣おうと勝手やないか::」
ナースステーションで、徳田看護師長に向かって七十二歳のヒロシさんが抗議している。銀行に行って自分のお金を下ろしてきたい、というのだ。
「そ、それは、そうですけど、主治医の外出許可が出ていないんですよ。も、申し訳ありませんが::」
師長は恐縮し、ドギマギしている。患者にとってはあまりに正当な要求だからだ。
普段の彼女は、
「患者様は長い間入院生活を送られており、人生も残り少ないので、できるだけ好きなことをさせてあげたい」、
「外出は健康のバロメーターであり、生活に活気がでるので、なるべく続けていきたい」
といつも口癖のように話している。だからよけいに自責の念にかられているのかもしれない。
徳田師長は、これまでの病院の歴史や体質の責任をも一身に引き受けているかのように、ただひたすらに低姿勢で謝っていた。謝ることで彼がおとなしく諦めることを願っていたのかもしれない。それは、彼女の、長年の看護師長としての処世術のようにも視えた。しかしヒロシさんは、彼女がどんなに低姿勢で謝ろうと諦めなかった。
本来ならば、主治医である細井医師が外出を禁止しているのだから、彼からヒロシさんに納得のいく説明がなされなければならない。それが出来ないのには理由があった。
以前、ヒロシさんが外出した際、銀行から自分のお金を下ろしてそれを投資などに遣ってしまい、そのことが家族に知れ、家族から「本人を外出させないでほしい」と細井医師に依頼されているのだ。
ヒロシさんは家族に外出を止められていることを知らされていない。本当のことを知れば、今度は彼の怒りの矛先が家族へと向かう。医師(病院)は、入院と引き換えにそのような家族の関係調整をも引き受けているようだ。そのため、細井医師はヒロシさんに納得のゆく説明が出来ない。「ダメだからダメ」といっているようなものである。だからヒロシさんは、病棟の責任者である徳田師長にその「不当性」を主張し、怒りをぶつけるしかない。その日も次の日も彼の訴えは続いた。
「外出させてくれや、お願いしますよ」
という哀願口調と、
「どうして行けんのじゃ、自分のお金をどう遣おうと勝手やないか、こんなことは人権侵害じゃ」
という抗議口調が微妙に交差している。元来人の良いヒロシさんだが、週二、三回の外出は変化のない入院生活の中で彼の唯一の楽しみだったのだから、それを奪われてはたまらない。ヒロシさんの訴えは彼の午前中の日課になってしまっていた。午後になると疲れて諦めてしまうようだった。
長期入院者ならばそうした要求は無理だと経験的に判っていてすぐに諦めてしまうのだが、彼は入院三年で病棟内では短い方だ。大学を卒業後定年まで働いており、社会常識も良く分かっている。だからよけいに「病院のやり方」に納得がいかないようだ。彼の訴えは毎日休まず続き、その怒りはますますエスカレートしていった。
「ヒロシさんの外出要求が頻回にあり、興奮状態が続いています」
ナースリーダー(*1)が細井医師に報告し、面接後、ヒロシさんの薬が増量された。「鎮静」効果のある向精神薬である。
それを服薬して一、二日後から、ヒロシさんの要求はピタリと無くなってしまった。同時に、彼の活動力も眼に見えて低下し、日中でも臥床しがちになり、歩行時のふらつきが見られトイレに行くのにも手すりを伝わって歩くようになった。口からはよだれが出、食物を口に入れて咀嚼し飲み込むという一連の動作にも支障をきたし、他の患者が食べ終わっても一人残って食べている有様だった。
ヒロシさんが夜間のトイレ起床時に転倒したのは、そうした途上での出来事であった。額をベッド柵にぶつけて受傷し、シーツの枕元が真っ赤に染まるほど出血、三針縫合している。彼はますます動けなくなり、手が震え、トイレに間に合わずに失禁するようになり、自力での歩行も覚つかなくなくなってきた。安全のため、ベッドの横にポータブルトイレを設置し、夜間はおむつを使用するようになった。彼は外出のことは全く口にしなくなり、すっかり忘れてしまったようだった。
ヒロシさんが突然三十九℃台に熱発し全身がガタガタ震える悪寒がきたのは、向精神薬が増量されてから十日前後のことだった。主治医に報告すると、早速、血液検査と一日三本の点滴、向精神薬一時中止の指示が出た。直後の血液検査の結果は、風邪などの感染症特有の数値であった。
ヒロシさんは憔悴してほとんど寝たきりになり、常時おむつを使用、食事もおかゆを介助でやっと食べられる状態に陥った。
ところが、三日間の点滴が終わった頃だろうか、解熱した彼は、自力でゆっくりと食事し、多少ふらつきながらも介助でトイレに行けるようになった。よだれを流して辛そうだった表情は消え、スッキリとした感じの笑顔も見られるようになった。十日もすると、転倒する以前よりもしっかりと歩行し、煙草も吸えるようになった。
このように、転倒や熱発などで一時的に向精神薬の中止または減量になると、患者はふらつきや歩行困難が解消され、重くどんよりとした印象が消えてスッキリとした表情になり、それ以前よりも元気になる場合が少なからずあった。
抵抗力が弱く新陳代謝が低下している高齢者は、向精神薬の影響を受けやすく、それ故の転倒や感染症のリスクも高くなる。だから薬を減量することがリスクの回避にもなり得るのだが、お医者様方はヒロシさんのようなアクシデントがない限り減量することはまずない。逆に、転倒や熱発などのアクシデントがあれば大抵の場合、薬の減量や中止の指示が出る。ということは、医師は向精神薬のリスクを充分認識しながら処方していることになる。
とはいえ、この「リスク感」は、患者にいちばん近いところにいて日常的に接しているナースやヘルパーの方が、週1回、数分間の面接のみで患者と話す医師よりも何倍も深刻に感じ取っている、というのが現状であろう。(医師の人員上の問題もあるが:*2)
私は、患者のふらつきが見られたらなるべく早く、そしてしつこく主治医に報告することにした。
「この状態をこのまま放置しても良いのですか?転倒しても責任は負えませんよ。転倒の責任はあなたにも、いやあなたにこそあるのですよ」
という意味を込めて。
この病院では、患者が転倒して打撲や受傷、骨折などの事故に遭遇した場合、「アクシデント・レポート」の提出を義務付けられているのは、日勤帯ならばその日のナースリーダー、夜勤帯ならば当直責任者ということになっている。C病棟における患者の転倒は、常に患者に付きっきりでない限り防ぎようがない不可抗力である。それにも拘らず、まず責任を問われるのは現場のナースになっているのだから。
ところで、その後のヒロシさんは、風邪のあと一時は元気を取り戻したものの、再び向精神薬が処方された。今度は増量される以前の内容である。彼の外出要求を再び聞くことはなかった。転倒や熱発や副作用などでよほど懲りたのか、外出する気力も体力も無くなってしまったように観えた。彼はまた自床で過ごすことが多くなり、今度は緩慢に、真綿で頸を絞められるように活動力が低下してきた。患者だからといって媚びることなく自己主張がハッキリしていて元気の良いヒロシさんだったが、何の意欲もない本当の老人になってしまった。
父子家庭で息子を男手一つで育てたヒロシさん。「出世した」自慢の息子のことをよく話題にしていた。経済問題に詳しく、
「今後の経済の動向はどうなるのでしょうね?」
と質問すると、
「あかんなあ、不景気になるよ」
などと話していた。子育てのことにも親身に相談にのってくれた。父子家庭で苦労した人らしく、普通の男性にはない優しさがあった。
「頼むから行かしてくれや。自分のお金をどう遣おうと勝手やないか」
という彼の言葉が、今も私の中でこだましている。
*1 日勤帯では、病棟の東側と西側をそれぞれAチームとBチームに分けて仕事を分担し、毎日交代で各チームのナースリーダーが決められ、リーダーが医師への報告や相談、夜勤者への申し送りをすることになっている。
*2 一般病院の医師数は入院患者16人に対して1人必要とされているが、精神科病院では、入院患者48人に対して1人で良いとされている。(医療法、人員配置基準)
つまり、精神科病院の医師は、人数的には一般病院の三倍の患者を診なければならないことになる。
窒息事故
C病棟では週一回、売店への買い物日があり、スタッフに同行された患者がそれぞれ好きなもの(お菓子や飲み物、日用品など)を購入し、病棟にもどってそれを食べる、という「お楽しみ日」があった。スタッフが用意する三時のおやつは週三回出ていたが、小さな売店であれ自分の欲しいものを選べるのは、この日だけだった。
買い物は午後からというのに、患者たちは朝から準備臨戦態勢に入っており、歩行困難な人は「車椅子を用意して」とか、あれこれの日用品もついでに買いたい、といった要求が頻繁にあり、看護室は物資不足時の買い出しみたいに騒然としていた。
確かに、自分の欲しい物、自分の眼で見て選べる物、自分でお金を出して買える物、という意味での、「物資不足」はあったのだ。
買い物希望者は寝たきりの人(スタッフが代理購入する)以外はほぼ全員であり、男性と女性は別の曜日に分かれていたとはいえ、患者やスタッフにとっては入浴日と並んだ二大メーンイベントであった。
患者たちは何故か菓子パン類を購入する人が多いので、喉詰めの危険性が高い。病院食ではお粥を食べている人でも、この日はパンを食べるとなると、かなり神経を遣う。普段お粥を食べている人は、充分咀嚼せずに飲み込んでしまう習慣がついているので、ジュースなどを飲みながらパンを咀嚼することがなかなか難しい。更に、歯のない人や入れ歯の人も多く、長年向精神薬をのんでいる人は嚥下力(飲み込む力)もおちている。おまけにパン類は唾液と混ざるとグルテン化して喉にくっつきやすいのだ。
「パンは怖い」という観念は、私の約三十年の看護経験の中でも、すでに脳裏に深く定着していた。病院の朝食は、早出の厨房職員の都合もあり一般的にパン食のところが多かった。そのため、とくに高齢者の多い内科病棟では、パンを喉に詰めるアクシデントが度々あり、夜勤の朝、患者の喉に指を入れて食物を掻き出す、という「仕事」を何度も経験していた。
この病院の朝食は、過去のそうした教訓から「学んで」パン食を中止にしたようだ。それにもかかわらず徳田師長は、
「買い物は、患者さんたちの唯一の楽しみであり、生きがいでもあるから、是非続けていきたい」、
「なるべく好きなものを買わせてあげたい」
と自分の信念のように強調し、できればリスクを回避したいスタッフたちと意見が対立していた。私も、「今のスタッフ不足の態勢では、いずれまた事故が起きるであろう」と危惧していた、そんな矢先の出来事であった。
病院食ではお粥を食べているミヨコさんが、カステラを喉に詰まらせてしまったのだ。
その場にいた私を含めたナース二、三人は、急いで彼女の背中を叩き、喉に指を入れて掻き出すが、なかなか取り出せない。掃除機(*1)で吸引して少しカステラが出てきたものの、彼女はグッタリして顔面にチアノーゼ出現。緊急コールで内科病棟からも応援を依頼し、人工呼吸器が装着され救急蘇生を開始。同時にカステラも吸出され、ようやく助かったのだ。
この事故を機に病棟では再び「買い物論争」が起こり、話し合いの結果、いくつかの改善策が立てられた。買い物日を月一回に減らし、担当スタッフを多目につけること。普段粥食の人は、パンに牛乳などを浸して少しずつ食べるよう注意しながら介助すること。特に危険性の高い人は、なるべくパン類を避けてプリンやヨーグルトなどにしてもらい、マンツーマンで介助すること、等々。少し考えれば自明のことだったが、そんなことにも気付かないほどスタッフたちは皆仕事に追われ、冷静な判断力を欠いていたようだ。
そして、この「論争」でも患者は蚊帳の外であり、徳田師長からは、事故の説明もなく、「要介助者が増えてスタッフの負担が大きくなっているので、今後の買い物は月一回にしていただきたい」
「みなさんにご迷惑をかけて申し訳ありませんが、何卒ご理解のほど宜しくお願いします」
といった、一方的な説明だけで終わった。一回あたりの買い物の量が増えたとはいえ、その回数が週一回から月一回と大幅に減らされてしまったので、不満を持つ患者も少なからずいたが、師長の低姿勢な「お願い攻撃」を、しぶしぶ受け入れざるを得なかったようだ。
それはいつものことではあったが、要するに患者の楽しみとか「生きがい」とかリスクの回避とかいうことが、すべて「病棟の都合」や専門家のロンリでギロンされ、当事者抜きで決められていたのである。
そして、その中の「専門家」のはしくれである私自身も、食べ物で患者を釣っているような師長のやり方に不快感をもちながらも、それに異を唱え、患者との話し合いを提案する余裕もないほどに疲れ果てており、「これ以上リスクのある仕事はしたくない」という気持ちに支配されていた、というのが正直なところである。
*1 C病棟では、食物を喉に詰める患者が多いため、掃除機のホースの先に吸引用のノズルを接続したものを看護室に設置している。医療用吸引器よりも掃除機の方が、吸引力が強く効果がある。
母子家庭の母
母子家庭の苦労など大したものではない、と当初は高をくくっていた私であったが、やはり身体のほうは正直であった。熟年離婚後の再就職だったこともあり、この仕事を続けること自体、毎日身を切られる思いがした。なにか巨大な手で脳を鷲づかみにされているような激しい頭痛や眩暈に悩まされ、立っているのがやっとの日もあった。とくに夜勤に行くときは、大げさにいえば「戦場」に行くような命がけの覚悟が必要だった。過労死の不安も何度か頭をよぎった。
働きすぎて精神の病にかかった、「かつての母子家庭の母」も入院していた。他人事ではない、と思い彼女たちの苦労話を聴いた。
「夫は四十歳代で病気でなくなった。昼も夜も働きながら三人の子供を育てたよ。長男は頭が良かったのでどうしても大学に入れたくて、頑張って働いたよ」
という六十五歳のノリコさん。日中は工場で、夜はお店の皿洗いをして働いたという。
髪は白髪、入れ歯を外しているせいか年齢よりも老けて見える。その顔には、彼女の苦難の歴史とその密度を物語るいくつもの深いしわが刻み込まれている。今は大企業の管理職をしている、という長男のことを話すとき、笑顔のしわがいっそう増える。
ノリコさんは食事も入浴もトイレもほぼ自力で行えるが、その全てにおいて驚くほど動作が速い。かつて、家事や仕事をより速く、そしてより多くをこなしてきたように、その生活習慣が彼女の身体に染み付いているようだ。
病院の生活は彼女にとって退屈すぎるのだろう。何かをせずにはいられないように、いつも鉛筆でノートに書いている。忘れそうなことはみな書いている。新しい患者や職員に会うとすぐに名前を訊いて、ノートに書いている。それで職員、患者の名前を全て憶えてしまった。いつも何かを忙しそうに書いている。度々訴える「お家に帰りたい」という気持ちを払拭しているかのように。
「頭が良かった」長男は、母思いらしく他の兄弟よりも面会に来ることが多い。久しぶりの再会、その笑顔は母の顔だ。この母の犠牲の上に自分たちの成長があったであろうことを充分解っている様子の息子も、笑顔で母に話しかけている。申し訳なさそうに。
「お家に帰りたい」母を引き取りたくても、それが出来ない「事情」がありそうだ。
母と息子との会話はそれほど長くは続かず、面会は早々に終わった。面会後まだ数分も経たないうちに母は、
「息子が無事に帰宅したか心配でしょうがない」
と小さな子供を案じるように、何度も電話をかけていた。この母も数倍息子思いのようだ。息子のためには、長期入院でもなんでも出来そうな母かもしれない。
こちらのシゲコさんは今年で八十歳になるという。彼女の顔にも木の年輪のようないくつもの深いしわが刻まれ、歯はすべて無くなり、髪は真っ白だ。身体は干からびてやせ細っているが、その手足は働き者を想わせる頑丈そうな骨が浮き出ている。
シゲコさんの夫は戦後、肺結核にかかり二十歳代で亡くなったという。その後、二人の子供を育てながら、りんごの行商をして生計を立てていた、
「リヤカーを買うお金もないので、背中に担いで歩き回っていた、本当に大変だったよ」
と話す。行商をしていた人らしく普段は人懐っこい笑顔で話すシゲコさんだが、この時は昔を思い出したのか、とても深刻な表情をしていた。
いつも咳をしているのに、
「煙草はやめられないよ」
という。
「身体に良くないから少し減らしましょう」
とあるスタッフが話したら、興奮して大声で怒った。
「好きなことをして死にたいんだ」
と。女手一つで子供を育てた人らしい。気が強く、自己主張もハッキリしている。スタッフへの「媚び」も観られず、人間として堂々としている。
日中はいつもデイルームの席に座って、テレビを観たり他の患者と談話したりして過ごしている。だいぶもの忘れがすすんできたが、話は何とか通じる。昔の労働の後遺症なのか、背は四十五度ほど曲がり、足はびっこを引きながらも自力でトイレに行けている。ある日突然、思いついたように看護室にきて、
「おれはここで死ぬつもりだ、一生ここにおいて下さい」
と訴えていた。
七十六歳のヨウコさんは、昼も夜も臥床していることが多い。長年の疲労物質が金属のように重く沈殿し、もはや自力ではそれを背負いきれなくなってしまったように。食事と喫煙、入浴、トイレ以外は、ほとんど横になっている。他の患者との交流もあまり見ない。
が、そんな彼女に話しかけると昔のことを話してくれる。話題はやはり子供や孫のことだ。立派に成長した子供達の写真も見せてくれる。自慢の娘さんはきれいな着物を着たとても美しい人だ。「仕事が忙しくて面会に来られない」という息子さんも、立派なスーツを着ている。今では彼女の手に届かないほど遠く離れてしまった子供たちではあるけれど、それが自らの人生の結晶であるかのように、感慨深そうに写真を見ている。
夫と離婚後、洋裁をしながら二人の子供を育てたという。二人とも
「頭が良くていい子だった」
という。疲労の色が刻み込まれた黒ずんだ彼女の顔が一瞬、ぱっと明るくなる。が、すぐにもとの疲れた顔に戻る。元気を出して、体操や音楽や映画会などに参加しましょう、と誘うが、少しだけ参加してすぐに自室に戻ってしまう。ここでは彼女にとって楽しいことなどないようだ。
彼女たちは、母子家庭を維持するために無我夢中で二人分以上働き続け(一般的に女性は、男性の約二分の一の低賃金であるから、子供を「普通に」育てようと思えばそうせざるを得ない)、心身ともに疲弊して発病し、気がついたら「認知症」病棟に来ていた、という印象だ。
私もそうならないという保証はない。が、唯一の「希望」は、入院費月十数万円を捻出する経済的余裕が我が家には今後もないだろう、という皮肉な現実だ。
ミチコさんの入院
C病棟では珍しく、外部からの認知る症患者の入院があった。看板に掲げている以上、「積極的に入院を引き受け、地域にも貢献しましょう」という経営方針のようである。
すらりとした長身で知的な美人の面影のある、七十八歳のミチコさんが、家族に伴われて車椅子で入院してきた。ニコニコしているが、かなり痩せていて少し顔色が悪い。独居生活できちんと食事をとっていなかったようだ。
彼女は入院当初から
「なにか食べ物を下さいよ」
としきりに訴えていた。食事のあとも、おやつのあとも、同じように訴えている。それは誰かに向かっての訴えというより、「独語」に近い印象だった。彼女にとっては、常に、何らかの「飢餓感」を覚えていることに、違いはないのだろう。食事もおやつも驚くほどの速さで食べ、
「もっと下さいよ」
と訴える。いくら食べても満腹感を覚えない様子だった。
彼女との会話はなかなか成立せず、息子さんの顔も認識できなかったとはいえ、自らの名前と住所はなんとか答えることができた。
入院して間もないある日、ミチコさんはガムを噛んでいるように口をもぐもぐ動かしていた。よく見てみると、そばにあったティッシュペーパーを口に入れていたのである。それは食べ物ではないことを説明し、吐き出すよう促すも、頑強に拒否する。半ば強引に取り出そうとすると、かなりの抵抗があったが、スタッフ二人がかりで何とか取り出すことができた。
またある時は、彼女の口の中やその周りに白い物が付いていた。その匂いをかいでみると、なんとそれは歯磨き粉であった。彼女は側にある物は何でも口に入れてしまいそうな「勢い」があり、かなりの危険性が観られた。
この病院では過去に、自らの紙おむつを千切って口に入れ窒息死した患者もいた、とのこと。その経験者でもある徳田師長が中心になり、早急にミチコさんへの対応策が立てられた。
ミチコさんの日中の定位置を、看護室前のデイルームの見えやすい場所にすること。彼女の周囲に危険なものを一切置かないこと。自らの紙おむつを取り出せないよう、つなぎ様の病衣を着用させること。車椅子から立ち上がれないよう、彼女の腰部を車椅子に拘束すること。夜間はベッド上で腰の拘束帯を使用すること::等々。ただし、日中は積極的に彼女と会話し、時間があるときは拘束を解きスタッフがマンツーマンで付いて歩行練習をすること、という補足はあったが、おおむね危機管理優先の内容であった。
日頃から「患者のプライド」や「人間的な看護」を口にしている我が師長にとっては、苦渋の決断だったようだが、現状のスタッフ体制では致し方ない、ミチコさんの生命を守ることが最優先である、という結論に落ち着いた。私を含めたスタッフも同調せざるを得なかった。
患者の拘束など誰しもしたくはない。しかし、彼女の拘束に反対するということは、二十四時間ミチコさんに付き添う覚悟が必要であり、それは現実的に不可能であった。ミチコさん以外にも、夜間のみ、ベッドからの転落防止のために腰部を拘束している人がすでに三人いる。この病棟においては、スタッフが多少増えたところで、拘束をやめることはとても困難に思えた。
ミチコさんは相変わらず、
「何か食べ物を下さいよ」
としきりに訴え、自らの指や病衣をしゃぶったり噛んだりしながらも、拘束中の彼女の眼は、やはり、辛く切ない様子だった。拘束を解いて病棟内を一緒に散歩するときは、ニコニコして嬉しそうにはしゃいでいた。
いくら「認知症」とはいえ拘束の意味は分かる。自分が「拘束が必要な状態にある」と白衣を着た人間たちに観られ、そのように扱われていることは、直接的に身をもって分かるだろう。拘束は人間としての自由と誇りを根こそぎ奪うものだ。それは「今」を生きる認知症患者だからこそ、よく分かるのではないか、と彼女の表情を見て思った。
「私は、結婚して男の子を二人産み、専業主婦として家事、育児に専念し、それなりに幸せでした。
あれから五十年ほど経ち、夫が亡くなり、子供たちも自立し、たった一人になってしまいました。近所付き合いはなくなり、友人知人とも疎遠になり、息子たちはほとんど帰ってきません。
誰とも話さない生活が長く続き、毎日がとても空しく、寂しく、心細く不安でした。
これからどうして生きていったら良いのか分からなくなり、食べる意欲もなくなってきました。しばらくボーッとして無為に過ごしていました。
そうしたら息子らしい人が来て、いきなり、私をこんなところへ連れてきたのです。自分を犠牲にして、あんなに愛情いっぱいに子供たちを育ててきたのに::。それが何よりも辛く切ないです。私の人生はいったい何だったのでしょう。それを考えると、気がおかしくなりそうです。
私が本当に欲しいのは、「食べ物」なんかじゃないのです。それを誰も解ってくれません。何の説明もなく、いきなり知らない人ばかりのこんな所へ連れてこられたら、誰だって混乱し、動揺し、「失見当識」に陥ります。だから、何かを口に入れて気を紛らわせていたのです。そうでもしていないと気持ちが落ち着きません。それなのに誰も私の気持ちを解ってくれません。そればかりか逆に、こんなふうに身体を縛られてしまったのです。こんな理不尽なことがあるでしょうか。私はよけいに苦しくなり、混乱し、認知症にでもならなければ、とても生きてはいけません::」
ひょっとしてミチコさんは、こんなことを言いたいのではないか、と想像した。
時間の許す限り、彼女の拘束を外して病棟内を一緒に歩いた。他の患者に紹介し会話してもらう。デイルームに飾ってある絵や習字、生け花を、ともに観賞する。窓から外の景色を見る。体操やボール遊び、コーラスなどに一緒に参加する。他のスタッフも同じようにミチコさんに関わった。
そんな関わりを繰り返しているうちに、ミチコさんは、
「ここはどこですか?」、
「お家に帰りたいです」
と、はっきり言うようになった。
「何か食べ物を下さいよ」という訴えは相変わらず続いていたものの、その回数は徐々に少なくなってきた。が、少し眼を離したすきに、またお菓子の袋などを口に入れようとしている。やはりまだ不安だ。そうして試行錯誤しながら、ミチコさんの人間性を少しでも取り戻せるだろうか。拘束を完全に止めないところで、そんなことを願うのは自己矛盾だろうか、と思い、悩む。
理想的には、ミチコさんの専属スタッフを二十四時間体制で付ければ、解決できる問題だろうか。また、ベッドからの転落防止のための夜間の拘束にかんしては、畳の部屋などにすればよいのかもしれない。しかし、そうした発想は、管理職や病院当局にはもちろんない。国の看護基準(*1)を満たしていれば良いのであり、他に何が問題であろう?という考えだ。
歴史的にみても、とくに日本の精神科病院においては、「自傷他害のおそれ」という理由で、患者の拘束、隔離、拘禁という暴力支配が当たり前のように行われてきたし、現に行われている。
2007年の厚生労働省の調査によれば、精神科病院(入院患者三十二万人)における、身体拘束患者数は6786人、保護室への隔離患者数は8247人とされており、この数は年々増加している。また、鍵のかかった閉鎖病棟への入院患者数は全体の半数以上にものぼっており、更に、任意入院患者の約40%が閉鎖病棟への入院を余儀なくされている、という異常事態が続いている。
驚くことに、入院患者への行動制限は、精神保健福祉法36条(*2)によって国が認めているのである。
*1 国の看護基準 一般病院では入院患者三人に対して看護職員が一人必要とされているが、精神科病院では、入院患者四人に対して看護職員一人配置すれば良いこととされている。なお、当分の間、看護職員は患者五人に対して一人の基準を確保し、看護補助者と合わせて患者四人に対して一人の基準でも認められている。
この病院のC病棟のスタッフ数は、ナース十一名、ヘルパー十名であり、患者四十五名(定床五十名)に対しては監査上足りている、と評価されている。しかし実際は、ナース十一名のうち、三名が週一~三日の非常勤、四名が六十歳以上であり、夜勤ができない人がおよそ半数にもなり、戦力的には全く不充分である。また、ヘルパーの仕事の中には病棟の掃除も含まれており、日勤者1~2名は広い病棟の掃除にほぼ半日費やされている。つまり、監査基準を頭数では満たしていても、患者への看護やケアの観点からすると、とても「足りている」状況とはいえないのである。
*2 精神保健福祉法「(処遇36条) 精神科病院の管理者は、入院中の者につき、その医療または保護に欠くことのできない限度において、その行動について必要な制限を行うことができる。
「ナチュラルコース」
かなり痩せて食が細くなった、九十歳というC病棟では最高齢になるヨネさんが、内科病棟から転入してきた。認知症の顕著な症状はなく、高齢にともなう内科的機能と運動機能の低下が観られたとはいえ、日中はなんとか車椅子で生活できる気丈な、しかし笑顔の愛らしい老女であった。いつもデイルームの自席で患者やスタッフたちの動きを穏やかな笑みをうかべて見ていた。スタッフたちは、自らの祖母のようなヨネさんに度々声をかけ、なんとかコミュニケーションもとれていた。
しかし、転入後の環境の変化のせいか、自ら摂れる食事量と水分量が少しずつ減少し、車椅子に座っている体力がなくなり、日中も臥床しがちになった。微熱が続き風邪症状が出現してからは、ほぼ寝たきりの状態に陥った。
プリンやヨーグルトなど、彼女の好みのものを売店から買ってきて、少しずつでも摂れるよう、スタッフたちは時間をかけて辛抱強く介助した。それでも一日に200~300mlほど摂れるのがやっとであり、ときには口をかたく閉ざし、首を横にふって拒否するようになった。
一般的にこのような場合、一日に1000~1500mlの点滴をして脱水状態の治療をおこなうと、とりあえず症状は改善し、元気をとり戻す。
ヨネさんの主治医である金田医師(内科医)の方針は、「ナチュラルコース」つまり「延命処置は何もしない」ということだった。点滴、酸素吸入、人工呼吸などの処置を一切行わない、という意味らしい。家族の同意もとってある、という(ヨネさんには遠い親戚しかいなかったが)。彼女の転入の際にも、金田医師は、
「何もしなくていいから」
という、きわめて乱暴な「指示」であった。
病棟スタッフたちは一様に、
「何もしない?」
と首を傾げた。ドクターがたとえ何もしなくても、ナースは、患者の苦痛を緩和させ、少しでも安楽に闘病生活が送れるよう援助することを使命としているが故に、
「何もしないわけにはいかない」
と皆口々につぶやいた。とくに仕事熱心なナースたちは、
「わがナイチンゲールの教科書には『何もしない』という言葉はない」
と言わんばかりだった。
私自身の経験からも、「延命」目的というより患者の苦痛を緩和させる意味で、点滴や酸素吸入ぐらい当然と思っていたので、とても疑問に感じた。
ナースの仕事は、「延命」などという抽象的で冷たい言葉とは対照的な具体的、実践的行為であり、それは、患者の人間性を尊重した対応、苦痛の緩和、安心、安楽、受容と共感などの精神が背景にある。たとえ死を間近にした人に対しても、体位交換やマッサージ、痰の吸引、口腔ケア、清拭などを行い、苦痛を緩和し、清潔を保つ。死の恐怖や不安が観られるならば、手を握って側にいるだけでも良い。
それは、ナースとしてというより、人間として当然の行為のように思えた。それは一見、誰にでもできる行為でありながら、医療スタッフの誰もができる行為ではなかった。
あまりにも多忙な仕事は、ときに医療スタッフの人間性をも奪う。それ故、ひとつひとつの具体的行為は、ひとりひとりの人間性と思想を問うていた。
点滴も酸素吸入もされないヨネさんは急速に衰弱し、呼吸が苦しそうに昼も夜も「アーッ、アーッ」と呻き声をあげるようになった。ムセないようトロミをつけた水分をほんの少量ずつ、吸いのみで口に入れるのがやっとであった。あと二~三日もつだろうか?と同僚たちと話していた頃、私の当直の日がやってきた。
当日、ヨネさんは38℃台に熱発し、多量の黄色粘調性の痰、呼吸苦、肺の雑音、血中酸素濃度の低下など、肺炎特有の症状が観られた。自らの判断で痰を吸引し、当直医師に状態を報告した。
夜勤のアルバイトでまだ経験の浅い精神科医である彼は、主治医の「ナチュラルコース」と記載されているカルテを見ながら、「ウ~ン」と悩み、考えこんでいた。
「内科の当直医に相談してみたらどうでしょうか?」
という私の「アドバイス」に救われたようにすぐに同意し、その結果、
「とりあえず酸素吸入だけでもやりましょう」
という指示をなんとかだしてもらえた。
それを受けた私は早速、酸素吸入を開始し、その後、いったん、ヨネさんの呼吸苦は緩和しつつあった。しかし、その原因である肺炎や脱水状態の治療をしなければ、それは対症療法にすぎなかった。もはや意識レベルが低下し、ゼーゼーと痰が喉に貯留し、苦しそうに呻吟しているヨネさんにできることは、多量の痰を度々吸引し、体位交換し(床ずれや痰が喉に詰まるのを防ぐため)ガーゼで口を湿らせて少しでも「渇き」を食い止めることぐらいしかなかった。
翌日、朝の申し送り後、徳田師長は、「ナチュラルコース」を指示した金田医師にヨネさんの状態を報告した。突然、彼は師長に対して大声で怒鳴り始めた。カルテを指しながら、
「ここに『ナチュラルコース』と書いてあるじゃないか、何故酸素吸入をしたんだ、これまで患者の最期を看取ったことがあるのか、いったい何年看護師をやっているのだ、そういうのを『生殺し』というんだ::」
と、まるでヤクザのような口調で師長を罵倒し、傍若無人ぶりを発揮していた。
それは、この病院に長年勤務し(金田医師よりも数倍の勤務経験がある)、病院の「発展」に充分寄与してきたであろう、十歳程も年上の「先輩」に対しての言葉とは思えなかった。この病院のしかるべき地位に就くことを約束されているらしい金田医師は、人格も理性もない人間が権力を目の前にするとこうなる、という見本を充分周囲に示してくれた。
医局ではいちばん若いのに、眼がトロンとしてやる気のなさそうな山本医師でさえ、
「ちょっと、これは言い過ぎですよねえ:」
と少々びびって小声で私に呟いていた。
医局の中ではいちばん人望が厚く、仕事熱心で、患者やスタッフにも対等に話す、我らが「希望の星」大田医師もその場に居合わせていた。私は彼に、「なんとかこの場を治めてもらえますか?」という期待と信頼の眼で見つめてみたが、実際は何も言うことができず、少し苦しげな表情をして下を向いていた。金田医師と大田医師が「闘争」をすれば、知力も体力もありそうな大田医師の方がきっと優勢だろう、とふんでいただけに少々がっかりした。
緊張のためか顔を真っ赤にしたわが師長は、言いたいことが言葉にならず、ドギマギうろたえていた。こういう理不尽でワケの分からぬ激昂にもじっと耐える、苦難の道を歩むことが、看護師長として生き続けるための必要条件であろうか。
しかし、酸素吸入を指示したのは当直医であり、師長をはじめとする看護職の責任の範疇ではない(そもそも看護師の判断で酸素吸入は行えない)。私は金田医師に、当直医の指示で酸素吸入を行ったことを説明したが、彼は怒りと興奮のあまり全く聴く耳を持たず、師長ばかりの「責任を追及」している。医師同士の連携の不備や当直医への「不信感」の問題を師長に責任転嫁するのは御門違いであり、八つ当たり、パワハラ、弱い者いじめでしかない。
私は過去三十年以上ナースをやってきて、酸素吸入をしたことがこれほど問題になったのは初めてであり、とても驚いた。呼吸苦があり血中酸素濃度が低下すれば酸素吸入を行うのはもはや常識となっており、それは在宅医療においても同様である。
結局のところ、金田医師の意味する「ナチュラルコース」とは、患者の苦痛の緩和や人間性の尊厳といった精神とはかけ離れたものであり、単に「放置せよ」と言っているにすぎず、これこそ「生殺し」ではないかと思った。
酸素吸入を外され、点滴もされず、もはや意識がなくなり「アーッ、アーッ」と苦しそうに喘ぎ呻いているヨネさんにできる看護はもはや限られていた。たびたび痰を吸引し、身体をさすったり、体位交換をしたり、渇いた口を湿らせたり、手を握って話しかけたり::。
気丈なヨネさんは、主治医の対応に最期の生命をふりしぼって抗議するかのように、ナースたちの予想に反して、その後五日間ほど生命を維持していた。それは側にいるだれもが驚くほどの、強靭な、そして不思議な生命力であった。
その間、入れ代わり立ち代り彼女の部屋を訪れたのは、ナースをはじめ、ヘルパー、作業療法士などの職種の一部の人々だった。それぞれにヨネさんの手を握って最期の挨拶をした。それは「仕事として」というより、仕事を通じて関わったヨネさんへの尊厳と感謝の気持ちの表現であった。
看護や介護をする者は、患者の病や障がいを共有し、生命を支える仕事を通じて、ひとりひとりのかけがえの無い人生や命の大切さを日々教えられている。苦しい仕事を続けられるのは、そこに生身の患者がいるからに他ならない。厳しい環境にありながらもなお、逞しく、そして時にユーモアを交えて生きている患者たち。彼、彼女たちと日々関わることで、私たちは、どれほど教えられ、励まされ、生かされてきただろうか。
ところで、
「亡くなってから連絡してくれれば良い」
と言った「主治医」金田医師は、やはり、一度も現れなかった。電話の一本さえかけてこなかった。家族のいない、余命いくばくもない患者には、「無駄な」お金や労力をかける必要はない、とでも思っていたのだろうか。「安楽死」=「生殺し」=苦悶死、という言葉がふと頭をよぎった。
ヨネさんが、意識がなくなる直前に、彼女の手を握っていたスタッフに言った、
「カワイイネエ、ウラヤマシイ」
という最期に発した言葉が忘れられない。
入院歴四十年
精神科の病院に入院して四十年というマサオさんがいた。大学三年のときに発病、病名は「精神分裂病」(今は「統合失調症」に変更)とされている。この病院での入院歴は三十数年、それ以前は他の病院で何度かの入退院を繰り返している。入院中に両親は亡くなり、家族の面会は月一回ぐらいのペースで兄弟が来院している。
毎日同じ時間に起床し、一日三回の食事と服薬、三時のおやつ、週二回の入浴、買い物の他にはとくにスケジュールもなく、日中は、テレビや新聞をみたり、喫煙したり、他の患者と談話したり::といった生活だ。作業療法士が中心になって行っている、体操やゲーム、音楽会、映画会、読書会などにはあまり参加していない。スタッフが誘っても「いいです」と断ることが多い。
彼は多くを語らない。話しかけると、万年青年のようにはにかみながら、ひとことふたこと言葉を返してくれるが、それ以上は語らない。いつも何かに耐え、悩み、痛み、悶え、苦しみ抜いたような、そして、それらの苦悩が沈殿して堆積された岩石のような、深淵な眼をしている。その眼はいつも、私たち医療スタッフの姿を映している。
一定の患者の入院により病院経営が成り立ってきたということは、病院経営者はもとより、そこから賃金を得て生計を維持している立場の者は皆、患者の長期入院という犠牲の上に生きることを許されてきた、といえる。つまり、マサオさんの入院によって私(と家族)の生活が支えられてきたということだ。かつては瑞々しいエネルギーに満ち溢れていたであろう、若いマサオさんの生命力を吸い尽くし、奪い尽くして、私たち医療スタッフは生き延びてきたのである。
この事実は、たとえ、私がどんなに患者の人権を尊重した「やさしい」看護をしたところで、どんなに自己犠牲的に患者に奉仕したところで、そして、どんなに経営者や医師と闘ったところで、「帳消し」になるものではない。寡黙なマサオさんの深淵な眼は、そのことを鋭く透視している。
この病棟の私を含めたスタッフたちが主観的には患者の人権を尊重し熱心に仕事に当たっていることも、あまり病棟には現れないがときたま顔を見せる総師長(看護課のトップ)が不気味なくらいに患者に笑顔を振りまいていることも、徳田師長が患者に対して妙に慇懃で低姿勢なことも、心のどこかに何らかの「後ろめたさ」があるからに違いない。
「高齢者のプライドを失わせないように(高齢者はプライドを失うと生きる意欲を失う)、職員の言葉遣い、態度に気をつけ、人生の先輩として尊敬し、笑顔で接するよう心がける:」
と我が師長はあるレポートに書いている。それは欺瞞という新たな罪である。マサオさんたち長期入院者の「プライド」など、とっくの昔に身ぐるみ奪われてしまっているのだから。
マサオさんは、しかし、笑顔を見せることもある。家族が面会(*1)に見えたときだ。そのときには、差し入れられたおやつを食べながら、人が違ったような表情で談笑していた。しかし彼は、あくまでも医療スタッフに対しては、多くを語らない。完全黙秘がただ一つの抵抗手段であるかのように。
私は彼に依頼されて、定期的に彼の左足の魚の目の処置をしている。歩くときにそこが痛むと言う。なぜか身体がやや左側にくの字に屈曲しているので、ちょうど左足の魚の目の部分に体重がかかってしまうようだ。削っても、削っても、同じ場所にまたできる。だから私は、二週間おきぐらいに彼の魚の目の処置をする。処置をしながら彼の「患者」人生を想う。
いつもサンダルを履いている彼の足の裏は、長年肉体労働をしてきた人のように黒ずんで硬く、そして、石のように冷たい。四十年間入院し、向精神薬をのみ続けるということは、長年の肉体労働に匹敵するほどの心身への負担になるのだろうか。また、その足の冷たさは、身体全体の循環障害を想わせる。六十五歳にして心電図や肝機能の数値にも異常がみられる。日中も臥床しがちなのは、身体がだるく疲れ易くなってきているのだろうか。
夜勤帯の皆が寝静まった時間に、寡黙な彼の表情を想いつつ、褐色に変色して破れかけている何分冊かの分厚いカルテを読んだ。それは彼の三十数年の「患者」人生における苦難の歴史であっただろう。
しかし、それは、医療者側からの記録であり、彼自身の自らの記録ではなかった。
「食欲あり」、「夜間良眠」、「日中臥床しがち」、「レクレーション不参加」、「無為自閉的」、「自発語が少ない」、「他の患者との交流なし」、「表情暗い」::。それらの、形式的かつ表面的な「観察記録」が、どこまでも続く。そして薬の処方内容は、「do」、「do」、「do」::と、どこまでも「同じ」内容が記録されている。
三十数年間、精神医療の対象として、まるで動物の観察記録のように一方的に観察され、記録され、「看護」、「治療」され、「指導」されてきたであろう証拠のカルテからは、マサオさん自身の内面は読み取れない。が、常に主体を奪われてきた「される」側であった、というまぎれもない事実が克明に記録され、そのことこそが彼の深淵な苦悩を物語っているように思えた。
彼は何か犯罪をおかした訳でもないのに、青春の一時期に何らかの理由で「精神の変調」を来たした、というただそれだけの理由で、終身刑のように隔離された空間の中に、人生の半分以上もの間、「入院」させられている。「病的症状」はすでに消失しているにも拘わらず。
この病棟は、彼のような長期入院者がほとんどを占めている。彼、彼女たちは皆、国の制度や病院、家族の問題などにより退院できなかった、そして、今もなお退院できない、今さら「恐ろしい社会に退院したくない」社会的入院者ばかりだ。
*1 C病棟の面会室は一部屋しかないので、面会者が重なった場合は、デイルームを利用することが多い。この病棟では面会のない患者が多く、彼、彼女たちは、他の患者の面会を複雑な表情で見ている。