きんようブログ 社員エッセイを掲載。あの記事の裏話も読めるかも!?

美しく制御された判決文(下)

シジフォスの希望(21)

 自衛隊のイラク派兵を憲法9条違反と断じた名古屋高裁の判決文(08年4月18日)では、憲法9条についての政府解釈(1980年の政府答弁、91年の政府答弁、97年の大森内閣法制局長官の答弁など)とイラク特措法との関わりを詳細かつ明確に検討した上で、結論部分でこう述べる。
「現在イラクにおいて行われている航空自衛隊の空輸活動は、政府と同じ憲法解釈に立ち、イラク特措法を合憲とした場合であっても、武力行使を禁止したイラク特措法2条2項、活動地域を非戦闘地域に限定した同条3項に違反し、かつ、憲法9条1項に違反する活動を含んでいることが認められる」

 また、「平和的生存権は、憲法上の法的な権利として認められるべきである」と位置づけた上で、「憲法9条に違反する戦争の遂行等への加担・協力を強制されるような場合には…(中略)…救済を求めることができる」とした。
 さらに、判決文全26ページ中の最終盤、25ページ後段にこのような記述がある。
「控訴人らは、それぞれの重い人生や経験等に裏打ちされた強い平和への信念や信条を有しているものであり、憲法9条違反を含む本件派遣によって強い精神的苦痛を被ったとして、本件損害賠償請求を提起しているものと認められ、そこに込められた切実な思いには、平和憲法下の日本国民として共感すべき部分が多く含まれている」

 判決内容も然りだが、その論理の明快な組み立て、判りやすい記述、心の襞にまで触れる血の通った表現など、まさに歴史に残る秀逸の判決文だろう。ただ、何事にも完璧というものがないように、この判決にも問題がある。
 
 控訴人の1人が「アフガニスタンで行っている自らのNGO活動に支障が生じ、また、アフガニスタン人の対日感情の悪化により生命身体の危険が高まった旨主張」したことに対して、判決では「NGO活動への支障又は生命身体への危険が本件派遣によってもたらされたと認めるに足りる十分な証拠はなく」「平和的生存権が侵害されているとは認められない」として退けた。

 この判決から4カ月後の08年8月26日、ペシャワール会現地ワーカーの伊藤和也さん(享年31)がアフガニスタン東部ブディアライ村で拉致され、凶弾に倒れた。本誌9月12日号で、アジアプレス所属のジャーナリスト・白川徹はこう指摘する。
 新テロ特措法の再可決(同年1月)が「アフガニスタンでもトップニュースの扱いで報道された」ことにより「対日感情の悪化」を生み、それが「伊藤さん殺害に関し少なからず影響がある」というのだ。判決がここまで想定していなかったにせよ、伊藤さんの死は「NGO活動への支障又は生命身体への危険が戦争支援によってもたらされたと認めるに足る証拠」の一つと言えまいか。伊藤さんは自衛隊の米軍支援を要因の一つとして、平和的生存権を打ち砕かれたのだ。

 同じく非政府組織の国際医療団体のメンバーである日本人女性医師がエチオピアで誘拐・拉致されてから3カ月が経ち、未解決のまま年を越す可能性がある。無事の帰還を祈りながら、2008年を終える。  (2008年12月26日) 片岡伸行

美しく制御された判決文(上)

シジフォスの希望(20)

   仕事柄あるいは労働争議の経験から、数え切れないほどの判決文を読んできた。しかし、これほど美しく制御された文体の判決文にお目にかかったことはない。2008年4月18日に名古屋高裁(青山邦夫裁判長)の出した「自衛隊のイラク派兵差し止め請求控訴事件」の判決である。

 日本の裁判官の書く判決文は、悪文の見本市だ。その筋(司法)の業界用語的な字句がほぼ全面的に駆使され、じつに回りくどく、判りにくい。司法試験ではきっと、法律に関わる知識は問われても、判りやすい文章を書く能力は一切問われないのだろう。でなければ、そんな惨状を晒すはずがない。
 で、名古屋高裁の判決文。以下3つのパラグラフ(段落)は、判決文の記述を使用した要旨のごく一部である。

 イラクに派兵された航空自衛隊は、米軍が開発したパラシュート部隊のための輸送機「C-130H輸送機」で、2004年3月2日から物資と人の輸送を開始した。クエートのアリ・アルサレム空港(米空軍基地)からイラク南部のタリルまで週に4回前後、06年7月31日からは同空港からバグダッド空港へ、やはり週4回から5回、定期的な輸送活動を実施している。が、輸送の対象のほとんどは人道復興支援のための物資ではなく、多国籍軍の兵員である。これは陸上自衛隊のサマワ撤退(06年7月17日)を機にアメリカからの要請でなされているものだ。

 04年11月のファルージャ掃討作戦では、米軍兵士4000人以上が投入され、クラスター爆弾並びに国際的に使用が禁止されているナパーム爆弾、マスタードガス及び神経ガス等の化学兵器を使用。残虐兵器といわれる白リン弾が使用されたともいわれる。子どもを含む民間人を多数死傷させ、イラク暫定政府の発表によれば、死亡者は少なく見積もって2080人である。
 イラク戦争開始(03年3月20日)以来、戦闘によって死亡したイラク人の数は、06年11月9日の世界保健機関(WHO)発表では最大22万3000人、英国の臨床医学誌ランセットによれば同年6月までの死者が65万人を超える。そのほか、人口の7分の1に当たる400万人(※)が家を追われ、多数が難民となって近隣諸国へ流出することを余儀なくさせるなど重大かつ深刻な被害を生じさせている。
 ※この数字は当然ながら、さらに拡大しており、本誌08年10月3日号の高遠菜穂子リポートによれば、難民の数は国民の5人に1人、500万人以上に達する。
                                                                                          つづく(2008年12月26日)片岡伸行

本当は恐ろしい『源氏物語』(2)

3つ目は、「女」の「男」に対する仕掛け。

 

最近、『源氏物語』の現代語訳刊行を始めたばかりの大塚ひかりは、『源氏の男はみんなサイテー』(ちくま文庫)で、登場する男たちを、光源氏を筆頭にひとり残らずぶった斬っていて、快哉を叫ぶ女性も多いとか。しかしこれ、元はと言えば、作者の紫式部自身がどの男をもサイテーに書いているということ。そんな男たちのモデルは、時の最高権力者・藤原道長をはじめ、宮廷や地方任官時代に出会った人たちだろうが、描き分けがあまりに見事なため、読者は自分の周囲に似たようなやついるよなー、と、それぞれの男たちのたどる情けない末路に胸のすく思いがするらしい。

 

象徴的な例が、最終巻「夢の浮橋」のエンディングで宇治十帖の主人公といわれる薫の君(表向き光源氏の息子だが、実は別の男性の子)が吐く「人のかくしすゑたるにやあらむ」という台詞。自分の前から蒸発した女(浮舟)をようやく見つけ出したにも関わらず、戻る気配のないことについて、「誰か(別の)男が隠し住まわせているのかと」(瀬戸内寂聴訳)考えた、というのだ。実際には、女は男という男に絶望して、自殺未遂の果てに出家の道を選んでいるのだが、それがわからぬ男の考えることは、結局こんな卑しい想像だけというもの。大長編『源氏物語』全54帖の掉尾を飾る主人公の台詞がよりにもよってこんなものなのかというわけで、『源氏物語』未完成説とか、複数作者説(歌人・折口信夫や国文学者・大野晋など)まであるのだが、いまはほぼ否定されている。だいたい複数作者説というのは、「女ひとりでこんな傑作が書けるわけがない。だれか男の作家がバックにいるに違いない」というこの薫の台詞のような女性差別的な発想に基づいているのだ。

 

けだし、第三の仕掛けとは、光源氏の物語が、男たちが女の好みをあれこれ論じる有名な「雨夜の品定め」で幕を明けながら、読み終わってみると、品定めされていたのは、実は、読者も含めた男たち自身だったという仕掛けである。

 

とまれ、そんな『源氏物語』を読んでカタルシスを味わう女性たちが、千年の間にいったい何千万、いや何億人、何十億人いたのか。

今も、全国あちこち(いや今や世界)で開かれている『源氏物語』のカルチャー講座や読書会に集まる女性たちの間で、サイテーな男たちの意見交換がささやかれているだろう。

女の男への、千年のときを超えた文字を通しての復讐劇、恐るべし。

 

(まだお)

やっぱり麻生太郎が在外公館に指示していた根拠なき抗議文

前回コラムで書いた麻生鉱業の外国人捕虜労働の事後談です。情報が入ったので。

麻生鉱業に関する「ニューヨークタイムズ」の報道に対し、在米総領事館のホームページ上に抗議文が掲載されていた一件。この指示していたのはやはり当時、外務大臣だった麻生首相であることが明らかになりました。 (さらに…)

暴かれた外務省の嘘。麻生財閥の外国人捕虜労働を政府が認知

麻生鉱業が陸軍大臣に炭鉱労働者300人を提供するように求めた文書(提供/藤田幸久参議院議員)

麻生鉱業が陸軍大臣に炭鉱労働者300人を提供するように求めた文書(提供/藤田幸久参議院議員)

政府はようやく外国人捕虜に労働させていた事実を認めた。

12月18日、麻生太郎首相の出身企業である麻生鉱業株式会社鉱業所の外国人捕虜労働を従事させていた動かぬ証拠が厚生労働省が提出した資料から明らかになった。 (さらに…)

大人の事情。

(前回の続きです) 
 待ちに待った、「一夜限りの再結成」は放送されなかったのでした。事前に、顔を隠した映像でのCMも流れていたし、元バンドメンバーのオフィシャルサイトにも「本日放送!」となっていたのに。

(さらに…)

傍若無人子日記その七・病院の巻

○月◎日

 

ちびが風邪をひきました。くしゅんくしゅんいってます。鼻ちょうちんまでつくってます。(不覚にも、写真に納めることは出来ませんでした。泣)。

さて、飼い猫が風邪を引いたからといって、直ぐに病院につれていくようなことは我が家ではしません。風邪ぐらい、動物に本来備わっている自然治癒力に任せる!というのが、我が家の考え方。(注・病院に連れていくのがめんどいからでは決してございません)

しかし、とある冬、どーしてもちびの体調が良くならない、ということがありました。(なんと、ちびは毎年のように風邪をひいています。)仕方なく(?)母が病院に連れていきました。と、そこまでは良かったのですが……。

 

診察台に載せられ、診療されるちび。診療を終えて、さ~おうちに帰りましょう~という時でした。

「な、なんだこりゃ~」と心の中で叫んだであろう動物のお医者さん。ちびが載っていた診察台には、なにやら白いつぶつぶが……慌てて、診察台をふきふきし、消毒までしだし、診察室は不穏な空気に包まれたそうです。その白いつぶの正体はというと……

 

(さらに…)

再結成?

 気がついたら、ブログのアップの仕方も忘れてたほどご無沙汰していた。
 何しろ、映画のエキストラやら、イベントチケット確保対策やら、急なイベント整理券確保やら、ドラマのエキストラ応募やら、忙しくて忙しくて今期ドラマ見るの断念したのが2本もあるほどなのである。
 ああ、今年はとにかく忙しかった。
(さらに…)

本当は恐ろしい『源氏物語』(1)

  2008年は『源氏物語』が書かれてジャスト1000年なので、テレビや出版など色々なイベントがありましたが、大長編でもあり、このサイトを読んでいる人でも(原文はもちろん現代語訳でも)読み通した人は少ないかもしれません。
でも、『源氏物語』を単にイケメン・プレイボーイの恋愛遍歴物語だと思って(そう思っている人が多いらしい)、読んでないとしたらとってももったいない話です。
1000年も読みつがれるにはそれなりのワケがあります。
今回ご紹介するのは、『源氏物語』には幾重にもはりめぐらされた「仕掛け」があるというお話。
仕掛けと言ってもミステリーのトリックのような仕掛けではなくて、虚構の物語なのに、現実を変えてしまうという「呪い」か「予言」のような仕掛けです。
とりあえず、私が気づいたところを、3つほどご紹介します。

1つ目は、同時代の権力に対する仕掛け。
この仕掛けは1000年ではなく200年ぐらいで作動しました。

物語では主人公の光源氏は、天皇の子どもとして生まれながら、母親がセレブな出自でないという理由で臣下に降格、陰謀で左遷までさせられますが、徐々に権力を手中にし、ついにはときの天皇をも超える地位にまで上りつめます。
キーポイントは、書かれた時代が「藤原氏」全盛期だったのに、物語では藤原氏を思わせる一族を押しのけて、「源氏」姓の光源氏が立場逆転で栄華を極める筋立てであること。
史実では、藤原一族は、数々の陰謀によって源高明・源融といった「源氏」姓の政敵を葬ることによって権力を奪っていますから、物語は、明らさまにこれを転覆しているのです。

SF作家P.K.ディックの『高い城の男』は、第二次世界大戦で「日独伊同盟側が勝利した」という設定でストーリーが展開しますが、現実と反転した物語の構造はよく似ています。
多くの人が学生時代に習った冒頭の「いづれの御時にか」(どの御代のことであったか)という書き出しが、実際にどの時代を暗示しているのか(「準拠」と呼ぶそうです)は諸説紛々で、というのも物語中の数人の天皇の名前が実在の天皇の名前と一致するからで、余計にこの歴史物語の「真意」への穿鑿が当時から現代まで絶えないというわけです。
もちろん、このような反転構造の物語を許容した藤原一族に「余裕」があったとみることもできますが、物語から、およそ200年後に、ご存知のように実際に「源氏」姓の一族が、権力を掌握したのですから、結果として現実が物語をなぞってしまったのです。

2つ目は、古代から現代まで、1000年をはるかに超える「万世一系」の天皇制に対する仕掛けです。
源氏千年紀の今年ですが、あまり語られないのは、戦時中、『源氏物語』は「大不敬の書」とみなされたという事実です。実際、有名な谷崎潤一郎訳の『源氏物語』の戦前版は、このためにいくつかのアブナイ箇所が改変させられています。
なぜでしょうか?
「2千円札」が消えたこととも何か関係があるのでしょうか?
答えは、本誌12月12日号所収の「逆光の源氏物語千年紀」に詳しく書かれています。
というわけで、ごめんなさい、こちらは本誌を読んでください。

3つ目の仕掛けは・・・・・・次回に続きます。

(まだお)

ムンバイのナニー

11月末のインド・ムンバイでのテロのサイドストーリーとして、2歳になろうとする男の子を救った、勇気あるナニー(ベビーシッター)がテレビや新聞やネットで報じられていた。

男の子の両親はイスラエル人、父親はラビ(ユダヤ教の教師、または導師)で、両親ともユダヤ・センターで銃撃されて亡くなった。1階で身を潜めていたナニーのサミュエルは男の子モイシュが自分の名前を何度も呼ぶのをきき、部屋をそっと抜け出し、階段を駆け上がり、母親の遺体の側で泣いて彼女の名を呼ぶ男の子をとっさに腕に抱えて階下へ行き、家を抜け出した。もちろん、銃の弾は彼女を狙っていた。

サミュエルは、両親を亡くした男の子を命の危険も顧みずに助けた勇敢な女性として、テレビのインタビューで当時の様子を語り、子どもを持つ母親など人々の涙を誘った。

モイシュの父親は、ユダヤ教オーソドックスのラビで、インドへ行く前は、米国ニューヨークのブルックリンに住んでいたようだ。ユダヤ教のラビは、黒い帽子に黒い洋服、そしてヒゲを伸ばしたスタイルで知られている。

両親を亡くしたモイシュは、祖父母や親戚のいるイスラエルへ引き取られる事になった。モイシュを命がけで救ったサミュエルは、イスラエル政府からユダヤ人の命を救った外国人に与えられる特権をえて、いつまでもイスラエルに滞在する事ができるようになった。彼女は、両親を亡くしたモイシュが彼女を必要とする限り、イスラエルでいつまでも一緒にいたいと語り、インドからイスラエルへと旅立った。

サミュエルは、最近夫を亡くしたばかりで、ナニーとなって、この事件に遭遇した。彼女には、自分の子どもが2人いるにもかかわらず、彼らを残して、孤児となったモイシュとイスラエルへと渡ったのである。両親を亡くしたモイシュの境遇は気の毒で、よく生き残る事ができたとも思う。でも、サミュエル自身の子どもたちは、母親と遠く離れることになり、彼らも気の毒だと思う。

サミュエルは、それまで、自分の国内で、外国人の家庭に雇われていたのだが、ついに国を出て、子どもを残して「働き」に行く事になった。

第三世界から、豊かな主要国を目指して移動するのは、男性労働者だけではない。女性が、家事労働、ナニー、労働者、セックスワーカーとして、主要国へ移動をしていく。ナニーも例外ではない。グローバルに人が世界を行き来する現在、第三世界は、資源や労働だけではなく、感情や愛情も搾取されているのである。

主要国では、家事労働などが、第三世界から働きにやってきた女性によって担われることで、性別役割分業が固定化されることになる。

インド、ムンバイのナニーをめぐる美談の陰に、グローバリゼーション時代の貧富の格差を背景とした、女性の労働の問題が隠されていると思う。