きんようブログ 社員エッセイを掲載。あの記事の裏話も読めるかも!?

この国のゆくえ34……「キセノン検出問題」は過小評価で雲散霧消

<北村肇の「多角多面」(53)>

 大したことはありませんよという感じで、東京電力は2日、「福島原発1号機で放射性キセノン(133と135)を検出」と発表した。その際、「キセノンは自然に核分裂が進む際にも発生する」と注釈をつけ、翌3日には、「核分裂が連続する臨界が原因ではなく、自発核分裂だった」との見解を示した。相も変わらず「直ちに影響はない」の過小評価路線だ。

 ここまでくると、腹が立つというよりアホらしくなってくる。2日の発表では「8月にもキセノン(131)が検出されていた」という事実も明らかにされた。それなら当然、その時点で「詳しい調査」を実施していなくてはならない。なぜ2ヵ月後に改めて「自発核分裂」との結論が出るのか。報道によれば、8月の場合は「原発事故当時のものと考えていた」というが、とても信用できない。キセノン検出が「深刻な事態」なら、年内達成とされる工程表の「冷温停止状態」が危うくなってくる。つまり、東電は見せかけの「事故収束」のために、極めて重要な事実を隠していたとの疑念が消えないのだ。

 核燃料がどのような状態になっているかはだれにもわからない。ただ、すでに溶融し、圧力容器の底を抜き、格納容器の底に貯まっているのはほぼ確実とみられる。現状では、それをせっせと水で冷やしている。となると、部分的、局所的に臨界が発生してもおかしくはない。いまのところ大規模な爆発につながる可能性は少ないとみられるが、決して「絶対に安全」と言い切れる状態ではない。何しろ、核燃料の取り出しだけでも、少なく見積もって30年はかかるのだ。何が起きてもおかしくない。

 このような状況では、「臆病」こそが東電のとるべき姿勢だ。ほんの少しのことでも大げさに考え、常に最悪を予想するくらいで丁度いい。セシウムが検出されたのなら、まずは臨界の危険性を考慮して対処するのが当然である。楽観論の結果が今回の大事故につながった。そのことをまだ反省していないのだろうか。

 政府もどうかしている。8月の時点で何の報告も受けていないのなら、厳しく東電を批判すべきだ。仮に聞いていて何にもしなかったのなら論外である。時を同じくして、野田首相はベトナムのズン首相と会談、原発輸出で合意した。政府にとっても見せかけの「事故収束」が最優先なのだろう。玄海4号機が発電を再開し、大間原発も建設に向けて動き出した。野田首相が打ち出した「将来は原発に依存しない」との方針は、すでにメルトダウンしている。(2011/11/11)

[この国のゆくえ30……透明感のない、2011年の秋]

<北村肇の「多角多面」(49)>

「秋の色」は何色だろう。春ならピンク、夏は黄色、冬は白と、すぐに思い浮かぶ。でも秋の色は難しい。他の季節と違い、透明感がある。雨上がりの朝など、街はすっかり「秋の色」に包まれ、そこには澄み切った世界がある。つまり「無色」なのだ。

 秋はまた「黄昏」にも喩えられる。誕生の春、活動期の夏を終えて訪れる成熟、静寂の季節はまた、老境のとば口でもある。ただ、それは必ずしも、厳寒の冬を控えているという後ろ向きの喩えではない。すべてが活発に動く若い時期は、なかなか澄み切った視線でものを見ることが難しい。さまざまな体験を経て初めて、透明感を身につけることができるのだ。

 だが、成熟したはずのこの国には、なかなか「秋」が訪れない。どんよりとした墨色の雲に覆われているかのようだ。「3.11」から7カ月近くてたって初めて、文部科学省は「福島原発から約45キロ離れた福島県飯舘村を含む同県内6カ所の土壌から、プルトニウム238(半減期88.8年)が検出された」と発表した。事故当初、東電は「プルトニウムは重いので遠くまで飛散することはない」と言っていた。微細な粒子になって風に乗って飛ぶ、いわゆるホットパーティクルの危険性が指摘されていたにもかかわらずだ。

 また、今回の調査ではプルトニウム239(半減期2万4000年)も検出された。しかし事故の影響かどうかは特定できないという。過去の大気圏核実験時に飛来した可能性もあるというのが理由だ。それなら「プルトニウムは重いから遠くに飛ばない」は初めからウソだったと言うことではないか。開いた口がふさがらない。

 政府や東電が、真実を隠蔽したり、事実を歪曲して発表していることはもはや疑いようがない。そんな状態で「事故収束」とか「復興」とか打ち出したところで信用できない。まずは、すべてを包み隠さず明らかにすることだ。そして、「何が間違っていたのか」「誰に責任があるのか」を明確にすべきだ。ことさらに犯人捜しをしようと主張しているわけではない。でも、そこの霧が晴れない限り、真実は見えてこないし、将来に向けての教訓にもならない。

 TPP(環太平洋戦略的経済連携協定)問題も一向に透明感がない。この協定は経済に関わることだけではなく、さまざまな規制緩和圧力を伴う。たとえば、GM作物(遺伝子組換え作物)が全面的に解禁される危険性もある。しかし、こうした重要な論点は覆い隠されたままだ。いつにもまして、透明感の欠けた2011年秋。(2011/10/14)

わからないこと」はたくさんある

<北村肇の「多角多面」(30)>
[この国のゆくえ⑪…原子力発電所は人知を超えている]

「わからないこと」はたくさんある。でも、二種類に分けることはできる。人知を超えて「わからないこと」、わかっている人はいるが、私には「わからないこと」。

 東京電力は最近になってようやく、福島原発の1号機から3号機のすべてでメルトダウンが起きていたことを明らかにした。あまりにばかばかしくて毒づく気さえ失せる。そんなこと、多くの市民はとうにわかっていた。「わからないこと」であるように振る舞う東電がウソをついていることもわかっていた。

 ただ、まだまだ「わからないこと」が多い。4号機も含め、原子炉や使用済み核燃料を保管するプールがどんな状況になっているのか、事故から2ヶ月以上たったのに、それすらはっきりしない。

 さて、そこで考える。東電や政府は4機がいまどうなっていて、どんな危険性をはらんでいるのかについて、果たしてわかっているのだろうか。自分たちは知っているのに隠しているだけなのか。それとも本当にわからないのか――。隠蔽だとしたら許せない。でも、後者だとしたら、それはそれで背筋が冷たくなる。「手のつけようがない」ことを示すわけで、事故の収束どころか、破滅への道をひた走っていることになるからだ。

 そもそも、原子力発電自体、人知を超えて「わからないこと」と言えないか。いまから40年以上前、学生時代に「原発はダメ」と結論づけたのは、それが制御できない技術・システムだったからだ。コントロールできないのだから、何十の「壁」を作ろうと100%の安全を確保することはできない。

 しかも、廃棄物の処理には何の見通しも立っていない。80年代後半、科学技術庁(当時)の官僚にそのことを聞いた。答えはこうだった。「そのうち、だれかが開発しますよ」。そのうちとはいつなのか。これもまた、だれにも「わからないこと」である。

 高濃度の汚染水が漏れだしたとき、最初に使われたのは新聞紙とおがくずだった。このマンガのような事態は、原子力発電が制御できないシステムであることを、ものの見事に描いている。人知を超えるとは、「神の領域」ということだ。人間はどこまでいっても「神」になることはない。「神」は現実世界に存在しないからだ。「原子力発電は人類にとって夢の技術」など、まさに空想の世界の話なのである。(2011/5/20)

[この国のゆくえ8…菅首相の「永久に忘れない」発言を斬る]

<北村肇の「多角多面」(27)>

 自分でも「まずいな」と思う。最近、何かと腹がたったり、イライラする。「情緒不安定」はジャーナリストにとって“毒薬”だ。へたをすると、全身が侵されてしまう。何とか避けなければとそれなりに努力してきたが、またまた毒の回りそうな出来事……。

「永久に忘れない」――菅直人首相は、訪日したクリントン米国務大臣にこう伝えた。東日本大震災対策支援への謝意をこめた発言だ。「おいおい、安っぽいドラマや歌ではないぞ」と怒りがわくとともに、慄然とすらした。この時期、この場面での発言は、オバマ大統領の名代であるクリントン氏へ、「日本は未来永劫、米国に従います」という誓いの言葉を捧げたことにほかならない。怒りはそのことに対してだが、寒気がしたのは「ひょっとしたら菅氏は深く考えずに喋ったのではないか、あるいは外務省の指示に従っただけではないのか」という疑いを禁じ得ないからだ。

 二人の間では、非公開を前提にしての会話もあっただろう。その内容はまだわからない。ただ、共同会見に日本経団連の米倉弘昌会長と米国商業会議所のドナヒュー会頭が同席したことで、一端はうかがえる。それは、数十兆円単位といわれる「震災復興事業」への米国企業参加だ。もともと米国は日本に対し、規制緩和、門戸開放を強く求めてきた。郵政民営化はその象徴である。今回のヒラリー訪日にも、「これだけ助けたのだから、見返りは当然だろう」という“圧力”が透けてみえる。これに対し、本来の首相の役目は、「それとこれとは別」と、するりと身をかわすことだ。ところが、冒頭から「永久に忘れない」だから、クリントン氏にしてみれば「してやった」だろう。

 米軍基地問題も含め、日本をうまく利用するために、米国は福島原発の致命的崩壊は何としても避けたい。大震災・原発事故という二重の危機による日本経済崩壊は、米国にとっても最悪の事態だ。「金づる」が貧困国になっては困るのである。一方、日本政府が「自分たちで何とかする」と言える状況ではない。もはや米国の力を借りずして福島原発の危機乗り越えは不可能だ。では、どうしたらいいのか――。菅首相が一国を預かる身として、必死に自分の頭で考えたのなら「未来永劫、日本は米国の子会社になります」という宣言はなかったはずだ。謝意は謝意として、協力依頼は依頼として真摯に伝える。その一方で、自立した国家としての立場を自分の言葉で明瞭に伝えればよかったのだ。

 ああ、他にも腹のたつことを思い出してしまった。全国紙はどこも「永久に」発言の問題点をとりあげなかった。報道機関の劣化が政治の劣化をもたらす。これもまたこの国のお寒い実態だ。(2011/4/22)

[この国のゆくえ5…勝間和代さんは、想像力、直感力に欠ける]

<北村肇の「多角多面」(24)>

 勝間和代さんの発言が話題になっている。3月26日放送の『朝まで生テレビ』で、「放射性物質は怖いという認識がおかしい」と言い切った。私はこの部分をユーチューブで見ただけなので、原発や原子力に対する彼女の基本的な考え方が、番組全体の中でどう展開されたのかはわからない。ただ、「見えないもの」に対する想像力や直感力が、相当に欠如しているなとは感じる。

 チェルノブイリ事故が起きたとき、原発に懐疑的な学者を中心に、「大被害」の危険性が指摘された。学生時代、樋口健二さんの写真や著作に接して以来、自分なりに反原発運動に関わっていた私も、危機的な状況は世界中に広がるだろうと考えていた。結果は、そこまでの事態には至らなかった。しかし、それはあくまでも表面的なことである。長期的な体内被曝の影響はだれにもわからない。人類の本当の危機はこれから明らかになるかもしれないのだ。
 
 私の母親は、輸血が原因でC型肝炎になり、肝硬変で亡くなった。1960年代の初め、C型肝炎ウィルスの存在など知るよしもなかった。そのころ、下町にアスベストを扱う工場がいくつかあった。ほとんどの人が防塵マスクなしに働いていたらしい。「肺に侵入したアスベストは消失することなしに、いずれガンなどの引き金になる」など考えてもみなかっただろう。
 
 人間の知恵は多くの「見えないもの」を解き明かしてきた。そこには、想像力と直感力が働いていた気がする。いくつかの事実をもとにしての、「ひょっとしたら」という想像と直感だ。そしてまた、未知なるものに対する、ある種の敬虔な思いがあったのではないか。つまり「まだ、何もわかっていない」「そこには人知を超えた何かがあるのかもしれない」という姿勢こそが、人間を賢くしたのである。
 
 勝間さんの発言は、「人類はすでに放射性物質を知り抜き、制御もできる」という奢りの現れだ。でなければ、「怖くはない」と断言できるはずがない。こうした貧相な発想から建設的なものは生まれないだろう。だが、彼女は決して少数派ではない。目に見えるものや手で触れるもの、あるいは数値で表現できるもの。いつのころからか、この国では、そうしたものだけが「事実」であり「真実」とされてきたように思える。原発のまやかしも、まさに、見えないものやわからないことを無理矢理、数値にあてはめ、あたかも「真実」かのように言い繕ってきたことにあるのだ。(2011/4/1)

[この国のゆくえ4…命の尊厳より政権や企業を優先させる時代の終焉]

<北村肇の「多角多面」(23)>

 福島原発の壊滅的事態を防ごうと、文字通り、生死の境目まで進み作業をしている人々――東京電力並びに関連会社社員、自衛隊員、消防庁職員らに「英雄」の称号が与えられつつある。そのことに異議を差し挟む気はない。ありきたりの表現だが、頭の下がる思いである。ただ、これだけは語っておきたい。「英雄」は彼らだけではない。全国各地で支援に立ち上がった人々。そして何よりも、大地震、大津波をくぐり抜けて生き延びた方々。彼ら、彼女らこそ「英雄」の名にふさわしいのだ。「英雄」とは決して、「国家を救う者」や「会社を救う者」の意味ではなく、唯一無二の「命」を救う者すべての総称。だから、自らの命を自らで守り抜いた人々をそう讃えるのは当然である。

 この確固たる真実を為政者はどこまで理解しているのか、残念ながら心許ない。被災者への対応に「英雄」への心配りが感じられないからだ。大地震は「過去」のことであり、その被災者が「現在」、困難に見舞われている。そして福島原発の危機は「現在」、起きている。つまり、被災者は二重の被災を蒙っているのだ。

 しかし、政府がこの事実を踏まえたうえで十分な対策をとっているようには見えない。避難場所に物資を運んだり、医療体制を整えたり、仮設住宅を建設したりと、「大地震被災者」への対応は一応、整いつつある。だが「原発事故被災者」への対処は不透明なままだ。いまのような危機的状況が続くなら、被災者には相当程度、離れた場所に移っていただかなくてはならない。このことの対策は一体、どうなっているのか。

 歴史的な惨事を前に、出来る限り政府や民主党への批判は避けたい。とはいえ、菅直人首相らが今後、「大地震、大津波をくぐり抜けて生き延びた方々」の尊厳を蔑ろにし、政権を守ることを一義的に考えるようなら、徹底的に糾弾するしかない。

 一方の当事者、東京電力については、すでに怒りを禁じ得ない。現場の「英雄」を隠れ蓑に、「企業」としての東電は逃げ回るばかりだ。これだけの人々の命を危険にさらしながら、相も変わらぬ情報隠しにいそしんでいる。報道を仔細にみても、6基の原発がどんな状況にあるのか、これからどのような事態が予測されるのか判然としない。計画停電のもとになる詳細なデータも明らかになってはいない。「原発がなければ、日本中が停電になる」という脅しにも見えてくる。

 振り返れば、命の尊厳より政権や企業の存続が優先される時代が続いてきた。一刻も早く、その悪弊を終焉させなくてはならない。(2011/3/25)