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発行人コラム公開終了のお知らせ

 北村肇の「多角多面」は8月2日号からHP上での公開を終了し、有料メルマガ「きんようメルマガ」のみの掲載となります。ご了承いただければ幸いです。

◆与党圧勝と世論調査、そしてマスメディアの堕落◆

〈北村肇の「多角多面」135〉
 いつからマスメディアはこんなに世論調査をするようになったのか。少なくとも私が現役の新聞記者だったころは、国政選挙でも大がかりな調査は1回か2回だった。いまは選挙前となると、ほぼ1週間に1度は政党支持率などの調査結果が掲載される。政権支持率の調査にいたっては日常化した感がある。

 最近はまた、世論調査がよく当たる。それはそうだろう。連日のように結果を見せられることで、多くの読者はその方向に流される。マッチポンプと批判される所以だ。

 今回の参院選は自民党が65議席を獲得して圧勝した。公明党は11議席。逆に民主党は改選議席を27減らす17議席と、先の衆院選に続き惨敗した。これらの結果は、いずれも各メディアの事前調査とほぼ重なる。投票が世論調査の後追いをしているようなものだ。

 公職選挙法は第138条の3で「人気投票の公表の禁止」を謳っている。「何人も、選挙に関し、公職に就くべき者……を予想する人気投票の経過又は結果を公表してはならない」。選挙賭博防止のためと解釈されているが、新聞やテレビの世論調査報道もグレーと言えなくもない。それだけに慎重さが求められるし、乱発は控えるべきなのだ。

 ただ、本質的な問題は別のところにある。それは、新聞やテレビが、政治報道でなく政局報道にのめり込んでいる実態だ。どんなに体裁を取り繕っても、世論調査は結局のところ「勝った負けた」に焦点が当てられる。AKBの総選挙と同じレベルだ。底が浅い。

 与党が過半数の議席を占めるかどうかが焦点→世論調査の結果、自公の過半数は確実→予想通り自公の圧勝。こんな報道なら中学生だってできる。いや、中学生のほうがもっとましだろう。新聞やテレビの使命は政治報道だ。社会はいまどんな状況にあり、そのことについて各党はどんな認識をもち将来展望を描いているのか。どの党の方向性が評価できるのか。こうした点について分析し解説しなければ、マスメディアの意味がない。

 新聞やテレビが政権寄りという批判がある。確かに一部のメディアはそうとしか思えない。ただ、マスメディアの堕落はそれだけではない。憂慮すべきは、コンビニ報道に成り下がったことだ。読者の興味をそそり、なおかつお気軽な紙面をつくる。こうした発想では、いきおい選挙報道は「勝った負けた」になる。記者が頭も足も使わないですむ世論調査は典型的なお気軽手法だ。マスメディアが政治に対し真摯に向き合っていない証左でもある。この国は民度が低いのではない。報道機関のレベルが低いのだ。(2013/7/26)

◆自民党に勝つためにすべきことは◆

〈北村肇の「多角多面」134〉

 いつの選挙も死票ばかりと嘆く知人が多い。小選挙区制のもとでは、時の与党候補に投じなければ、かなりの確率で死票になる。選挙結果をみては「正義がなぜ通じないのか」と愚痴る知人も数知れず。

 そろそろ認めなくてはならない。「正義」を掲げた途端、多くの、本当に多くの有権者にそっぽを向かれるという現実を。なぜ正義はここまで嫌われるのか。最大の理由は偏狭だからだ。この枠から外れたら悪ですと言われているような気がする――たびたび若い人(20代~40代初め)から指摘される。正義は敷居が高すぎるのだ。

 投票権を得てから40年以上、自民党に投票したことはない。結構な年齢まで、同党に1票を投じる人の神経がわからないと公言していた。当然、友人には皆無。極論すれば、自民党支持者は“別の世界の人”だった。

 ある程度、自分を客観視できる歳になって、はっとした。「私は正義の革新派、あなたは本質のわからない保守派」。こうした発想は、突き詰めれば排除主義そのものだ。自民党に投票しただけでその人の「人格を疑う」と言い放つ人間にだれがついてくるのか。

 正義に基づいた言説は必ず社会に浸透する。そう思いたい。でも、そうはならない。そもそも正義は唯一無二ではない。みんなで「私の正義」を押しつけあうのが人間社会の実相。私の考える正義が本当にそれに値するかどうかだって、絶対の自信はない。

 自民党の強さは、皮肉にも正義の押し売りをしないことにある。「正義より利益」が同党の基本的な哲学だ。個人でも企業でも団体でも自治体でも、利益は具体的でわかりやすい。その利益を提供し見返りに票を得ることが自民党の“生きる道”だ。

 人間は欲の塊だと断じてしまえばことは簡単。その場合の「欲」はカネにつながる。しかし、私は「他者の痛みを感じ他者のために働く。あらゆる他者の人権を尊重する」という欲も人はもっていると確信する。この欲こそが私にとっての正義であり、それは押しつけによって発揮されるのではなく、いろいろな体験を通じ自然にわき上がってくるものだ。

 自民党支持者にも例外なく痛みはある。革新派の一員と任じる私がすべきことは、彼ら/彼女らの痛みに寄り添うこと。それができない限り、自民党に勝利する日も、私の求める正義が正当な地位を占める日も訪れないだろう。(2013/7/19)

◆子宮頸がんワクチンから見える棄民体質◆

〈北村肇の「多角多面」133〉
 ワクチンをうつのはやめたほうがいいと、かれこれ25年は言い続けてきた。旧厚生省を取材したとき、慄然とする事実にいくつも直面したからだ。当時はインフルエンザワクチンの問題点を主に追及していたのだが、複数の同省幹部から「ワクチンはすべて危ない」と繰り返し聞かされた。理由は単純。効果より副反応の危険度が高いのだ。いまも改善されたとは到底思えない。

 子宮頸がんワクチンについて厚労省はようやく「一時、接種の勧奨を控える」との方針を打ち出した。遅すぎるし甘すぎる。直ちに接種を中止すべきだ。

 本誌7月5日号で伊豆百合子さんがリポートしたように、このワクチンの効果はほとんどない。同がんはヒトパピローマウイルス(HPV)の感染によって引き起こされるとみられている。強い感染力をもつのは約100種ある同ウイルスのうち15種で、仮に感染しても自然にはがれることがほとんど。がんの発症率は0.15%にすぎないとされているのだ。

 しかも、現在のワクチンは一部の種類のウイルスにしか効果がない。15種すべてに対応できるわけではないのだ。有効持続期限もはっきりしない。だが、多くの市民は「このワクチンをうてば子宮頸がんにかかることはない」と誤解していたのではないだろうか。早期発見でほとんど完治することも考えれば、ワクチン接種にいかほどの意味があるのか、大いに疑問である。

 そのうえ、重篤な副反応とみられる例が続出した。このワクチンはまだ国内の臨床試験結果が出ていない。海外での承認実績をもとにあわただしく英米2社の製品を承認したのだ。安全性の担保がされていなかったと批判されても仕方ないだろう。

 ここまできてもまだ、厚労省は「ワクチン接種と副反応の因果関係がはっきりしない」との姿勢だ。福島原発事故と同じだ。どうみたって蓋然性は高いのに「甲状腺がんとの因果関係はわからない」と逃げ回る。百歩譲って、関係性は100%証明されていないとの言い分を認めたとしても、市民の健康被害が出ている以上「まずは疑ってかかる」のが当然だ。

 ワクチン政策の背後には、製薬会社と政治家、官僚との癒着があるといわれる。このことに関しては私自身が証拠をもっていないので、論評はできない。ただ、厚労省が市民のいのちを軽視していることだけは指摘できる。参院選では、各党の原発や子宮頸がんワクチンに関する政策がどうなのか、しっかり検証したい。(2013/7/12)

◆参院選の争点は憲法前文からみえてくる◆

〈北村肇の「多角多面」132〉

 命かカネか。個人か国家か。4日公示された参院選の争点はここに絞られる。単純だ。そして極めて本質的な問題だ。

 リトマス試験紙になるのが原発政策。「再稼働しなければ日本の経済はガタガタになる」「原発技術の海外輸出で外貨を稼ぐ」。これらの背景にあるのは、露骨な「命よりカネ」路線だ。「事故による死者はいない」と発言した政治家がいた。原発推進に血道をあげてきた人々には、地域住民の辛苦はもちろん過去数十年にわたる原発労働者の被災も見えていないのではないか。どれだけの悪鬼が命を踏みつけにしながら原発マネーに群がったのか、想像すらできないのだろう。

 福島原発事故を契機に、防災や減災が叫ばれ公共事業にカネが流れ込みつつある。本当に「命を守る」ことにつながるのか、疑念をもつ。最終的に潤うのはゼネコンになりかねないからだ。いつだって、省庁や大企業は「危機」を踏み台にして自らの利益を増やしてきた。そこには、市民の命を最優先にするという哲学が存在しない。

 与党を中心に、前面に出すのは経済対策で社会保障政策は後景に追いやられる。端的なのが生活保護費の削減だ。くらしを守ることが最も困難な人たちを追い詰めて、「強い日本を取り戻す」ことはできない。「弱者」を守れずして「強い国」などありようがないのだ。

 カネが命より重視される社会では市民の不満が沈殿する。こうした不満や怒りの爆発を恐れる統治権力者は、いきおい国家主義的な政策を打ち出す。何よりも国家が優先され、個人の権利は国家の名のもとにおいて制限される社会。自民党が掲げた「改憲草案」からはそのような「日本」が透けてみえる。

〈日本国民は、恒久の平和を念願し、人間相互の関係を支配する崇高な理想を深く自覚するのであつて、平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した〉

〈われらは、全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免かれ、平和のうちに生存する権利を有することを確認する〉

 憲法の前文を形づくる言葉は、しなやかで強靱でかつ美しい。私たちはこの憲法のもと、「カネより命」「国家より個人」を選択した。投票行動の原点はここにある。(2013/7/5)

◆都議選の自民圧勝からみえる深刻な社会状況◆

〈北村肇の「多角多面」131〉
「ジェットコースター」はもはや当たり前の風景になった。23日投開票の東京都議選。前回大勝した民主党は見る影もなく惨敗。代わって自民党は全員当選の圧勝。先の総選挙をなぞったような結果だ。現状では、目の前の参院選についても与党勝利は避けがたい。

 だが、主要な選挙のたびに指摘されるように、「勝ち組政党」に対する支持は決して堅固なものではない。都議選にしたって、史上二番目に低い投票率を考えると、自民党に投票した有権者は全体の約15%にすぎない。何らかの“風”によっていくらでもひっくり返る。雰囲気で選挙結果が動くのは、「民度が低いから」「民主主義が根付いてないから」という言説を時折、耳にする。しかし仮にそうした面があるにしても、ではその原因がどこにあるのかとなると判然としない。

 実は多くの有権者が無意識の領域に矛盾した志向性を抱えているのではないか、と私は思う。それはつまり、何ものからも解き放たれた自由のもとで存する「自立への欲求」と、何ものかに包み込んでもらいたいという「柔らかな拘束への願望」だ。

 戦後、日本人は天皇制国家のくびきから解き放たれた。未来には自由と自立が燦然と輝いていた(はずだった)。だが、慣れない世界に放たれた人々の多くは、希望の裏に不安を抱え込んでいた。その解消がなされないまま、60年以上の時間が過ぎた――。

 55年体制を背景にした日本型社会主義の時代は、沈潜した矛盾との直面をかろうじて回避することに成功した。しかし、新自由主義が、脆弱な自由や自立は弱肉強食、優勝劣敗社会をもたらすことを顕在化させた。プレカリアート運動や、原子力ムラへの怒りの行動は、そうした新しい奴隷制社会に対する反撃の色合いが濃いと言えよう。

 そして、殺伐とした社会は一方で、「強い者の庇護に身を置きたい」という欲望を引っ張り出した。むしろ自分の首を絞めることになるのはどこかで知りつつも、勝者へと身を捧げてしまう。最近の選挙で目立つ「勝ち馬に乗る」風潮が生まれた所以でもある。

『朝日新聞』の6月11日付朝刊に載った世論調査結果で興味深い項目があった。「自民に対抗できるような大きな政党があったほうがよい」という回答が71%を占めたのだ。強い政党が二つあれば、交互に身を寄せることが可能になる――無意識下でそのような志向性が多くの有権者にあるとするなら、自立した個人による民主主義の確立には相当の時間がかかる。確かに深刻だ。さりとて、超えられないはずはない。(2013/6/28)

◆私たちが「取り戻す」べきものは◆

〈北村肇の「多角多面」130〉
 強い日本を取り戻そう、経済成長を取り戻そう、憲法を取り戻そう。何でもかんでも「取り戻そう」って言っておけばいい。そんな薄っぺらな風潮に流されたら、それこそ本来あるべき社会も人間も取り戻せない。大事なのは「取り戻す」ことではなく、いまを見つめ明日をつくりあげることだ。

「取り戻そう」をキャッチコピーにした自民党の戦略が当たった背景には、多くの市民が「昔は良かった」というノスタルジーに浸っている現状がある。確かに、たとえば私が20代だった70年代はこれほど息苦しくなかった。社会にもっと包容力があったし、明日は昨日より明るいと信じていた。

 でもそれを壊したのは、「取り戻そう」と総裁が叫んでいる自民党そのものだ。諸悪の根源は、新自由主義という弱肉強食路線をむりやりこの国に持ち込んだこと。放火をしておいて、「火の用心」と拍子木をたたいている姿は滑稽であり許し難い。

 ただ、別の観点から見ることも必要だろう。それは、そもそも「日々、発展していく日本」はありえないということだ。良きにつけ悪しきにつけ、この国は成熟期に入っている。さらに言うと、地球レベルでもかつてのような発展は望めない。巨視的にみれば人類そのものが停滞期にあるのだ。

 周辺を見渡すと、「アンチエージング」が流行っている。老齢期になってなお若さを取り戻そうと考えるのはばかばかしい。成長し、成熟し、老いていくのは宇宙の摂理であって、無駄で無意味な努力は虚しさをつのらせるばかりだ。成熟期にはそれなりの、老齢期にもそれなりの生き方や幸せがある。

 取り戻すべきことは、「いまの条件の中で、いかに生きやすい社会をつくりあげるのか」という姿勢にほかならない。少子高齢化が進み、技術革新も頭打ち。そんな時代に私たちのなすべきこととは、果たして何か。どんな社会が理想なのか。その問いに答えを出し、政策として具現化するのが政治家の役割だ。

 目指すのは、強い国ではなくやさしい国である。成熟した時代では、優勝劣敗より共存共栄が求められる。競争しつつ発展する社会ではない。お互いに助け合いながら、お互いを嫉妬することも、お互いの足を引っ張ることもなく、お互いがお互いのいのちと人権を尊重し合う。この国の明日はそうありたい。(2013/6/21)

◆村上春樹人気と安倍政権支持率の相関関係◆

〈北村肇の「多角多面」129〉
 どうしようかと逡巡したけれど、やはり書いておくことにした。これほどの駄作が100万部も売れてしまう、そのことが示す危機的状況は相当に深刻と考えるからだ。言うまでもなく『色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年』(村上春樹著)のことである。

 ためらった理由を先に明らかにする。こんなことを考えたからだ。

――ひょっとしたら、わざと愚にもつかない作品を書いたのではないか。つまり、文化的に質の低い書籍、歌、ドラマなどが流行してしまう時代への痛烈な皮肉。たとえば「AKB」とかお笑い芸人とか。とするなら、単純に駄作としての批判はあたらない――

 ハルキストとまでは言えないまでも、それなりに私は村上春樹のファンだった。『海辺のカフカ』を読んだとき、いよいよ「生と死のあわい」にぎりぎりと迫っていくのかと興奮した。『アフターダーク』をはさみ、満を持して登場した『1Q84』。読み進めるうち「直感」がキーワードであることはわかった。あの世とこの世を結びつける「直感」。さてどうなるのかと心臓を高鳴らせたのも束の間、あれよあれよという間に作品は破綻した。

 それだけに、今作は失地回復を狙ったはずだから斬新な村上ワールドが展開されるのではないかと淡い期待を抱いた。ところが、結果は目を覆うような作品。ストーリーも人物設定も表現も、何もかもが街場の文章スクールに通い始めたばかりの大学生が書いたような代物だ。あまりのことに、「痛烈な皮肉」ではないかという発想が浮かんだのだ。

 冷静に考えれば、ノーベル文学賞に最も近いとされる作家がそんな冒険をするはずはない。まことに残念だが、どんな経緯があったかは不明ながら、駄作がそのまま単行本化され、しかも超ベストセラーになってしまったというのが真実なのだろう。

『週刊金曜日』書評欄で、対馬亘さんが同書についてこう書いていた。

〈ここにあるのはメッセージではない。ただのマッサージだ〉

 なるほどと膝を打った。メッセージがないから、ただのマッサージだから100万部売れたのだ。「AKB」人気も納得がいく。さらにそこを延長していけば、小泉純一郎、石原慎太郎、安倍晋三と続く“人気”政治家たちの謎が解明される。彼らにメッセージはなく、持っているのはただ、市民を解きほぐすマッサージの技術だけなのだ。(2013/6/14)

◆橋下大阪市長、猪瀬都知事の“功績”が安倍政権崩壊をもたらす◆

〈北村肇の「多角多面」128〉

「学習」を積んできたのだろう。わずか1年で退任した屈辱をバネに、安倍晋三首相はそれなりに考えた。だから、まやかしだろうが幻想だろうが、大方の予想を覆しこれだけの支持率を維持している。現時点では“人気宰相”であると認めよう。だが、その座から滑り落ちるのもそう遠くはない。

 アベマジックが成功を収めた手口は、マイナスを逆手に取る手法だ。たとえば、総裁選で勝つ以前は超右派であることを前面に出していたが、首相就任後は有権者だけではなく米国にも配慮し、靖国神社参拝を断念するなど“安全運転”に徹する。岸信介氏の孫、安倍晋太郎氏の息子というサラブレッド臭を消すため、フェイスブック、ツイッターを駆使し、大衆に寄り添う風を装う。橋下徹大阪市長の「従軍慰安婦」発言問題が起きると、歴史認識は似通っているのに、表面上、批判的な姿勢を明らかにする。

 すべてが嫌らしいし胡散臭い。でも、こうしたシンプルな戦術が意外にも、多くの市民に受け入れられてしまうのだ。振付け師としては、朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)への“隠密外交”が話題になった内閣官房参与・飯島勲氏と、同じく参与の丹呉泰健氏の名前があがる。いずれも小泉純一郎政権を支えた手練手管の面々である。

 問題はこれから先だ。アベノミクスの破綻は必ずやってくる。すでに、日銀の思惑とは裏腹に、株価は5月の大暴落後も乱高下を繰り返し、長期金利も上昇傾向だ。また、超右派の地金は隠しようがなく、安倍政権の国家主義的歴史観に対する米国の批判も厳しさを増している。日米関係は民主党政権時代以上にきしんでいると言えよう。

 小泉純一郎氏を思い出す。首相の座を追われても当然の事案はいくつもあった。しかし、小泉人気は続いた。最大の理由は、多数の有権者が幻想にしがみついたことにある。内実はどうあれ、何かしてくれそうな「わかりやすいリーダー」を捨てたくなかった。さらに言うと、「本音主義」で「軽い」ほうがよかった。「強さ」と「親近感」の幻想だ。

 安倍氏が「学習」したように、多くの市民は小泉現象から「見せかけの強者」を信用したらとんでもないことになると学んだ。小泉、安倍路線につながる「本音主義」で「軽い」猪瀬直樹東京都知事と橋下徹大阪市長が相次いで、底の浅さ、品性のなさ、哲学の欠如を露呈したことで、さらに学習した市民は増えたはずだ。このことが、安倍政権批判につながらないわけはない。参院選公示まで約1カ月。残された時間は少ない。でも、ないわけではない。流れは変えられる。(2013/6/7)

◆福島原発事故の「風化」がもたらすもの◆

〈北村肇の「多角多面」(127〉
「山形一おいしい」といわれるそばをいただきながら、2年前を思い出していた。本誌山形読者会・辻春男さんの依頼で出前講演会に伺ったのは福島原発事故から約3カ月の2011年6月。辻さんが店主の手打ちそば「羽前屋」で「ここ(山形)の汚染はまだ厳しい状態ではない」と話した。風向きなどを考えてのことだった。「ただし、これからは安心できない」と付け加えた記憶が蘇る。

 そして2013年5月20日。2度目の出前講演会で「原発と経済」をテーマにお話ししたその日、山形県は「山菜の放射性物質検査態勢の見直し」を発表した。同県最上町の山菜コシアブラから、国の基準値を超える放射性物質セシウムが検出されたことをうけての対策だ。検査対象をこれまでの10種類からコシアブラなどを加えた18種類に拡大するという。収束どころかむしろ被害は拡大している、そのことを裏付ける一例だ。

 講演会には福島県南相馬市から山形県に避難しているご夫妻も来られた。

「毎日、その日を生きるだけの暮らしをしている」「まるでイヌのようだ」「(国も東電も)賠償をずるずると引き延ばし(被災者が)あきらめるのを待っているようにしか見えない」

 笑顔を交えつつ、しかしその発言は激烈だった。

 報道によれば、吉村美栄子山形県知事は同日の会見で「最上町への風評被害が心配」と語った。風評被害を否定はしない。だが、いま最も考えるべきは、「風評被害」より「風化の危険」ではないか。

 安倍晋三首相はトップセールスで原発輸出を推進すると意気込む。5月3日には、三菱重工業などの企業連合がトルコの原発事業の優先交渉権を獲得した。インドとも原子力協定締結交渉を再開するという。

 経済産業省は、新たなエネルギー基本計画を検討する総合資源エネルギー調査会の総合部会で「2030年までに世界の原発が90~370基程度増える」との見通しを示した。原発輸出へのあからさまな道ならしである。

 政府や東電は福島原発事故を「過去のこと」にしようと必死になっているようにみえる。「風化」は被災者を見殺しにし、「日本」を悪魔の国へと貶める。(2013/5/31)