きんようブログ 社員エッセイを掲載。あの記事の裏話も読めるかも!?

◆福島原発事故の「風化」がもたらすもの◆

〈北村肇の「多角多面」(127〉
「山形一おいしい」といわれるそばをいただきながら、2年前を思い出していた。本誌山形読者会・辻春男さんの依頼で出前講演会に伺ったのは福島原発事故から約3カ月の2011年6月。辻さんが店主の手打ちそば「羽前屋」で「ここ(山形)の汚染はまだ厳しい状態ではない」と話した。風向きなどを考えてのことだった。「ただし、これからは安心できない」と付け加えた記憶が蘇る。

 そして2013年5月20日。2度目の出前講演会で「原発と経済」をテーマにお話ししたその日、山形県は「山菜の放射性物質検査態勢の見直し」を発表した。同県最上町の山菜コシアブラから、国の基準値を超える放射性物質セシウムが検出されたことをうけての対策だ。検査対象をこれまでの10種類からコシアブラなどを加えた18種類に拡大するという。収束どころかむしろ被害は拡大している、そのことを裏付ける一例だ。

 講演会には福島県南相馬市から山形県に避難しているご夫妻も来られた。

「毎日、その日を生きるだけの暮らしをしている」「まるでイヌのようだ」「(国も東電も)賠償をずるずると引き延ばし(被災者が)あきらめるのを待っているようにしか見えない」

 笑顔を交えつつ、しかしその発言は激烈だった。

 報道によれば、吉村美栄子山形県知事は同日の会見で「最上町への風評被害が心配」と語った。風評被害を否定はしない。だが、いま最も考えるべきは、「風評被害」より「風化の危険」ではないか。

 安倍晋三首相はトップセールスで原発輸出を推進すると意気込む。5月3日には、三菱重工業などの企業連合がトルコの原発事業の優先交渉権を獲得した。インドとも原子力協定締結交渉を再開するという。

 経済産業省は、新たなエネルギー基本計画を検討する総合資源エネルギー調査会の総合部会で「2030年までに世界の原発が90~370基程度増える」との見通しを示した。原発輸出へのあからさまな道ならしである。

 政府や東電は福島原発事故を「過去のこと」にしようと必死になっているようにみえる。「風化」は被災者を見殺しにし、「日本」を悪魔の国へと貶める。(2013/5/31)

◆橋下大阪市長への提案◆

〈北村肇の「多角多面」(126〉
「悲しみ」と「哀しみ」は違うのだなと思う。「悲しみ」の体験を心に深く刻み込みつつ、その感情をふっきるために他者の「悲しみ」を無視、あるいは軽視する。ときたま、そういう人に出会う。彼/彼女に対して私が抱く思いは「哀しみ」だ。

 橋下徹大阪市長が時折見せる屈折した表情が、以前から気になっていた。特に批判されたときの激しい反応は、自分でも止めようのないことへの苛立ちがあるように見えた。常に勝者でなければいけないとの強迫観念の背後で、他者にはうかがいしれない「悲しみ」を抱えているのかもしれないと、漠然と考えていた。

「銃弾が雨嵐のごとく飛び交う中で、命をかけて走っていくときに、どこかで休息させてあげようと思ったら慰安婦制度は必要なのは誰だってわかる」

 問題になった一連の発言は、政治家としてはもちろん一人の人間として到底、許されるものではない。橋下氏は「誰だってわかる」と言い切る。彼の嫌いなタテマエを取り去れば、「誰だって慰安婦制度が必要と考えている」と思い込んでいるのだろう。

 その後、とりあえず「反省の弁」らしきことは言っているが、持論を取り下げたわけではない。むしろ、本音は変わらないよと強調しているようにしか映らない。

 もしそうなら、女性に対する侮辱はもちろん、男性をもバカにしている。私は性をカネで買う男を信用しないし、友人にはしたくない。人格的に問題があると考えるからだ。そして、そのことに同意してくれる男性はいくらでもいる。まして、「戦時性奴隷」の容認など論外だ。あたかも「必要悪」であったかのような発言には反吐が出る。

 歴史認識の歪みを含め、橋下氏には政治家としての資格も資質もない。即刻、退場すべきだ。その上で、自らの「悲しみ」に正面から目を向けてほしい。

 子どものころ、私はエリートになるんだと自分に言い聞かせていた。社会からあらゆる差別をなくすためには「力」が必要なんだと、まだ何もものごとを知らないくせに、幼い頭で考えていた。自らの弱い心、弱い精神を唾棄し続けた。そんな自分をいま、「哀しみ」の目で見つめる自分がいる。

 橋下さん、市長は辞め、人権弁護士への道を歩んだらどうですか。(2013/5/24)

◆「女性手帳」は民主主義への挑戦状だ◆

〈北村肇の「多角多面」(125〉
 安倍政権誕生後、少しのことでは驚かなくなった。でも、これは凄い。「生命と女性の手帳(女性手帳)」。国家が女性に対し「早く子どもを産みなさい」と圧力をかけるような代物だ。バカにするのもいい加減にしてほしい。

 森まさこ少子化担当相が主宰する政府の作業部会に「少子化危機突破タスクフォース」(座長・佐藤博樹東大大学院教授)がある。7日の会合で「女性手帳」が論議されたが、特に異論はなしと報じられた。このままいくと、2014年度から導入の運びだ。

「女性に対して、妊娠・出産の適齢期などに関する医学的な知識や情報を提供する」ことが目的という。なぜ、これが少子化の対策につながるのか。正しい知識があれば晩婚化や晩産化といった傾向に歯止めがかかるとの理屈らしい。手帳には「若いうちに結婚して出産すれば、健康なお子さんが生まれますよ」とでも書くつもりか。悪い冗談だ。

 確かに少子化は深刻な問題であり、早急な対策が必要である。しかし、やるべきことはほかにある。結婚したくてもできない子どもをつくりたくてもできない、そんな現状の改善が先決だ。貧困・格差社会では少子化になるのは当たり前だ。「子どもは国の宝」なら、経済的な不安のない中で出産できるような福祉政策が欠かせない。保育施設の充実も当然。産休問題など、男性を含めての労働環境整備も必須である。

 戦前、この国では「産めよ増やせよ」というスローガンが堂々とまかり通っていた。それは、個人より国家が優先される社会の象徴であった。個人の思想だけではなく、肉体をも管理する支配形態ともいえる。その反省から、戦後は個々の市民のプライバシー尊重に舵を切ったはずだ。

 自民党憲法草案24条はこう謳っている。

「家族は、社会の自然かつ基礎的な単位として、尊重される。家族は、互いに助け合わなければならない」

 女性は家にいて子どもを産んで育児をして夫を支えればいい――そんなおぞましい響きがある。もろもろの言動をみると、安倍政権は戦前回帰を目論んでいるとしか考えられない。しかし、時代錯誤と片付けてすむ問題ではない。ことは、人間の尊厳にかかわることだ。近代民主主義そのものへの挑戦なのである。(2013/5/17)

「櫂未知子の金曜俳句」5月末締切の投句募集について

『週刊金曜日』2013年6月28日号掲載の俳句を募集しています。
【兼題】「雪渓」「ゼリー」(雑詠は募集しません)
【締切】 2013年5月31日(金)必着
【投句数】1人計10句まで何句でも可
※特選に選ばれた句の作者には櫂未知子さんの著書(共著を含む)をお贈りします
【投句方法】官製はがきか電子メール
(氏名、俳号、電話番号を明記)

【投句先】

郵送は〒101-0051 東京都千代田区神田神保町2-23
アセンド神保町3階  『週刊金曜日』金曜俳句係宛。

電子メールはhenshubu@kinyobi.co.jp
(タイトルに「金曜俳句投句」と明記してください)

【その他】新仮名づかいでも旧仮名づかいでも結構ですが、一句のなかで混在させないでください。
なお、添削して掲載する場合があります。

兼題「菖蒲湯」金曜俳句への投句一覧(5月31日号掲載=4月末締切)

「櫂未知子の金曜俳句」投句一覧です。

選句結果と選評は『週刊金曜日』5月31日号に掲載します。(いつもと違い第5週です。お気を付け下さい)

どうぞ、選句をお楽しみ下さり、櫂さんの選と比べてみてください。

『週刊金曜日』の購入方法はこちらです

amazonなどネット書店でも購入できるようになりました。予約もできます。「週刊金曜日」で検索してください。

(さらに…)

兼題「みどりの日」金曜俳句への投句一覧(5月31日号掲載=4月末締切)

「櫂未知子の金曜俳句」投句一覧です。

選句結果と選評は『週刊金曜日』5月31日号に掲載します。(いつもと違い第5週です。お気を付け下さい)

どうぞ、選句をお楽しみ下さり、櫂さんの選と比べてみてください。

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◆少数派「私たち」の力不足◆

〈北村肇の「多角多面」124〉

「5.3」前後はいつも無力感にさいなまれる。「8.6」から「8.15」までも同様だ。憲法を守ろう、平和を守ろうと声をあげる「私」は、「私たち」の存在を身近に感じる。でも、安易に「私たち」と表現したとき、その実体はかげろうのように薄らいでしまう。「私たち」とは異なる「彼ら/彼女ら」の吐き出す圧倒的な生命力の前に、かき消されてしまうのだ。

「私」を含めた「私たち」は、「私たち」の主張が「正義」であることを疑わない。平和、人権、自由を守ることは極めて正当であり、それらをないがしろにしようとする「権力者」を指弾するのは当然。しかし、「私たち」はこの国において絶対的な少数派だ。10人に1人どころか、100人に1人、1000人に1人かもしれない。これでは「彼ら/彼女ら」の視界には入らないのではないか。少なくとも関心の外だろう。そして、実は「彼ら/彼女ら」こそが「生活者」そのものなのだ。

 いま自民党の支持率は50%前後。一体、どうやって「彼ら/彼女ら」を取り込んだのか。十分な解明はできない。ただ、このことだけは言える。人も組織も、「正義」をかなぐり捨てたとき、大きな“力”を手にできる。いかなるウソも詭弁も許されるからだ。しかも、カネや権力、権威を自由に使えるのなら怖いものなしである。

 ふと、天を仰ぎ嘆息したくなる。どうして「彼ら/彼女ら」は誘惑に負けてしまうのか――。でも、こうしてため息をついている限り、永遠に「彼ら/彼女ら」は「私たち」にはならない。「正義」を振りかざした人間から、民度が低い、お前たちが悪いと言われ、反発しない人はいないだろう。ウソや詭弁にまみれていても、同じ目線に立っているとの幻想をふりまく自民党にシンパシーを感じているのだ。

 繰り返すが、いかに「正義」を標榜しようとも、「私たち」は断然少数派である。「彼ら/彼女ら」に見捨てられたのだ。この現実を見つめ、すべては「私たち」の力不足によるものと認識しなくてはならない。力不足の中には、「彼ら/彼女」らをウソや詭弁にだまされる低い存在として見ていた姿勢も含まれる。

「生活者」には憲法よりその日のメシのほうが大事だ。「私」はまず、このことをしっかりと自分の中で咀嚼したい。その上で、人権が守られない社会では「好きなものを好きなときに食べる」自由すら奪われるということ、政治が憲法の精神を具現化することにより、最低限、文化的な生活が保障されることなどを「彼ら/彼女ら」に伝えたい。決して上から目線になることなく、しかし堂々と自信を持ち、ぶれることなく。(2013/5/10)