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第25回「週刊金曜日ルポルタージュ大賞」佳作入選作

「リトル・ダマスカス」

 原田裕介

 エジプトの首都カイロの西およそ30キロ、車で1時間ほどにある10月6日市。1981年、エジプトの第3代大統領サダトが暗殺された日にちが名されたこの街は、砂漠に作られた衛星都市として知られている。ピラミッドで有名なギザ県内の都市の一つだが、これといった観光名所があるわけでもなく、一般的にその名を耳にすることは少ないかもしれない。荘厳なアル・ホサリ・モスクを街の中心に、隣接する10月6日大学の学生を目当てに、周辺には飲食店や商店が立ち並ぶ。衛星都市のその名の通り、国内外の銀行や通信会社、各メディアの支店があり、郊外には広大な工業団地が広がっている。幹線道路沿いに並ぶ大型ショッピングモールは、週末にはたくさんの家族連れで賑わう。出来てからおよそ30年という街としての新しさや、衛星都市としての秩序もあって、この街には一般的なエジプトの喧騒や、砂埃にまみれた雑然とした雰囲気を感じることは少ない。街の中心は小綺麗に清掃されており、主要道路は比較的整備されている。
 しかし、この人口50万人ほどのエジプトの中都市が、2012年ころを境に違った一面を持ち始めた。シリアからエジプトへと逃れてきたシリア人難民たちが、この街に小さなコミュニティを形成し始めた。シリア内戦の長期化に伴い、エジプト国内で増え続けるシリア人難民は、この街のコミュニティを徐々に大きなものに変えていった。かつては大学周辺に4、5店しかなかったシリア料理レストランは、今では200店舗を超えると言われており、シリア人経営の喫茶店や散髪店、雑貨店が街の中心にところ狭しと並んでいる。リトル・ダマスカス、この街に暮らすシリア人難民たちは、親しみを込めて密かにそう呼んでいる。

 2011年3月から始まったシリアの民主化運動は、やがて泥沼の内戦へと突入し、3年が過ぎた今もその終わりは見えてこない。内戦による死者は14年4月の時点で、15万人を超え、その3分の1は民間人と言われている。また、国連難民高等弁務官事務所(UNHCR)の14年2月の報告によると、およそ250万人が戦火を逃れ、難民として国外での避難生活を余儀なくされており、その数は今も増え続けている。その多くはレバノンやトルコ、ヨルダン、イラクなどの近隣諸国への避難が大半を占めており、エジプトのシリア人難民の数は、2014年の時点でおよそ13万人と言われている。エジプトに逃れてくるシリア人難民の内訳は、65%が首都ダマスカスやその周辺地域からで、14%が中部のホムス、残りが北部のアレッポやその他の都市となっている。近隣諸国と異なりここエジプトには、国際機関による難民キャンプなどはなく、すべてのシリア人難民が都市難民としてエジプト社会の中で生活をしている。10月6日市のシリア人難民の数は、出入りが激しく正確な数字は把握されていないものの、3万人から5万人と言われており、彼らもまた同様に、その全てが都市難民として生活をしている。
 では、なぜこれほど多くのシリア人難民が広大なエジプトの中で、このカイロ郊外の小さな街を選び、リトル・ダマスカスと呼ばれるほどのシリア人コミュニティを築き上げたのだろうか。取材したシリア人やエジプト人たちに繰り返し尋ねてみても、当の彼らですら明確な答えを持ち合わせていない。彼らの多くは、エジプトに避難して来た当初はカイロなどの異なる街に暮らしていたという。徐々にシリア人難民がこの街に増えていくに伴い、食材や日用品など母国での生活により近いものを求め始めた。多くは同郷の知り合いなどの情報を元に、この街に移り住んできている人がほとんどだった。この街でシリア内戦前から弁護士として働き、今も頻繁にシリアとエジプトを行き来しているという、シリア人のムハンマドは言う。
「もともと私の親戚がこの近くに住んでいたのがきっかけで、この街に事務所を構えました。その頃、この街にはシリア人は数えるくらいしかいなかった。それが、シリア内戦の影響が全土に広がった2012年を過ぎた頃から、徐々にシリア人難民の数が増えだしてきました。その中の一部がシリア料理レストランを経営し始め、またシリアの日用雑貨や食品を販売し始めた頃から、それを求めるように急激に増えていったんだと思います。もう一つは、この街はカイロなどのエジプトの都市と比べて、シリアの街並みに似ているということもあると思います。カイロなどの街の喧騒や雑然とした雰囲気は、我々シリア人にとってはなかなか耐え難いものです。その点、この街は他の地域と違って街は比較的整備されており、治安も悪くありませ
ん。それも大きな要因だと思います。」
 
 シリア人難民にとって、もちろんエジプトはあくまで一時的な避難先と考えている人がほとんどだ。同じアラブの国であったとしても、シリア人にとってはエジプトは外国あり、異国である。その異国での長引く避難生活の中で、食や文化、街の雰囲気など母国に近似したものを求めるのは当然といえば当然なのかもしれない。いわば避難先で、より母国に類似する環境を求めたシリア人難民たちが構築した、小さな代替的なシリア社会が、更なる人や文化を呼び込み、自然に拡大されたものが今のリトル・ダマスカスと呼ばれるものになったのではないだろうか。

 リトル・ダマスカスの中心部で、小さなシリア料理レストランを共同経営しているアブ・ムハンマド(42)と初めて会ったのは、エジプトの短い春の陽気が終わろうとしていた4月の終わりだった。シリア人の知人に仲介してもらい、私とエジプト人通訳のアバダは、彼のレストランへと向かった。アブ・ムハンマドは、店頭で器用にクレープ生地を薄く伸ばし、シリア風のサンドウィッチを淡々と作り続けていた。頭にはターバンを巻き、白い調理服は所々にシミが目立つものの、清潔感が保たれていた。昼時の忙しさのせいかその表情に柔らかさはなく、目元に浮かぶ深い皺が、彼の気難しさを物語っているように見えた。
 ピーク時が過ぎ、客が途切れた頃合いを見計らって、私は彼に近づいた。アラビア語の定型の挨拶の後に、アバダの通訳を介し、このリトル・ダマスカスに暮らすシリア人難民を取材している旨を伝えた。彼は私への警戒心を隠そうともせず、差し出した右手を怪訝な表情を崩すことなく握り返した。彼は鋭い視線を私に据えたまま、アバダの通訳を黙って聞いていた。何かに納得したかのように数回頷くと、アバダの通訳を半ば強引に遮って言った。「俺の何が聞きたいんだ?聞いたら貴方は何かしてくれるのか?」彼は挑発するように口元に微笑を浮かべ、握った右手を乱暴に離した。うんざりするような仕草でタバコに火をつける彼に説明を続けるも、私に対する懐疑の念が払拭される様子は見えてこない。次第に彼の不快感は、エジプト人とエジプト社会への怒りへと矛先を変え、通訳のアバダに対して、強い口調で非難を繰り返した。「俺はエジプト人を信用していない。我々シリア人とエジプト人は同じアラブ人で、助けあうべきなのに、あなた達は何もしてくれない。俺達をよそ者としか見てない。」彼は、一気に怒りをぶちまけ、その後に僅かに浮かんだ哀切の表情を隠すかのように、素早く仕事に戻った。私は、後日また来る、と伝え残してその場を後にせざる得なかった。
 私に対する警戒心や不信感の理由は、充分に理解していた。それは、決してこの街では珍しいことではない。リトル・ダマスカスに暮らすシリア人難民の多くは、取材をされることを極端に恐れていた。特に反体制側の人々は、アサド政権や在エジプトシリア大使館、そしてアサド政権と繋がりが強いと言われているエジプト政府によって、拘束もしくは本国への強制送還を強く恐れていた。加えて、私がアサド政権やエジプト政府の回し者という可能性も危惧しているように思えた。しかし、エジプト社会に対するあそこまでの憤りを見たのは初めてだった。今までにもシリア人難民から、エジプト社会への不平や不満程度のものなら数多くは聞いてきた。それでも、彼らの発言の中には、難民である自分たちを受け入れてくれたエジプトに憂慮するニュアンスが、言葉の端々に散りばめられていた。しかし、彼はエジプトへの憤りを隠すことなくアバダに、そして私にぶつけてきた。彼のその怒りの中に、エジプト社会で避難生活を送るシリア人難民の深い苦悩と憤懣を感じた。

 その日以降、私はリトル・ダマスカスに行く度に、アブ・ムハンマドの元へと向かった。彼はいつもの厳しい表情を崩すことはなかったが、レストランの傍らでお茶を飲んでいる私達と、少しづつ話しをするようにはなっていった。彼の元に通い始めて1ヶ月が過ぎるころには、彼の表情にもアラブ特有の人懐っこさが見え始めた。彼の眼光の鋭さは、相変わらず私に対して心を開いてないことを物語っていたものの、彼が当初感じていた私やアバダに対する不信感は徐々に薄れていっているように感じた。そして、彼は少しずつ自らのことを話し始めた。 
 およそ2年前の2012年の春、彼は妻と6人の子どもたちをシリアに残し、首都ダマスカスからレバノンへと避難してきた。その数日前、彼の父と兄の一人が政治犯の疑いで治安部隊に逮捕され、もう一人の兄は自由シリア軍兵士(FSA)として、アサド政権に拘束された。2011年のシリア民主化運動当初からアブ・ムハンマドも活動家の疑いで、アサド政権から目をつけられていたという。それまで何とか捕まらずに済んでいたが、父と二人の兄が捕まり、彼の逮捕も時間の問題だった。「確かに兄の一人はFSAとして、アサド政権と戦っていた。でも、父も俺もただの土木作業員にすぎない。最初はデモに参加したこともあったけど、決して活動家なんかじゃない。」「シリア政府のウェブサイトには、今も俺は反政府活動家として載っているはずさ。」彼は少しおどけたように付け加えた。彼は無事に避難できたら必ず妻子を呼び寄せることを約束して、一人でシリアを脱出することにした。反政府活動家の疑いが掛けられている彼にとって、シリアからの脱出は容易なことではなかった。見つかれば治安部隊に拘束されるか、最悪は殺される状況の中で、知人や友人の助けを借り、そしてなによりも様々な場所で多額の賄賂を払い、陸路レバノンまで逃れた。レバノンには僅か数日の滞在で、空路エジプトへと向かった。「レバノンは物価も高いし、何よりシリアとは文化が違いすぎる。避難するなら家族のためにも、文化的にも近いエジプトだと初めから決めていた。」

 ようやくエジプトに辿り着いた彼だったが、家族や親類がいるわけでもないエジプトで、仕事や家のあてもなく、さらに所持金はほぼ底をつきかけていた。彼はカイロのいくつかの街の路上で寝泊まりをした。「あの状態では家族を呼び寄せることもできなかった。援助機関やエジプト人は何も助けてくれなかった。」彼のエジプト社会への憤りや失望の原因は、この頃に沸き起こったのだろうか。淡々と話す彼の表情には、怒りよりも悲しさが色濃く滲んでいるように見えた。
 そうして、路上生活者として数ヶ月間エジプトを転々として辿り着いたのが、この街だった。その頃の10月6日市には、まだそれほど多くのシリア人難民が住んでいるわけではなかった。しかし、少しづつ増えていくシリア料理レストランの安さと味の評判によって、街は多くのエジプト人たちで賑わい始めていた。しばらくするとアブ・ムハンマドは、この街で知り合った同郷のシリア人と共同で、小さなレストランを経営し始めた。徐々に増えだしたシリア人難民の数と比例するように、店は軌道に乗り始めた。そして、数カ月後には家族を無事にリトル・ダマスカスへと呼び寄せた。「もちろん、今でもエジプトに対して不満はある。ただ、一人ひとりのエジプト人たちはいい人達だし、ここでの生活だって、大きなトラブルはない。でも、エジプト政府は我々シリア人難民に対して、何もしてくれなかった。UNHCRなどの機関だって、僅かな金や配給券をくれるだけだ。根本的に何もしてはくれない。」
 
 エジプト社会のシリア人難民への対応や、政府による支援策は、2013年7月を境に、大きく変化した。2012年6月、エジプトの「アラブの春」以降、初めて行われた大統領選挙に勝利したのは、シリアの反体制派を支持するムスリム同胞団出身のモルシ氏だった。モルシ大統領政権は、増え続けるシリア人難民を寛容に受け入れてきた。母国から逃れてきたシリア人難民に対し、内戦前と同様にビザを不要とし、エジプト国内での移動も、働くことも特に大きな問題もなかった。社会も彼らシリア人難民たちの状況を理解し、寛容に受け入れている雰囲気があったという。それが2013年7月、実質的な軍のクーデターによってモルシ大統領が失脚すると、彼らシリア人難民を取り巻く環境は大きく変化した。クーデター以降、軍の後ろ盾によって発足された暫定政権は、シリア人難民がエジプト国内でテロ組織に指定されたムスリム同胞団を支持しているとして非難し、テレビや新聞を中心としたメディアも、次第に反シリア人キャンペーンを展開し始めた。ネットや携帯電話の普及率も年々増してはいるものの、エジプト人の主要な情報源は未だテレビや新聞が握っている。そのため、確証のないこのような情報によって、シリア人難民に対するエジプト社会の風当たりは急激に厳しいものになっていった。暫定政権は、治安維持の一環として多くのシリア人難民を拘束し、その一部をシリアに強制送還した。
 日常生活でも、彼らに対する暴力や差別も増えていった。今までは不問だったビザも、エジプトに逃れてくるシリア人難民全てにビザの取得を義務付けた。しかし、モルシ政権崩壊以降、シリア人難民のエジプトビザの取得はほぼ不可能だと言われている。そのため2013年7月を境に、多少金銭的に余裕のあるシリア人難民は、エジプトでの逮捕、拘束、差別や暴力を恐れ、またエジプト経済の停滞や政治混乱から逃れるように、トルコやヨルダン、レバノン、そして欧米諸国へと向かっている。
 しかし、アブ・ムハンマドはシリア人難民に対するクーデター前後のエジプト社会の変化を一笑した。「俺はそうは思わない。モルシ大統領はシリア人難民に対して、聞こえのいいことは確かに言っていたけど、実際は何にもしてくれなかった。中身は何もなかった。もちろん、シシ次期大統領にだって俺は何も期待してない。」
 アブ・ムハンマドもまた、いつシリアに戻れるかも分からない状況の中で、エジプトを離れることを考えているという。「エジプトには、なによりシリア人難民の人権がない。我々はいつまで経っても難民のままだ。エジプトの状況はこの先も改善しそうもないだろう。」「万が一、シリア戦争が終わったとしても、アサド政権が勝った場合は、俺はシリアには戻れない。その時は、家族とともにヨーロッパに行きたいと思ってる。」彼の難民生活も2年が経とうとしており、単なる一時的な避難という考えは薄れ始めている。
 ひと通りの話を終えた頃、彼は少し考えるように俯き、少し間を置いた後に、ゆっくりと語り聞かせるように再び話し始めた。「シリアからエジプトに逃げてきた当初は、最悪だった。路上生活を送っていた日々は本当に最悪だったんだ。それでも内戦のシリアよりはマシだったのかもしれない。今は仕事があって、家族と一緒に居て、子どもたちを学校に通わせてあげられる。それだけで充分な気もするんだ。」「それでも、いつも思う。ここはやっぱり俺の国じゃない。俺の国はシリアだけなんだ。」彼は最後に携帯電話を取り出して、故郷の街の写真を私に見せてくれた。「とても綺麗なところなんだ。いつか遊びに来いよ。」そういうと、自分も懐かしげに写真を眺め、深くため息をつくと、ゆっくりと仕事に戻った。

 次第に空が暗くなり始め、リトル・ダマスカスの店々にも明かりが灯り始めた。一日の仕事を終えたシリア人やエジプト人たちが、オープンテラスの喫茶店に集まり、水タバコの煙をくゆらし、会話に花を咲かせている。その合間を縫って、店員たちがチャイや、水タバコ用の炭を手に忙しく動きまわっている。傍らにあるテレビでは古いエジプト映画が流れ、仰々しいほど大きなスピーカーからは伝統的なアラブ音楽が大音量で響いている。その一角にあるシリア人経営の喫茶店で、私と通訳のアバダはナエル(23)と向かい合っていた。ナエルは言葉を詰まらせたかと思うと、溢れそうになる涙を必死にこらえ、ぐっと奥歯を噛み締めた。意を決したように次の言葉を口にしかけると、やはり堪え切れなくなったのか、目頭を指で強く抑え、天を仰ぐように顔をあげた。そして、ゆっくりと息を吐き出し、静かに嗚咽を漏らした。それから数分後、少し落ち着いたように見えた彼は、赤く充血した目で私とアバダを交互に見ると、視線を僅かに逸し、記憶をたどるようにゆっくりとつぶやいた。「本当に素晴らしい女性だった。彼女は俺の全てだった。」そこまでいうと、彼は再び小さな嗚咽を漏らし、それ以上「彼女」について何も喋ることはなかった。

 ナエルはシリアのアレッポの大学に通う傍ら、父が経営する建築関係の会社を手伝っていた。典型的な家族経営の会社であったものの、生活は何一つ不自由なことはなかった。「父の会社は大きな会社ではなかったけど、全てが上手くいっていた。大学を卒業したらもちろん父親の後を継ぐ気だったんだ。」確かにナエルには、エジプトでの避難生活の中にあっても、比較的裕福な家庭で育ったのであろう雰囲気が漂っていた。4月中旬、初めて待ち合わせの場所に現れた彼は、身長は小柄ながらもガッチリとした体格に光沢のあるジャケットを羽織り、少し出すぎたお腹もだらしないという印象はなく、むしろ年齢を超えた貫禄を感じるほどだった。綺麗に丸めた頭と、整えられた黒々とした髭は、彼の威厳と自信を表しているように見えた。緊張なのか警戒なのか、それとも彼の性格ゆえか、通訳のアバダが私の人となりを説明している間も、しっかりと背筋を伸ばし、笑み一つなく耳を傾けていた。しかし、彼は最初こそインタビューという形式に戸惑い、何を話していいのかわからないという感じだったが、30分もすると饒舌に、そして雄弁に彼自身の物語を話し始めた。
 ナエルは、およそ1年前にシリアのアレッポから空路エジプトへと単身逃げてきた。彼はアサド政権を支持していたので、出国自体に大きな問題はなかったという。「2012年に入ると、徐々に僕の街にも内戦の影響が及ぶようになってきた。近くで大きな戦闘があったり、街の周辺に爆弾が落ち始め、周りの人々も少しずつ隣国に逃げはじめた。」それでも、彼は親類らとともに父親の会社で働き続けていた。しかし、内戦の泥沼化や長期化の影響は戦闘に巻き込まれる以外にも、彼らの生活に深く、深刻に影響を及ぼし始めた。

「反体制派の兵士たちが、僕らのような若い男性を拘束して、拷問にかけたり、自由シリア軍兵士への徴用を始めた。それが徐々に、標的が若い男性だけではなく無差別に誘拐をして、身代金を要求する事件が多発していった。」ナエルのように比較的裕福な家のものは、格好の標的になったという。確かに、ナエル以外のシリア人難民の人々に話を聞いても、この身代金誘拐の話は必ずと言っていいほど話題に上がった。ただ、それは彼の言うようなアサド政権支持者のみが標的になっているわけではなく、反体制側の人々も口々に「アサド政権の支持者が身代金誘拐を行っている。」と語っている。恐らく、その多くは政治的な意味合いの薄い、内戦という混乱に乗じた武装集団による強盗に近いものがほとんどではないのだろうか。また、反体制派による若者の誘拐、そして武装勢力への引き込みも深刻な問題となっている。内戦の長期化が懸念され始めたころから、頻繁に武装勢力による若者の誘拐や、自由シリア軍への半ば強引な勧誘が目立つようになった。そこで、若い子供をもつ親たちは、身代金誘拐や武装勢力への強制徴用を恐れて、まずは子供たちだけでも海外に避難させるようになった。確かに、ここリトル・ダマスカスにも10代から20代前半くらいの若いシリア人青年の姿がよく目につく。彼らは単独で、または兄弟とともにシリアから逃れ、同郷の友人や知人を頼りにこの街まで辿り着いたものも少なくない。そうして、避難先で再び再開した彼らは、レストランや喫茶店のウェイターや、路上での雑貨やジュースの販売などの仕事を紹介してもらい、働きながら母国の家族を思い、戦況を見守っている。

 2013年に入ると、ナエルの故郷周辺の戦闘も益々激しさを増し、ナエルの父の会社の重機や備品などが武装集団によって強奪された。「反体制派は、それこそ僕らの会社の全てを盗み、破壊していった。彼らは革命戦士なんかではない、ただの無法者だ。そうだろ?」彼は強い口調で私に問いかけた。言葉に窮する私に、彼は畳み掛けるように言った。「彼らは革命という言葉を使うが、あれは革命なんかじゃない。反体制派は美しいシリアの全てを壊した。革命は銃を使って人を殺すことか?」「今のシリアはただの戦争だ。アメリカやロシアや他のアラブの国やテロリストたちが、シリアを使って戦争をしているだけだ。」いくぶん熱を帯び始めて来た彼の主張だったが、そこまでいうと、ふと我に返るように周りを見渡した。そして、彼は険しい顔を近づけて囁いた。「政治的な話はやめにしよう。誰に聞かれてるかわからないし、こういう話はここでの生活を困難なものにしてしまう。」アサド政権支持者と反体制勢力支持者、そしてそのどちらでもない、ただ内戦の終わりを望んでいる者。ナエルはこの街には3つのタイプのシリア人難民がいると言った。日常生活では双方に大きな問題やトラブルはないものの、やはり仲の良い友人同士でもシリアの政治の話は極力しないようにしているという。それが、相反する政治観の場合は尚更だ。私は深く同意をして、彼に話の続きを促した。
 すべてを失ったナエルの両親は息子の誘拐の可能性も恐れ、ナエルを国外に避難させることを決めた。一般的にアレッポ周辺の住民の避難先の第一候補は、隣接するトルコであるが、彼はエジプトに避難することに決めた。反体制派勢力がトルコとの国境地帯の大半を支配していたため、アサド政権支持者であるナエルにとって、トルコへの避難はかなりの危険が伴う。それ以上にトルコは言語や文化の相違、そして物価などの経済的な面で、賢明な避難先とは思えなかったという。彼はトルコはもちろん、レバノンやヨルダンに比べてエジプトがすべての面において他の避難先よりも最適であると考えた。もちろん、その当時のエジプトはシリア人難民に対するビザも問題がなかった。彼の両親は、僅かに残された会社の備品などを売り払い、ナエルの避難資金を作った。一緒にエジプトに逃げようというナエルに、彼の父親は、「我々のような年寄りは、今更異国の生活には馴染めない」と故郷のアレッポに残ると告げた。
 そうして2013年5月、ナエルは単身エジプトへと避難してきた。後に分かったことだったが、彼の兄は内戦以前からエジプト北部のアレキサンドリアで暮らしていた。なぜ兄のところに行かなかったのか、と尋ねる私にナエルは「兄には家庭もあるし、決して裕福ではない。迷惑は掛けたくなかった。」と少し寂しそうに言った。エジプトにたどり着いたナエルは、始めはこの街ではなく、同郷の友人を頼りにカイロ市内で共同生活をしていた。残された資金はそれほど多くはなかったが、時おり友人の紹介でレストランや喫茶店のウェイターなどをやって、何とか生活をしていた。しかし、その僅か数カ月後、共同生活をしていた友人が彼の部屋に置いてあった金を盗んだ。「信じられなかったし、信じたくなかった。ただ、もうこの場所には居れないと思った。」彼は、その顔に悔しさをにじませて言った。友人の元を去り、知人の情報を元にたどり着いたのがリトル・ダマスカスだった。彼が来た頃には既にこの街は多くのシリア人難民が暮らしており、シリアの食や文化が溢れていた。「まったく同じではもちろんないけど、ここにはシリアの食べ物があって、言葉があった。なによりも同郷の人に会えたのが嬉しかった。」こうして彼のリトル・ダマスカスでの避難生活が始まった。

 ナエルは、リトル・ダマスカスの中心から少し離れた場所に、小さな部屋を借りて一人で住み始めた。家賃は月におよそ600ポンド(約8千円)。避難生活を送っている彼にとって、決して安くはない。この街のシリア人難民の青年たちの多くは、同郷の友人や10月6日大学に通うエジプト人学生などと部屋をシェアして暮らしている。多いところになると1家族用であろうの3部屋のフラットに、13人もの青年たちが住んでいるところもあった。やはり収入も安定しておらず、いつこの街を離れるかも分からない彼らにとっては、一人で部屋を借りるということは現実的な選択ではないのかもしれない。それでも、以前同居していた友人に金を盗まれた経験のあるナエルにとって、もはや誰かと一緒に住むのは金銭的な問題以上に耐え難い事だった。彼の借りているアパートは、通常は1フロアにつき、2家族が住める間取りになっているようだった。だが、彼の住んでいる階だけは、その部屋を更に細分化して、それぞれに簡易な扉をつけたような空間を十数個と作っていた。彼の部屋はおよそ6畳程度で、トイレとシャワーが一緒になった扉のないバスルームがついているだけの最低限の部屋だった。それでも、彼にとっては、避難先でようやく見つけた彼だけの空間だった。
 リトル・ダマスカスに移り住んだ当初、ナエルは友人の紹介で不定期ながら再びレストランのウェイターとして働いていた。増え続けるシリア料理レストランにとって、ウェイターはいくらいても足りないくらいで、仕事には困らなかったという。給料は決して高くはなかったが、比較的安定して仕事ができ、収入を得ることができていた。しかし、前述した2013年7月のエジプトのクーデター以降、徐々にこの街を離れるシリア人が増え、レストランや喫茶店の新規開店は頭打ちになり、ウェイターの仕事も減り始めた。更に、持病だった腰痛が悪化し、長時間立ち続けなければならないウェイターの仕事を続けることは難しくなった。それでも、暮らしていくためには仕事をするしかなかった。UNHCRの事務所は、シリア人に特化する形で10月6日市に出来てはいたが、難民申請を行ったとしても、毎月200ポンド(約2800円)分の食料や日用品を購入できる配給券の援助のみで、彼は全く当てにしていなかったという。ナエルは言う。「もちろん、僕は難民としてエジプトに避難してきた。でも、シリア人としてのプライドや、人間としての尊厳は忘れたくない。それは、お金や食べ物よりも大切なものだと思っている。だから、そういうものには頼りたくない。」
 しばらくして、ナエルはアラブコーヒーの移動販売を始めた。移動販売と言っても、彼が自宅で作ったコーヒーを、家庭用のポットと小さな紙コップを手に、リトル・ダマスカスの繁華街を自ら売り歩くといった具合だ。アラブコーヒーの作り方は、未だシリアに暮らす母から以前教わったものだった。彼のコーヒーは、一般的なアラブコーヒーに、少しくせのある香料を加えていた。もちろん母のオリジナルだという。価格は1杯1ポンド(約14円)。それを昼過ぎから深夜まで、時おり休みを挟みながら売り歩いて、1日で30杯程度売れるという。1日30ポンド程度(約420円)の稼ぎには満足していないが、持病もあり、ある程度自由の効くこの仕事を続けている。なにより彼の作るコーヒーは、周辺で働くシリア人に大変人気がある。彼の快活な人柄もあって、街を歩いていると多くの人が彼に話しかけ、そしてコーヒーを買っていく。しかし、その性格もアダになっているのか、客の3分の1くらいからは、彼はお金をもらわずにコーヒーを提供していた。「もちろんこれは仕事だし、お金は必要だけど、大切なのはそれだけじゃないはずだ。みんな色々な理由があって、ここに逃げてきた。だから助けあって生きていくべきだし、なにより僕は同じシリア人と話ができるのが嬉しいんだ。」そう話すそばから、彼の知り合いが遠くから声を掛けてきた。ナエルは嬉しそうに手を振ると、小さな紙コップにコーヒーを注ぎ、知り合いの元に歩き出した。

 ナエルと初めて会った時から数週間が過ぎた頃だろうか。既に取材という形ではなく、友人として何度も彼に会っていた。一緒に昼食を食べ、彼の家でお茶を飲み、彼のコーヒー販売の後をついて、リトル・ダマスカスを一緒に歩きまわったりもしていた。ナエルが冒頭の「彼女」の話を口にしたのは、いつもの様に、彼の仕事の合間に一緒にお茶を飲んでいる時だった。何気ない会話の中で、私がナエルの女性関係をすこし冗談めかして尋ねた時だった。いつもはニコニコしているナエルの表情が少し曇ったかと思うと、「俺はこの先も彼女なんていらないよ。」と少し不貞腐れたように言った。通訳のアバダは意味がつかめず、どう訳していいのかわからない様子だったが、促す私にそのまま伝えた。今度は私の方も彼の酷く悲観的な言葉の意味が分からず、アバダとともに彼の次の言葉を待った。ナエルは少し気持ちを落ち着かせるように時間を置いてから「彼女はもう死んでしまったんだ。」と抑揚のない声で言った。そして、ナエルは意を決したように煙草を灰皿に押し付けると、「彼女」の話を始めた。

 ナエルが彼女と出会ったのは2010年の春だった。彼の故郷のシリア北部のアレッポの街角で、偶然彼女を見かけたナエルの一目惚れだったという。「見かけた瞬間に好きになった。すごく綺麗で品のある女性だった。」彼は少し照れながらも、誇らしげに言った。しかし、彼の思いとは裏腹に、彼女はナエルに全く興味がない様子だったという。それでも、彼は時間を掛けて徐々に彼女との距離を縮めていった。そして、知り合って半年もすると彼女もナエルに好意を抱くようになり、次第に二人はお互いにとって大切な存在になっていった。出会ってからおよそ2年半が経った頃、ナエルは彼女と婚約をした。彼女の父親は、当初は彼との婚約に強固に反対していたが、彼の誠実さや彼女を思う気持ちが、次第に彼女の父親の態度を軟化させていったのかもしれない。最終的には彼女の父親もナエルのことを認めてくれた。「シリア内戦は既に始まっていて、将来の不安もあったけど、彼女と一緒にいれれば幸せだった。なんでも乗り越えていけると思った。」彼は思い出を辿るように言った。
 2013年に入るとアレッポのナエル達が暮らす地域にも、内戦の影響が日に日に増していった。シリア軍と反体制派との戦闘はより彼らの近くで、より激しく行われ始めた最中だった。ナエルは言った。「4月29日、彼女は戦争で死んだんだ。」改めてナエルの口から聞かされた彼女の死に、私は何の言葉も持ちあわせておらず、ただ呆然とナエルの次の言葉を待った。しかし、ナエルは黙り込んだ。それが空爆によるものなのか、銃撃に巻き込まれたのか、または別の理由なのか。ナエルが彼女の死について、それ以上語ることはなかった。彼はただ「彼女は戦争で死んだ。」と言った。そして終始彼の話すフィアンセは、名前はなく、あくまでも「彼女」だった。しかし、私はそれ以上彼に何も聞けないでいた。通訳のアバダも淡々と彼の話を訳し終えると、余計なことは何も言わず黙り込んだ。目の前のナエルは、堪え切れずに小さな嗚咽を漏らし始めた。賑やかな夕刻のリトル・ダマスカスの中で、この場所だけ奇妙な静寂に包まれた。そして、ナエルは「本当に素晴らしい女性だった。彼女は俺の全てだった。」と最後に言葉を振り絞った。彼女の名前も死因も思い出も、聞きたいことや確認したいことは山ほどあった。でも、ナエルの今まで言わずにしまいこんでいた哀しみや、必死に言葉を絞り出す姿をみて、私はもう充分なのだと感じた。
 
 リトル・ダマスカスはすっかり日が落ち、煌々と照らされたアル・ホサリモスクから夜の礼拝を知らせるアザーンが聞こえてきた。また、1日が終わろうとしていた。そろそろカイロに戻ろうと、我々はナエルと握手をし、幾度も抱擁を交わして再会を約束した。彼の目はまだ少し赤く腫れており、表情も僅かに影が残っているように見えた。私はその場を後にバス停へと歩き出した。ふっと気になってナエルを振り返ると、彼はいつもの笑顔を浮かべ、コーヒーポットを手にリトル・ダマスカスの街へと消えていった。

 私と通訳のモディを乗せたトゥクトゥク(三輪タクシー)は、リトル・ダマスカスの大通りを外れて、同じようなアパートと通りが広がる住宅街へと入った。運転手さえも幾度もトゥクトゥクを止め、通りの人に声を掛けて道を尋ねている。やがて道は未舗装となり、砂埃を上げながら器用に凹凸の激しい路地を進んだ。私には何度も同じような道を回っているようにしか思えなかった。それでも、全く手がかりのなかった私には、このトゥクトゥクの運転手を信じるほかなかった。
 
 リトル・ダマスカスでの取材を初めて1ヶ月が過ぎた頃だっただろうか。最初は話を聞くことすらも難しかったこの街のシリア人難民の取材だったが、少しづつ人づてに様々な人と知り合い、話を聞くことができていた。そして、彼らのほとんどが仕事や金銭面で苦しい生活を送っていた。もちろん、彼らの話や生活環境によって、エジプトに逃れたシリア人難民の現状を知ることができていた。また、彼らが直面している嘘偽りのない現実であることも理解はしていた。しかし、何処かでまた違う難民生活を送っている人もいるはずだという確かな考えもあった。エジプトには他のシリア人の主要な避難先と異なり、難民キャンプはなく、都市難民として生活を送っている。だからこそ、非常に見えにくいものの、エジプトでしか映せないシリア人難民の姿もあるはずだと感じていた。私は通訳のモディと相談して、このリトル・ダマスカスで事業を起こしているシリア人難民を探すことにした。友人や知人に訪ねてみると、レストランや日用雑貨店、シリア食材店などの店主を紹介してもらったが、どこかピンとくるものがなかった。また、店主や従業員に多少は話を聞くことができるものの、写真撮影はほとんど拒まれた。写真を生業にしている私にとって、話を聞くことも大事だが、何よりも写真を撮らせてもらう事が大事だった。もちろん、今までの取材方法であれば、少しづつ私のことを信頼してもらい、徐々に彼らの日常に入りこむことで、撮影をさせてもらうことの方が多い。だから、最初は難色を示していたとしても、その後の付き合い方次第で撮影を許可してもらえる可能性もあるかも知れなかった。しかし、この街のシリア人難民に対しては、基本的にはその方法では出来ないと感じていた。彼らの多くはシリア政府や大使館、そしてクーデター以降はエジプト治安当局を極度に恐れていた。いくらエジプトやシリアで発表する予定はないと説明したところで、100%なにもないとは言い切れないのが現実だ。まずは取材趣旨や私が写真家であることを充分に説明した上で、それでも協力してくれる人を探すしか方法はなかった。いよいよ策も尽きかけ、八方塞がりになった我々は、半ばやけくそにタクシーやトゥクトゥクを拾い、シリア人難民が経営している会社や工場は知らないかと聞いて回った。その中の一人が、このトゥクトゥクの運転手だった。

 探し始めて30分はたっただろうか。ようやく目的地に着いたようだった。運転手は「ここだと思う」と言うと、何の変哲もないアパートの半地下にある駐車場の様な場所を指さした。私はトゥクトゥクを降りてみたが、看板などどこにもなく、とてもじゃないが会社や工場があるようには思えなかった。それでも確認だけでもと思い、僅かに開いていた扉の隙間から覗いてみると、幾重にも重なった布の山の向こう側に、十台ほどのミシンがところ狭しと並んでいた。その間をまだ小学生くらいの少年や、髭を蓄えた50歳台位の男性が忙しそうに動きまわっていた。私は、ゆっくりとその工場と思われる場所の扉を開いた。扉の陰になっていて見えなかった右手側には、社長と思われる男性の机があり、聡明そうな男性が我々の訪問に気づきながらも、電話の応対に追われていた。従業員たちは突然訪問してきた私に、一斉に好奇の視線を浴びせながらも、その手を止めることなく仕事を続けている。ようやく電話を終えた男性に、私は自己紹介をした。まだ訝しげに私の話を聞いていた彼だったが、ひと通りの自己紹介を聞き終わると、ビジネスマンらしくすっと立ち上がり、そのがっしりとした右腕を私に突き出した。「ようこそ、私の会社へ」この街で縫製工場を営むシリア人難民のアブ・カラム(41)は、アラブ訛りの強い英語で言った。

 アブ・カラムは、若い従業員に椅子を用意させ、我々に勧めた。まだ小学校の高学年くらいのシリア人の男の子が、好奇の目で私を見ながら、それでも礼儀正しくチャイを用意してくれた。その間も、アブ・カラムの前に置かれた2台の携帯電話は、陽気な着信音を鳴らし続け、彼は対応に追われている。工場内を改めて見回してみると、従業員のほとんどは男性だが、女性も2、3人働いているようだった。決して大きな工場ではないが、みな無駄口も叩かず黙々と働いている。比較的年配の男性たちは、カラフルな布を手に器用にミシンを操っている。まだ子供にも思える少年たちは雑用係なのか、散乱している布の切れ端を、工場内を回りながら集め一箇所に集めている。その外れにはヒジャブで髪を覆った女性たちが、古めかしいアイロンを手に、黙々と作業台に向かっている。その姿に、仕事中も何となく怠惰な、よく言えば陽気な雰囲気のあるエジプト人とは違う、シリア人の勤勉さが見て取れた。衣服の知識は乏しいが、工場内に積み上がった色鮮やかな布の数々や、時おり見え隠れする可愛らしいキャラクターがプリントされた洋服の数々から、子供服を中心とした縫製工場なのは間違いなかった。ようやく電話が一段落したアブ・カラムに、私は改めて取材趣旨を説明した。ただ、彼はどこか腑に落ちなかったようで、私に幾つか質問をしてきた。「なぜこの街なのか。」「シリア人難民のどういうことを取材したいのか。」「シリア内戦に対して貴方はどう思っているのか。」彼はビジネスマンらしい物静かな口調で私に問いかけてはいたが、その目は私の人となりを精察しているような鋭さがあった。私は慎重に言葉を選んで、彼の問いに時間を掛けて一つ一つ答えていった。ひと通り彼の質問に答え終えると、アブ・カラムはようやく満足したかのように煙草に火をつけると、その背を深く椅子に沈め、私に質問を促した。
 
 アブ・カラムは1年半前に、シリア北部のアレッポから妻と5人の子供とともにエジプトに逃れてきた。アレッポでは子供服の縫製工場を経営していた。200人の従業員を雇い、アレッポでも有数の工場だったという。「シリア国内だけではなく、トルコや湾岸諸国にも商品を輸出していた。これからもっとビジネスを展開するつもりだったんだ。」2011年に始まったシリア民主化運動は、当初は彼のビジネスにも日常生活にも大きくは影響しなかった。もちろん、連日のニュースで情勢は注意深く確認していたが、彼の地域には大きな影響もなく、些か冷めた目で民主化運動の始まりを見ていたという。なによりも彼は社長として、一家の主として仕事に精を出していた。民主化運動は半年か1年位で終わるのではないか、そんな楽観的な見方をしていたという。しかし、彼のそんな思いとは裏腹に、民主化運動はやがて泥沼の内戦へと突き進み、戦闘は激しさを増していった。
 2012年に入ると、彼の工場周辺も戦闘や爆撃が激しくなり始め、工場の運営にも支障をきたし始めた。彼はギリギリまで営業を続けていたが、2012年の夏になると、もはや仕事どころではなくなった。「どっちの砲撃かはわからないが、工場の一部が破壊され、設備は略奪された。全壊は免れたけど、もはや仕事をしているどころじゃなくなった。直ぐに家族とシリアを離れることを決めた。」アブ・カラムは、その豊富なビジネスの経験からトルコへの避難を取引先や友人から勧められていた。彼の経験と豊かな人脈があれば、再びトルコでビジネスを展開することはそれほど難しいことでもなく、取引先もサポートを約束してくれていた。その他にも、ドイツなどのヨーロッパに向かう選択肢も残されていた。しかし、最終的に彼はエジプトへの避難を選んだ。アブ・カラムは言う。「確かにトルコにはビジネスを再び始められる地盤があった。様々な友人や知り合いがサポートも約束してくれていた。でも、家族のことを思うと言葉や文化が大きく違うトルコへの避難は選べなかった。もちろん、ヨーロッパも同じだ。エジプトが家族にとって最良の選択のような気がしたんだ。」
 2012年の夏にアブ・カラムと彼の家族はエジプトへとたどり着き、友人の情報を頼りにリトル・ダマスカスで暮らし始めた。「我々がこの街に来た時には、すでに大勢のシリア人難民が暮らし始めていた。そして、その後も多くのシリア人がこの街に逃れてきた。私の工場で働く人達もだいたい同じ時期にシリアから逃れてきたんだ。」シリアで大きなビジネスを展開していた彼にとって、避難生活は金銭的にはそれほど問題ではなかった。家族用のフラットを借りることもでき、子どもたちも学校に通わせることができている。ただ、彼の中で大きな誤算があった。シリアからの避難を決めた当初、彼自身は避難生活は長くても1年程度だと考えていた。新たなビジネスのチャンスがあるトルコよりも、エジプトを選んだ理由の一つにはそのこともあった。ある程度、治安が落ち着いたら再びシリアに戻って、工場を再開するつもりだった。しかし、避難から1年が経過しても、シリア内戦の終わりは一向に見えてこない。むしろ悪化しているような状況だった。トルコや湾岸諸国の古くからの取引先も、彼の状況は理解してくれてはいた。しかしこれ以上待たせることは、取引先を手放してしまう可能性が高くなる。それは、シリアに戻った時に再開する工場のためにも、避けなくてはならない。そう考えた彼は、避難生活が1年を過ぎた2013年秋に、小さな子供服の縫製工場を立ち上げ、仕事を再開した。

 工場にはトルコから取り寄せたという、およそ10台のミシンが並び、壁際に並んだスチール製の棚にはカラフルな布が乱雑に押し込まれている。一角には出荷用と思わるれる子供服が半透明のビニール袋に押し込まれ、幾重にも積み重なっている。会社では同時期に逃れてきた元従業員や、同郷の若者や知人の子供など、総勢20人のシリア人難民に加え、アブ・カラムから経営を学ぼうとエジプト人学生3人が共に働いている。従業員の大多数がシリア人難民なのは、同郷だからといった理由だけではない。「エジプト人に比べて、シリア人は仕事に対しての姿勢がしっかりしているし、情熱もある。エジプト人は少し怠けぐせがあるね。それに仕事に対する情熱も足りない。」アブ・カラムは工場を見回しながら言った。しかし、私の隣に座るエジプト人通訳のモディの存在に気が付くと、慌てて彼を気遣うように「もちろん、みんなではないさ。ここにいるエジプト人の学生は本当によくやってくれている。」と少し強引に付け加えた。
 アブ・カラムの会社がリトル・ダマスカスにできてから、半年が経過していた。現在は、商品の70%近くをエジプトで販売し、残りはトルコやサウジアラビアなどの湾岸諸国へ輸出している。ゆくゆくはヨーロッパへの輸出も視野にいれているという。売上は、シリア時代に比べてまだ10%程度しかないという。それでも、アブ・カラムはいう。「今、私の会社に大切なのは売上ではないと考えてる。もちろん、会社として売上が重要なのは間違いない。ただそれよりも、この場所に逃れてきた同じシリア人とともに働けること。そして、若い人たちに技術を伝えること。それが今は一番大切だと思っている。」従業員の給料は月に1200ポンドから1500ポンド(約1万7千円から2万1千円)程度で、工場の稼働時間は朝の9時から夜の11時まで、休みは金曜日のみだという。工場の奥にある薄暗い小さな部屋には、ベットが数台並んでいる。ただの仮眠室なのかもしれないが、従業員の何人かはこの会社内で寝起きをしているのかもしれない。避難先でほぼ休みなく働き続けることは、精神的にも肉体的にも負担が大きいだろう。それでも、周りからも社会からも難民として、援助される側との価値観を押し付けられがちな彼らが、避難先であるエジプトで自立して生活を送れるということが、何よりも重要なことのように思えた。また、いつの日かシリアに戻ることが出来た時に、彼らの技術や経験は、シリア再建への大きな力になるだろう。アブ・カラムの言葉は、戦後のシリアを強く意識しているように思えた。 もちろん、全ての難民が彼のように会社を立ち上げられるわけでもなく、ここの従業員の様に働ける場所が見つかるわけでもない。リトル・ダマスカス内にも、その数は多くはないが、生活に困窮したシリア人家族が物乞いをしている姿も見かけた。一般的にはエジプトに避難してくるシリア人は、周辺国に逃れるシリア人と比べて、生活に余裕のある人々だと言われている。たしかに、その傾向はあるのかもしれない。それでも長引く避難生活は彼らを精神的にも、そして金銭的にもひっ迫し始めている。その中で助け合い、共に母国へ帰れる日を思いながら、彼らは避難生活を送っている。「私にはシリア人としての誇りがある。それは、たとえ難民になっても、母国から避難したとしても持ち続けているものだ。」アブ・カラムは少しだけ語気を強めて、「プライド」という言葉を繰り返した。

 アブ・カラムの会社を初めて訪れてから2ヶ月が過ぎようとしていた5月の終わり。私は1枚の小さなメモを頼りに、再びトゥクトゥクに揺られていた。メモには彼の新しい工場の住所が走り書きされていた。以前訪問した際に、事業拡大のために工場を新しい場所に移すと言っていた彼が、手渡してくれたものだった。1週間ほど前に無事に工場の移転が完了したと聞き、私は通訳のアバダを伴って訪れようとしていた。
 新しい工場は、以前のような住宅街ではなく、まだ未開発な更地が広がる街の外れにあった。赤茶色のレンガがむき出しの、半ば放置されたようなビルの一階部分から微かに機械音が聞こえてきた。恐らくミシンの音だろう。相変わらず看板など、会社の存在が確認できる目印などはないが、彼の新しい工場に間違いなかった。私はなだらかなスロープの先にある扉を開いた。工場は以前と比べ2倍ほどの広さになっており、ミシンの数も従業員の数も心なしか増えているように感じた。相変わらずみな黙々と働いていた。しかし、アブ・カラムの姿が見えない。どうしたものかとその場に立ち尽くしていると、以前の訪問時に少しだけ会話をしたことがあったムハンマドという青年が私に気づき、工場の左奥にある部屋へと案内をしてくれた。そこは以前の工場にはなかった社長室のような部屋になっており、アブ・カラムが2人の男たちと仕事について話し合っているようだった。部屋はクーラーで充分に冷やされており、彼のデスクの向かいの壁に設置された大型液晶テレビには、数週間後に控えたシリア大統領選のニュースが映しだされていた。なによりも壁際に並んだ黒く重厚なソファが、彼の会社の順調さを物語っていた。
 私は忙しそうに商談を続けるアブ・カラムに断って、ミシンが並ぶ工場内へ撮影に向かった。先ほど案内してくれたムハンマドが、カメラを手にした私を見つけ、その顔に笑みを浮かべて手招きをしている。どうやら現場責任者の立場にある彼には、新たに工場内に部屋が用意されたようだった。彼の案内で部屋にはいると、大きな机の上にパソコンや周辺機器が並び、部屋の中央には少し古びた応接セットが置かれていた。しかし、私の目を引いたのは、机の横の書類棚に掛けられた大きなシリア国旗だった。
 現在のシリア国旗は1980年から変わらず、赤、白、黒の水平三色旗で、中央に星が2つデザインされている。一方、反体制派が掲げる旗は、緑、白、黒の水平三色旗で、中央には3つの星がデザインされているものだった。これは、1963年以前に度々シリア国旗として使用されていたデザインで、現在のバシャール・アル・アサドの父、ハーフィズ・アル・アサド時代から続くバアス党の政権獲得以前への回帰を標榜する意味で、使用されていると言われている。ムハンマドの部屋に飾られていたのは、2つ星のシリア国旗で、彼がアサド政権支持者であることを意味していた。彼はシリア国旗の横に立つと、私に写真を促した。誇らしげな表情を浮かべる彼の姿をファインダー越しに眺めながら、私の脳裏には、以前アブ・カラムが言った「プライド」という言葉が思い返された。

 ムハンマドの部屋を後にして再び作業場に戻ると、従業員たちは前回同様、時おり私の存在を意識しながらも、その手を止めることなく作業を続けている。その間を縫うように彼らの作業風景を撮影している時だった。ある男性にカメラを向けた瞬間、レンズを遮るように手を突き出し、「ノー」と叫ぶと、彼は椅子から転がり落ちるようにその身を反転させた。私は直ぐにファインダーから目を離し、カメラを頭上に上げた。そして「あなたの写真は撮らない」と身振り手振りで彼に伝え、謝罪した。自らの咄嗟の反応に彼自身も驚いたのか、少し呆然とした様子だったものの、私に既に撮影の意志がないことを確認すると、「私の顔を絶対に撮らないで欲しい」と念を押す様に伝え、再び作業に戻った。
 彼が強固に撮影を拒んだ理由は、今となっては定かではない。もちろん、エジプトビザや国内での労働許可の問題などで、避難先のエジプト当局に知られたくない場合もある。または単純に撮影されることを好ましく思ってない人も数多くいるだろう。ただ、今までの経験から言って、撮影を強く拒む人の割合は、アサド政権支持者に対して、反体制派の支持者の方が圧倒的に多かった。その中には、自由シリア軍兵士としてアサド政権と戦っていた者や、アブ・ムハンマドの様に当局から政治犯や活動家の疑いが掛けられている者もいるのかもしれない。しかし、話を聞く限りでは、その多くはただ単純にシリアでの民主化運動の支持者として、アサド政権からの自由を強く望んでいる人々だった。彼らはこの地に避難してきた今もなお、アサド政権の影に怯え、強制送還や逮捕・拘束される不安を抱きながら生活を送っている。さらに、彼の強い拒絶を目の当たりにして、私という存在もまた、彼らの避難生活を脅かす大きな要因になりうることを強く思い知らされた。アブ・カラムやムハンマドの私への対応をみて、この工場に働く従業員もみなアサド政権を支持している人々なのだと勘違いしていた。後にそのことを問いかけた私にアブ・カラムは言った。「この工場には色々なシリア人難民がいる。それぞれの思想や信念を持ちながらシリアから逃れてきて、この場所で一緒に働いている。アサド政権支持者も反体制派支持者も。しっかり情熱を持って仕事をしてくれるなら、私はそれは関係ないと思っている。」いずれにせよ、取材を続けることによって、彼らをさらなる危険に晒すようなことだけは、絶対に避けなければいけなかった。

 その後、商談を終え、取引先を回るというアブ・カラムに私は同行させてもらうことにした。彼の車はリトル・ダマスカスの中心部を通り過ぎ、郊外の工業地帯へと入っていく。そこには、新聞社の印刷工場や通信会社の巨大なコールセンター、世界的な飲料会社の製造所など大小様々な工場や会社が立ち並んでいる。その一角にある、古びた3階建ての倉庫のような建物の前に車は止まった。外観では何の会社なのかは判別できないが、一階部分の倉庫には、アブ・カラムの会社にあったような半透明のビニール袋が数百個と積み上げられている。私は彼の後に付いて2階にある事務所へと向かった。重々しい扉を開けるとアブ・カラムの工場の十倍はあろうかと思われる大きさの縫製工場が広がっていた。納入された綿や布が通路を塞ぐように積み重なり、幾つもの部屋に分かれた作業場では、真新しい全自動の縫製機械が忙しく動いている。アブ・カラムは作業場で指示を出している1人の男性に近づくと、親しげに挨拶を交わした。その男性がこの会社の社長のタラル(47)だった。タラルは、私の突然の訪問を快く迎えてくれた。流暢な英語を話し、常に紳士的な笑顔を浮かべている彼には、ほかのシリア人には感じたことのない、大きな余裕のようなものを感じた。しかし、彼もまた、アレッポからエジプトに逃れてきたシリア人難民の一人だった。
 アレッポ近郊で父親の代から続く縫製工場を経営していたタラルが、妻と5人の子供とともにエジプトに逃れてきたのは2012年の夏だった。アブ・カラムと同様に彼もまた、ギリギリまでアレッポに留まり、従業員と共に仕事をしていたという。「2012年の夏になって、周辺の戦闘が激しくなり、私達家族は身の危険を感じて逃げることにしたんだ。ただ今も、アレッポの工場は規模を縮小しながら、故郷に留まっている兄が経営しているよ。」彼もまた、避難当初はエジプトでのビジネスは考えもしていなかったという。それでも、避難して半年も過ぎた頃には避難生活がまだ数年と続いていくと考え、リトル・ダマスカスの工業地帯に縫製工場を立ち上げた。
 彼の会社はニット製品を中心に製造し、エジプト国内や湾岸諸国に加え、ヨーロッパにも輸出をしているという。32人の従業員の内、22人が彼と同様に故郷から逃れてきたシリア人難民だという。「数カ月前からアレッポにいるシリア人の職人を呼び寄せるために、エジプトビザの申請をしているんだ。でも、エジプト政府はシリア人に対して、新たにビザを発給することを止めてしまった。昨年夏のクーデター以降、彼らのシリア人難民に対する対応は全て変わってしまった。」タラルはその柔らかな表情を崩すことなく、エジプトに対する不満を口にした。彼はさらに続けた。「エジプト国内では、内戦から逃れてきた多くのシリア人難民が事業を立ち上げている。我々のエジプト経済への貢献は、計り知れないはずだ。にも関わらず、政府はアサド政権と協力して、シリア人難民を排除しようとしている。」彼の言うように、この2年間でシリア人によって大小400近い事業が立ち上げられており、その経済効果は30億とも40億とも言われている。彼らの今まで培ってきた技術や経験が、2011年の「アラブの春」以降、政治混乱を繰り返し、経済危機の真っ只中にあるエジプト経済にもたらしているものは、決して小さくはないだろう。
 タラルとの話は次第にシリア内戦へと移っていった。彼は言う。「アサドは自国民を殺し、力で押さえ込めようとしている。今までと同じやり方だ。3年前に我々が自由を求め立ち上がったのは、アサドのそういった強権的な政治に対してだ。我々の革命は力では押さえ込められない。」そこには、冷静な口調ながらも、アサド政権に対する強い憤りが込められていた。アサド政権を支持している人々も数多くいるのではないか、と指摘する私に、彼は会話を遮るように言った。「シリア国民の75%は反アサドだ。残りの25%だけがアサドを支持している。それなのに国際社会はシリアの現状を見ようとしない。むしろ、アサドを支援しているようにさえ感じる。」そこまでいうと、彼はすこし熱くなりすぎた自分をなだめるように「とにかく」と一度区切ると、「シリアに対する国際社会の反応は非情過ぎる。」と訴えかけるように言った。

 我々はタラルの会社を後にし、カイロ市内にあるという次の取引先へ向かった。車はカイロの中心部へ向かう広々とした高速道路を走っていた。車中で私はタラルの会社では多くを語らなかったアブ・カラムに、現状のシリアについてどう思っているのかを訪ねてみた。彼は少し考えこむように唸ると、視線を前方から外すことなく、ゆっくりと話し始めた。「私は、今のシリアは愚かな事をしていると思っている。アサド政権も反体制派も、自国民を殺し合っているだけだ。こんなことは何の解決にもならない。実際に、私はどちらの支持者でもない。ただ、自分の国で平穏に暮らしたいと思っているだけだ。」彼はそこで言葉を切り、アバダの通訳が終わるのを待った。それを確認すると、今度は言葉を強調するようにはっきりと言った。「ニュースでは色々言われているが、心の中ではそう願っているシリア人がほとんどだと私は思っている。もう殺し合いにはうんざりだ。」私は、この時まで彼はアサド政権の支持者なのだと思っていた。だからタラルが強くアサド政権を非難している際に、彼はただ黙って聞いていたのだと勝手に思い込んでいた。両陣営で盛んに飛び交う自由や革命、聖戦やテロの根絶などといった仰々しい言葉の前では、平穏な暮らし、という言葉は、あまりにも弱々しく、無気力なものにさえ思われてしまう。だからこそ、あまりにも論を俟たない願いは、公に口にすることが憚られる願望なのかもしれない。ささやかで、平凡にさえ思えることを願うには、シリア内戦はあまりにも長く、失うものが大き過ぎたのではないだろうか。アブ・カラムは、淡々とした口調で続けた。「内戦が終わったら、治安状況をみながらできるだけ早くシリアに戻りたいと思っている。ただ、帰るときには私の意思に関係なくどちらかを選ばないといけないだろう。つまり、それがアサド政権にしても、反体制派にしても。再びシリアに戻るということは、そういうことなんだ。」そう言い終えると彼は、少し話し疲れたかのように首を鳴らし、ゆっくりと煙草に火を付けた。そして、それ以上シリア内戦について話すことはなかった。やがて、アブ・カラムの運転する車は高速道路を降りると、夕刻を迎えたカイロの街の喧騒の中を突き進んでいった。

 リトル・ダマスカスの象徴的存在であるアル・ホサリ・モスクの周辺は、カイロやその他の都市を往来するミニバスやワゴン車の発着地点となっており、運転手の呼び込みの声が飛び交っている。その周辺を取り囲むようにトゥクトゥクやタクシーの運転手が、ミニバスから降りる乗客を我先にと狙っている。モスクの前の広場では路上販売や靴磨きを生業にする男たちや、日がな何もするわけでもなく日陰に座り込む男たちが暇を持て余している姿がある。その広場の外れの、ちょうどモスクの陰になり、人目につきにくい場所には、数人程度が座れる石段になっている場所がある。そこには、常に入れ替わるように何人かのシリア人女性たちが、広場で子どもや孫を遊ばせながら、知人や友人たちと会話を楽しんでいる姿をよく見かけた。そのほとんどが、友人同士など数人で固まっていることがほとんどだった。スザーン(50)を初めて見かけたのも、その場所だった。彼女は、他の親子連れや友人同士から少し離れるように一人で座り、年老いた外見には似合わぬ大きなスマートフォンを器用に扱っていた。いつもは何気なくその前を通り過ぎていた私だったが、ちらりと見かけた彼女の姿がどうにも気になり、通訳のモディを伴って思い切って、彼女に話しかけてみることにした。
 通常であれば不審に思われたり、無下に断られるのがほとんどだった。特に女性の場合は尚更だった。私もモディも駄目元でという気持ちに近かった。しかし、スザーンはあまり警戒している様子もなく、突然話しかけてきた我々のために少し腰を浮かして隣に座るスペースを作り、座るように促した。彼女は、通訳のモディがひと通りの説明を終えると、再びスマートフォンを取り出し、慣れた手つきで操作をすると、エジプトへ避難する前のシリアの写真を見せてくれた。綺羅びやかな家具が配置された自宅や、プール付きの広々とした庭、そしてかなり手の込んだ料理の写真の数々が、彼女のシリアでの生活の豊かさを物語っていた。彼女は言った。「私達はシリアの中でも裕福な家庭だったと思います。既に亡くなってしまいましたが、主人は輸入業を営んでいて、その後を継いだ息子たちのビジネスも上手くいっていました。でもシリア内戦がその全てを奪いました。」彼女は昔を懐かしむように、数百枚とあるであろう写真の一枚一枚を、延々と我々に見せ続けてくれた。もしかしたら彼女は、誰かと話しをしたかったのかもしれない。それも、同じ境遇にあるシリア人難民ではなく、まったく国も境遇も異なる私のような外国人に。少し横暴な考えかもしれないが、そう思えるほど、彼女は携帯電話に残されたシリアでの日々の数々を、飽きることなく我々に説明してくれた。

 シリア北部のアレッポ出身のスザーンは、2年前に23歳の息子とともにエジプトに逃れてきた。13年前に既に夫はなくなっており、7人の子どもたちは、一緒に逃れてきた末っ子を除き、みな結婚や仕事の関係で既にシリア国外で暮らしていた。スザーンは当初、結婚してドイツで暮らす娘の元への避難を考えていたが、ビザの問題で断念せざる得なかった。また、ドバイに暮らす息子も避難を勧めてはくれたが、同様にビザはいつまで経っても発給されず、二人はとりあえずという形でエジプトに逃れてきた。彼女は、メッカ巡礼の際に知り合ったエジプト人女性を頼りにこのリトル・ダマスカスへたどり着いた。現在も、その彼女と共に暮らしているという。「当初は、もちろんヨーロッパやドバイにいる子供のところに逃げようと考えていました。でも、ビザの関係でそれができずに、とりあえずエジプトに逃げるしかなかった。今でもビザの申請を行っているし、可能なら直ぐにでも息子や娘たちのところに行きたいと思っています。」
 この街に来てから数カ月後、彼女は友人のエジプト人女性の紹介で、アル・ホサリ・モスクで女性たちにアラビア語を教える仕事を始めた。賃金は決していいとは言えないが、それでも何もせずに毎日を過ごすよりはよっぽど良かったという。それ以上に避難生活が想像以上に長くなり、2年を過ぎた今だからこそ、仕事があることの重要性がわかるという。「ここまで避難生活が長くなるとは想像もしていませんでした。もちろん、避難時にある程度まとまったお金は持ってきましたので、金銭的なことは今はまだそれほど問題ではありません。一番はこの仕事をしているので、エジプトのビザがちゃんと取得できるということです。もし、この仕事をしていなければ、私はとっくにシリアに強制送還をされていたかもしれません。」
 前述のとおり、クーデター以降のエジプト政府は、シリア人難民に対するビザの発給をほぼ止めている。実際に、クーデターのあった7月以降に、ビザなしのシリア人難民と思われる多数の渡航者が、エジプト治安当局によってシリア本国に送還され、今なお強制送還を待つシリア人が、多数勾留されているという情報もある。また、UNHCRで難民申請を行えば、基本的にはビザの問題は解決する。しかし、難民申請をすればエジプトで正規の仕事をすることは難しくなるという。シリアでは富裕層として、何不自由なく幸せな家庭を築いてきたスザーンの様な女性にとって、ビザがない状態で異国にとどまり続けることの精神的負担は大きいだろう。その意味では、彼女にとって仕事が見つかったということが、エジプトでの避難生活の中で、唯一の救いだったのかもしれない。
 スマートフォンを弄る彼女の手が1枚の写真の前で止まった。その写真には、ヨーロッパと思われる綺麗な町並みをバックに、柔らかな表情を浮かべてポーズを取る青年が写っていた。彼女はその写真を少し拡大して、懐かしむように眺めながら言った。「一緒にエジプトに避難してきた末っ子です。彼は今、スウェーデンにいます。」彼女は少し顔を背けると、そっと涙を拭った。
 
 スザーンと共にシリアから逃げてきた息子、避難先での安全のため彼の名前の記載は拒否された、は5ヶ月前にエジプトからイタリアを経由して、スウェーデンへと渡った。昨年7月のクーデター以降、エジプト政府のシリア人難民への方針転換によって、シリア人に対するエジプト社会の目は一気に厳しいものとなり、多くのシリア人にとってエジプトはもはや安全な避難先ではなくなった。差別や暴力を受けることも増えだした。その状況の中で、多くのシリア人難民がエジプトからの脱出を計り始めた。その一番の目的地がスウェーデンだった。2013年9月、スウェーデン政府は亡命を希望するシリア人難民をすべて受け入れ、亡命申請を行ったシリア人難民に永住権を与えると発表した。また、永住権が付与されたシリア人難民は家族を呼び寄せることも可能だという。元々、この発表以前にもスウェーデン政府はシリア人難民の受け入れに寛容で、2012年以降、1万5千人のシリア人難民を受け入れてきた。クーデター以降のエジプトの社会的な変化に、避難生活の限界を感じ始めたシリア人難民たちの多くは、スウェーデンを目指してエジプトを離れ始めた。スザーンの息子もその一人だった。しかし、エジプトからスウェーデンへの避難は、命の危険さえある困難なものである。一般的にエジプトからスウェーデンへの避難を望むシリア人難民は、地中海沿いにあるエジプト第2の都市のアレキサンドリアへ向かうという。そこには、いくつもの違法船を手配している仲介業者が避難希望者たちを募っている。避難までの費用はおよそ30万円から50万円とも言われており、その全てが成功するとは限らない。定員以上のシリア人難民を詰め込んだ違法船は、度々途中で沈没し、犠牲者を出す事故も起こしている。また、湾岸を警備するエジプトの治安部隊に発見され、勾留されるケースも後を絶たない。勾留された彼らに待っているのは、シリア本国への強制送還だ。様々な危険をくぐり抜け、命がけの航海が成功した場合のみ、イタリアのシチリア島を経由してスウェーデンへとたどり着けるという。
 スザーンの息子は、この全てを理解した上で、スウェーデンへの亡命を試みた。スザーンもできれば息子とともに行きたかったが、年老いた彼女にはあまりにも危険すぎた。「本当は息子にも行ってほしくはなかった。死んでしまう可能性も充分にあるし、彼が行ってしまったら私はエジプトで一人になってしまいます。でも、エジプトでは仕事は見つからないし、益々状況は厳しくなっていました。若い息子には可能性もある。最終的に私は彼のスウェーデン行きを承諾しました。」彼がスウェーデンへの避難を決め、リトル・ダマスカスを離れて数週間後、彼女の元に息子から無事にスウェーデンに辿りつけたと連絡があった。「神に感謝してます。」スザーンはその時を思い出すかのようにつぶやいた。
 
 息子がスウェーデンへと避難して以降、彼女はこのリトル・ダマスカスで一人になった。一緒に暮らしているエジプト人女性や、隣人は良くしてくれているが、基本的には仕事先のモスクと自宅を往復するだけの毎日だという。ただ、モスクでの仕事が終わると少しだけこの場所に座り、人の往来を眺めたり、スマートフォンを使って子供たちとメールをしたりしているという。私は、周辺にいるシリア人女性たちや数多くいるであろう同郷の人々との交流はないのかと尋ねた。また、一人で探すのが困難であったとしても、シリア人コミュニティが存在しているリトル・ダマスカス内であれば、話し友達の一人や二人は紹介してもらえるのではないかと。彼女は目の前の広場で遊ぶ子どもたちを、ぼんやりと眺めながら言った。「私はアサド政権支持者です。あんなことがなければ、私は今もシリアで普通の生活ができていた。反体制派や、彼らの支持者達が私達の平穏な生活を奪ったんです。」穏やかな口調の中にも、彼女の芯の強さを感じる言い方だった。「ここには様々な人が住んでいます。政治的な思想も、内戦の捉え方も人それぞれです。私はコミュニティから距離を置いたり、誰かと親しくなることを避ける事で、そういった煩わしさから開放されたいと思っています。」そんな彼女の心の支えは、スマートフォンを使って各地で暮らす子どもたちと連絡を取ることだという。彼女はフェイスブックやLINEなどのSNSを使って、毎日のように子どもたちと連絡を取り合っている。「少し寂しい時もありますけど、それでもこうやって子どもたちと連絡がとれるものがあるのはありがたいことです。」少しシワが目立つ小さな手にスマートフォンを握り、彼女は優しく微笑んだ。

 再びスザーンと会ったのは、彼女と初めて会って1ヶ月以上経った、3月の終わりだった。彼女はリトル・ダマスカス郊外にある大型ショッピングモールを指定した。。我々はモールに着くと、待ち合わせ場所のモール内にあるフードコートに向かった。しかし、賑やかなフードコート内に彼女の姿は見当たらない。唯一連絡が取れる通訳のモディの携帯電話は、バッテリーが切れてしまっていた。まだ着いていないのかと、ふらふらとフードコート内を歩き回っていると、この前の彼女の印象とは全く異なる、しっかりとお洒落をした彼女が私を見つけ、声をかけてきた。シンプルな黒いヒジャブで髪を覆った上には大きめのサングラスが掛けられており、首には花がらのスカーフを纏い、足元は若い女性を思わせるようなロングブーツを履いている。その姿は、以前の少し疲れた印象のあった彼女とは全く異なり、シリアでの裕福な生活を思わせるものだった。
 彼女は再会して早々に「来週、ドバイに行く事に決まりました。」と嬉しそうに言った。数日前にドバイに住む息子から連絡があり、ようやく彼女のビザが発給されたという。彼女は「ドバイに行ったら私は家政婦さんみたいなものですよ。息子も奥さんも働いているから、私が孫の面倒も家のこともやらないといけないんですから。」と少し不満げに顔を顰めてみるものの、やはりその表情は以前と比べ物にならないほど明るかった。ただ、「もうエジプトには二度と来ることはないと思います。」というと、一瞬だけ寂しそうな表情を浮かべた。スザーンは、現在は仕事があるためエジプトのビザに関しては問題ないが、一度外に出てしまえばビザの発給は二度と受けられないだろうと言う。今後のシリア情勢やエジプト情勢を考えれば、もしかしたら改善していく可能性もあるかもしれない。むしろ、エジプトがこのまま実質的にシリア人の入国の拒否をし続けられるとは思えない。しかし、この2年間のエジプトのめまぐるしいほどの政変の中に身をおき、クーデター後のエジプト社会の変化を目の当たりにしてきた彼女がそう思うのは、当然かもしれない。私は「ビザの問題がなければ、もう一度エジプトに来たいと思うか」と尋ねると、彼女は少し考え、「今はそうは思えない。やっと離れられるというのが本音かもしれない。」と静かに言った。
 
 我々は彼女と少しモール内の中庭を歩いてみることにした。既に日は沈み、中庭にあるライトアップされた噴水が、音楽に合わせて踊っている。周りを取り囲むように、幸せそうな家族連れやカップルがその光景を背景に、写真を撮ったりしている。その姿を遠目で見ながら、スザーンは言った。「シリアからこの街に来てから、私はほぼ毎週金曜日にこのモールに来ていたんです。息子がスウェーデンに行ってからは、毎週必ず来るようになりました。昼過ぎにここにきて、お昼ごはんを食べて、モール内で買い物をしたり、映画を見たりしました。夜になると、この中庭に面したカフェで0時ころまで食事をしたり、お茶を飲んだりしてたんです。」彼女はつい最近までの事を、まるで遠い過去の事を思い出してるかのように話した。優しい微笑を浮かべながらも、時おり見せる寂しそうな表情が印象的だった。彼女にとって、この2年間のエジプトでの避難生活とはどのようなものだったのだろうか。スザーンは言う。「良いも悪いもなかったと思います。私はシリアに居たかったけど、それはできなかった。子供たちのところに行きたかったけれど、それも出来なかった。そんな中でエジプトは、私が居ることができる唯一の場所だったんです。そのような場所に、良いも悪いもないのではないでしょうか。」「でも、この場所もまた私の場所ではなかったんだと思います。」そう言うと、人々で賑わう噴水に向かってゆっくりと歩き出した。噴水を彩るイルミネーションが、どこか悟ったように話した彼女の小さな後ろ姿を、鮮やかに照らしていた。

 彼女は、それから1週間と経たないうちにエジプトを発ち、ドバイへと向かったという。私はエジプトを離れる前にもう一度会えないかと尋ね、スザーンは時間が取れればと言ってくれたが、結局彼女からの連絡はなかった。ドバイに無事に着いたという連絡は、通訳のモディを介して教えてもらった。それから2週間ほど経った頃に、再びスザーンから通訳のモディ宛にメッセージが届いたという。そこにはこう書かれてあった。「ドバイはすごく都会だけど、暑くて大変です。それに、ここは英語が喋れないと何にもできません。とにかく、英語を勉強することから始めようと思います。モディもドバイに来ませんか。すごくいいところですよ。」

 しばらく連絡の取れなかったヌール(23)とようやく再会することができたのは、エジプトの大統領選挙を月末に控えた5月の中旬だった。これから始まるエジプトの長い夏の到来を思わせる、雲一つない青空が広がっていた。リトル・ダマスカスの中心街にある喫茶店に現れたヌールは、私を見つけると、少しはにかむような微笑を浮かべ近づいてきた。ただその顔には、少し疲労の色が浮かんでいるように見えた。私達は久しぶりの再会を、握手と抱擁で交わすと、お互い何から話していいものか探りあうように、煙草に火をつけ、少しの間口ごもった。彼は煙草の煙を吐き出すと、「今まで会う時間が取れなくて申し訳なかった。」と私に謝罪をした。実際、私はリトル・ダマスカスに来る前には、必ずと言っていいほど彼にメールを送り、彼の予定を聞いた上で会う約束を取り付けていた。しかし、数週間ほど前から、その約束は直前で何度もキャンセルされるようになり、連絡自体も途絶えがちになっていた。ようやく再び彼と連絡が取れたのは、2日前だった。いくらメールをしても返信がなかったために、カイロ市内で通訳のアバダと打ち合わせをしていた際に、ヌールに電話を掛けてみた。何回目かのコール音の後に電話に出たヌールは、今はリトル・ダマスカスではなく、スエズに居るといった。スエズはエジプト東部にあるスエズ運河で有名な都市で、カイロからバスでおよそ3時間ほどの街だ。なぜそんなところに居るのか、と訪ねても答えをはぐらかされてしまう。明後日にはリトル・ダマスカスに戻るという彼に、何とか会う約束を取り付けた。
 私は「そんな事は気にしてない。」と彼に伝え、「ただ、何があったのか教えてくれないか。」と彼の顔を覗き込むように問いかけた。改めて近くで見た彼の顔色は以前会った時よりも若干青白く、目の下にはうっすらと隈のようなものが浮かんでいた。それは何かに疲れているというよりも、何かに思い悩んでいるように見えた。彼は、少しの間黙り込んだ。恐らく私に言っていいものかどうか、考えていたのだろう。それでも、たばこを灰皿に押し付けると、私の目を見てはっきりと言った。「ヨルダンに行こうと思っている。その準備をしているんだ。」
 私は、何となく彼の答えを予測していたように思う。彼がこの街を、この国を離れたいと強く思っていることも知っていた。だから、ヨルダンという国は予想外だったが、彼がどこか他の国に避難しようとしているのではないか、という考えは連絡が取りづらくなった頃から思い始めていた。それでも、彼にはそれが出来ないこともまた、私は知っていた。彼はパスポートを持っていない。正確に言えば、およそ6ヶ月前にエジプトで盗まれてしまった。その彼が、どうやってヨルダンに入国できるというのだろうか。ヌールも私の疑問を感じ取っているようだった。彼は少し周りを気にしながら顔を近づけ、私と秘密を共有するかのように打ち明けた。「もしかしたらパスポートが手に入るかもしれない。」
 怪訝な表情を浮かべる私を説得するようにヌールは説明を始めた。彼は、友人を介してエジプト在住のシリア人弁護士と知り合った。弁護士は今でもエジプトとシリアを行き来しているという。それはつまり、ある程度アサド政権と繋がりのある、政治力のある弁護士ということを意味する。彼はその弁護士に思い切って、パスポートがないこと、そしてできるだけ早くエジプトを離れ、違う国へ行きたいということを相談した。その弁護士が彼に一つの案を持ちかけたという。弁護士はシリア国内のパスポート発行機関にもコネがある。弁護士がおよそ1週間後に再びシリアに戻る際に、その部署の責任者に話をつけて、ヌールの正規のパスポートを発行してもらうことが出来るという。偽造ではなく、あくまで正規なものだ。そして、弁護士が再びエジプトに戻った際に、新しいパスポートを手に入れ、彼は無事にエジプトを出国できる。ただし、費用は全て合わせて600ドルで、前払いが条件だという。
 ヌールは話し終わると「どう思うか。」と私と通訳のアバダに尋ねた。ただそれは、我々に相談するというよりも、決定事項を伝えているようだった。私もアバダも考えは一緒だったと思う。ただ、ようやく訪れた小さな希望に望みを託そうとしている彼の姿を見ると、そのことを言っていいものか判断できずにいた。しかし、しばし悩んだ末に私は彼に伝えた。「私はその弁護士に会ったことがないので、はっきりしたことは言えない。でも、その弁護士が信用できるとは思わない。そもそもそんなことが可能とも思えない。」ヌール自身も、その弁護士を信頼していいものなのか、判断に迷いがあるようだった。ただ、彼の心は既に決まっているようにみえた。
 しかし、いくら彼の気持ちがその弁護士に依頼しようと決めたところで、問題は600ドルという金額だった。それも前払いが絶対の条件だという。彼の手持ちが残り僅かなのは知っていた。ヌールが600ドルという大金を、この1週間で準備できる可能性は限りなくゼロに近い。もしかしたら、スエズに向かったのは金策のためだったのかもしれない。そして、考えたくはなかったが、こうして久しぶりに私に会ったことも、全てを打ち明けたこともー。それからおよそ1時間、私と通訳のアバダは断言こそはできなかったが、それでも強い調子で、ヌールに考え直すように促した。しかし、彼の考えは変わらないようだった。「とにかく後は金だけなんだ。」と彼は繰り返した。そして、別れ際も「とにかく出来る限りのことはしてみようと思う。」と言うと、何かに急かされるように我々の元を後にした。
 結局、最後まで彼は私に直接的な金の無心はしてこなかった。ただ、それを匂わせるようなニュアンスが会話の節々に合ったような気がするのは、私の考えすぎだろうか。ただ仮にそうだとしても、私は彼を非難することなどできなかった。彼がどれほどパスポートを欲しているのか、そしてこの国を離れたいと思っているのか、私は痛いほどそれを知っていた。

 ヌールの故郷、シリア中部のホムスは、シリア内戦の中でも主要な激戦地として知られている。2011年の民主化運動以降、ホムスは「革命の首都」と呼ばれ、政府軍と反体制派が激しい戦闘を繰り広げていた。しかし2014年5月初旬、ホムスで反体制派とアサド政権との停戦合意が成立し、反体制派はホムスの拠点である旧市街から撤退した。現在はシリア軍が全域を掌握しており、一部の住民の帰還も始まっている。
 2012年の暮れ、ヌールは単身ホムスからレバノンを経由して、エジプトに逃れてきた。「父は内戦で亡くなり、母と弟と共にシリアから逃げることにした。最初は、みんなでサウジアラビアに逃げる予定だった。でも、僕だけビザが出なかったんだ。でも、理由は分かっていた。だから母と弟はサウジアラビアに、そして僕だけとりあえずレバノンに逃れることにした。」現在も、母と弟はサウジアラビアで避難生活を送っているという。彼はサウジアラビアのビザが出なかった理由について、「以前、僕は投獄されていたんだ。だから、ビザが出なかったんだと思う。」と少し声を潜めて言った。なぜ投獄をされていたのか、その理由を彼はあまり口にしたがらなかった。それは思い出したくないのか、もしくは話すことが憚れるのか、私には判断がつかなかった。時おり、ポツポツとその理由に関連するであろう文脈が出てくるものの、その詳細は最後まで分からなかった。ただ、はっきりしているのは、彼が20歳の時に就いた兵役期間中に投獄されたということだった。「それまで、シリアでの生活にも、アサド政権にも何の疑問をもっていなかった。でも、この兵役期間中の出来事で僕の考えや人生は大きく変わった。」彼はかつて起きたことを、少し思い出したかのように顔をしかめ、苦々しく言った。「今でも、なぜ投獄されたのかは分からない。ただ、その日から僕はシリアの現状に懐疑的になった。アサド政権下では治安やお金や食べ物に困らないかもしれない。でも、そんなものより自由がほしいと強く思った。」ちょうどシリアの民主化運動が、徐々に激しい内戦へと向かい始めた2011年の夏、彼は何の説明もなく、突然釈放されたという。
 母と弟がサウジアラビアに逃れた後、彼は一人ホムスからレバノンへと向かった。投獄された経験のある彼にとって、レバノンまでの避難の道のりは決して生易しいものではない。逮捕・拘束、もしくは殺害される恐れも充分にあった。なによりも、正規の方法でシリアからの出国が認められるとは、彼自身も思っていなかった。彼は幾度も治安部隊や係官に賄賂を払い、その危機をくぐり抜けた。その総額は2500ドルにもなるという。「確かに僕は完全な反体制派支持者だった。でも、少なくともあの頃のシリアでは、金さえ払えばどうにかシリアから脱出することが出来たんだ。」
 シリアからレバノンに無事に逃れたヌールは、1ヶ月と絶たないうちにエジプトへと向かった。「レバノンは物価も高いし、文化も大きく異なっている。なによりもシリアからできるだけ遠くに行きたかった。できればヨーロッパに行きたかったが、それも出来そうになかった。最終的に、ビザの問題もないエジプトに向かうことにした。」2013年の1月、彼は友人を頼りにリトル・ダマスカスへたどり着いた。

 リトル・ダマスカスについた彼は、友人が暮らしていたアパートに転がり込んだ。新たに部屋を借りる金銭的な余裕などなかった。そこでは同じシリア人難民の青年たちと、数人のエジプト人学生が共同で生活していた。多い時には3部屋のアパートに13人が住んでいた。彼は2台のベッドが並ぶ部屋の床にマットを敷いて寝起きをしていた。「僕の部屋はまだマシな方だ。他の大部屋では7、8人のシリア人が床にタオルだけ敷いて寝ている。」アパートは乱雑に散らかっており、キッチンやバスルームの配管は壊れていて、汚水が溢れている。ちらりと見えた薄暗い部屋には、確かに数人の男たちが床に雑魚寝をしているようだった。彼は時おり舞い込むレストランや喫茶店のウェイターの仕事で、何とか暮らし続けていた。決して衛生的にも金銭的にも満足な避難生活ではなかったが、ヌールはシリアから遠く離れたこの場所で、束の間の安心を手に入れていた。「確かに生活は楽ではなかった。でも、あの頃はまだ探せば仕事を見つけられた。贅沢さえしなければ何とか生きていけていたんだ。」しかし、多くのシリア人難民と同じように、昨年の夏に起きたエジプトのクーデターによって、彼の避難生活もまた大きく変わり始めた。
 今まであった仕事は激減し、一気に生活が苦しくなった。そして、およそ半年前に仕事を探そうと向かったカイロ市内で、彼はパスポートを盗まれた。通常であれば直ぐに警察署に行き、盗難証明書を発行してもらい、大使館に行けば再発行の手続きを受けることができるかもしれない。しかし、当初彼はシリア大使館にも、警察署にさえ行かなかった。以前、彼はカイロの街を歩いているところを、警察官に拘束された。理由は特に分からなかったし、説明もされなかったという。唯一考えられる理由は、彼がシリア人だったからだという。拘束中、警察官は彼を汚い言葉で罵った。そして、「お前は自由シリア軍の手先だ」と言い放った。20時間後にようやく彼は釈放された。そのような経験から、警察署に行くことで、再び拘束され、シリア本国に送り返される事を恐れたという。最初に彼にインタビューをした、4月の中頃。彼はかばんの中から大切そうに1枚のボロボロになったパスポートのコピーを取り出し、見せてくれた。「これが唯一、今僕がシリア人だと証明できるものだ。」そういうと再び丁寧に折りたたんで、かばんの底にしまいこんだ。
 その頃から彼は、エジプトでの避難生活に限界を感じ、他の国に逃げることを考え始めた。周りの友人や知人たちも続々とエジプトを離れ始めていた。彼も、何人かの知人が向かったスウェーデンへの避難を考えたという。「トルコやレバノン、ヨルダンの状況も決して良くないことは知っていた。だから、ヨーロッパに行けば何とかなると思った。ヨーロッパには自由があるはずだから。」しかし、スウェーデンへ避難するには最低でも5000ドルが必要だと言われ、彼は断念した。所持金もほとんどなく、さらに仕事にもあぶれた状態で、そんな大金を用意できる目処などどこにもなかった。しかし、彼はエジプトからの脱出を諦めることはなかった。「とにかく、他の国に行きたいと思ってる。ここには仕事もないし、希望もない。そして今は僅かな自由さえもなくなってしまった。」
 いずれにしても、エジプトから避難するためにはパスポートが必要になる。彼はやはりパスポートのことを相談しようと、2014年が明けて間もない頃にシリア大使館に向かった。「もちろん、シリア大使館に行くことは怖かった。僕は反体制派支持者だったし、投獄された経験もあったから。でもエジプトの警察署よりはましだと思った。彼らは僕らを目の敵にしている。同じシリア人同士なら、少しは分かってくれると思っていた。」しかし、結果的に何の解決にもならなかった。彼は大使館の前で3日間待ち続けたが、大使館内に入ることさえ許されなかった。「僕が反体制派支持者だから、相手にしてくれなかったんだと思う。」と彼は言った。しかし、もしそれが理由だとしても、大使館員はどうやって彼が反体制派支持者だと判断するのだろうか。外見ではその見分けが付くわけもなく、ましてや話をすることすらも拒否されている彼の思想や信条などわからないのではないか。万が一、尋ねられたとしてもアサド政権支持者だと、その場だけでも言えば事態は少し好転するのではないか。私は、その疑問を彼に聞いてみた。「確かにそうすれば、今の僕の状況は少しは変わるかもしれない。でも、僕は嘘は付きたくない。これまで、シリアでは多くの人が自由のために命を落としていった。そして、今も自由を求めて戦っている。アサド政権支持者と嘘をつくことは、彼らを裏切ることになる。それは絶対にできない。」そう言い切ると、ヌールは右手首に付けた2つのリストバンドを、確かめるように左手で撫でた。そこには3つ星のシリア国旗と、「シリアに自由を」という文字が書かれていた。

 弁護士にパスポートを依頼する話を聞いて以降、再び連絡が取れなくなったヌールと会うことが出来たのは、あの日から10日あまり経ったエジプト大統領選挙の直前だった。時間があまりないという彼に、その後の状況を聞かせて欲しいと私が無理を言って、1時間ほど時間を作ってもらった。私と通訳のアバダが待つ、リトル・ダマスカスの外れにある古びた喫茶店に彼が現れたのは、約束の時間を30分も過ぎた頃だった。私はいつもの様に彼と握手と抱擁を交わすと、挨拶もそこそこに本題に入った。
 結局、彼はあの後、色々駆けまわってはみたものの、やはり600ドルもの大金を用意することは出来ず、あの話は流れてしまったと言った。しかし、彼の表情にあまり落ち込んでいる様子は見えない。すると彼はカバンから数枚の書類の束を取り出した。全てアラビア語で書かれているため、私には何の書類かは全く判断できない。彼は言った。「今、ヨルダンに向かうための書類を揃えているところなんだ。」その書類が揃えば、正規の方法、つまり国境で入国管理を通過して、ヨルダンに行けるのだろうか。たとえパスポートがなかったとしても。私が怪訝な表情を浮かべていると、彼は強い意志を表すように、しっかりと私の目を見据えて言った。「これは正規の方法じゃない。つまり、違法にヨルダンに入国しようと思っている。ただ、出来るかどうかは僕にも分かってないんだ。でもやってみようと思ってる。」彼の強い決意は嫌というほど伝わってきた。でも、私は賛同するわけにはいかなかった。それはあまりにも危険すぎて、成功するとは思えなかった。しかし、彼は私の言葉を遮るように言った。「危険なのはわかっている。でも、ヨルダンに行けばなんとかなるんだ。友人も親戚もいる。仕事だってあるかもしれない。もうここには何もない。これ以上、ここには居たくない。」彼はその悲痛なほどの思いを、私に訴えた。彼の口調には鬼気迫るほどの焦燥感があった。私には、もう彼に言うべき言葉は見当たらなかった。ただ最後に、ヨルダンに向かうにしても細心の注意だけは払ってほしいと伝えた。この後も用事があるという彼は、膝の上に載せていた書類の束を大切そうに、しっかりと手早くカバンにしまいこんだ。その手首には、大事そうに付けていた2本のリストバンドはなかった。
 

 私は、リトル・ダマスカス、という言葉の響きにシリア人難民の苦悩や葛藤、そして何よりも故郷を想う哀切の情を感じる。この街は、砂漠に浮かぶ蜃気楼の街のようなものかもしれない。母国のシリアや避難先のエジプトの情勢にゆらゆらと揺り動かされ続け、いつか誰も気づかぬうちに消えてしまうようなものにさえ思えてくる。アブ・カラムの取引先の、エジプト人のワジ(29)は冗談めかして言った。「シリア人はこの街に急に増えていった。もしかしたら、居なくなる時も、急に消えるように居なくなるのかもしれない。」 ワジはシリア人難民に対して偏見は全くないといった。むしろ、彼らのお陰でこの街に美味しいシリア料理レストランが増え、アブ・カラムの会社と取引を始めてからは、彼の収入は上がり、いい事のほうが多いといった。ただ、この街の住民のエジプト人がみな彼のように思っているわけでもないという。街にはエジプト人が経営する喫茶店と、シリア人が経営する喫茶店が混在している。ただ、リトル・ダマスカスの中心部に犇めく、どこか垢抜けたシリア人経営の喫茶店を訪れるエジプト人を見かけることは少ない。また、少し町外れに多いどこか寂れた印象のある、エジプト人経営の喫茶店にも同じようにシリア人を見かけることは、殆どなかった。それはただの文化の違いなのだろうか。私はこの小さな街の中に、お互いにそっと距離を置き続ける、見えない境界線のようなものがあるようにも感じていた。 

 UNHCRのデータによると、エジプト内のシリア人難民の数は、2013年9月までは毎月およそ1万人単位で増え続けていたものの、それ以降は徐々に減り続け、14年に入ると毎月およそ千人の増加となっている。ただ、エジプトから避難するシリア人難民が急増しており、その数は少しづつ減り始めているのかもしれない。それは、リトル・ダマスカス内でも同じであろう。私が直接出会えたのはスザーンだけだったが、伝え聞いただけでも本当に多くのシリア人難民が、クーデター以降エジプトを離れている。しかし、それはある一定の金銭的な余裕のあるものだけの選択肢に過ぎない。多くの人々はヌールの様に、もがき喘ぎながらもどこに行くことも出来ず、避難生活を送り続けている。
 ただ、一方的にエジプト政府の対応だけを責められるものではない。エジプトは2011年の民主化運動以降、政治混乱に加え、深刻な経済危機に陥っている。若者の失業率は上昇し続け、経済の中心にあった観光産業は一向に回復の兆しが見えない。2013年夏のクーデター以降、治安の回復や政治の安定、経済の改善など山積した問題を前に、シリア人難民の問題は政府にとっての最重要課題とは程遠い。なにより、クーデターで追放されたモルシ大統領の支持基盤であり、エジプト国内でテロ組織の指定を受けた「ムスリム同胞団」と、シリアの反体制派勢力との親密さは、エジプトにおけるシリア人排除の大きな大義となりうるだろう。2014年6月に誕生したシシ大統領政権は、現在のところシリア人難民問題に対しての方針や対応は発表していない。しかし、シリア人難民が置かれている状況が劇的に改善することはないだろう。
 10月6日市に多くのシリア人難民が暮らしていることは、現在もエジプトではそれほど知られていない。この街は彼らにとってはあくまでも砂漠の中の衛星都市という認識だけだ。カイロでの生活の中で、その愛称を耳にすることもなければ、話題に上がることもほぼない。

 いつの日かリトル・ダマスカスはその役目を終えて、静かに消滅する日が来るのだろうか。そのきっかけはシリア内戦の終わりなのか、それとも、エジプト社会に見切りを付けたシリア人難民の大量避難という形なのか。そのどちらにしても、ほとんどのシリア人難民にとって、彼らが選ぶことができる選択肢など、そう多くないのかもしれない。ヌールはヨルダンに避難するために集めたという書類の一枚を手にして言った。「今の僕には何の権利もない。何処かに行くことも、何かをすることも、全てこんな紙切れ一枚で決められてしまう。」私は、彼が言ったこの言葉が、この街に暮らすシリア人難民だけではなく、全世界にいる250万人もの戦火を逃れたシリア人難民たちの声のように聞こえた。