おしらせブログ 週刊金曜日から定期購読者の皆様へのおしらせを掲載しています。

第20回「週刊金曜日ルポルタージュ大賞」審査員特別賞入選作

マハラバの息吹―もうひとつの1960年代―

 藤井孝良

 コンクリートの岸辺に打ち上げられた魚。
 舞台の上の「彼ら」の肉体は演技としての動きを超えた生々しさがあった。どんな名役者であったとしても「彼ら」を超えることはおろか、その演技を真似することすらもおそらくできないだろう。なぜならば、「彼ら」は今こうして「」を付される存在だからだ。
 『平成18年身体障害児・者実態調査結果』等によれば、日本における障害者の延べ人数は、724万人。これは現在の埼玉県の人口を上回る。しかし舞台上の「彼ら」はこの724万人の中で、いや埼玉県民の誰よりも強烈な存在を私たちに印象づける。
 連休最後の日曜日、私はJR土浦駅前にある茨城県南生涯学習センターの大ホールにいた。脳性マヒ、ポリオなどの重度障害者9名によって構成される演劇集団、「劇団態変」の公演がある。「マハラバ伝説」と題されたその劇の存在を知ったのは2009年4月24日の『茨城新聞』朝刊の「伝説の”障害者解放区”描く」という見出しの小さな囲み記事だった。

小さな囲み記事「伝説の“障害者解放区”描く」
「マハラバ村は、不思議な力を持つ僧、おさらぎ(おさらぎ村)あきら(あきらぎ)が、旧千代田村の閑居山願成寺を中心に立ち上げ、一九六四―一九六八年まで脳性まひ者たち十数人が自給自足の生活をしていたとされるコミュニティー。一九七〇年代の障害者解放運動の思想が芽生えた地ともいわれている」
 その説明に、私はどこか違和感を覚えた。それは「……していたとされる」「……ともいわれている」といった、いかにも又聞きの曖昧な言い回し。さらには、事実を伝える役目を担っている新聞の記事には不似合いな「不思議な力を持つ僧」という表現が私にそんな感覚を抱かせたのかもしれない。
 

 1964年から1968年のわずか4年間。とはいえこの間には日本の戦後社会が凝縮されている。東京オリンピック、高度経済成長、所得倍増計画、安保闘争、学生運動が最も活発だったのもこの頃のことだ。昨日よりも今日が、そして今日よりも明日が確実に豊かになっていく時代。努力や勤勉が、民主主義の力が、まだ信じられていた時代。その新聞記事を前にしながら、私はそんな昭和史へ想いを巡らした。しかし、上がってきた言葉は高校の現代史で暗記したその片鱗に過ぎない。やたらとスローガンだけがむなしく出てきただけで、その無数の言葉のつながりや意味を私は見出せなかった。
 ましてやその言葉の中に、障害者の解放や大仏空という人物の名前はなかった。それでは本当にマハラバ村は伝説なのであろうか。そもそも茨城県という関東とも東北とも言えない片田舎の地と私が知っている知識としての60年代は、どうしてもつながらない。自給自足の生活をしていたというくだりがある。車も冷蔵庫もテレビも当たり前になりつつあった時代という私の認識が間違っているのか。それとも、やはり伝説は伝説に過ぎないのか。筑波山の麓にあったとされるマハラバ村と大仏空を見つめることで、もうひとつの1960年代が浮かび上がるのではないか。ふと、そんな想いが頭をよぎった。
                                                                              「マハラバ伝説」は三部で構成され、劇中に台詞は一切登場しない。これはマハラバ伝説に限ったことではなく劇団態変の作品全てに共通するものである。脳性マヒは人によって異なるが、その多くは言語障害を伴うために発声がうまくいかない。しかし台詞がないということはそのような消極的な理由からではない。むしろ私たちはその動きに目を奪われ、こちらの体の自由がきかなくなってしまうかのような感覚に襲われる。カラフルなレオタードという衣装は殊更に「彼ら」の身体性を強調する。9名の役者のうち自ら歩ける者もいれば床を這う者もいる。日常生活では介護なしでは生活できないメンバーも含まれているという。「彼ら」にとってはその身体こそ美なのだ。
 劇団態変は大阪を拠点に各地で公演をしているが日本よりも海外で高い評価を得ている。実際、「マハラバ村伝説」の初演はベルリンであった。私たち健常者にはできない、言語や文化、歴史という壁を「彼ら」は「彼ら」だからこそ容易く乗り越えてしまった。

 わずかに判読できた「健全者」という言葉

 物語の終盤、大きな白い布が舞台の左右に置かれる。
「一体何が始まるのだろう」
 観衆の注目が集まる中、役者がゆっくりと這いながら近づき足の指で筆を握り、豪快に墨を塗りたくっていく。それがこの劇で唯一私たちに突きつけられる具体的なメッセージとしてあらわれる。舞台の天井に吊られた五つの言葉、わずかに「健全者」というひっかかる言葉だけが判読できた。まるで別の言語のようなそれでいて私たちに目を逸らすことを許さない、その言葉。
「われらは自らがCP者であることを自覚する」、「われらは強烈な自己主張を行なう」、「われらは愛と正義を否定する」、「われらは問題解決の路を選ばない」、「われらは健全者文明を否定する」
 CPとは「Cerebral Paralysis」、すなわち脳性マヒ者を指す。まさに強烈な自己主張がそこにはある。決して万人には受け入れられなくとも。差別がなくならなくとも。そういった決意が滲み出るその言葉は脳性マヒ者による障害者運動団体「神奈川青い芝の会」の行動綱領である。「この思想は突如として障害者運動の中に現われ、今やそれが運動の中核になろうとしている」と自らの組織に言わしめたほど、CP者自身にとっても波紋を呼ぶものであった。しかし、この思想が突如として現れたものであるかどうかは検証する必要があるだろう。というのも、脳性マヒ者たちにこれらの思想を提示した張本人こそ大仏なのである。そして、親鸞聖人の悪人正機説を基にして大仏が説いたものには健全者文明の否定はなかった。この第五番目の行動綱領は横田弘らによって新たに加えられたものであった。それだけになおさら波紋を呼んだ。
 

 健全者。私たち健常者のことを「彼ら」はそう呼ぶ。
 劇団態変は在日朝鮮人二世であり、自身もポリオによる重度身体障害者である金満里が主宰する重度障害者による唯一の演劇集団だ。そして、金自身もまた大阪で青い芝の会に深く関わってきた。この五つの行動綱領を知ったとき
「わけはわからなくとも痛快さがあった。私も施設にいた頃から物事をつきはなして見るたちで、気やすめで救われたためしはない、と思っていた。そんな私の心の中にこの行動綱領はストンと落ちてきた」
 と自著に語っている。当時高校生だった金は青い芝の会に参加し、障害者解放運動に傾倒した。やがて、おそらく日本で初めてであろう重度身体障害を持った自立生活者として暮らしはじめ、1981年の国際障害者年を「ブッ飛ばす」イベントを開催したことをきっかけにして、劇団態変を立ち上げることになる。
 青い芝が社会運動に傾倒したのはマハラバ村の住民が山を下り、神奈川を拠点に活動をはじめたことに起因する。また、金自身も後に大阪青い芝の会が分裂した際に組織を脱したひとりである。もともとCP者を中心とした青い芝にとって、ポリオである金との間には壁があった。マハラバ伝説の公演パンフレットにある金のコメントが、そのことを物語っている。
「私自身、この村の崩壊後の世代として、この村の精神を引き継ぐ運動体へ入り、活動することになるのだが、しかしその運動体を壊す方向へと後に袂を分けた。一方向から見れば、私は言わば裏切り者である」
 

 つくばに向けて車は夜の国道を走り抜けていく。ロードサイド店が点々とある四車線道路に不気味なほどの暗さを覚えた。ヘッドライトと街路灯で照らし出された道、その先にマハラバ村と大仏空が生きはじめた1960年代があるように思えた。手元には『脳性マヒ者と生きる―大仏空の生涯―』と題する本があった。公演の主催団体メンバーから借りたものだ。現段階でのマハラバ村を直接知る唯一の手がかりといってよかった。この本自体も、今では絶版で手に入らない。そして、障害者解放運動をテーマにしたわずかな学術論文も、青い芝の会のルーツとしてのマハラバ村の記述をこの本に頼っていた。
 信号待ちの合間にバッグからその「手がかり」を取り出した。表紙には5歳くらいの子どもをひざの上にのせた男。草むらの片隅に地蔵があるから、おそらく願成寺で撮影されたのであろう。子どもは半泣きで男は笑っていた。無精ひげにも頭にも白いものが混じっていたが、その風貌からは年齢とは不相応な若々しさが感じ取られた。何も知らなかったなら、この人を僧侶だとは誰も思いもしないだろう。信号が青に変わり、私は本を戻した。目の前の明かりが周りの暗さを際立たせるような、ぼんやりとした、それでいて確かな存在感だけがあった。
 

 沈黙するマハラバ “廃墟”になった願成寺

 千代田村上志筑、そして閑居山願成寺はどこにあるのだろうか。帰宅した後、ドアポケットに入っているドライブマップのページをめくってみた。千代田村は92年に町制を施行し千代田町となり、現在は霞ヶ浦町と合併してかすみがうら市となった。関東最大の湖沼である霞ヶ浦のイメージと、果樹栽培が盛んな千代田町のギャップは大きい。上志筑地区はそんな千代田村を象徴するかのような場所にある。筑波山の尾根筋に「閑居山大師」の文字を見つけるまでにそう時間はかからなかった。果樹試験場と林業試験場の先の等高線がしわを寄せている場所。すぐ近くにはごみ処理場がある。
 本を貸してくれた「劇団態変マハラバ伝説公演実行委員会」の関係者によれば、願成寺は現在では廃墟になっているとのことだった。大仏の息子が管理しているとも言っていた。管理しているのに廃墟とは、一体どういうことなのか。
 後日土浦市の市立図書館へ向かった。もしかしたら、郷土史家によるマハラバ村に関する資料が保存されているかもしれなかった。今でこそ茨城県南地域の中心は二〇万都市のつくば市に移ったとはいえ、60年代につくば市はおろか研究学園都市構想計画すらも生まれていない。60年代の茨城県南部の経済・文化の中心地である土浦に何かしらの手がかりが眠っている可能性は高かった。
 

 老朽化の激しい市立図書館の建物を一度抜けて暗い階段を上った二階に、郷土資料室があった。郷土資料室は一般には公開されておらず、受付でスタッフに来館目的を告げると窓際の机でしばらく待たされた。梅雨時の書庫は湿気とインクが混じったあの独特の匂いが漂っている。「大仏空」「マハラバ村」「千代田村願成寺」といったキーワードをメモしたスタッフにとってこれらの言葉は始めて耳にするもののようであったのか、資料が出てくるまでかなりの時間を要した。最初に運ばれてきたのは日に焼けた『千代田村史』であった。58ページから62ページにかけて願成寺に関する縁起が書かれている。それによると、閑居山はかつて志筑山と称し、現在の名称になったのは江戸時代に宥慶阿闍梨によって再興されたことによる。少なくとも平安時代から続き最盛期はかなり広大な寺領を有していたらしい。また上志筑地区の面積は155ヘクタール、世帯数46戸、人口243人とあり、「閑居山願成寺付近は茨城百景の一つに数えられ有名である」とあった。
「ここには、大仏空という人の名前は出てこないみたいです」
 とスタッフが言った。どうやら私を寺の歴史を調べに来た者と勘違いしていたようであった。そこで大仏が1960年代に願成寺の住職を務めており、マハラバ村という脳性マヒ者による共同体を作った人物であることを伝え、改めて調べ直してもらった。「マハラバ村伝説」の公演は、私が知っている限り『茨城新聞』だけでなく全国紙の地域面や茨城県南版でも何紙かが取り上げていたのだが、この街に住む多くの人にとってそれは記憶にとどめるほどのものではなかったようだった。
 ふと『千代田村史』を資料リストに載せるため、発行年に目をやると昭和45年(1970年)とあった。マハラバ村が崩壊してからさほど時間は経っていないにもかかわらず、当時の千代田村に関する記述にマハラバ村は一切登場しなかったことになる。あたかもマハラバ村など最初から存在しなかったかのように、願成寺が廃寺であるかのように。その沈黙は上志筑の人々にとってのマハラバ村を語りかけているかのようでもある。
「お待たせしました。大仏さんの本です」
 スタッフが持ってきてくれた本は、あの『脳性マヒ者と生きる』であった。

 『脳性マヒ者と生きる』の著者である岡村青は、茨城県の郷土史に関する著書を多く出版し、いくつかの雑誌でも記事を書いているルポ・ライターである。出版元は社会問題に関する書籍を多く扱っている三一書房で、発行年は1988年とあった。マハラバ村や大仏空を直接扱った資料としては現時点で唯一のものであるが、すでに絶版となっており、所蔵している図書館はわずかである。
 序文は大仏の死から始まる。大仏は1984年7月7日、敗血症で死んだ。岡村と大仏の出会いはその一年半前にさかのぼる。出会いのいきさつについて言及はないが、本に記載された岡村の住所は八郷町となっている。八郷町は今では石岡市の一部となった。千代田村とは隣町の関係にある。大仏の訃報を大仏の妻からの電話で聞いていることから、親密な間柄か、もともと大仏のことを書く目的で取材をしていた可能性が高い。岡村は1949年生まれなのでこのとき35歳、対する大仏は53歳であった。マハラバ村が存在した頃に学生だっただろう岡村は果たしてこの隣町の和尚のことを知っていただろうか。本から読みとれる岡村と大仏の交流はそれが限界であった。
 

 マハラバ村の手がかりは、その後徐々にではあるが数点の資料を探し出すまでに至っていた。マハラバ村の住民であり、青い芝の会の中心メンバーである小山正義の自伝『マイトレァ・カルナ―ある脳性マヒ者の軌跡―』。それから、大仏の娘が、残された当時の資料を「マハラバ文庫」というサイトに公開していた。青い芝の会と障害者解放運動に関する論文も手に入れられるものは手に入れた。そこからさらに、行動綱領をまとめた横田や横塚晃一の著作の存在も判明したが、そのうちの多くが現在では極めて入手困難な状態にある。それらの資料を読みすすめるうちに大仏と脳性マヒ者解放運動の関係が次第に明らかになっていった。
 

マハラバ村創設の経緯

 以下それらの資料を頼りにマハラバ村創設の経緯について記すことにする。
 大仏と障害者解放運動の出会いは土浦のキリスト教会であったという。なぜ寺の坊主が教会に出入りしていたのか。大仏の行動にはそういった壁をいとも容易く越えてしまう大胆さがある。それは、かつて食い扶持減らしのために寺に養子に出されやがてキリスト教の「救世軍」として足尾銅山鉱毒事件などで社会運動を行なった父、晃雄の影響もあったかもしれない。大仏は少年時代を東京の駒沢で過ごしたが、戦争中、父は何度か治安維持法で投獄され家にもほとんど帰ってこなかったという。そんな親譲りの無鉄砲さは、戦後社会党活動や放浪を経て、父親に代わって閑居山の住職となった後も変わらなかった。しかしこの性格と行動力、宗教への寛容さがなければ、大仏の思想は決して生まれなかっただろう。
 岡村の記述によれば、土浦のカトリック教会を拠点にして活動していた「県南障害者の会」と呼ばれる団体の立ち上げ人に、大仏が声をかけられたことが、全ての始まりであった。県南障害者の会は当時としては全国でも珍しかった障害者による障害者のための団体で、障害者会員同士の交流や親睦を深めることを目的としていた。会が設立された1955年は、障害者が外に出て街を歩くことすら珍しく、障害者にとって家族以外の人間関係が築けない時代であった。大仏らは保健所に住所を照会してもらい、バイクにまたがって家に閉じこもりがちな障害者とその家族を一軒一軒勧誘してまわった。
 

 東京の蒲田で脳性マヒ者のための団体、青い芝の会が産声をあげたのはこの二年後である。青い芝の会は日本最初の公立肢体不自由学校、東京市立光明学校の卒業生であり、脳性マヒ者である高山久子、金沢英児、山北厚の三名が発起人となり、当時大森にあった職業安定所の身障者係だった原田豊治を相談役として発足した。当初は会員の交流・親睦と脳性マヒ者の福祉の増進が目的だったが、会員数がわずか二年で三〇〇人近くにまで膨らむうちに、会員の収入、生活の向上に向けた取り組みが行なわれるようになった。この頃になると、青い芝の会のみならず様々な障害者団体が発足し、要求運動も活発化していたが、青い芝の会は1962年に社会運動部を設け、どの障害者団体よりも先駆けて厚生省(当時)と直接交渉を持つまでに至った。
 これだけの急成長を果たすことができたのは、発起人の高山らが、光明学校の出身という障害者の中でもエリート層にあり、組織を束ねるだけの能力を備えたうえに、原田らの支援を受けていたからだろうと想像するのは難くない。当時、障害者は就学免除の対象とされ、教育を受けていないことのほうが一般的であった。
 この間の日本現代史における大事件、それは60年安保闘争をおいて他にないだろう。社会党員であった大仏もこの活動に参加していた。このとき抱いた違和感が、大仏を脳性マヒ者解放運動に傾倒させたようだ。その様子はマハラバ文庫に公開されている『月刊東風』のインタビューからも窺える。やや長いが引用する。
「ぼくなんかに言わせると、『差別する者』と『差別される者』の闘いだよな。終始一貫して、ぼくは、そういう考え方なんだよな。これはずーとそうだ。だから、ソ連だって『差別する側』だという、そういう感覚はずっと持ってきた。だから『安保』についても、六〇年安保に反対することが絶対的に正しいことだとは思えなかった…(中略)…ぼくの本来の『差別する者』と『される者』との闘いという考え方からすれば、どっかそぐわないものがあった。だから、『青い芝の会』でも、『差別される者』以外の何物(ママ)でもないというのが運動の中心に据えられなければいけないという考えで、『青い芝』という素材ぶつかった(ママ)のが六〇年安保の頃だ。その年あたりから障害者の連中とつき合いだした」
 

 この「差別する者」と「される者」という二項対立の考えは、大仏にとって終始一貫したものであり、その対象は障害者だけに限らない。だから、彼にとって青い芝の会は「素材」として映った。
 大仏がどのようにして東京の青い芝の会とコネクションを構築したのかはわからない。しかし、岡村の記述によれば、この直後に県南障害者の会は、折本昭子を代表とする「青い芝の会茨城支部」となっている。差別者と被差別者の二項対立という大仏思想の大前提を当てはめるのであれば、1960年代の社会における障害者の立場でも可能であったはずだ。それを、さらに脳性マヒ者というごく一部に照準を定めたことは、思想をより鮮明にさせるという大仏自身の思惑があったのだろうか。脳性マヒ者による脳性マヒ者の団体。青い芝の会は組織原則が極めて単純だからこそ、全国的な組織になりうるという読みが、いつまでも障害者同士の親睦団体に留まっている県南障害者の会を分裂へ追い詰めた。大仏は青い芝の会を、
「これはいける」
 と考えていた。しかしそれは同時に、他の障害者や考え方の違いを排除することになる。しばしば青い芝の会が排他的であると批判される理由もここにある。純粋であるがゆえの代償、しかしこれはまだ、ほんの始まりに過ぎなかった。

手伝いもせず、大の字で寝ている男

 小山が東京の青い芝の会に関わるようになったのは、職業安定所との出会いが大きい。年下の弟からも呼びつけにされ、父親ともうまくいかなかった小山は、納豆売りや新聞の外交員などの仕事をしながら、悪友との夜遊びを繰り返す、という青春時代を過ごした。彼が育った川崎市桜町は、在日朝鮮人をはじめとする「差別される側」の仲間が数多く住んでいた地域である。そのため独立心が強く、二十歳を前にして家族と離れてアパートで暮らし始めた。職探しに明け暮れて余裕のない小山を見かねて、原田が青い芝の会を紹介したのは1959年の春のことであった。
 小田急線の豪徳寺近くの剣道場にあった本部を訪れたときの光景を、小山は自著に
「まるで地獄のそこから、這い出してきた亡者を見ているようでした」
 と記している。小山は脳性マヒでも比較的軽度であり、歩き回ったりすることができる。道場には重度も含め30名ほどの脳性マヒ者が集まっていた。
 その後、小山は青い芝の会川崎支部の設立に向けて奔走することになる。そんな最中の1960年7月、小山と大仏は出会う。小山たちは、ちょうど川崎青い芝の会の設立資金調達のために、コロムビアレコードなどと提携したチャリティーショーの開催を目論んでいた。そのチケットの印刷所である神田の三船印房もまた、経営者の三船裕二が脳性マヒ者であった。熱のこもる作業部屋で、大の字になって寝ている大男の健全者が、小山の目に留まった。手伝いもせず、ただ寝ている。それは「健全者」として青い芝の会に関わる大仏なりの礼儀であった。だが、そんなことを知りもしない小山は、その態度に腹が立ち、つい手を蹴りとばしてしまった。むくりと起き上がった大男は、小山を見るなり、言い放った。
「噂の小山とはお前のことか。」
 この出会いが小山の、そして大仏自身の人生を大きく変えた。
 大仏はすでに小山のことを知っていた。おそらく、三船印房には小山に会うことが目的で来訪したのだろう。その場には折本も同席していた。小山と大仏、性格や歩んできた道に共通点が多い二人はたちまち共鳴し、川崎、横浜、横須賀と脳性マヒ者の住所を訪ね歩いた。その道中で、小山は大仏の話に耳を傾けた。小山が大仏に絶大な信頼を寄せるようになるのに、そう時間はかからなかった。
 神奈川に青い芝の会をつくる、という夢が着実に現実のものとして近づきつつあった頃、ある飲み会の帰りに、小山は大仏に軽い気持ちで打ち明けた。
「和尚さん。俺、会のことやってて、何か知れないが、俺の目指しているの、何か違うんじゃないかなぁー、って、思うんですよ。何か、こう、障害者どうしが集まって、共同で作業ができる、そんなところをつくりたいんですね」
「そうかぁー。小山、そんなこと考えていたのか。うんー。そうだ、俺の所の寺なぁー、あの山寺を、小山、君たち、障害者諸君に、開放しようではないか。あそこはいいぞぉー。閑静だし、誰にも、邪魔はされないし、遠く、霞ヶ浦が見渡せるし、よし、決めたぞ、小山」
 即答であった。小山の自著に掲載されている年表によれば、それは「1961年3月・茨城県の山寺にて、共同体作りに参加する」とある。この記述を採用するならば、マハラバ村は64年ではなく、もっと以前から実態として存在したことになる。だが、どうもよくわからない。
 

 マハラバ村という名前をつけたのは大仏であるが、大仏自身は、最後まで名前をつけるつもりはなかった。初期の頃のマハラバ村の住人は、わずかに4人、小山、折本、川崎から参加した成田澄江、そして、脳性マヒではないのだが、喘息持ちでもともと願成寺に居候をしていた萩原正男であったという。仏像や仏具が雑然と置いてある母屋で、大仏の家族6人と襖を隔てての共同生活、それは村と呼ぶには程遠いものであった。電気もなく村役場からの有線放送が唯一の情報源であり、水は山の上から湧き水を引いている、という田舎の生活に、都会育ちの小山は発案者であるにもかかわらず尻込みした。結局、競輪場の売店経営が順調であったため、その仕事の合間を縫って豚の臓物や安酒を手土産に閑居山を訪れる、という半住人として出入りするようになった。
 障害者による『しののめ』という同人雑誌の存在を、大仏はずいぶん以前から知っていた。その雑誌の寄稿者に折本がいたからである。そして、後に青い芝の行動綱領を執筆し、青い芝の会を牽引した横田も、そのメンバーであった。大仏は小山を誘って、当時は鶴見に住んでいた横田の家を訪ねる。大仏はその頃になると青い芝の会の中でも健全者でありながら相談役として指導的な立場にあった。横田を青い芝の会に入れ、閑居山へ誘う、それが来訪の目的であった。
 横田は学校で教育を受けてはいなかったが、兄の影響でいつしか文学雑誌を読みふけるようになった。横田自身は脳性マヒでもかなりの重度で、小山ですら言葉が聞き取れないほどであったという。重度の脳性マヒ者でも暮らしていける共同体、その象徴的存在として、大仏は横田を神輿に担ごうとしていたように私には思える。文学者らしく、横田は大仏の誘いになかなか首を縦に振らなかったが、この頃の横田が危機的な状況にあることもまた確かだった。
 横田の母は脳溢血で彼が18歳の時に他界している。そして、この頃父親が交通事故で首の骨を折り、収入源が断たれていたために兄の家に身を寄せていた。しかし、そこに横田の居場所はなかった。
 大仏に背負われて、横田は家を出た。列車に乗ったのは終戦を迎え、母と共に疎開先から戻ったとき以来だったという。そして、今、彼は障害者解放運動へ続くレールの上をゆっくりと這い出したのだ。旅立ち、この言葉が、このときの横田にはよく似合う。
 横田という存在がいなければ、大仏の思想は障害者解放運動史の一片に名を残さなかったかもしれない。健全者の大仏が説くことよりも、たとえ中身は同じでも、脳性マヒ者が伝えたほうが、脳性マヒ者の心に響く。自らも表現者である横田は、まさにうってつけだった。
 

『さよならCP』で注目された青い芝の会

 後に、障害者のみならず、一部の「健全者」が、青い芝の会に注目するようになったのは、この横田が主演する『さようならCP』という映画が製作されたことによる。この『さようならCP』の上映会という新たな手法を用いて、青い芝の会は関西各県の支部設立、組織の拡大をはかることになる。
 大学の学生掲示板の片隅に貼られた『さようならCP』の上映会のポスターを目にしたのは、まったくの偶然であった。部落差別問題の研究を目的とした自主ゼミ会が主催する上映会に紛れ込んだのは、マハラバ伝説の公演から一カ月が過ぎた頃だった。そのあまりにも都合の良すぎるタイミングの謎はすぐに解けた。マハラバ伝説公演実行委員会のメンバーであり、私に岡村の本を貸してくれた松岡功二が、この自主ゼミのOBであったのだ。松岡は、そのゼミを卒業した後、つくば市で障害者の自立支援グループのスタッフとして働いている。この自主ゼミの指導教官が障害者差別問題にも携わっていたことが、彼の人生を大きく揺るがせ、そして2009年の今、マハラバ伝説の古里公演を実現させた。その旅の中継地に、私は偶然居合わせたに過ぎない。
 

 『さようならCP』は、1972年に原一男監督による神奈川青い芝の会の活動を撮った白黒16ミリフィルムのノンフィクション映画だった。まだマハラバ村が崩壊を迎えてから間もないころで、大仏の思想を受け継いだ青い芝の会が、芽吹き、しっかりとした根を張り巡らそうとしていた時代である。
 団地の一角にある横田の住まいで、メンバーが一同にこれまでの足跡を話す場面があった。この映画はほとんど字幕がない。当時のマイクの性能や、脳性マヒの発語障害で、彼らの言葉はほとんど聞き取ることができなかった。それはわずかに聞き取れた単語の断片をつなぎ合わせる努力をしなければ、彼らのことは何もわからない、という暗黙のメッセージでもある。「自殺をはかったこともある」という話をしている長身の優男が矢田竜二であることがわかった。過去の罪の告白をしている小山、そして、横塚、横田。この4人が、かつてのマハラバ村の住人であり、神奈川青い芝の会を牽引していた。しかし、4人の話からは、「マハラバ村」「大仏空」という言葉を聞き取ることはできなかった。あるいは誰一人として口にしなかったのかもしれない。
 

 町へ這い出る横田を、カメラを構えた横塚が追いかける。横浜駅西口の街頭カンパ活動、開発の始まった団地、通勤電車、そんな光景の中に、やはり脳性マヒ者は溶け込まない。行きかう人々の足に踏み潰されそうな横田はそれにもかかわらず生き生きとしているように私には感じられた。横田だけではない。矢田、小山、横塚が、子育てや活動に、明け暮れている様子が次々に現れた。そこにあるのは、みな、どこか悲しさを湛えた笑顔だった。横田は、活動の傍ら、詩人として新宿の雑踏に向かう。道路にチョークで名前を書き、詩を吟じ始める。野次馬のうち一体何人に、彼の叫びは伝わったのだろう。それは、35年を経て、あの頃を知らない私たち観客にも同じことが言える。

 40年後の川崎駅前に、その面影はない。そこからバスに乗って15分あまりの団地の一角に、小山は住み続けていた。かつて操車場だった広大な土地は電子機器の工場や大型ホームセンターにとって代わっていた。その土地を跨ぐ道路橋も、ずいぶん前に廃止になったのか、ぷっつりと切れて存在意義を失ったトラス橋が空へ伸びていた。しかしその先の街はあの「さようならCP」のシーンを髣髴とさせる町並みが残っていた。土曜の昼下がりとあって子ども達が歓声を上げながらサッカーに興じている。

 「気さくでエネルギッシュ」小山の現在

 小山はそんな団地の片隅で、今は一人で暮らしていた。車椅子の生活で介助者が出入りし、自身も小さいながら障害者自立支援事業をしている。まもなく70歳になり、髪も薄くなったが、気さくで何事も包み隠さない話しぶりやエネルギッシュな行動力は、資料の中に現れる小山像そのものだ。
 大仏が願成寺の住職に落ち着く直前、北海道の児童養護施設で職員として働いていた時期がある。その施設での体験が、社会党を否定したものの不安定だった大仏に、やるべきことを明確にさせた。その「孤児院」には、様々な子どもがいた。障害児、アイヌ人、西洋人、いずれも家族や社会から捨てられた子ども達だった。そして、施設の管理者と衝突し、茨城に帰ってきた大仏を待っていたのが、脳性マヒ者との、差別されてきた者達との出会いだった。
 

 マハラバ村の食事は質素なものだった。朝食は大根の千切りが入った味噌汁に、八つ切りの食パンが2枚、それに目玉焼きが時々ついた。昼食はインスタントラーメン。お湯が煮立った大鍋に人数分の麺を入れて、どんぶりに分けた。ハムが添えてあればいいほう。夕食はおかずがついて、大抵その後は大仏の説法が始まるのだった。 若い小山にとって、とてもこれでは足りない。歩ける彼は毎晩のように志筑の集落へ下りて、一杯飲んだ。「せんべい屋」という食料雑貨屋で買い物をしていると、地元住民の大仏や仲間達に対する噂が耳に入った。
「お父さんは立派だったけど、息子は何をやっているのだか。あんな連中と…」
 

 実際、寺と地元との関係は悪化していた。あるとき小山が栗畑に落ちていた栗を良かれと思って拾い集めて、寺に持ってくると大目玉を食らった。そうでなくとも、マハラバ村の住人の行動で地元住民から苦情が来ることは日常茶飯事だった。脳性マヒ者は家に長い間住み続けるか、施設での生活に慣れているので、社会性に欠けるという一面がある。
 小山はマハラバ村の試みとして、共同作業所を作ろうと考えた。そこで、大仏の知人から籐椅子作りの仕事を引き受けることにした。籐椅子は、小山がかつて新宿の職業訓練所でその技術を身につけていた。もっとも、小山はその仕事から半年ほどで逃げ出してしまったのだが。
 結局マハラバ村でも籐椅子作りは長続きしなかった。藤の蔓を一晩水につけて、やわらかくして着色する。そしてそれを編んでいく作業は、手が不自由な脳性マヒ者には困難であった。小山が週に一台完成させるのがやっとで、共同生活の資金源と考えていた籐椅子作りは瞬く間に破綻した。
 そこで、だめもとで村役場に生活保護を申請した。大仏も同行し、狭い村でのことだから顔が利いたのかもしれない。とにかく、生活保護が支給されることになった。これによってマハラバ村の財政は何とか生活していけるだけの財源を手に入れた。金の管理は、横田が行なった。しかしそれは、小山が想定していた共同作業所とは程遠い共同体の姿だった。私は思い切って聞いてみた。
「これは仮定の話ですが、小山さんが川崎と茨城を行ったり来たりせず、閑居山に住み着いていたとしたら、どうなっていましたか」
「もし閑居山に私が根づいていたら、もっと違ったものができたでしょうね。収容施設なんてイメージではなく、もっと他の共同作業所ができていたかもしれない。でも、私の性格は熱しやすくて冷めやすかったから」
 

 小山はマハラバ村の発案者であり、大仏の理解者でもあったが、共同体のあり方については客観的かつ批判的な見方をしている。半住人であったことに加えて、彼が曲がりなりにも親に迷惑をかけず、生活保護を受けないで、仕事を任せられ、自立した人生を送ってきた、だからこその視点であるように思える。
「私は野心があって、川崎で市会議員をやっていた傷痍障害者協会の会長さんに紹介してもらって、川崎競輪場の売店員として働くようになったんです。何カ月か裏方をやると、ちょうど運よく拡張工事で売店を増設するという話が持ち上がって、「店長をやってみないか」ということで、やることになったんです」
 小山は当時の様子を懐かしむかのように口元に笑みを湛えた。ちょうど競輪の全盛時代で、レース開催日には川崎駅から競輪場まで長い行列ができたほどであった。あまりの忙しさと、障害者一人ではうまく切り盛りができなかったこともあり、人を雇った。それがマハラバ村で出会い、その後も川崎で職場を世話してやっていた高須清子であった。1969年に清子と結婚し、2年後には息子を授かった。小山にとっては青い芝の会も湘南支部を開設するまでに拡大し、もっとも充実していた時期であった。
 

タブーを越えた先 待っていた“矛盾”

 この頃になると、小山は以前に比べ閑居山へ足を運ぶことは少なくなっていった。そのきっかけは、マハラバ村の住人である飯田佐和子との失恋であったかもしれない。佐和子は水戸に実家を構えており、当初は小山と恋仲にあったのだが、矢田が横槍を入れてきた。たまにしか会えない小山と、同じ屋根の下で暮らす矢田、佐和子の心は揺れた。大仏も矢田に味方した。小山は川崎で一緒になる気だった。住人がいなくなることを大仏は怖れた。
「女の人は現実主義だから、小山と矢田くんと、どっちがいいのかって」
 タバコをくわえながら、小山は語った。矢田と佐和子は結婚し、マハラバ村で新婚生活を始めた。だが、家の外に出ることすらも稀だった脳性マヒ者たちが、これだけドロドロとした恋愛を経験していることは、マハラバ村での共同生活なくしては実現しなかったに違いない。山を降りた矢田夫婦は、同じ団地内の小山夫婦の向かいの棟に住むようになる。
「矢田くんとは同い年だからさ」
 小山にとって矢田は恋敵であり、大切な親友だったのだ。
 済んでしまったことを蒸し返しても仕方がない。しかし、マハラバ村の崩壊の原因は矢田にある。矢田は猩紅熱がもとで脳性マヒになり、両親とも幼い頃に死に別れた。姉と共に養護施設を転々とし、職についてからも差別に耐えられず、何度か睡眠薬自殺をはかっていた。そんな過去を背負った矢田の性格は暗く、独りを嫌って、人を求めた。矢田が佐和子と結婚したのをきっかけに、マハラバ村では結婚ブームが起こっていた。そして、新婚夫婦は新しく建てられたプレハブの別棟に転居した。プレハブの家の建設費は寄付で賄った。脳性マヒ者同士の結婚は、当時画期的でマスコミでも話題になったという。やがてそれぞれのカップルには子どもができる。普通に恋をして、結婚して、子育てをする、その普通の幸せすらも、かつての脳性マヒ者には許されていなかった。マハラバ村がなければ、彼らはこの生の喜びを味わうことなどなかったかもしれない。ところが、このひとつのタブーを越えた先には、差別する者と差別される者の新たな矛盾が待っていた。
「彼は「守る」意識が強すぎたんだ。彼が家を建てちゃったから村がおかしくなっていった。子どもが生まれれば、否が応でも自分のものとして囲ってしまう」
 障害者の夫婦の間に生まれた子どもを前にして、その愛する存在が生きる世界は「どちらの世界」なのだろうか。
「これから大きくなる子どもは健全者として育てたい」
 親心というエゴと、障害者としての自我の葛藤が彼らを襲った。
 そして、事件は起きた。きっかけは些細なことだった。大仏が矢田の息子を寝かしつけた、ただそれだけのこと。しかし、「守る」意識が強かった矢田にとって、それは和尚の横暴にしか受け取られなかった。大仏は村で生まれた子ども達をまるで自分の孫のように溺愛していた。いや、実際本当の孫と思っていたに違いない。それだけに、矢田の反発に我慢がならなかった。口論になり、椅子で矢田を殴った。
 

 この傷害事件はマスコミ沙汰になり、裁判になった。小山は弁護側の証人になったが、多くのマハラバ村の住民は矢田に味方した。大仏はおよそ二カ月間拘留され、懲役1年半が求刑された。後に東京高裁で執行猶予1年の判決が出され、これが最終決着になったが、この逮捕は、マハラバ村の解体という最悪の罰を大仏に科した。この事件で、それまでマハラバ村に反感を抱いていた住民や行政が動いた。手のひらを返したマスコミが、それに加担した。
 横田が去り、追うようにして矢田と横塚も山を下りた。大仏は引き止めなかった。後には、2、3人の脳性マヒ者だけが残った。いずれも創設メンバーではなく、後から参加した者たちだった。
 「雲の上の仙人よりはるかに高い人物」
 それでも、小山はそう大仏を評した。大仏は自分の行動に対する弁解を好まなかった。そのことが、地元住民との対立のみならず、マハラバ村の仲間からも孤立させてしまう結果を招いた。

 大仏の娘レア「障害者解放とは私はしない」

 その翌々日、JR土浦駅で「マハラバ文庫」HPの管理人である大仏の娘のレアに会った。現在は結婚し、東京に住んでいる。3年前まで生活協同組合の理事長を務めていたが、退任後、大仏の残した資料を3年間という区切りをつけて整理している。と同時に、日々の暮らしからレア自身が父である大仏の文章をどうみるか、といったことも綴っている。
 取材を申し込んだところ、返信のメールには意外な答えがあった。
 「マハラバというものを障害者解放とは私はしていません」
 これは一体どういうことなのか。これまで私は大仏空を脳性マヒ者と生きた昭和の怪僧として捉えてきたし、そう描こうと考えていた。脳性マヒ者が共同生活を送ったマハラバ村、それは、多くの文献資料でも、小山の証言でも、1968年末ごろに「崩壊」を迎えたとしている。
 大仏の父、晃雄は「救世軍」に加わり、谷中村の救済運動にも関わるような生活を送っていた。マハラバ文庫で公開されている『月刊東風』という雑誌のインタビュー記事における大仏の証言を信用するなら、晃雄は昭和10年代にノモンハン事件の批判をしたことで、茨城の特高に治安維持法違反で逮捕されている。なぜキリスト教の信者が寺の坊主になるのか。
「牧師さんだったのがつかまって出てきたら坊さんになっていた。そこのところは、日本の仏教はだらしがなくて、籍はそのまま残っていたわけよ」
 ということらしい。その頃、晃雄は茨城の寺を点々としていた。何かの縁で流れ着いた先が、閑居山願成寺だったのである。閑居山は、その名の通り志筑藩という小さな藩の藩主の隠居所であった。明治維新の廃藩置県によって藩主がいなくなった後は、地域住民が管理していたが、檀家もなく祈願の寺として位置づけられていた。檀家がないために経済的には成り立たなかったが、その代わりしがらみもなく自由であった。そのことが、晃雄にとっては都合がよかったのかもしれない。そして、その晃雄に対抗しながらも生き方そのものには影響を受けて育った。それが大仏なのである。
 だから、この親子の青年期の足跡はよく似ていて、決して枠にはまらない。
「マハラバがあえてなぜ脳性マヒ者の解放運動として着目されているのか。父は戦前から農民運動に関わっていましたし、昭和30年代はサレジオ会に所属し、北海道の孤児院にボランティアとして働いています。明治維新、鉱毒、貧民救済、戦争、農民運動、戦災孤児、あの時代はそういう時代だった。人間の不条理が溢れていた時代。そんな不条理に対して声を上げること、それがマハラバの思想です」
 

 『月刊東風』のインタビューの次のようなやりとりを、私は見落としていた。
「―農民運動をおやりになった。
大仏 そうです
―どの辺ですか
大仏 茨城の三区です。細田さんの関係で。死んじゃったけど、宮代さんとか、皆、一緒だったですよ。細田さんは、よくコツコツやった人でした。それから沼田政次。ぼくは、おやじからの関係で、日労系なんです。いわゆる「河上派」ですよ。今でも、社会党ではないけれど、「河上派」だと思っている。…(以下省略)」
 あまりにもあっさりとしたやり取りで、これに続く文脈が社会党活動に関するものだったので、私は深く考えていなかった。しかし、日本屈指の農業地域である茨城にとって、農民運動は切っても切り離せない社会問題だった。1876年(明治9年)には地租改正に反対して真壁郡と那珂郡で激しい農民一揆が起きている。那珂一揆では、死刑3人を含む犠牲者10人、参加者1000人あまりという大規模なものであった。1873年(明治6年)に土地の売買が自由化されると、地主と小作農民との分化が進んだ。
 1916年(大正5年)に猿島郡森戸村に茨城県ではじめての小作人組合が設立された。当時の茨城県の小作地比率は全耕地23万8905ヘクタールのうち47.9%に当たる10万2516ヘクタールで、全国平均を上回っていた。農業が資本主義の影響を受けて、収入だけでは暮らしが成り立たない。その結果土地を売って小作人になった。売る土地がなくなれば、娘を売った。
 野田の醤油工場で出稼ぎに出ていた青年達がストライキに参加したことをきっかけにして、農民組合を結成したのは1925年(大正14年)。昭和2年には、水戸で労働農民党の第一回メーデーが実施されている。
 昭和初期は全国的にも農民組合が成長と分裂を繰り返した時代だった。茨城県も同様であり、混乱を収束させるために茨城県連の会長に就任したのが細田綱吉。大仏のいう「細田さん」とは、おそらくこの人物であろう。この細田が、後に日本労農党(日労党)に参加し、茨城の農民運動をリードしていくようになる。『茨城昭和時代年表』をめくっていくと、小作争議やそれを押さえ込もうとする弾圧、その繰り返しが茨城の歴史といっても過言ではない。1928年(昭和3年)に行なわれた普通選挙制による最初の総選挙で日本労農党は1議席を獲得、無産政党勢力は8議席を獲得した。その年、田中義一内閣によって治安維持法が改正され、共産党活動、労働運動の取締りを目的とした特別高等課(特高)が道府県警察に設置された。
 そんな時代に晃雄は生き、大仏は育った。晃雄にとって流れ着いた土地である茨城で直面した人間の不条理、それが農民運動であった。
 そして、戦争という最大の不条理を経てGHQによる農地開放で農民運動は新たな展開を迎えた。大仏は社会党活動をする傍ら、各地を放浪し、自分が何をなすべきかを問い続けてきたのではなかったか。北海道の孤児院での体験が引き金か、それとも土浦のキリスト教会での出会いがきっかけなのか。いずれにせよ、大仏が宗教者として人間の不条理に対して立ち上がらせたい存在、それが脳性マヒ者たちであった。
 「障害を持った方々を受け入れたのも、お寺だから来るものを拒まずというか、最初はそんな感覚だったと思いますよ」
 というレアの証言は、小山と大仏の共同体づくりのやりとりの突拍子のなさを考える上で重要であろう。ほんの偶然の流れの中で、たまたま知り合った若者の夢に力を貸してやろう、大仏にとって、この共同体は、当初その程度の意味しか持ちえていなかったともいえる。
 

 その一方で、大仏自身が月刊東風のインタビューの中でマハラバ村の失敗を語っている部分がある。
「ぼくの希望としては、『CP者自身の共同体』ということだったけど、やっぱりぼくに頼っちゃうわけです。ぼくに頼れば、ぼくは〝独裁者〟になっちゃう。そういう矛盾をなくそうとしてもにっちもさっちもいかなくなってきたというあたりに、これはもうやめた方がいいんじゃないかとなってきた」
 マハラバとは、人間の不条理に対して目を向けながら、声に出して解決の道を探ることだ。しかし、その解決の道はそう簡単には見つからない。そして、見つけたとしても、そこには新たな矛盾を抱えることになる。脳性マヒ者による脳性マヒ者のための共同体は、確かにひとつの解決の方法であったかもしれない。このような実践はこの先も生まれないだろう。しかし健全者である大仏なくして共同体が存在し得ないという矛盾、子どもは健全者として育てたいという葛藤が、彼らに新たな苦しみをもたらした。
 障害者運動は障害者自身がつくりあげてきたものだ。1960年代という時代が、闘争という手段を選択させたともいえる。しかし安保闘争がそうであったように、過激になればなるほど、そこには何かが欠けていた。行動だけが上滑りしていくような感覚。大仏はそこに「差別する者」と「差別される者」の闘いというテーゼを与えようと試みた。それが、不条理に対して声をあげよ、というマハラバだったのだ。
 だから、障害者解放運動は大仏が水をやった芽のひとつに過ぎない。
「私自身が、父の資料の一部です」
 レアは生活協同組合の活動を通しても、父の文章と自分を照らし合わせてきたという。マハラバは寺ではなく、思想なのだ。そしてその実践は、様々な側面に分かれて今も継承されている。マハラバは伝説ではなく、大仏空は実在したのだ。そして、マハラバは決して「崩壊」などしていない。

 マハラバとは―大仏が残したもの 

 朝起きたら雨は上がっていた。今日は一日久々の晴れ、夏日であるという。私は思い切って閑居山を訪ねることにした。県道64号線を進むと、志筑の集落に入る手前を左に折れ、果樹試験場の中を抜ける。「願成寺跡」という標識に従って山道を登ると、夏草に覆われた東屋が現れて、そこが車道の終わりだった。その先に、一本の道が山の中へと続いているだけである。
 車を止めて道を登り始めると、背後から経が耳に入った。振り向くと自転車を降りた托鉢僧が手を合わせていた。もうひとりの空、大仏ひろし(ひろしめ)だろうか。閑居山に大仏の息子がいて、廃墟を管理しているということはすでに知っていた。
 大仏の本名は大仏晃という。空という字は、息子のひろし(ひろし名)に名づけたものだった。しかし、それと同時に変名として、大仏は空と書いて「あきら」と読ませていた。
「こんにちは」
 声をかけたが、その僧侶は自転車を押しながら黙って山道を登っていった。木々の生い茂る参道は、まだ昨夜の雨水を含んでぬかるんでいた。じめっとした薄暗い道の先に、窓ガラスの割れたワゴン車の廃車体が横たわっていた。どこか人を寄せつけない雰囲気を前にして、一瞬戸惑いさえ覚える。僧侶は私の存在など最初から目に留まっていなかったように先へ先へと行ってしまい、ついにその姿を見失ってしまった。
 

 参道の途中にはプレハブとトタン屋根の小屋が三棟あった。二棟は竹林に覆われて中の様子を窺うことは不可能であり、わずかに水道の蛇口と竹に突き破られた木の板の床を確認できたに過ぎない。最も奥にある一棟だけは自然の侵食を免れていた。とはいえ、やはり廃墟であることに変わりはなかった。中の様子をのぞくと、今は切られていたが、電線が通っていたようで、空っぽの洗濯機や冷蔵庫が口を開けている。いずれもずいぶん古いものであることは確かだが、果たして60年代当時のものかどうかまでは確認できなかった。かつて矢田たちが建てた夫婦用の住宅とは、この家なのだろうか。玄関入り口の先には風呂場だろうか、底が深くなり蛇口のついた空間、そして、四畳半の部屋、奥には鏡がついている。しかしその鏡の位置は大人が「立つ」とやっと視線が合う位置にあった。
 その薄暗い空間は、取り残された昭和の残骸だった。
 参道はさらに先へと続いていた。灯篭や地蔵が私を見つめている。蔦に絡まれ、コケの生えた石仏たちも、自然に帰ろうとしている。あの小屋も何もかも、このまま誰の記憶からも消えてしまえば、やがて静かに、そして確実に自然が飲み込んでいくだろう。木の枝と枝の隙間から、志筑の集落や霞ヶ浦が垣間見えた。
 私は、いまだ大仏空をはかりかねている。「マハラバとは、人間が息絶える寸前に死に物狂いで声に出すうめきだ」そう小山は大仏から教わったという。横田も小山もレアも、そしておそらくもう一人の空も、それぞれがそれぞれのマハラバの芽を育てている。それ以上のことを言える段階に、今はない。
 

 1960年代を知らない私にとって、大仏という奇僧の存在が、その時代にとって何を意味し、何を残したのかは想像するしかない。しかし、その大いなる叫びは、現代でこそ必要なのではないか。人間の不条理は、21世紀を迎えた今も確実に存在しているのだ。どこか遠くの世界ではなく、私たちの目の前に。
(つづく)