きんようブログ 社員エッセイを掲載。あの記事の裏話も読めるかも!?

本当は恐ろしい『源氏物語』(1)

  2008年は『源氏物語』が書かれてジャスト1000年なので、テレビや出版など色々なイベントがありましたが、大長編でもあり、このサイトを読んでいる人でも(原文はもちろん現代語訳でも)読み通した人は少ないかもしれません。
でも、『源氏物語』を単にイケメン・プレイボーイの恋愛遍歴物語だと思って(そう思っている人が多いらしい)、読んでないとしたらとってももったいない話です。
1000年も読みつがれるにはそれなりのワケがあります。
今回ご紹介するのは、『源氏物語』には幾重にもはりめぐらされた「仕掛け」があるというお話。
仕掛けと言ってもミステリーのトリックのような仕掛けではなくて、虚構の物語なのに、現実を変えてしまうという「呪い」か「予言」のような仕掛けです。
とりあえず、私が気づいたところを、3つほどご紹介します。

1つ目は、同時代の権力に対する仕掛け。
この仕掛けは1000年ではなく200年ぐらいで作動しました。

物語では主人公の光源氏は、天皇の子どもとして生まれながら、母親がセレブな出自でないという理由で臣下に降格、陰謀で左遷までさせられますが、徐々に権力を手中にし、ついにはときの天皇をも超える地位にまで上りつめます。
キーポイントは、書かれた時代が「藤原氏」全盛期だったのに、物語では藤原氏を思わせる一族を押しのけて、「源氏」姓の光源氏が立場逆転で栄華を極める筋立てであること。
史実では、藤原一族は、数々の陰謀によって源高明・源融といった「源氏」姓の政敵を葬ることによって権力を奪っていますから、物語は、明らさまにこれを転覆しているのです。

SF作家P.K.ディックの『高い城の男』は、第二次世界大戦で「日独伊同盟側が勝利した」という設定でストーリーが展開しますが、現実と反転した物語の構造はよく似ています。
多くの人が学生時代に習った冒頭の「いづれの御時にか」(どの御代のことであったか)という書き出しが、実際にどの時代を暗示しているのか(「準拠」と呼ぶそうです)は諸説紛々で、というのも物語中の数人の天皇の名前が実在の天皇の名前と一致するからで、余計にこの歴史物語の「真意」への穿鑿が当時から現代まで絶えないというわけです。
もちろん、このような反転構造の物語を許容した藤原一族に「余裕」があったとみることもできますが、物語から、およそ200年後に、ご存知のように実際に「源氏」姓の一族が、権力を掌握したのですから、結果として現実が物語をなぞってしまったのです。

2つ目は、古代から現代まで、1000年をはるかに超える「万世一系」の天皇制に対する仕掛けです。
源氏千年紀の今年ですが、あまり語られないのは、戦時中、『源氏物語』は「大不敬の書」とみなされたという事実です。実際、有名な谷崎潤一郎訳の『源氏物語』の戦前版は、このためにいくつかのアブナイ箇所が改変させられています。
なぜでしょうか?
「2千円札」が消えたこととも何か関係があるのでしょうか?
答えは、本誌12月12日号所収の「逆光の源氏物語千年紀」に詳しく書かれています。
というわけで、ごめんなさい、こちらは本誌を読んでください。

3つ目の仕掛けは・・・・・・次回に続きます。

(まだお)

ムンバイのナニー

11月末のインド・ムンバイでのテロのサイドストーリーとして、2歳になろうとする男の子を救った、勇気あるナニー(ベビーシッター)がテレビや新聞やネットで報じられていた。

男の子の両親はイスラエル人、父親はラビ(ユダヤ教の教師、または導師)で、両親ともユダヤ・センターで銃撃されて亡くなった。1階で身を潜めていたナニーのサミュエルは男の子モイシュが自分の名前を何度も呼ぶのをきき、部屋をそっと抜け出し、階段を駆け上がり、母親の遺体の側で泣いて彼女の名を呼ぶ男の子をとっさに腕に抱えて階下へ行き、家を抜け出した。もちろん、銃の弾は彼女を狙っていた。

サミュエルは、両親を亡くした男の子を命の危険も顧みずに助けた勇敢な女性として、テレビのインタビューで当時の様子を語り、子どもを持つ母親など人々の涙を誘った。

モイシュの父親は、ユダヤ教オーソドックスのラビで、インドへ行く前は、米国ニューヨークのブルックリンに住んでいたようだ。ユダヤ教のラビは、黒い帽子に黒い洋服、そしてヒゲを伸ばしたスタイルで知られている。

両親を亡くしたモイシュは、祖父母や親戚のいるイスラエルへ引き取られる事になった。モイシュを命がけで救ったサミュエルは、イスラエル政府からユダヤ人の命を救った外国人に与えられる特権をえて、いつまでもイスラエルに滞在する事ができるようになった。彼女は、両親を亡くしたモイシュが彼女を必要とする限り、イスラエルでいつまでも一緒にいたいと語り、インドからイスラエルへと旅立った。

サミュエルは、最近夫を亡くしたばかりで、ナニーとなって、この事件に遭遇した。彼女には、自分の子どもが2人いるにもかかわらず、彼らを残して、孤児となったモイシュとイスラエルへと渡ったのである。両親を亡くしたモイシュの境遇は気の毒で、よく生き残る事ができたとも思う。でも、サミュエル自身の子どもたちは、母親と遠く離れることになり、彼らも気の毒だと思う。

サミュエルは、それまで、自分の国内で、外国人の家庭に雇われていたのだが、ついに国を出て、子どもを残して「働き」に行く事になった。

第三世界から、豊かな主要国を目指して移動するのは、男性労働者だけではない。女性が、家事労働、ナニー、労働者、セックスワーカーとして、主要国へ移動をしていく。ナニーも例外ではない。グローバルに人が世界を行き来する現在、第三世界は、資源や労働だけではなく、感情や愛情も搾取されているのである。

主要国では、家事労働などが、第三世界から働きにやってきた女性によって担われることで、性別役割分業が固定化されることになる。

インド、ムンバイのナニーをめぐる美談の陰に、グローバリゼーション時代の貧富の格差を背景とした、女性の労働の問題が隠されていると思う。