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第19回「週刊金曜日ルポルタージュ大賞」優秀賞

この命、今果てるとも

――ハンセン病「最後の闘い」に挑んだ90歳――                             

入江秀子

 全国に13箇所ある国立ハンセン病療養所の施設を地域に開放し、同時に、高齢化する一方の入所者たちの終生在園と快適な生活を保障するための「ハンセン病問題基本法」(ハンセン病問題の解決の促進に関する法律)が、08年6月11日、成立した。超党派の国会議員による議員立法として、提出されていた議案であった。
 ハンセン病問題は、01年のあの歴史的な熊本判決により、すでに解決しているのではないかと思われているようだが、黒川温泉(熊本県・南小国町)の宿泊拒否事件に象徴されるように、ハンセン病回復者に対する根深い差別は依然として続いており、全国に約2800人(本稿執筆時)いる療養所入所者のなかには、いまなお、帰郷も両親の墓参も果たせない人が多数いるのである。また直近のニュースでは、北京五輪の組織委員会が発行した外国人向け「手引」の中に「ハンセン病患者は入国できない」という一項のあることが伝えられている。
 熊本判決から7年経った今、この訴訟を闘った人たちが、さらにまた、かつて「強制収容所」だった療養所を、地域に開かれた、福祉、医療、文化の拠点にしたいという理想に燃え、新たな闘いに立ち上がった。そして法案成立時には実に93万人を超える署名を集めたのである。その運動の核となったハンセン病回復者の人たちは、平均年齢79・5歳。いわば命を賭けた最後の闘いでもあった。

 鹿児島・星塚敬愛園入所者の玉城しげは1918年生まれの90歳。「ハンセン病違憲国賠訴訟」の、第一次原告、13人の中の1人でもある。
 彼女は特定非営利活動法人「ハンセン病問題の全面解決を目指して共に歩む会」(略称・NPO法人・共に歩む会)が「ハンセン病問題基本法案」の国会請願署名に取り組み始めると、若い会員たちに混じって、たびたび街頭署名に立った。ハンセン病の回復者であることがその容姿から一目でわかる彼女の訴えは、若い会員たちの爽やかな「署名にご協力お願いします」という呼びかけに混じって、一際迫力を持って、道行く人々の足を引き寄せる。
「たった今、ここで死んでも悔いはない」
 と言うのが彼女の口癖なので、誰も、彼女の活動をセーブしようとはしない。後遺症で固まってしまっている不自由な手足を思いやって、「あまり無理をしないように」などと、気配りをすれば、たちまち一喝されることがわかっているからである。
 死後は鹿児島大学へ献体することもすでに決めており、子どもを産むことを許されなかった彼女は、もろもろの死後の後始末も、「共に歩む会」に委ねている。この人の潔さと、剛毅さ、枯れる事を知らない、たぐい稀なる行動力の源はいったいどこにあるのか、私は3年余りの付き合いの中から、少しずつその鉱脈を探り当ててみようと試みた。

(1)

 2008年5月11日、ハンセン病国立療養所、多磨全生園では、ハンセン病市民学会の第四回総会2日目の日程である、分科会が開かれていた。
 1909年に創立され、約350万平方メートルという広大な敷地を擁する全生園の中心部には、事務棟や中央集会所、福祉会館、公会堂などがあり、主催者から昨日の総会で発表のあった約800名(そのうち、今日は何名の増減があったかまでは定かではないが)の参加者たちは、3つの分科会に別れて、それぞれの会場に散っていた。昨日来の小雨が降り続いている。
 私は中央集会所を会場とした、「胎児標本問題から私たちが学びとるべきものは何か」の分科会に参加した。この分科会で、玉城しげは、療養所に残されていた胎児標本や、入所者の堕胎、断種などに関して、インタビューを受けることになっていたので、私もこの分科会を選んだのであった。
 この分科会では、4人のハンセン病回復者へのインタビューと、4人の専門家たちによるパネルディスカッションが行なわれることになっている。回復者へのインタビュアーは、ハンセン病国賠訴訟西日本弁護団の若き女性弁護士、久保井摂である。デニムのジャケットに白黒ストライブのジーンズというカジュアルな姿で、司会者からの紹介がなければ、誰も弁護士とは気づかないだろう。この大会では、国賠訴訟の弁護士も、市民学会のメンバーである大学教授たちもみな「スタッフ」のネームプレートをつけ、大会を献身的に支えているボランティアスタッフたちと共に会場を走り回っていて、彼女もその1人であった。
 最初にステージに上がったのは、全生園入所者のアン・スーニンと夫の堤良蔵。舞台中央のパイプ椅子に腰掛けている2人の前に、久保井弁護士は、膝をつくような格好でマイクを近づける。アン・スーニンは、その名前からして、私は「在日」ではないかと推察する。とすれば、ハンセン病と在日という二重の差別を受けてきたことになる。きっと彼女の歩んできた人生は、想像を絶する苦難に満ちたものであったにちがいない。スーニンは、その中から大切な一こま一こまを選びだすように、訥々とした口調で話していった。
「妊娠6ヵ月の時堕胎させられました。もう産毛が生えていましたよ。ぴくぴく動いているその子を看護婦(当時)が目の前に持ってきて見せました。それから、もういいだろう、と言って、うつ伏せにしました」
「この病気にかかったら、その時からもう、人間ではなくなってしまうのです。息をしているだけで、もう、人間ではないんですよね。」
「犯罪者でも、刑期が終われば出所できるでしょう。でも私たちは一生ここから出られないのです」
「邑久光明園にいるとき、海に入って死のうと思いましたよ。でも死ねませんでした。私なりに生かされているんだなあと、その時思いました。それで自殺はやめました」
「娘時代にこの病気になって、親から、人が来たら隠れろといわれてきました。だから私は世間のことは知りません。でも人の気持ちはよく解ります。病気の子には病気の子の役割があるんですよね」
 途切れ途切れの言葉だが、その一つ一つが、私の胸にぐさりと突き刺さってくる。
 私は、すぐ斜め前に座っているしげに時々視線を向けた。彼女は一つ一つの言葉に深くうなずきながら、時々ハンカチで目頭を拭っていた。そしてしばらくすると、隣に座っている介助の人に頼んでバッグからメモ用紙と鉛筆を取り出してもらい、不自由な手に鉛筆を挟んでメモを取り始めた。目の輝きがいつもの彼女とは違うと、その時私は強く感じた。
 この総会に参加する前に、私は、しげとともに国賠訴訟の第一次原告となってともに闘った無二の親友であり同志でもある上野正子から、しげに子宮ガンの疑いがあるということを打ち明けられていた。近いうちに手術の予定もあるということだったので、「共に歩む会」の松下代表からも、今回の参加は見合わせたほうがよいのでは、といわれたらしいが、例によって「いつ死んでもいいから」と言って、参加したのである。もちろんこの事実は、ごく限られた人にしか知らされていなかったが、「しげさん、今年はまた一段と張り切っているなあ」と言う声は、鹿児島空港を発って以来、参加者の仲間たちの多くが口々に漏らしていた。それほど誰の目にも、しげはいつにも増して元気溌剌と映っていた。 
 スーニンの次は夫、堤良蔵のインタビューである。
「血を分けた妹がホルマリン漬けになっていました」 
 ほとんど前置きもなしに突然口をついて出た彼の言葉に一瞬会場は凍りついたように静まり返った。
「私の母親の名前がその瓶に書かれていたのでわかったのです。母が強制的に堕胎させられたということもこの時初めて知りました。テレビ局の人からそのことを聞かされたとき、私は頭の中が真っ白になりました」
「一刻も早く葬ってやりたい、私の気持ちはそれだけでした。検証会議の済むまではだめだ、と言われ、歯がゆくてたまりませんでした。ホルマリン漬けにされた妹は、研究材料になるわけでもなく、ただほこりまみれになって、粗末に放置されていたんですよ」
「裁判を起こせという人もいましたが、裁判はやりません。ただ早くねんごろに葬ってやりたい。それだけです」
 会場からすすり泣きの声が漏れてきた。しげは頬を伝う涙をぬぐいもせず、堤を食い入るように見つめていた。次は自分の番だというのに、彼女は全身全霊を傾けて彼の証言に聞き入っているのであった。

 司会者に指名されて、しげは立ち上がった。介助を断り、1人で、ゆっくりとステージに向かう。多少歩行は困難だが、療養所では、車椅子無しで暮らしている。目や鼻にも後遺症によるゆがみはあるが、浅黒い肌、理知的な広い額、艶やかな銀髪。育ちのよさを思わせる、上品な雰囲気はこの歳になっても失われてはいない。「ここへ入ってきた時は、本当に美人だったなあ」と、敬愛園の古老が述懐していたことがある。ふんわりと羽織った、白地に黒い花模様のブラウスの襟元にはしゃれた七宝焼きのペンダントが掛けられている。89歳の誕生日に支援者の女性からプレゼントされたという。
 しげとは親しい間柄である久保井弁護士は、ごく自然に、寄り添うようにしてマイクを向ける。
「女にとって、あれ以上の屈辱はありません」
 しげも前置きなしに話の核心に切り込んで行った。
「でも、このことは、本当は話したくないのです」
 会場の空気が一瞬張り詰める。久保井弁護士は大きくうなずいて、しばしマイクを自分の手元に引き寄せていた。数秒の重い沈黙の後しげは意を決したように語り始めた。
「手も足も縛り付けられて、まるでまな板の上の鯉と同じでした。ガチャガチャという金属の触れ合う音が耳に入ってきた時、余りの怖さと恥ずかしさとで、気を失ってしまいました。麻酔もなしにいきなり堕胎するのですから相当痛いはずですが、その時のことは何も覚えていません」
「気がついたら、膿盆の上に赤ちゃんが仰向けになって乗せられていて、それを看護婦さんが目の前に持ってきました。髪の毛の真っ黒な可愛い女の子でした」
「私の目の前で、赤ちゃんは、10枚のガーゼで鼻と口をふさがれ、紅葉のような手と足をばたばたさせていました」
 久保井弁護士は声を詰まらせ、
「辛い体験をよくお話くださいましたね……」
 と言った。その声にかぶせて、しげは低くつぶやくように言った。
「堕胎した女医と婦長を私は一生忘れることはできません」
 しげがこの場で吐露した思いはこれだけであった。だがこの言葉に凝縮された、彼女の思いの深さは、到底誰にも推し量ることはできないだろう。

(2)

 しげは1918年(大正7年)沖縄県久米島の裕福な網元の家に生まれた。10人兄妹の長女で上に兄が2人いたが、女は1人きりだったので、とても大切に育てられた。妹がその後3人生まれたが、家には使用人も多くいて、ほとんど家事などすることもなく、いわば「乳母日傘」で育てられてきたのである。
 当時高等女学校へ進学できるのは学年に1人か2人程度。ごく選ばれた家庭の女子だけであったが、そんな中でしげは沖縄本島の、県立第二高等女学校に進学した。初めて本島に渡ったしげは希望に胸を膨らませ、糸満の伯父の家から女学校に通った。だがそれも束の間、その年の夏、13歳の時に、顔に赤みがさし始め、胸に白い斑紋が出た。祖父母が真っ先にそれを見つけ「らい病ではないか」と疑った。1931年(昭和6年)のことであった。奇しくもこの年は、政府によって「旧らい予防法」が制定され、らい患者の強制隔離が開始された年でもあった。
 父母は、「らい病だとわかったら大変だ」と言って、直ちに退学させられた。自分がそんな恐ろしい病気にかかっているなどとはどうしても信じられなかったしげは泣いて抵抗したが、当時沖縄にはらい患者が多く、このあたりの海岸にも、いわゆる「浮浪らい」と言われている人たちが、海岸の岩穴に隠れて暮らし、町へ物乞いにさまよい歩く姿が見受けられたので、「あのようになったら大変だ」といわれ、やむなく退学したのであった。
 親戚に漢方医がおり、らいによく効くという特別な丸薬を作ってくれた。たくさんの薬草を調合して、丁寧に挽き、丸薬にするという、大変な手間ひまのかかる、高価な薬であったが、両親は金に糸目をつけず薬を買い求め、娘を治療に専念させた。しげも、必ず治ると信じて薬を飲み続けていた。しかし1037年(昭和12年)頃から次第に当局の「患者狩り」が激しさを増し、しげは、兄の家や親戚の家を転々として、強制隔離から逃げ回った。どうしても家にいて治療を続けたかったのである。
 1938年(昭和13年)、沖縄愛楽園が創設されると、新聞には毎日のように「病者発見」という見出しの記事が掲載され、見つかった患者たちは、愛楽園へと強制収容されていった。らい患者はまるで犯罪者のような扱い方であった。家に患者がいるとわかれば、直ちに医者や巡査がやってくる。しげはいよいよその足音が身辺に迫っていることを感じ、眠られぬ夜が続いた。いっそ死んでしまおうかと思うこともしばしばであった。やがて、「浮浪らい」の人たちは完全にその姿を消していった。

 1939年(昭和14年)、ついに自宅に県の衛生課から調査官がやってきた。
しげが部屋で縫い物をしていると、子守の女の子が血相を変えて飛び込んできた。
「ねえさん、大変だよ、白い着物を着た人や巡査が船からたくさん降りてきたよ」
 しげはとっさに逃げようと身構えたが、その時すでに、白衣の医者と看護婦と巡査が縁側に立っていた。
 部屋に上がりこんできた医者は、しげの手を触りながら、「感じがありますか」と尋ねたが、しげは顔を背けたままじっと黙り込んでいた。なおも医者はしげの腕や顔を詳細に眺め、
「病気の初期だから、1年で治ります。愛楽園に入りなさい」
 と言う。
「家で薬を飲んでいますから」
「家にいるより愛楽園に来た方が早く治るし友達もできる。学校も図書館もあって勉強もできますよ」
「私は行きません」
 しげはなおも頑なに言い張った。
「愛楽園がいやなら鹿児島の星塚敬愛園はどうですか。園長が親戚ですから、紹介状を書いてもいいですよ」
 しげは、もうこれ以上がんばってみたところで、強制収容から逃れられない、と観念して、
「考えて見ます」
 と答えた。今まで親も兄たちも親戚の人たちも精一杯自分をかくまってくれた。自分が頼めばこの先もきっと懸命にかくまってくれることだろう。だがもうこれ以上みんなに迷惑はかけられない。病者をかくまうことは犯罪者をかくまうのと同じことなのだ。しげは悶々と悩み続けた。
 そんなある日、林文雄という見ず知らずの人から手紙が届いた。敬愛園の園長であった。林園長は、敬愛園は、最近出来たばかりの素晴らしいところで、若い人たちもたくさんいるし、あなたのような軽症の人は3ヵ月で治るから、すぐにいらっしゃいと書いてきた。しかししげは「このような手紙は2度とよこさないでください」と返事を書いた。だが林園長はあきらめず、次には速達で分厚い封書を送ってよこした。それには、敬愛園がまるでらい患者の楽園のような記述がちりばめられ、色刷りのきれいなパンフレットも入っていて、勉強はもちろんお花やお茶などの花嫁修業もできるから、是非いらっしゃいと、長々と書かれていた。
 当時、瀬戸内海の小島にある長島愛生園の医務官小川正子の書いた『小島の春』が出版され、らい医療に献身する女医の姿が美しく描き出されてベストセラーになっていたことも影響して、林園長もそんな思いで、しげに手紙を書いたのかもしれないと私は想像する。
 悩んでいたしげもこの手紙に背中を押され、また、本土とは、鹿児島とはどんな所だろうという、未知の世界に対する娘らしい好奇心も手伝って、ついに鹿児島行きを決意した。だが今まで娘を手元においておくために懸命の努力をしてきてくれた親にはとても言い出すことはできず、母が、1ヵ月分の薬代と言って手渡してくれたお金を懐に、小さなトランク一つを手にして、世間知らずの「箱入り娘」は、家出を決行した。この時がまさか母との永遠の別れになろうとは、知る由もないことであった。

(3)

 21歳のしげは、林園長のいう楽園のような敬愛園目指して、生まれて初めて本土の土を踏んだ。だが敬愛園に一歩足を踏み込んだとたん、そこが地獄であることを、その日のうちに思い知らされた。真っ白な予防着に頭から足まですっぽりと包まれ、目だけを出した看護婦に案内されて事務所へ行くと、すぐに持ち物の全てを取り上げられて、風呂場へ連れて行かれた。そこにはきつい消毒の匂いが立ち込めていた。風呂から上がると、脱衣所には、地味な縞の、まるで寝巻きのような粗末な園の着物が置かれ、母が呉服屋に誂えさせた上物の和服もぞうりもいつの間にやらなくなっていた。しげは、その時、ここにはいられない、明日にも沖縄に帰ろうと思った。
 翌日事務所に行くと、全ての荷物が消毒されて戻ってきた。だがその中に財布だけが入っていなかった。お金さえあれば沖縄に帰ることができる。昨夜来そう思い続けていたしげは、思わず叫んだ。
「お金は、私のお金はどうしましたか」
「これがあんたのお金だよ」
 職員が、小銭入れの巾着袋を振って見せた。
「財布です、財布はどうしましたか」
「ここでは、あんたの持ってきたお金は使えないんだよ」
 職員はそう言うと、巾着の口を開き、ジャラジャラと硬貨を机の上に広げた。それはブリキのお金であった。締めて2円50銭しかない。しげが母親から1ヵ月分の薬代としてもらってきたお金は20円あまりあったはずだ。
「私の持ってきたお金は、どうしたのですか、預かっているなら、預り証を渡してください」
「小娘のくせに生意気言うな。」
 職員はあざ笑うように言いながら、ブリキのお金を巾着に戻し始めた。全身に震えが走り、歯ががくがくと鳴るのが自分でもよくわかった。
「ここは刑務所ですか」
 爪が手のひらに食い込むほどこぶしを固く握り締め、しげは叫んだ。そして必ずここから出て行こうと心に誓った。だがここから逃げ出すことがいかに困難なことであるか、しげは、日々思い知らされた。所持金全てを取り上げ、「園金」と称するブリキのお金を渡すのは、「逃亡防止」の第一歩であった。

(4)

 比較的軽症な若い患者たちに待っていたのは、園内作業であった。創立間もない敬愛園はほとんど原野に等しく、その開墾作業は、患者たちの手に委ねられていた。しげが最初に命じられたのは「御歌碑」の建立作業であった。
 今も敬愛園の中央をまっすぐに走るメーンストリートが行き詰まったところに、手入れの行き届いた立派な和風庭園があり、こんもりとした築山の頂にひときわ偉容を誇る石碑が建ち、
「つれづれの友となりても慰めよゆくことかたきわれにかはりて」
 という貞明皇后の短歌が刻まれている。これは療養所に隔離された患者を哀れみ慰め、また園の職員たちをいたわる歌だとされ、らい患者に対する皇室の恩寵を患者や職員たちが胸に深く刻みこみ、ここで暮らせることへの感謝の思いを抱くようにとの意図で、療養所の1番目立つ場所に、いち早く建立されたのである。
 夏の真っ盛り、治療とは名ばかりの、1週間にわずか3回ばかりの注射を受けるだけで、それ以外は朝早くから、日の暮れるまで、患者たちは毎日もっこかつぎやよいとまけ作業をさせられた。手袋も地下足袋も支給されず、素手に素足の作業であった。ここへ来るまで、家族に守られ、治療に専念して、自分の食器さえ洗ったことのなかったしげの手には、あっという間に肉刺ができ、それがつぶれて血だらけになった。汗と涙で顔はくしゃくしゃになり、襟に巻いた手ぬぐいは絞ると水が滴り落ちるほどであった。地面に両手を突いてへたり込むと、すぐに監督の職員がとんで来て、怒鳴りつけた。職員は、
「戦地でご奉公をしている兵隊さんの苦労を思え」
 と言ってみなに軍歌を歌わせ、それにあわせてよいとまけの綱を引かせた。満足な治療も受けさせず、若い娘に囚人の苦役さながらの土木作業を行なわせていたのである。
 しげはこの時のことを述懐しながら私に、
「みんな、ありがたい皇后様の御歌碑を1日も早く建てなくてはと、本当に思っていたのでしょうかねえ。私は今でも、あの前を通ると、心底から怒りが湧き上がってくるんですよ。らい患者をいたわり慰めると言いながら、なぜこんなに酷いことをさせたのでしょうねえ」
 と言った。

(5)

 過酷な日常であったが、やがてしげは、青年団活動の中で知り合った、奄美出身の青年と恋に落ちた。髪の毛も眉も濃い、目鼻立ちのくっきりとした、一見らいの症状はほとんど見受けられない、元気な美青年であった。彼は当時患者自治会の会長も務めていて、何事にも積極的なのが、いっそうしげの心を動かした。周囲の勧めもあって間もなく二人は結婚した。22歳の時のことであった。
 園では患者同士の結婚を、逃亡防止策の1つとして奨励した。そして結婚の条件として男性は断種させられた。「民族浄化」のためであった。
 結婚すると夫婦は、12畳に4組の夫婦が暮らす部屋に移された。仕切りも何もない、今で言う、まるで災害時の避難所のような空間に、若い4組の新婚夫婦が押し込められて暮らすのである。それでも、声をひそめ、時には外の茂みの中に身を潜めたりしながら、夫婦の営みは行なわれた。
 間もなくしげは妊娠した。2人でここを飛び出し、夫の故郷奄美に帰ろうと心に決めていたので、夫は断種をしなかったのである。しげは妊娠をひた隠しにしていたが、4組の夫婦が1つ部屋で暮らすのだから、当然のこと、やがてそれは当局に発覚してしまった。
 ある日2人は医局に呼び出され、こっぴどく叱責された。
「国の厄介になっていながら、子どもを作るとは何事か。恥を知れ」
「らいは天刑病だ。お前たちに子どもを作る資格などない」
 夫はその場で断種手術を強制された。
 その夜2人は床の中で声を殺して、一刻も早く奄美に帰ろうと話し合った。それを実現させるため夫は、園から帰郷の許可をとり、奄美の実家に戻った。シゲは奄美で子どもを産むことに望みを託し、夫の帰りをひたすら待ち続けていた。
 そんなある日、シゲは医局から呼びつけられた。これから直ちに堕胎手術を行なうという。奄美で子どもを産むなどとはもちろん言えるはずもない。せめて夫が帰ってくるまで待ってほしいと懇願したが、
「規則を破って破廉恥なことをして何を言う」
 と一蹴されてしまった。
 シゲは否応なしに手術室に連れて行かれた。堕胎手術をするのは産婦人科の医師ではなく眼科医である。彼女は光田健輔の娘であった。光田は、国賠訴訟の過程で、患者の隔離政策を強硬に推し進めた張本人であることが、原告側証人や多くの資料によって暴露され、国もそれを認めざるを得なくなったため、今ではハンセン病問題の解決を遅らせた元凶であるという見方が定着している。しかし当時彼は、多磨全生園の園長であり、「救らいの父」としてらい医療の頂点に立っていた。その光田の娘である、ということから、父親の威光を盾に、彼女も園内で権勢をほしいままにしていた。
 手術台の上に寝かされ、やがて失神したときのことは、前述したとおりである。
 我が子を目の前で殺されたしげは、抜け殻のようになってベッドに横たわっていた。やたらと喉が渇いた。
「すみません、水を飲ませてください」
「なに贅沢を言っているの。好きなことやって、いい思いをして、子どもを作ったのでしょう。そんな女に勝手なこと言う資格はない」
 看護婦が言い、女医は、
「あなた方は座敷豚よ。あれほど禁じられているのに、平気で子どもを作るなんて、人間以下だわ」
 と言った。胸に五寸釘を突き刺されたような気がして、しげは2人を心底憎悪した。呪い殺してやりたいと思った。そしてその後、2人がそれぞれに女として不幸な人生を歩んでいく様を、園内で長年見つめ続けてきた。今その事実を書く紙幅はないが「因果応報」という言葉がぴったりするような2人の人生であったようだ。しげはこの時すでに夫とともに、キリスト教の洗礼を受けていたが、それでも到底この2人のことを赦すことはできなかった。
 やがて夫が奄美から帰ってきた。故郷で社会復帰を果たすための唯一の希望であった我が子が、無残にも殺されてしまったことを知ると、夫は畳に突っ伏して慟哭した。そして2人は辺りはばからず抱き合って、夜どうし泣き続けていたのであった。

 これほど悲しい思いをしてもなお、しげは、故郷の父親には、療養所でつつがなく暮らしていると嘘の手紙を書き続けていた。だが、1960年、突然父が療養所を訪ねてきた。愛する娘の変わり果てた姿を見て父は嘆き悲しんだ。堕胎の事実を打ち明けると、
「殺人罪で、国を訴えてやる」
 と激怒し、なかなか沖縄へ帰ろうとしなかった。しげはそんな父とともに幾夜も泣き明かした。そして父はようやく諦めがついたのか、2週間の後、
「どんなことがあっても、絶対に人間としての誇りだけは忘れるな」
 と沖縄の言葉で言い残して帰っていった。
 この後もずっと、「塀の外」で生きて行きたいと希求し続けてきたが、「らい予防法」という厚い壁に阻止されて、ついにその願いを果たすことはできなかった。そして、全国の療養所入所者たちの粘り強い闘いの末、ようやく「らい予防法」が廃止されたのは、1996年、しげが78歳の年であった。これにより入所者たちの待遇も多少は改善され、社会復帰の道も一応開かれはしたが、すでにみな高齢者となっており、しかも重い後遺症を持った身障者ばかりであるため、社会復帰は事実上不可能に近いことであった。
 当時の厚生大臣であった管直人は、法の廃止が遅れたことを詫び、全国の療養所を回って、入所者たちと歓談したり、一緒に風呂へ入ったりし、それがマスコミに大々的に報道されたりもしたが、しげはそんな現象を冷ややかに見つめていた。一応国はこの法律の誤りは認めたものの、隔離政策そのものについては謝罪せず、病者たちに与えた人権侵害やそれについての賠償に関してはまったく不問に付していたのである。

(6)

 1998年7月31日、「ハンセン病違憲国家賠償訴訟」が熊本地裁へ提訴された。真夏の太陽が照りつける、晴れた、暑い日であった。最終的には総計2300名を超える人々が原告となったが、その先陣を切って、逆風に抗い、いばらの道を切り開いてきた、第1次原告は13人であった。しげはためらうことなくその1人に加わった。
 水俣病、薬害エイズ、などの訴訟を経験してきた八尋光秀、徳田靖之弁護士らが核となって、弁護団が結成された。弁護団は、らい予防法廃止直後から、敬愛園を訪れ、提訴に至るまで、時には園に何日も何日も泊り込んで、入所者たちに、原告になることを説いて回った。しげは、弁護団長である徳田の、優しく誠実な人柄に打たれ、彼の、
「長い間、私は、ハンセン病のことにはまったく無関心で過ごしてきました。この闘いは私の贖罪です。」
「らい予防法が憲法違反であることは明白です。心ある弁護士は国家賠償請求をやると声を上げるはずです。おそらく九州の弁護士たちは100人以上立ち上がるはずです」
 という言葉に、強く背中を押された。
 入所者の圧倒的多数が、
「国のおかげで生活が成り立っているのだから、これ以上国に逆らうことはできない」
 と言って提訴には反対し、入所者自治会も、所属しているキリスト教会の信者たちさえも反対した。園内を歩けば、提訴金額が1億であったことから「1億円が歩いている」とあからさまに揶揄されることもあった。
 そんな時しげは、父親が最後に言い残した、
「人間の誇りを捨てるな」
 という言葉を、繰り返し胸に刻み込んだ。
 戦時中、フィリッピンに漁業船団の一員として行っていた兄が、1944年(昭和19年)、沖縄に強制送還されることとなり、その途中、命がけで敬愛園を訪ねてきた。仲間のほとんどが現地召集され、戦死して行った中で、辛うじて生き残った兄が、痩せてやつれ果てた妹の姿を見て、涙ながらに、
「絶対に死ぬな。生き抜け」
 と言った。その兄の言葉もしばしば脳裏を掠めた。
「今のこの時が恵みのときだ。すべてのわざには時がある」
「あなたを孤児にはさせない」
 という聖書の言葉も深く胸に刻み込まれている。その一つ一つをよりどころとして、まっすぐに前を向いて歩き続けてきた。弁護士や支援者たちの後ろ盾、父や兄の愛、キリストの言葉、それらが綯い合わされて、強い支えとなり、しげは迷うことなく闘いの前衛の一翼を担うことができたのである。

 2001年5月11日。熊本地裁前。シゲは島比呂志の車椅子を押して入廷した。九州の弁護士会へ、ハンセン病の実態を綴った手紙を送り、徳田弁護士たちが決起するきっかけをつくったのも、常に敬愛園の原告たちの核となって、闘いをリードしてきたのも、島であった。また文学者として同人誌『火山地帯』を主宰し、古くから園の文学活動の中心を担ってきてもいた。 
 勝訴判決が出た。園にも足繁く通ってきて、シゲたちともすっかり親しくなっていた、迫田登紀子弁護士が、「勝訴」の垂れ幕を持って法廷を飛び出していった。そこでどれほど劇的なシーンが展開されたかは、多くの人が知っている。
 判決直後に行なわれた報告集会で、原告の中では比較的地味な存在であった日野弘毅が、立ち上がって、自作の詩を読み上げた。
「太陽は輝いた
 九〇年
 長い長い暗闇の中
 一筋の光が走った
 鮮烈となって
 硬い巌を砕き
 光が走った
 私はうつむかないでいい
 みんなと光の中を
 胸を張って歩ける
 もう私はうつむかないでいい
 太陽は輝いた」
 この時のしげの、そして原告たちの気持ちをそのまま表した、魂のほとばしるような詩であった。
 日野はこの詩のように、もう俯くことなく、やがて社会復帰を果たし、療養所を飛び立って行った。

(7)

 2007年の暮れ、星塚敬愛園の中心部にある納骨堂脇に、胎児の慰霊碑が建立された。桜島の溶岩石で作られた本体には、
「母の胸に抱かれることなく旅立ったあなた達へ」
 と刻まれ、その脇の御影石には、
「生きたかったでしょう/悔しかったでしょう/残された私たちも同じです/この星塚の地で/あなたのことは/決して忘れません/永遠に…」
 と刻み込まれている。しげは外出のたびにこの慰霊碑の前を通るが、一度も立ち止まって手を合わせた事はない。こんな、お涙頂戴の、感傷的な碑文に、手を合わせるほど、しげの味わってきた悲しみは生やさしいものではなかったのである。そして翌08年1月11日に国の主催で盛大に開催された、胎児の慰霊祭にもしげは参加しなかった。
 2005年3月に、「ハンセン病問題に関する検証会議」の報告書が国に提出され、その中でホルマリン漬けにされた胎児標本の存在が明らかにされた。しげは、その時、
「遅すぎる!」
 と思った。
 我が子を堕胎させられて間もなく、しげは看護助手の仕事に就いた。ある日、医局の一角にある研究室の棚に無数のホルマリン漬け標本が、無造作に置かれているのを目にした。近寄ってみると、ガラス瓶の中に、母親の胎内から引き出された胎児が浮遊していた。どれもみな、髪は黒々として、しっかりこぶしを握り締め、今にも産声を上げそうな、新生児といった感じであった。もしかして、この中に、我が子がいるかもしれない、いや、確かにいるはずだ。そう思うと、突き上げてくる怒りと悲しみに打ちのめされ、その場にうずくまってしまった。
 その日以来しげは看護助手の仕事をやめた。そして60年あまりずっとこのことを自らの内奥に封印し続けてきていたのである。
 検証会議の後間もなく、胎児標本の親探しが始まり、しげの元にも、園長が直々に訪ねてきて、DNA鑑定をするといった。だがその結果、園にある標本の中に、しげの子はいないことが判明した。
検証会議の報告によれば、全国の療養所から見つかった胎児標本は115体ということだが、それでは、自分の子も含め、これまでに堕胎された子供たちは、いったいどこへどのように始末されたのであろうか。
 慰霊祭の日、私はしげの部屋を訪れたが、その時彼女は、
「堕胎の後、看護婦から、汚物は自分で始末しろ、と言われましたからね。あの子は、汚物だったんですよね。きっと何百何千の子供たちが、汚物として始末されてしまったんでしょう。胎児の供養をするといったって、その中に、私の子はいないんですよね」
 と言った。国は胎児標本の存在した全ての療養所に慰霊碑を建立し、慰霊祭を催した。これで国は責任を果たしたと思っているのだろうが、しげには、まるでアリバイ作りのような小手先だけの慰霊が白々しく思えてならなかったのである。
 慰霊祭に参列する国の高級官僚が乗ってきた、黒塗りの公用車がテレビ画面に映されるのを自室で見ながら、しげは、「まだまだ死ねないなあ」と心のうちでつぶやいていた。

(8)

 ハンセン病市民学会の総会から帰って間もなく、しげは県立の病院へ入院した。療養所の外の病院へ入院するのは、白内障の手術の時と今回の、2度だけであった。目の手術は、都城の大きな総合眼科病院で行ったが、この病院は、現院長の父親の代から、ハンセン病患者も分け隔てなく診察してくれていたので、入所者たちは、周囲の目をはばかることなく受診し、入院することも出来た。しかし後遺症がひどく外見からすぐにハンセン病回復者であるとわかる人たちは、よくよくのことがなければ、外部の病院へは行こうとしなかった。
 今国会で成立した、正式には「ハンセン病問題の解決の促進に関する法律」という長い名前の法律によって、この先、療養所の入所者も、気兼ねなく外の病院に入院できるようになるかもしれないが、
そうなるまでには、まだ相当な年月を要することは、しげには容易に想像できた。現にしげ自身、主治医は4人部屋を勧めるが、多少の差額ベッド料を払っても、個室に入りたいと思っていた。
 入院の日、私は、上野正子、共に歩む会の松下代表と一緒に病室を訪ねた。長年親身になってしげの活動を支えてきた松下夫人が今度もずっと付き添っている。しげは私たちを見ると、開口一番、
「個室に入って、贅沢でしょう。1日いくらかかるかと思うと、おちおち入院もしていられないから、きっと早く退院できるかもよ」 と言って笑った。 
 やがて若い研修医が部屋に来た。
「私が、手術のお手伝いをさせていただく○○です。鹿児島大学からも先生が応援に来てくださって、万全の体制をとっていますから、ご安心ください」
 柔らかな笑みを浮かべてそういう医師にしげは、
「どうかよろしくお願いします。悪いところを取ってしまえばそれでいいんだから、あまり心配はしていませんけど」
 と言って笑いかけた。医師は、
「そうですよね、悪いところを取ってしまえば、すぐに良くなりますから」
 と答え、それから、
「玉城さん、妊娠したことは、ありますか」
 と改まった口調で尋ねた。一瞬全員が顔を見合わせた。いったいこの研修医は、どれだけの情報を掌握しているのだろうか。産婦人科の入院患者のカルテに、こんな初歩的なことも書き込まれていないのだろうか。それともほかに何か意図があってこんな質問をしたのだろうか、と私は訝った。しげに目を向けると、彼女は困惑した表情を浮かべ、一瞬間を置いてから、
「妊娠したことはありますが…」
 と曖昧な口調で答えた。医師は、なぜかそれ以上は聴こうとせず、
「ではまた、後ほど主治医の先生もこられますから」
 とだけ言って、退出していった。私はもしかしてしげが、強制堕胎をされた事実をこの若い医師に打ち明けるのではないかと、一瞬思ったが、この場は何事もなく過ぎていった。

 しげの入院から17日経った日、私は病院へ行った。もしかして病室が代わっているかも知れないと思い、受付で尋ねると、彼女は昨日退院したという。手術も無事済んで、すこぶる元気であるということは松下からメールで知らされていたが、こんなに早く退院できるとは思っていなかった。
 さっそく敬愛園の彼女の部屋を訪ねると、部屋には、大阪から来た妹の玉城美津子がいて、しげは今、退院のあいさつに回っているという。長女のしげと末っ子の美津子は20歳ちがい。10人兄妹で今残っているのは、この2人きりである。
「子供がいないので、私のこときっと娘のように思っているのでしょう」
 と美津子は言うが、本当に仲の良い姉妹である。
 部屋へもどってきたしげは、以前とまったく変わらない元気な笑顔で、
「無事生還できました。きっと神様はまだまだ私に生きて、働きなさいとおっしゃっているのでしょう」
 と言った。テーブルの上には、共に歩む会のメンバーが撮って、シートにまとめてくれた市民学会の時のスナップ写真が乗っている。
来年の市民学会総会は鹿屋で開催されることがすでに決定しているので、私はその写真を手にして、
「来年はいよいよ鹿屋ですね」
 と言った。
「そうですね。もう一がんばりしなくてはなりませんね。皆さんのおかげで、ここまで生かしてもらって、本当にありがたいと思っています」
 としげは言う。
「まだまだ、話の出前も続けられそうですね」
「はい。私のような老人の話を聞いてくださるという人がいる以上、どこまでも出掛けていくつもりですよ」
 そう言ってしげは本当に嬉しそうに笑った。
 熊本判決以来、しげは盛んに「話の出前」活動を展開し、鹿児島、宮崎県内はもとより、遠く北海道や、関西、富山などへ出掛けていくこともあった。旅が大好きで「昔は借金をしても旅に出掛けた」と告白するほどなので、出前活動も楽しくてたまらない。そして、旅の途中で、パタンと倒れて死ねたら、それほど幸せなことはないと常日頃から口にしてもいる。
 私は子宮ガンという大病を、90歳の身で、いともたやすく克服し、(少なくとも傍目にはそうとしか見えなかった)何事も無かったかのように淡々と未来を語る彼女の剛毅に、改めて脱帽する思いで、部屋を辞した。

(完)