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第19回「週刊金曜日ルポルタージュ大賞」佳作入選作

北朝鮮の日本人妻に、自由往来を!

 西村秀樹

ドロボー暮らし

「北朝鮮でどうやって暮らしてきたんですか」とわたしが訊くと、
「泥棒ですよ、ドロボー」
 目の前にいる、少しやせ気味で高齢の女性の返事は、わざと冗談めかした口調で、それまでよりちょっと大きな声で、そう応えた。自嘲的というのか偽悪的というのか照れた表情だが、目は笑っていなかった。
 こうして北朝鮮から命からがら逃げてきた日本人女性へのインタビューが始まった。
「そうでもしないと、六人の子どもを抱えて生きていけない。だから…………」
と言い訳した。いたずらを先生に見つけられた小学生のような、はにかんだ表情を見せた。と同時に、母は勁(つよ)しと、わたしは心に刻んだ。
 女性は松川淑子という。まだ家族が北朝鮮に残っているから、世間に発表するなら仮名にしてくれとやさしくお願いされたので、本名を替えてある。目尻にくっきりと刻まれた皺、ささくれだった指先がままなく七〇歳代半ばを迎える年齢と、それ以上に、かの地の苛烈な暮らしぶりを想像させた。
 二年前(二〇〇六年六月)、二女マミ(仮名)といっしょに北朝鮮の鴨緑江を渡り、中国国内で活躍するNGOグループの手助けを得て中国のあちらこちらを転々と移動し、九月、中国国内の日本領事館に駆け込み、いまは大阪府八尾市内で娘と二人、静かに暮らしている。

在日朝鮮人の帰還事業

 今年二〇〇八年は大韓民国(八月一五日)と朝鮮民主主義人民共和国(九月九日)がそれぞれ建国を宣言してちょうど六〇年の節目の年に当たる。韓国とは一九六四年日韓条約を結んだものの、北朝鮮とは未だに日本は戦前の植民地支配の過去清算が済んでおらず国交がない。その北朝鮮には、一九五九年以来、九万三三四〇人の在日朝鮮人が帰還した。
(北朝鮮は「帰国事業」といい、在日朝鮮人の民族組織・朝鮮総連は「帰還事業」あるいは「帰還運動」という。今回は日本人妻がテーマなので、帰還事業を用語として使用する)。その帰還者の中に、朝鮮人の夫に添う日本人妻がおよそ一八〇〇人含まれている。半世紀を経てなお、北朝鮮には多数の日本人妻が暮らしており、その数、数百人に昇ると推測されている。来年は在日朝鮮人の帰還が始まってちょうど五〇年の節目を迎える。
 日本人妻は日本国籍を所有しており(二重国籍)、本人が日本に帰りたいと希望すれば日本政府は受け入れる方針を明らかにしている。しかし、実際に生活の苦しい北朝鮮を脱出し日本国内で暮らす、日本人妻は六人にすぎない。
 日本人妻の自由往来を求めて、四月一九日、東京都内で集会「一刻も早く日本人妻等の救出を」が開かれた。主催者の脱北帰国者支援機構の坂中英徳元法務省東京入管局長は集会で「日本人妻が帰還事業の一番の被害者。日本人妻は出国が認められず、もっともむごい扱いを受けてきた」と実状を訴えた。
 大阪にも北朝鮮を脱出し、日本で暮らす日本人妻がいる。
 わたしはアムネスティ・インターナショナル日本大阪事務所のルートを伝って、インタビューが実現した。

三年で里帰り

 わたしがインタビューした松川淑子は、日本が中国大陸への侵略を開始し、傀儡国家「満州国」を建国して間もない時期、三重県の伊勢地方で農業を営む両親のもと、六人兄弟の末っ子として生まれた。豊かと言えないまでも決して貧しくはなかったが、淑子がわずか十一ヵ月のとき、父親が病死。それをきっかけに淑子一家の暮らしは激変した。淑子が国民学校一年生、二年生のときは授業をきちんと受けられたが、アジア太平洋戦争でアメリカ軍が太平洋上サイパン島を占拠、アメリカ空軍のB二九による日本本土への空襲がひんぱんになると、三重県の農村にも名古屋などを標的にしたB二九が姿を見せるようになり、淑子は学校で授業を受けるどころでなくなった。ある日、母親が名古屋、四日市方面へのアメリカ軍の空襲予告ビラを畑で拾った。アメリカ軍の警告を受けて、淑子は母に連れられ、鈴鹿山地の山あいへ家族そろって疎開したが、逃げる間もなく、予告通りアメリカ軍B二九が三重県方面を襲い、この空襲によって伊勢神宮にほど近い宇治山田市内は家屋の半分以上が焼けた。
 一九四五年八月、日本はポツダム宣言を受け入れ、アジア太平洋戦争に敗れ、日本国内に大きな変化が訪れたが、一家の主のいない淑子一家の暮らしに好転は訪れなかった。配給制度がなくなり、最低限の暮らしの保障がなくなった。
 敗戦後、仕方がなく淑子は三重の実家を出ることを決め、大阪のパチンコ屋に住み込みで働くことにした。住み込みの職場ならば家賃が必要ではなく負担が少ないからだ。はじめ京橋のパチンコ屋に勤め、一九五九年二月、京橋から千林の店に移ったころ、店で働く年配者の紹介で、同じ店で働く金田一郎(仮名)と見合いをした。金田は淑子の五歳年上でやさしかった。「二十五歳で、嫁に行く最後のチャンスか」と自分に言い聞かせ、結婚を決めた。三〇歳の夫に伴われ、夫の実家の九州に赴き、夫の母親に会ったが母親の話し方から「ああ、朝鮮の人か」と初めて気づいた。
 一九五九年といえば、在日朝鮮人の間では北朝鮮への帰還するかどうかが大きな問題になっていた。夫は「日本で暮らすよ」と淑子を安心させていたし、結婚後まもなく、年末には、長男が生まれたこともあって、夫婦は北朝鮮への「帰還」など頭の片隅にこれぽっちも考えないと、慰めてくれた。しかし、時代の熱というのであろうか。一九五九年末、夫の友人が第一陣で北朝鮮に帰還することになり、夫は福岡県の小倉駅まで見送りに出かけたが、それからというもの、淑子の表現を借りれば「夫は熱にとりつかれた」ように豹変し、突然帰還すると言い出した。
 不安に駆られ「北朝鮮に帰えるならわたしを離縁して」と訴えた淑子であったが、朝鮮総連傘下の婦人同盟の役員から「三年経ったら里帰りできるから、それまで辛抱したら」と説得され、「北朝鮮がダメなら日本に戻ってやり直せばいいや」と無理やり自分を納得させ、夫につき添うことに決めたという。淑子が病弱で、生まれたばかりの長男へのお乳が満足に出ないという事情も、夫との離婚を躊躇させた。当時、粉ミルクは高価で、淑子にとって子どもは宝であった。

地上の楽園

 北朝鮮や朝鮮総連は、新天地が「地上の楽園」という。淑子もこうした謳い文句を丸々信じたわけではないが、夫が総連に北朝鮮への帰還を申請し、やがて新潟への夜行列車に乗り込んだ。荷物はほとんどなく、布団が唯一の荷物であった。
「乗った船の名前を覚えていますか」とのわたしが訊くと、淑子は首を横に振った。当時、国際赤十字を通して、ソ連が用意した船は、クリリオン号とトボルスク号の二隻で、淑子の記憶ではそのどちらかで間違いはないと証言した。
「乗り込むときは一番先でした。船室も一番船底で、よく揺れました」
 一九六〇年、初春。新潟港の出発時刻は午前一〇時。淑子の記憶は鮮明である。春が来る前、冬の日本海は厳しい。低気圧が日本海を通り抜けるとき、日本海は大荒れになり、帰還船は大揺れに揺れた。「祖国へ」という在日朝鮮人の夢を乗せた赤十字船は、二日後、北朝鮮の東海岸にある港町・清津に午前六時三〇分着いた。道中、淑子は船が揺れるため食べ物が口に入らず、生まれてわずか五ヵ月の長男へのお乳が出ず、船内の看護婦が粉ミルクから作ったお乳を持ってきてくれたのを、淑子はよく覚えている。
 清津港にようやく到着した淑子たち三人家族だが、夫は金田一郎の通名を捨て、朝鮮戦争から間もない新しい社会主義国で生きていく覚悟を固めていた、はずであった。しかし、淑子は清津港に着いたときの夫の姿を強烈に覚えている。
 夫は上陸すると、すぐには他の上陸メンバーのように指定された清津市内の宿舎へは直行せず、港から歩ける地域をどんどん見て回った。淑子のもとに帰って来るなり、淑子の耳元で小さな声で「ちくしょう、騙された。宿舎に入らず、日本に帰ろう」と心中を伝えた。
 とはいえ、全羅南道出身で五歳のとき日本にやってきた夫には北朝鮮に知り合いも頼りになるツテもおらず、清津で乳飲み子を抱えた若い夫婦の「日本に戻りたい」という主張が通るはずもなく、上陸メンバーは北朝鮮のあちらこちらに向かっていった。淑子夫妻は同じ船で清津に到着した九州からの一団といっしょに、中朝国境沿いの両江道の小さな街に連れて行かれた。出身地が同じならば、互いに助け合うであろうというのが、転居先を決めた北朝鮮当局の思惑であったろう。
 これは後のことだが、日本国内では他人とケンカしても殴られたことはあっても自分から決して手を出したことのなかった夫は、北朝鮮で暮らすようになってから、ケンカ早くなったという。清津港に着いた途端、「夢」に破れたことを痛感した夫は、心の中のハリを一瞬にしてなくしてしまったのかも知れない。

中朝国境沿いの街

 北朝鮮当局に決められた転居先が、鴨緑江をはさんで両江道の国境沿いの街であったことが、あとで、淑子が北朝鮮からの脱出を可能にする大きな要素になる。しかし、一九六〇年当時はそのような利点に思いは及ばず、ピョンヤンなど大都会に派遣されなかったことを恨みに思ったという。
 国境沿いの街の冬は厳しい。最低気温はマイナス四〇度にもなるという。淑子夫妻の勤め先は、自動車など輸送機器のラジエターを作る会社であった。住まいは、街の中心部からバスで一〇分、歩いても三〇分ほどの場所にある社宅が指定されたが、オンドルでかろうじて冬を越すことができたという。
 日本で生まれた長男に続き、淑子夫婦の間に、男・女の順番に合わせて次々に子どもが授かり、兄弟は六人になった。しかし、生まれた子ども六人のうち三人はくる病と診断された。カルシウムやビタミンDの不足が直接の原因と言われるが、栄養不足が背景にあるのだろう。三人は早く亡くなった。
「どんな生活でしたか」と訊くと
「何せ、子どもが六人いましたからねぇ。一時は娘を中国に売ることを真剣に考えましたよ。周りの朝鮮人のとこも、年ごろの女の子は一人もいない。皆んな、娘を中国に売り飛ばしてしまったんだね。この二女に較べ、下の子の方が器量はいいんでね。そっちに話をしましたよ」
 二女は苦笑いをした。日本人妻の母に話を訊きたいと申し込み、二女マミが夜間中学を休んで、わたしのインタビューに立ち会ってあい、あれこれとフォローをしてくれたが、このときばかりは母親が本気なのか、冗談で言っているのか図りかねている様子であった。少し空気が緩んだが、その冗談は苦いものであった。

中国へ

 北朝鮮の片田舎でひっそり暮らす淑子一家であったが、転機が訪れたのは一九九〇年代であった。夫のところに、中国国境を越えてブローカーが日本からの帰還者を訪ねてきた。ブローカーが言うところでは、「中国にいったん出て、日本国内の家族に連絡をとると、先方からお金を送ってくるから、やってみないか」と誘った。貯金や売るべき家財道具をもたない淑子夫婦は半信半疑ながら相談の結果やってみるしかないと話に乗ることを決めた。一九九九年の年も押し詰まった十二月二十八日、まずは夫だけいったん鴨緑江を渡った。中国国内におよそ一ヵ月滞在するうち、日本国内に協力者でもいるのか、九州に住む夫の弟とようやく連絡をつけることができた。日本で暮らす弟は日本円で二十万円送金すると返事してきた。ここで夫は中国の地下銀行にお金が届くまで日にちがかかるからと、いったん北朝鮮に戻った。
 冬を越し、寒さが少し緩んだ翌年二〇〇〇年三月になって、ブローカーから再び連絡があり「お金が届いたし、本人じゃないと引き出せないから、再び中国へ行こう」と誘われた。大切なお金だから相手がどこまで信用できるのか、この目で直に見たいと淑子は主張し、今度は淑子も同行することを決めた。子どもを残し、二人は鴨緑江を渡り、中国に赴いた。
 二〇〇〇年四月、どんでん返しがあった。
 実はこの中国に誘ったブローカーは詐欺師で、北朝鮮に帰還した在日朝鮮人をダシに、日本からの送金を騙し取ったり、中にはお金だけに収まらず、命まで奪うおそれがある危険な面々だと、中国へ脱出してから気づいた。
 ブローカーらは、淑子夫妻に対し「日本に住む夫の弟に二〇〇万円追加して送金させろ」と要求した。「そんな金は用意できない」と断ると、「殺す」と迫った。そうこうするうち、詐欺師グループは中国当局に探知され、御用となった。彼らと一緒にいた淑子夫妻もいっしょに御用になった。二〇〇〇年四月のことだ。
 中国の取り調べでは、ブローカーの親玉に電気拷問がかける横に、淑子夫妻もいっしょに居ろと命じられた。どうなるかと危惧する間もなく、淑子夫妻は北朝鮮当局に引き渡された。今度は詐欺の被害者ではなく、国外逃亡犯である。
 北朝鮮で当局者の取り調べを受けたとき、中国に渡った本当の理由については一切しゃべらずウソをつき通した。淑子ははじめてのウソだと告白した。「だって本当のことをしゃべれば、長期の刑が待っているでしょうに」そのときの表情は、冒頭「ドロボーをしないと生きていけない」と、ちょっとはにかんで答えたときの淑子のときにそっくりであった。
 ウソをつかないと生きていけない、ドロボーをしないと生きていけない暮らし。日本からは想像できない暮らしだ。
 刑務所暮らしが一ヵ月に及んだころ、突然、呼び出しがあった。刑務所からの仮釈放であった。淑子の子の嫁に当局の関係者がいて、初犯ということもあって、コネクションでなんとか夫婦そろって救われたという。

転機

 夫が亡くなったのは、二〇〇四年一〇月のこと。清津へ会社の出張にでかけ、そこで
突然、頭が猛烈に痛くなり、病院に運ばれたが、介護の甲斐もなく亡くなった。北朝鮮に帰還して四四年、中朝国境沿いで真冬はマイナス四〇度にもなるにもかかわらわらず、満足な食事も配給されない、北朝鮮の厳しい経済環境が、夫の循環器系にダメージを与えたのではないかと、淑子は推測を話してくれた。
 二〇〇六年四月、社宅近くの山の一番上に、会社からジャガイモ畑を貸与された。小さな土地だが、ジャガイモを五〇キロのカマスで十袋収穫できた。嫁いだ先の亭主に先立たれ、母親のもとに出戻った次女マミとひっそりと暮らす二人にとって、ジャガイモは北朝鮮北部の厳しい冬を何とか越すためぎりぎり必要な大切な食料だ。淑子は茹でた小さなジャガイモ二個を腰のベルトに仕込んで、畑仕事の合間に、山から湧き出る冷たい湧き水でのどを潤し、持参したコチジャン(とうがらし味噌)を調味料にジャガイモを食べる瞬間だけ、生きている実感を味わったという。
 ところが、ある日突然、その畑に男が現れ、自分のだと宣言した。慌てて会社の係に「わたしのものだ」と言いに行ったが、取り合ってくれない。どうしたらいいのかと文句を言うと「金正日閣下に言え」と言われた。北朝鮮でこのような文言に接したら、埒があかないことを意味する。この言葉で万事休すと観念した。畑の没収が淑子の没落に輪をかけた。

脱北

 二〇〇六年七月。そんな折りだ、淑子が中国へ赴いた時期に会ったことのある中年女性に畑近くの細い道ですれ違った。どうもこの女性は鴨緑江を渡り、中朝を往来している様子で、向こうも相手が淑子で日本からの帰還者であることに、ピンと来たような雰囲気であった。
 見知らぬ人と話をしているとそれだけで通報の対象になるし、中国に渡って刑務所に入れられた経験もあるので、他人の目を警戒して、すれ違うときには立ち話もせず、なんとなくアイコンタクトをとると、「後ろを付いてこい」とパフォーマンスで判ったので、そうした。淑子が後をついて行くと、木陰で周囲から視線が遮断されたところで、中年女性が立ち止まり、ようやく話ができた。
 開口一番、「あんた苦労したでしょ」と慰められたので、淑子はホッと緊張が解けた。「日本から来た人は、日本に逃げたらいい。日本は帰還者を受け入れる」と言われた。慰めの一言によって相手に悪意がないと判断し、淑子はこの女性の話に耳を傾けようと心を決めた。
 淑子は北朝鮮からの脱出を一人で決意、すぐに自宅にとって返し、二女のマミに相談した。マミの返事を待っていると、マミも同じ判断だという。淑子はホッとする反面、もう一人、末っ子の三女も亭主に死に別れ、淑子は連れて行くつもりであった。しかし、事態の進展が急展開すぎた。三女はどこかへ出稼ぎに行っているのか連絡が取れない。三女を待っていたら、淑子と二女マミの命がもたないからと、その晩、脱北を決意した。
 二人は晩ご飯も口に入らず、お弁当にする食糧もない。午後八時、指定された山の中の空き小屋に移った。深夜、中年女性がようやく空き小屋を訪ねてきた。三人で山の中の小屋から鴨緑江の北朝鮮側の堤防内側の地点に移動した。道中、心臓が鼓動する音がばくばくし、淑子の耳には心臓の鼓動で周りに気づかれるのではないかとハラハラし、その不安が余計に心臓の鼓動を早めた。
 堤防を駆け下り、淑子親娘と中年女性は岩陰に身を隠した。夜明け前に、鴨緑江を渡ると予定を聞いていたのに、中国側からゴムボートがなかなか来ない。
 やがて、東側に薄明が差し、早起きの小鳥たちの鳴き声が淑子の耳に聞こえてきた。そっと、岩陰から周囲を覗くと、意外や意外、国境警備の監視小屋と近いことが判ったが、今さら引くに引けない。それより、ゴムボートはまだ来ない。
「夜の明けるまでがこれほど長いと思ったことがない」と、淑子はいう。
 朝日が差してきた。と間もなく、音もなく、中国側からゴムボートが淑子の目の前にそっと北朝鮮側にやってくるのが見えた。淑子からはっきり見えるゴムボートは、北朝鮮の国境警備の監視人からもはっきり見えるかも知れないと、淑子は気が気でない。やがて目の前に来たゴムボートは二人がかろうじて乗れるだけに小さなボートであった。淑子の頭には、もし三女と連絡が取れて、淑子と二女、三女の三人であったらどうしたであろうか、その危惧が最初に心に浮かんだという。「母だなぁ」と、わたしは思った。
 中年女性の指示で、淑子と二女がボートに滑り込むように乗ると間もなく、中国側からボートにくくりつけてあるロープが引っ張られ、鴨緑江をするすると中国側に向かっていった。
「あぁ、これで脱出できる」。淑子は何度も心の中で叫んだという。
 中国側には数人の男たちがロープにボートを懸命に引っ張っていた。ボートが反対側の岸にたどり着いた。拍子抜けするほど、周囲は静かであった。北朝鮮の国境警備の監視人たちからは、銃撃もなかった。淑子は中国側の堤防を駆け上がり、待っていた乗用車に乗り込むと心の底から安堵した。安堵ということを実感したのは何年ぶりだろうと、人心地が付いた。

日本へ

 淑子と二女マミの二人は、中国国内で活動する脱北者支援のNGOグループメンバーのサポートを受け、およそ二ヵ月間中国国内で暮らした後、中国国内の日本領事館へ駆け込み、日本への帰国に途を着けた。二〇〇六年九月一七日のことであった。
 外務省の在外公館リストによれば、中国国内には在北京の日本大使館のほか、重刑、広州、上海、瀋陽、香港と五つの領事館と、大連に出張駐在官事務所があるが、淑子がどこの領事館に駆け込んだかについて、淑子はわたしには話してくれたが、「今後の脱北者のこともあるから」と発表しないでほしいとリクエストを受けたので、ここでは地名は記さない。
 かつて二〇〇二年五月八日、北朝鮮を脱出した朝鮮人の一家五人が瀋陽の日本領事館に駆け込んだ際は、日本の市民グループと共同通信のカメラパーソンが中国の武装警官が領事館への駆け込むのを阻止する映像を撮影し、その後、北朝鮮政府が身柄の引き渡しを求めたり、中国政府が北朝鮮への身柄引き渡しをほのめかすなど大きな問題となり、ようやく韓国への亡命が認められた事件が起きた。
 この瀋陽領事館への駆け込み事件をきっかけに、中国政府は北朝鮮からの脱出者を北朝鮮に送りかえす政策を改め、脱出者が望む国、例えば韓国なり日本への亡命を認める方針に政策を変更した。
 淑子たち親娘が日本に比較的すんなりと帰国できたのも、先人たちの闘いの成果であった。
 淑子たちは、日本国内の脱北者支援グループが身元引き受け人とない、大阪の八尾市内のアパートに入居した。淑子たち二人には八尾市役所がスムーズに事務を処理し、生活保護が支給されている。また、二女マミは八尾市内の夜間中学に通い、日本語のほか、算数など基礎的な知識を身につける日々を送っている。

帰還事業

 ところで、なぜ北朝鮮に淑子のような日本人女性が暮らしているのか。そしてなぜ本人たちが日本への帰国を希望しているのに、実現しないのか。
 在日朝鮮人の北朝鮮への帰還事業を説明する際は、二つの神話が用意されている。一つは在日朝鮮人の自発的な要求であったというもの、もう一つの神話は、日本赤十字が在日朝鮮人の要求に従って、受動的に動いたとの神話である。
 まずは、第一の神話から紹介する。
 一九五八年八月一一日、神奈川県川崎市にある、朝鮮総連のメンバーが北朝鮮の金日成首相(当時)に対し、「北朝鮮に帰国したい」との手紙を出すことを決議した。これに対し金日成首相から「帰国を歓迎する」旨の返事(九月八日)があり、組織的な帰還運動がスタートしたという。事実として違いはないのだが、その前史が大切である。
 帰還事業は、在日朝鮮人、北朝鮮政府、日本政府、アメリカ政府、韓国政府、民団(在日韓国居留民団)など、さまざまな利害が対立する中、いろいろな思惑の中で実現された事業だという側面を忘れてはならない。
 まずは、当事者の在日朝鮮人の運動を見てみる。
 朝鮮は日本が植民地支配から、アメリカとソ連の冷戦下、北緯三八度線で南北に分断される。やがて南北朝鮮が互いに建国を宣言(一九四八年)、同じ民族が血で血で洗う朝鮮戦争を経て(一九五〇年)、朝鮮戦争が休戦協定という「撃ち方止め」という状態でひとまずピリオドを打った(一九五三年七月)。日本国内でも、初期にできた民族組織・朝連(在日本朝鮮人連盟)は、その組織綱領に「在日同胞の生活安定」を盛り込むなど、冷戦下北朝鮮への帰国はなかなか実現できない中、日本国内での長期滞在を前提にしたが、日本政府から治安対象となると、それまでの武装闘争路線を止め、新しく総連(在日朝鮮人総連合会)に組織変更をする。総連の二つの柱が、民族学校の存立と在日朝鮮人の帰還運動であった。
 続いて、第二の神話を点検する。
 在日朝鮮人の帰還事業に大きな役割を果たした、日本赤十字の社史稿によれば、一九五六年四月、在日朝鮮人が北朝鮮への帰国を求めて、日赤本社前に座り込みをし、そのデモンストレーションと、長崎県の大村収容所に抑留された朝鮮人の数人が「送るなら韓国ではなく、北朝鮮にしてほしい」との要求が、たまたま訪れた国際赤十字から派遣された特使の耳に届き、それから帰還運動に取り組むようになったとの神話である。
 しかし実態は違った。日本政府の思惑は、一言で言えば「やっかい払い」であった。
 当時、日本国内での生活保護の支給対象者のうち、在日朝鮮人が大きな割合を占め、大蔵省(当時)は「在日朝鮮人を北朝鮮に帰国させれば、日本国内の生活保護費が減る」と見ていた。もう一つの要素が、イデオロギー問題であった。武装闘争路線の朝連から穏健路線の総連へ、大衆運動の舵取りを方針転換したとはいえ、日本国内の治安当局にしてみれば、在日朝鮮人は依然として不安定要素であったことは間違いなく、こうした経済的な側面と政治的な要素が相まって、日本政府内部では「在日朝鮮人を北朝鮮に帰還させる」という意向を早くから形成していった。
 こうした「やっかい払い」との見方は、オーストラリア国立大学のテッサ・モーリス・スズキ教授が調査で裏付けた(『北朝鮮へのエクソダス』朝日新聞刊)。
 スズキ教授の調査によれば、在日朝鮮人たちが本格的に帰還事業に力を入れる一九五九年に先立ち、遙か以前の一九五五年当時から、日本赤十字はジュネーブの国際赤十字に対し、在日朝鮮人が帰還できるように主体的に働きかけたことが、ジュネーブ本社に残る文書で裏付けた。このことは、すでに新聞などで発表され出版されたので、今では広く知られるようになった。
 この調査でさらに興味深いのは、アメリカ政府の立ち位置である。帰還事業の始まった一九五九年一二月という時期は、一九六〇年六月日本国内では日米安保条約の改定作業(六〇年安保という表現の方が判りやすいかもしれない)を控えた時期であったが、日本政府は韓国政府の反対を押し切り、アメリカ政府に対しは日本国内の治安攪乱要素をなくすためと説得し、帰還事業を推し進めた。アメリカ政府は了解したので、帰還事業が実現した。

日本人妻の自由往来を

 一九五九年一二月に始まった在日朝鮮人の北朝鮮への帰還事業は、先発隊の体験によって、北朝鮮が「地上の楽園」ではないと日本国内に伝わると、みるみる帰還者数は減った。事業開始から一九六〇年末までの一年間に帰還した人数は約五万二千人であったのに比べ、一九六一年初頭から三年間のは約三万人に留まった。本来事業の主体である在日朝鮮人が帰還事業をどう判断をしたか、数字が雄弁に物語っている。
 つまり、在日朝鮮人の北朝鮮帰還事業は、シナリオライターが複数いて、一番中心が日本政府と日本赤十字、別の思惑から同じシナリオを書いたのが、朝鮮総連と北朝鮮政府、こうした複数の思惑が錯綜するシナリオに対し、アメリカ政府は暗黙の了解を与え、韓国政府は物理的に阻止する力がなかった。
 こうした連立方程式で描かれたシナリオの中で、苦労を味わったのが、在日朝鮮人であり、愛する家族と共に新天地を夢見た、日本人妻であった。
 艱難辛苦を味わった日本人妻が日本と北朝鮮を自由に往来できるようにとの主張は、韓国が朴正熙軍事独裁政権時代、統一協会や勝共連合などが熱心にしたが、その多くは北朝鮮打倒を目ざした政治的な運動に他ならなかった。しかし、その勝共連合はやがて北朝鮮政府にとって仲のいいパートナーとなったことはよく知られている事実である(東亜日報の月刊誌『新東亜』二〇〇〇年九月号)
 日本と北朝鮮とは、戦後六〇年を経てなお国交がない。一九九〇年の金丸訪朝や二〇〇二年の小泉訪朝で進展するかと思えたが、日本人拉致問題の骨がささったままで膠着状態に陥っている。もちろん拉致された家族の心情を思えば、北朝鮮政府に誠意ある対応を望むことに異論はないが、しかし、二〇〇八年一〇月アメリカが北朝鮮のテロ国家指定を解除した。
 かつての米中国交樹立のニクソンショックの例を引くまでもなく、拉致問題を解決するためにも日朝間がいまのままで対話のない状態でいいわけがないと、多くの良識ある人々は考えている。
 わたしは、かつて取材した第十八富士山丸事件の紅粉船長と栗浦機関長のことを思い出す。一九八三年北朝鮮と日本を往復する冷凍運搬船に、ピョンヤン郊外のナンポ港で北朝鮮の軍人ミン・ホングが密航目的で乗り込み、船長らが日本国内で海上保安庁にミンを引き渡したことをきっかけに、再び北朝鮮に戻った富士山丸の二人が北朝鮮当局によってスパイ容疑で七年間抑留された事件である。七年間の抑留の末、当時の社会党の土井たか子委員長や自民党の金丸信副総理が尽力して、一九九〇年帰国し、日本人船員二人はようやく家族の許に戻ることができたが、第十八富士山丸事件のときも、世論はもちろん、政治家もこと北朝鮮のことになると、無関心であった。
 日本人妻も全く同じ構図だ。北朝鮮による拉致被害者や拉致家族に比べ、世間はほとんど無関心である。日本人妻の自由往来については、かつて北朝鮮政府も一九六四年当時主張したことがある。日本人妻の自由往来を妨げている主たる要因は、北朝鮮政府が自国民の国内交通すら容易に認めない閉鎖的な政策だが、もう一つ、日本国籍を所有している、北朝鮮国内で暮らす日本人妻の自由往来実現に要求すらしない、日本政府の不作為も大きな要因ではないのか。
 現在、日本で暮らす、北朝鮮を脱出した日本人妻はわずか六人。しかし、来年五〇年を迎える北朝鮮帰還事業で帰還した朝鮮人九万人と共に、北朝鮮に渡った日本人妻は一八〇〇人と推定されている。あのとき二〇歳として今なら七〇歳と、指を折るのはそれほど難しい作業ではない。まだ間に合う。北朝鮮で暮らす日本人妻は、日本と北朝鮮を自由に往来できるよう、東アジアに平和を実現できるよう、求めている。
 日本人妻の自由往来を。これは血の叫びだ。

                                                                (文中、敬称略)