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第27回 「週刊金曜日ルポルタージュ大賞」結果発表

第27回「週刊金曜日ルポルタージュ大賞」は、6月末で締め切り、計24編のご応募をいただきました。
審査の結果、次の3作品が入選しました。編集委員、編集長の選評と合わせて発表します。

▼大賞(賞金100万円)…該当なし

▼優秀賞(賞金30万円)…該当なし

▼佳作(賞金10万円)
加藤昌平
南国の霧
バナナ農園農薬空中散布・闘いの記録

▼選外期待賞
小沢琴次
盲信

玉山ともよ
海外ウラン探鉱支援
日本のリスクマネー供給と先住民「聖地開発」

ルポルタージュとは何か、みずからを問う
本誌編集長・平井 康嗣

第27回ルポルタージュ大賞には24編の応募作をいただき、最終結果は佳作として「南国の霧――バナナ農園農薬空中散布・闘いの記録」(加藤昌平)、選外期待賞として「盲信」(小沢琴次)、「海外ウラン探鉱支援 日本のリスクマネー供給と先住民『聖地開発』」(玉山ともよ)の計3作品が受賞しました。加藤さんは『日刊まにら新聞』の記者、小沢さんはメガバンクOB、玉山さんは研究者であり、それぞれの現場での独自の調査や体験が評価につながったといえます。
しかしながら、歩いて、見て、聞いて、考えて、書くというルポルタージュ(報告文学、記録文学)に相応しい原稿は「南国の霧」のみと、質と量を問われる厳しい結果になり、本賞であえて作品を募る意味を心底考えさせられました。今回の結果を受けて編集委員から意見を聞き、小社社員会議でも議論をしました。結論として来年のルポルタージュ大賞の募集は休止とします。ジャーナリズムやノンフィクションが冬の時代といわれていますが、これは書き手ではなく支える私たちの問題だと考えます。編集委員からもさまざまな改革案が提案されており、これから時間をかけてルポ大賞のありかたを根本から考えていく所存です。一方、本誌では随時、原稿を募集しています。68ページの週刊誌ですから大賞より記事は短くはなりますが、まずはそこで書き手として自身と向き合うことがルポライターとしての第一歩になるはずです。

※加藤昌平さんの「南国の霧」は本誌のホームページに全文掲載しています。

選 評

貪り読むほどのルポを求む
雨宮 処凛

まったくバラバラなテーマの作品が並んだ選考で、私としては楽しめた。
賞の対象とはならなかったが最終選考に残った「イスタンブール獄中記」(トルコ滞在中に警察に拘束された体験記)は、実体験がすごすぎるだけに、もっと「肝心な動機の部分」の描写を読みたかった。これだけのネタがあればもっともっと「面白く」できるのに、というのが正直な感想だ。
また、最終選考に残るも賞の対象外だった「犬猫ボランティア」も、猫好きが嵩じて地域猫の活動支援にほんの少し関わったことのある身からすると、「あるある」の連続。特に「大変なことがあるから、どうにか人生が回ってる…とも言える」と手相を見た人に言われて納得するくだり、悶絶するほどわかる。この部分を軸にすると読み物としての完成度も高くなるのでは、という感想だ。
選外期待賞となった「盲信」は、テーマは非常に興味深いのだが、良くも悪くも「小説っぽい」と感じた。どこまでが事実で、どこからが想像なのか、筆力が改めて問われる書き方なのだと思う。
そして佳作の「南国の霧」。非常に重要なテーマに正面から取り組んだ力作だ。佳作受賞をきっかけに、フィリピンのバナナ農園の農薬と健康被害問題について広く知られることを願っている。欲を言えば、このようなテーマに「なんの関心もない日本に住む人々」の興味をどうかき立てるか、という仕掛けを作れるとさらにいいと思う。
選外期待賞の「海外ウラン探鉱支援」も、非常に重要なテーマを扱っている。内容もしっかりしているのだが、ルポルタージュを読むワクワクドキドキがどこか、足りない。レポートのような書き方ではなく、もっと遊んだ書き方をした方が、きっと書き手も読者も楽しめると思うのだ。
と、今、この選評を書きながら、「人の原稿について言うのはなんて簡単なんだろう」と自分を顧みている。寝食も忘れるほどに貪り読んでしまうルポと出会いたいし、書きたい。

素材に足る文章力・取材力を
中島 岳志

今年は、例年以上に読み応えのある作品が少なかった。ルポルタージュの置かれた厳しい状況が反映されているのだろうか。
加藤昌平「南国の霧――バナナ農園農薬空中散布・闘いの記録」は、フィリピンのバナナ農園で起きている健康被害に迫る。鶴見良行が『バナナと日本人』(岩波新書)を出版し、話題になったのが1982年。あれから34年も経つのに、日本とアジアの構造的問題は解消されていないのだ。
健康被害と農薬空中散布の因果関係は科学的立証が難しく、責任追及が暗礁に乗り上げてしまう。この不条理を著者は粘り強く追及する。また、住民グループの反対運動が大きな挫折を味わう苦境を描く。ルポとして一定水準をクリアしていると判断し、選考対象作品の中で最も高く評価した。
ただし、素材の切実さに対して、文章力・取材力が追い付いていない。登場する人物の描写が薄いため、具体的な人間の息遣いや生々しさが伝わらない。日本の農薬研究の専門家への取材で、「予防原則」という重要な概念を提供されながら、その論理が取材にいかされていない。加害企業とされる住友商事の100%子会社「スミフル」への取材や追及もできていない。説得的なルポ作品として成立させるためには、更なる取材と加筆が必要だろう。今後の発展に期待したい。
粉飾決算を見抜けず企業に多額の融資をした銀行の話を書いた小沢琴次「盲信」は、会話調で話が進むが、著者が直接聞いた(あるいは本人の)会話を再現しているのか、間接的な見聞を再構成しているのかがまったくわからない。著者による内部告発なのか、業界内で見聞した内容なのか、それとも取材の成果なのか。そんな基本的な前提が明示されていないため、記述の信憑性に疑問を抱いてしまう。そもそも登場人物は実名なのか、仮名なのか。とにかく肝心な部分が検証不可能な形で提示されているため、ルポルタージュとして成立していない。個人的には選考外と判断した。

「休止」は妥当な選択
佐高 信

どうして海外ものばかりなのだろう。このことについても何度も書いたと思うが、審査員の講評など読まずに応募するのかもしれない。
なぜ、海外の話なのか? 国内の問題とどうつながるのか、そこが書かれなければ、書きやすいから、あるいは、わかりやすいから海外ものなのか、と思ってしまう。
やはり、より切実なのは海外ものではあるまい。
かつて、吉本隆明は小田実らの「ベトナムに平和を!市民連合」、いわゆるベ平連の運動を〝思想逃亡〟と非難した。
時折り、ベ平連のデモに参加していた私としては「何を言ってるんだ。ベトナム戦争は日本の問題ではないか」と反論していたが、胸にチクリと刺さるものはあった。
「南国の霧」のバナナ農園農薬空中散布の問題でも日本で同じようなことは行なわれていないのか? 遺伝子組み替え種子世界一の供給企業モンサントの農薬は日本でも使われている。それを追った方が、より読者を引き付けるのではないか。
また、企業を扱った作品がきわめて少ない。ほとんどないと言ってもいいくらいだが、アベノミクス批判は企業批判をともなわなければ空まわりするだろう。
総じて、読ませる作品がなかなか見当たらない。読ませようとしているのか疑わしくなる作品さえある。
何か問題を提示して、これは大変な問題だから読むべきだ、読むのが当然だ、と押してくる感じの作品が多い。
しかし、やはり読ませる努力は必要なのである。
言うまでもないことだが、ロジックとレトリックが大事なのであり、この両輪がバランスよく保たれていなければ、読ませる作品とはならない。
私は今回は「盲信」を推したが、いつも同じ講評を書いて、ガックリ来ている感じだから、この際、ルポ大賞「休止」は妥当な選択だと思う。

第27回「週刊金曜日ルポルタージュ大賞」佳作入選作

「南国の霧ーバナナ農園農薬空中散布・闘いの記録」

加藤昌平・新聞記者

かとう しょうへい。立命館大学卒業後、フィリピンのNGO団体で働く。その後、日本の会社を経て、2013年からフィリピンの日本語新聞『日刊まにら新聞』の記者。

(あらすじ)
広大なバナナ農園の上空をセスナ機が飛び過ぎ、農薬の雨が降り注ぐ。
フィリピンにあるミンダナオ島の小さな町で健康被害が続出。被害は農薬の空中散布が日常的に行なわれる、バナナ農園の周辺で発生していた。住民たちの訴えを聞き、町の教会が反対運動に立ちあがる。
話しを聞きつけた筆者は現地に向かうが、取材の過程で困難な壁に直面する。空中散布された農薬と健康被害との間に科学的な因果関係を証明することは難しい。しかも、相手は日本の大手農業会社。どう取材を進めれば良いか、手探りの状態が続いた。
そんな中、根強く反対運動を展開していた住民グループも次第に追い詰められ、希望が失望に変わっていく。
1980年代に、鶴見良行による著作『バナナと日本人―フィリピン農園と食卓のあいだ―』が農園労働者の過酷な労働環境を指摘して以降、フィリピンのバナナ農園は世間の注目を浴びた。
いつしかその関心も薄れ、今や日本から遠い土地の問題は忘れ去られようとしている。しかし、現在も不公平な労働環境が改善されたわけではない。農薬空中散布の反対運動グループに接近し、健康被害を訴える住民たちや、現役の農園労働者、突然歩けなくなり車いす状態になった元農薬散布担当者らの話を聞く中で、筆者は今まさに現場で起きている問題に気付き始める。
空中散布を現場で見るため農園労働者の村に入り込み、多国籍企業による農園経営が、土地の人々から生活の選択肢を奪っている現状をも目の当たりにした。
一方、取材を進めていく中で、筆者は日本で起きている深刻な農薬問題にも気付き始めていった。
やがて、バナナ農園をめぐる多国籍企業と地元住民の対立は地元自治体の首長選挙に舞台を移し、悲劇的な結末に向かっていく。(了)

(以下本文)
2016年6月30日、一人の神父が挫折とともに教会を去った。
目もくらむほどにまぶしい太陽が中天に上り、土埃舞うアスファルトの路上をぎらぎらと焼く。そんなフィリピンの田舎町だった。
教会を去る3週間前、神父は新訳聖書のある節を大きく引き延ばし、布に書き写して聖堂の壁に貼り付けた。そこに、配属されてからこの教会で過ごした3年間の思いをすべて注ぎ込んだ。
『新約聖書』コリント人への第一の手紙4章12・13節。そこにはこう書かれている。

苦労して自分の手で働いている。
はずかしめられては祝福し、
迫害されては耐え忍び、
ののしられては
優しい言葉をかけている。
わたしたちは今に至るまで、この世のちりのように、
人間のくずのようにされている。

この3年間、神父は必死に闘った。何度かの期待と失望を繰り返し、それでも希望を失わずにこれまでやってきた。しかし、それも最後には折れてしまった。
神父が教会を去る理由は、その町で過ごす任期を終えたからだ。カトリック教会所属の神父は、原則3年ごとに任地を替える。一カ所にとどまることはなく、その一生をさまざまな土地に移り住みながら過ごすのだ。
一緒に闘った住民たちは神父の任期延長を教会本部に訴えた。しかし、教会はそれを認めなかった。神父も延長を望まなかった。
「3年という期間は十分だ。もう移動したい」
引き止める住民たちに神父はそう胸の内を吐露したという。
神父の気持ちは、教会に貼り付けた聖書の一節と重なる。「この世のちり、人間のくず」として無力感にさいなまれていたのかもしれない。彼の辛苦はどれほど大きかったのか。
その失望は、神父の活動を約1年間取材してきた私にも向けられた。結局、お前に何ができたのか。この1年で何も変わらなかったではないか。記者の道に進んでわずか数年の私には手厳しい問いかけだった。
教会があるフィリピン南部の島、ミンダナオ島。この島で1960年代から生産されてきた主要農産品は日本人にもなじみが深い。黄色くしなやかな曲線を描く果物、バナナである。神父が闘いを挑んだのは、このバナナの生産会社だった。

フィリピンは日本向けバナナの一大産地だ。
島の各地で運営される大規模バナナ農園では、毎年合計100万トン前後の輸出用バナナが収穫され、その多くが日本に輸出される。日本財務省の貿易統計によると、2014年にフィリピンから日本へ輸出されたバナナの量は約87万トン。日本バナナ輸入組合の統計によると、同年における日本のバナナ輸入数量は計約95万トン。つまり、日本のバナナ輸入数量におけるフィリピン産バナナの割合は約91%に上る。コンビニやスーパーで山積みにされているバナナは、一房200円前後。1970年代から40年以上、その値段はほとんど変わっていない。パッケージの裏側を見れば、大半のバナナには「フィリピン産」と表記されているはずだ。国内隅々まで、バナナは日本の家庭に浸透している。
しかし、現地の生産者の顔は日本の消費者に十分に伝わっていない。
1982年に出版されたアジア研究家の鶴見良行による著作『バナナと日本人―フィリピン農園と食卓のあいだ―』で、多国籍企業によるバナナ生産者への搾取構造が指摘された。これを皮切りに、バナナ農園の実態に対する関心が高まっていった。しかし、その関心も今は薄れ、過去のものになってしまった。「研究や取材対象としては、いまさら手を出しにくい」。そんな率直な意見を聞いたこともある。
神父は、日本人の誰もがそうして忘れ去ろうとしていた問題に、ひっそりと闘いを挑み、そして敗れ去ったのだった。
なぜ彼はここまで追い詰められていったのか。ほんの少しの期間だが、私はこの物語に首を突っ込んでしまった。一度関わってしまった身として、今の自分にできることは記録を残すことしかない。だから、私は書いてみることにした。バナナ生産の現場に少しでも関心が戻ってくることを期待して。


フィリピンに雨期が到来した8月の終わりごろ。日本人コミュニティ向けの地元新聞社で働き始めてからちょうど2年がたった、2015年の夏だった。
知人のフィリピン研究者から紹介して知り合った、立教大学の石井正子教授から一通のメールが届いた。
「今回のミンダナオ訪問で、1980年代に鶴見良行氏が指摘した問題が解決されていないことをあらためて知りました」
ミンダナオ島の先住民を主に研究している石井教授は、ミンダナオ島の南端に位置する南コタバト州でバナナ農園の調査を行なってきたのだという。
フィリピンに来てまだ日が浅い私は耳を疑った。ミンダナオ南部といえば、イスラム系の反政府勢力の拠点がある土地ではないか。
外務省の海外安全ホームページによると、南コタバト州は安全レベル2で、「不要不急の渡航は止めてください」と規定されている土地だ。
ミンダナオ島の一部地域では1970年ごろから、土地に昔から住んでいたイスラム教徒と、新たな土地を求めてフィリピン北部のルソン・ビサヤ島から移住してきたキリスト教徒との間で対立が表面化。イスラム系反政府勢力とフィリピン国軍との間で長く紛争状態が続いていた。
2014年になって、イスラム勢力の主要グループであるモロ・イスラム解放戦線(MILF)とフィリピン政府との間で和平合意が成立。ミンダナオ島での大きな戦闘はなくなっていたが、それでも小規模の武装集団が一部地域で抵抗を続けている。そういった考慮から、日本の外務省はイスラム系武装勢力が活動するミンダナオ南部と西部を安全レベル3に設定し、「渡航中止勧告」を発令している。南コタバト州は、そんな中止勧告が出されている地域に囲まれていた。
なぜこの州だけ安全レベルが一段低いかというと、州の中心都市であるジェネラルサントス市が古くから開けているからだ。この市の近海ではマグロを中心とした海産物が豊富に採れる。市に大きな漁港があり、この港を足がかりにして、フィリピン北部から多くのキリスト教徒が移住してきた。それもあって南コタバト州はミンダナオ南部の中でも、キリスト教徒が住民の大多数を占めていた。
石井教授によれば、この州にあるバナナ農園で、周辺住民による反対運動が巻き起こっているというのだ。聞けば、農園の管理会社は「スミフル」という日系企業だという。
スミフルは住友商事の100%子会社で、バナナを中心にパイナップルやメロンなどの果物を日本に輸入する大企業だ。現地法人のスミフル・フィリピンは商品作物の生産・輸出を手掛ける。2014年の総収益は114億6100万フィリピンペソ(約257億円)で、第1次産業部門ではフィリピン国内1位と飛ぶ鳥を落とす勢いだ。
そのスミフルが経営するバナナ農園で行なわれている農薬の空中散布が、周辺住民の問題となっているらしい。
敷地面積が広い農園では地上からの農薬散布では時間が掛かる。そのため、小型飛行機で空から農薬を散布するのだが、その農薬が風に乗り、周辺住民への体内に入ることによって健康被害を引き起こしているというのだ。
反対運動が起きているのは、南コタバト州にあるスララという小さな町だという。ここでは2013年ごろからスミフルが農薬の空中散布を開始。それ以来、住民の間で被害の訴えが増えている、と石井教授はメールで説明した。
スララ町でいったい何が起こっているのか。メールの内容だけでは分からなかった。しかし、好奇心とも正義感ともつかない気持ちがふつふつと涌きあがってきた。スララ町に行ってみよう。実際に何が起きているのか、自分の目で見てみたい。それが、私が果てしもないバナナ農園の取材に足を踏み入れる、そもそものきっかけだった。

小さな空港施設から外に出ると、はるか遠くまで続く真っ青な空が目に飛び込んできた。地平線に近づくにつれ、空は乳白色にかすんでゆき、やがて彼方の緑の丘陵へと吸い込まれていく。
空港の前にある広い駐車場には、個人のピックアップトラックやワゴン車が一定の距離を置いて停車してあった。首都マニラからはるばる訪れる知人を待っているのか、玄関口には人が群がっていた。それに混ざって、白いワイシャツを着た呼び込みが「タクシー、タクシー」と声を張り上げている。あとは何もない、こぢんまりとした空港だった。
石井教授からのメールを受け取った1カ月後、私は南コタバト行きの飛行機に飛び乗った。
空港には、石井教授から紹介してもらった反対運動の関係者が待っているはずだった。辺りを見回し、それらしい人物を探していると、携帯電話にメールが入ってきた。
「空港の外にいます」
玄関口の外に出ると、声を掛けられた。声のする方を見ると、2人の男女が立っている。
男性は小太りで小柄な五十男。カールがかった短髪に口ひげを蓄えた顔には、どことなくひょうきんな雰囲気があって、人柄の良さを物語っていた。
もう一人はすずしげな目元をした中年女性で、隣の男性よりも少し背が高い。
男性は青いポロシャツにジーンズとラフな格好、片や女性は襟付きの白ブラウスに黒のロングパンツでややフォーマルないでたちだ。
「南コタバトへようこそ。飛行機の旅はどうだった?」
「はい、問題なく来ることができました」
初めての土地に緊張しながら答えると、男性はニカリと白い歯を見せた。フィリピン人特有の陽気な笑顔だった。
男性はフランクと名乗った。
本業はカトリック教会の神父で、反対運動の中心人物だった。
こういった市民運動の活動家は、もっと生真面目で固い人物だろうと勝手なイメージを作っていたのだが、フランク神父はごく普通の気さくなフィリピン人のおじさん、といった印象だった。
女性は教会の事務員で、ローデスさんといった。
フランク神父みずからの運転で、一路スララ町へと向かった。アスファルトの国道を、ひたすら西に走ること2時間。ショッピングモールや大きな建物が並ぶ都市部を抜けると、正確に区画整理された見渡す限りの畑地が国道の両脇に現れた。
米国系の農業会社「ドール・スタンフィルコ」が経営するパイナップル農園だ、とフランク神父が教えてくれた。
南コタバトには2つの巨大な農業会社がある。ひとつは「ドール」で、数千ヘクタールのパイナップル農園を経営している。もうひとつが「スミフル」。この会社は主にバナナを生産する。2つの企業は地元の経済と密接に結びついているという。それは、国道に沿って転々と生えるココヤシの木や、トライシクルと呼ばれるサイドカー付きオートバイが行き交うフィリピン特有の風景に、広大なパイナップル農園が当然のごとく溶けこんでいるのを見てもよく分かった。

しばらく走ると、車は未舗装の脇道へと入っていった。その先に、高さ2メートルほどの小さな木が林立する一画が見えた。それがお目当てのバナナ農園だった。
波打つような繊維が入った大きな葉の下に、一抱えはあるかというバナナの巨大な房が垂れ下がっていた。熟していないバナナは濃い緑色をしている。
房はみなビニールで包まれていた。風や虫害からバナナを守るために付けられる「バナナ・コンドーム」というものだ。すべてのビニールには「スミフル」のロゴがプリントされていた。
近づいてよく見ると、葉に白い小さな染みのような跡がいくつも付いている。
「飛行機で散布された農薬の跡よ」と、ローデスさんが説明した。
農園からあぜ道を挟んだすぐそばには、木造やレンガ造りの小さな民家が軒を連ねていた。空から農薬をまく飛行機は、民家と農園の区別が付くのだろうか。それほど、民家と農園は近い距離にあった。
農園のそばにある小学校には、フランク神父があらかじめ声を掛けていた周辺住民が、数人集まっていた。その中で、一組の母子に目がとまった。まだ若い母親が抱きかかえている赤ん坊の首筋は、化膿して白い膿汁が垂れていた。股関節にも同じうみができている。
思わず凝視すると、視線に気付いた母親が赤ん坊の手を取ってこちらに差し示した。私は、差し出された赤ん坊の指先を見て絶句した。その人指し指と中指には爪がない。
母親によると、赤ん坊は1年ほど前から皮膚のアレルギーに苦しみ出したという。手に爪がないのは、かゆみに耐えかねて化膿した箇所をかきむしるうちに、はがれ落ちてしまったからだった。
別の住民が付け加えた。
「農薬の空中散布が始まってから同じような症状の子どもが増えている」
住民の訴えは切実だ。しかし、それを聞きながら私は、この取材の難しさに早くも気付き始めていた。
彼らが訴える症状が、本当に空中散布された農薬を原因としたものなのか。それを立証しなければ、スミフルの責任を問うことはできない。今では日本の「公害の原点」といわれる水俣病ですら、病気の原因がメチル水銀にあると判明するまでは多くの年月を要し、政府が正式に公害認定したのは、症例が初めて報告されてから実に10年も後だった。
農薬について何も知らない人間が、この先どうやって取材を進めれば良いのか。初日から、私は途方に暮れていた。


取材の難しさを自覚する一方、収穫もあった。現地取材を通して、この土地にバナナ農園が作られた経緯や、農薬の空中散布に対する反対運動の状況を知ることができたからだ。それは次のような流れだ。
バナナ農園があるのは、スララ町と、隣接するティボリ町の2町だ。輸出用バナナの栽培が始まったのは2004年ごろ。当初は地場農園の「アンドレス・M・ソリアノ」(AMS)社が2町の住民から土地を借り上げ、バナナ農園を形成していった。農園の総面積は、スララ町約500ヘクタール、ティボリ町約3000ヘクタール。
2010年ごろ、スミフルに農園の経営権が移り、2013年2月ごろから農薬の空中散布が始まった。
そのころから、農園の周辺住民たちの間で皮膚の発疹やかゆみ、ぜんそくといった症状を訴える者が続出。被害を訴える住民たちは地元自治体に問題への対処を掛け合ったが、取り合ってもらえず、スララ町の教区教会に助けを求めた。そこで住民たちの訴えを聞き入れたのが、2013年に教会へ配属されたばかりのフランク神父だった。
教会は2014年ごろから反対運動を開始。町内にある飛行場の前でデモを続けた。
2015年初め、町議会で空中散布を禁止する決議が可決された。ところが、町長は決議の発効を承認しなかった。教会は発効を再三要請したが無視され、結局、決議は今に至るまで発効されていない。
2015年7月13日、しびれを切らしたフランク神父たち約30人は飛行場内に侵入。バリケードを張って飛行機の使用を妨害する強硬手段に出た。同月16日、スミフルはフランク神父たちをスララ地裁に告訴。1000万ペソの損害が発生したとして賠償金の支払いを求めた。この公判は今も続いている。
フランク神父たちはスミフルの違反行為の可能性も指摘している。町自治体からの承認を得ることなくスララ町での空中散布を行なっていたという疑いだ。スララ町の住民がスミフルの営業停止を求めて2015年8月にスララ地裁に提出した申し立てによると、スララ町におけるスミフルの空中散布は2014年12月から未承認状態だという。

フランク神父たちとは別に、スララ、ティボリの両町で農薬散布の反対運動を展開している団体がある。市民団体「バトアン」だ。2013年1月に結成。ローマカトリックやプロテスタントといったキリスト教系団体の連合で、中心メンバーは30人ほどだという。
初めてスララ町を訪れた日の翌日、代表のプエルト神父と会った。背が高く、あまり笑顔を見せない。フランク神父と対照的な人物だ。
話を聞きながら飛行場を案内してもらった。日曜昼の飛行場は、問題の中心地とは思えないほど静かだった。滑走路の端にバナナと同じ色をしたセスナ機が2台止まっている。2台のセスナ機は、毎朝午前6~7時ごろになると、油と水で薄めた殺虫剤や殺菌剤を積んで各地のバナナ農園へと飛び立っていくという。飛行場の周囲に住む人たちにとって、セスナ機が飛び立つ瞬間のプロペラ音は悩みの種になっている。

バトアンの活動内容は主に次の3つだ。
・ 空中散布への反対
・ 有毒な化学薬品使用への反対
・ 労働者に対する搾取への反対
ただし、とプエルト神父は付け加える。
「スミフルの経営自体に反対するつもりはない。農園のおかげで町の人々は職にありつくことができる」
問題は農薬空中散布ひとつに集約されるということだ。


首都マニラの、しょうしゃな食堂やカフェが並ぶ学生街の一角に、一風変わったレストランがある。10人も客が入れば一杯になってしまいそうな小さな店だ。カウンターに並ぶ料理から好きなものを選ぶ形式の、典型的なフィリピンの食堂だが、出るものはみな無農薬・無添加。健康志向のフィリピン人がよく利用するという。
フィリピンにおける農薬問題の第一人者、ロメオ・キハノ博士の事務所はそのオーガニックレストランの裏手にあった。
フィリピンの最高学府、フィリピン大学で長年教鞭をとっていたキハノ博士だったが、今は各国の農薬問題に取り組む国際環境団体「農薬行動ネットワーク」(PAN)アジア太平洋支部の理事職に専念していた。
1990年代後半、ミンダナオ南東部の南ダバオ州ハゴノイ町カモカアン村で、皮膚炎や目の痛み、脱力感などを訴える村人が相次いだ。村はアメリカ系農業会社デルモンテ系列の地場バナナ農園「ラパンダイ農園」に隣接しており、空中散布や地上からの農薬散布が頻繁に行なわれていた。キハノ博士はこのカモカアン村で調査を行ない、同農園の農薬散布が村人の健康被害に関係していると指摘した。
フィリピンにおける1990年以降のバナナ生産現場の実態を報告した『フィリピンバナナのその後 多国籍企業の創業現場と多国籍企業の規制』(中村洋子著)に、カモカアン村の事例が次のように紹介されている。
「約150世帯700人に農薬の影響が認められる。被害者の症状もさまざまで、咳、目の痛み、めまい、皮膚のかゆみ、胸の圧迫感、脱力感、吐気、腰痛、胃痛、頭痛、下痢などから始まって、深刻なものとしては、ぜんそく、貧血、障害児出産、死産、子どもの肉体的・知的発育の遅れ、甲状腺腫、腹部膨脹、そして癌、中毒死も報告されている」
「ココナッツ、その他の作物は実をつけなくなり、豚、鶏などの家畜は空散の後で死に、たびたび起こる魚の大量死により漁獲量も減少」
調査に対し、ラパンダイ農園は損害賠償を求める民事訴訟に打って出た。カモカアン村の件を含め、キハノ博士は現在、計5件の訴訟を抱えているという。
キハノ博士は、スララ町の問題についても少しだけかかわっている。2010年から2015年の間に3度、スララ町を訪問しているのだ。農薬について右も左もわからない状態だった私は、スララ町からマニラに戻るとすぐさま、すがるような気持ちでキハノ博士に会いに行ったのだった。
キハノ博士の事務所はアパートの一室で、小さな空間に若い女性事務員が一人いるだけだった。事務所に案内された私は、早速インタビューを始めた。
――スララ町を訪問したいきさつは。
「反対運動の活動家に呼ばれ、講義を行なった。具体的な調査方法など教えたが、今に至るまで実際のデータは集まっていない」
――博士自身も調査をしたのですか。
「非公式だが、何人かの住民に話は聞いた。1990年代に私が調査を行なった農園と、同じ症状が出ている。恐らく殺菌剤が原因だろう」
キハノ博士が90年代に行なった調査とはラパンダイ農園の農薬問題のことだ。スララ町で似たような症状が出ているという指摘に、私は息をのんだ。
――どんな症状ですか?
「農薬被害で特に問題なのは、免疫系の破壊だ。病気にかかりやすくなり、下痢やせきなどを訴える。しかし、病院で診察を受けてもウイルス性の病気と診断されるだけで、化学薬品が原因とは思われないのが現状だ」
農薬問題に取り組む難しさをあらためて突きつけられた気がした。住民が訴える症状は、農薬による影響の可能性がある一方で、別の原因と考えることもできる。家庭で使われる家電の電池から漏れる水銀や、ガソリン、日々食べる魚にも微量の有毒物質は含まれている。
「だから調査が必要なのだ。特にフィリピンは農薬研究が進んでいない。時には他国の研究から共通点を探すしかない」と、キハノ博士は語気を強めた。

キハノ博士の話を聞き終えた私は、暗たんたる気持ちになっていた。一方で、こうなったらやるだけやってみよう、とも思っていた。自分にできることは、できるだけ多くの住民に聞き取り調査を行なうことだろう。
早速フランク神父やプエルト神父に連絡を取り、スララ町を再訪して住民への調査を敢行した。その結果、周辺住民の抱える症状にいくつかの共通点があることが分かった。
聞き取りを行なった住民は約20人、うち何人かの証言を次に書き出してみようと思う。

ニタ・サリン(57歳)
ティボリ町ラコノン村在住。25年契約でスミフルに土地を貸している。
2015年9月、農園のすぐ側にある自家菜園で作業中、空中散布中の農薬を直接浴びた。空を見上げていたため、農薬が直接目に入り、痛みを覚えた。それ以来視力が低下し、夜になると何も見えない状態になった。
治療費を捻出するため、貸していた土地の賃料前払いをスミフルに求めたが、「支払い日はまだ先」と断られた。支払いは年1回なので、次回の支払いは来年以降になる。結局お金を用意できず、病院に行くことは諦めた。被害について、会社からの謝罪はない。

ジェシベル・ブルサン(23歳)
ティボリ町ラコノン村在住。バナナ農園から50メートルも離れていないところに自宅がある。
娘のプリンセスちゃん(3歳)が空中散布の農薬を直接浴びる被害を受けた。2015年8月、プリンセスちゃんが外で遊んでいると、空中散布の飛行機が上空を通り過ぎた。
プリンセスちゃんは全身に農薬を浴び、頭部、尻、腹部、足に皮膚炎を発症。黄色く化膿して、かゆみも訴えた。
村の診療所で薬を処方してもらい、自分たちで治療した。1カ月ほどでうみは引いたが、いまだに黒いあざになって残っている。
スミフルに助けを求めることは考えもしない。言っても信じてもらえないからだ。

ビセンテ・バルサン(49歳)
スララ町ラミアン村在住。家のすぐ目の前はバナナ農園。農薬空中散布の際は家にも農薬が降りかかって、屋根や壁が濡れる。
慢性的な皮膚のかゆみや発疹がある。夜になると、乾燥や喉の渇き、息苦しさで起きることも。
農薬の空中散布が始まった2013年ごろから、飼っていた鶏が次々と死ぬようになり、当初は120羽いたが20羽まで減ってしまった。
安眠を妨げ、健康を害する空中散布に怒りを感じている。散布があると、いつも山刀を持って飛行機をにらみ付けている。

農園周辺の住民には、皮膚炎や吐き気、下痢、倦怠感、腎障害などを訴える者が多くいた。農薬の空中散布が始まった2013年以降、皮膚炎の患者が増えたと証言する地元病院の医師もいる。
農園の周辺に住む住民たちは、会社に土地を貸している人が多い。一律25年契約で、1ヘクタールが年1万ペソ(約2万2000円)だ。これは、首都マニラで借りるマンション一室の家賃一カ月分とほぼ同じ額。それでも、土地の住民にとっては大きな収入源になっていた。なにしろ、1食30~50ペソ、一世帯の月経費が3000ペソ以下の暮らしなのだ。
土地の賃貸契約を交わすと、家族の中から1人だけ農園で働くことができる。農園で働くほかには収入を得る道もない。
少しでも不満を訴えれば解雇されてしまうのでは。そんな不安から、体調不良があったり労働環境が悪かったりしても会社への相談を控えてしまうケースが多いという。農園労働者の中には、会社を恐れて聞き取り調査を拒む人も少なくなかった。
しかし、それとは別に、より深刻で人命にかかわる問題も起きている。それに気付いたのは、プエルト神父に紹介された、とある男性へのインタビューを通してだった。

トウモロコシ畑に囲まれた未舗装の道を行くと、小さな民家が散在する集落がある。そのうちの一軒で元農園労働者の男性から話を聞いた。ルデーン・ダグムさん(28歳)。丸刈りの顔はやつれて頬もこけていた。半ズボンからのぞく足は、木の枝のように細い。その足元で、車いすの車輪が銀色に光った。
ダグムさんがティボリ町のバナナ農園で働き始めたのは、短大を卒業した2006年ごろ。初めの5年は種子の世話係で、2011年ごろから農薬散布の仕事に回された。空中散布ではなく、地上散布だ。農薬を積んだトラックに乗って毎日農園を走り回った。
一台のトラックには運転手と農薬の空中散布担当の2人が乗る。ダグムさんは空中散布担当者で、荷台に乗って巨大な散布用スプレーを操作した。午前1時からトラックに薬品を積み込み、農園を回る。会社に支給された作業服やマスクを着込み、一日8時間、多い日は12時間働いた。
働き始めて2カ月でトラックの窓が壊れた。会社へ報告したが、修理代は出なかった。そのため、セロハンテープで補修して使い続けた。同僚とはいつも、給与支払いの遅延や職場環境の悪さについて愚痴をこぼし合った。
2015年5月、突然の高熱や頭痛に襲われ動けなくなった。町の病院で診てもらうと、そのまま入院することに。症状が改善せず、3週間を集中治療室で過ごし、個室に移動してさらに1カ月入院した。退院するころには足が動かなくなっていた。
診断の結果、代謝性脳疾患、低カリウム血症、急性甲状腺炎を患っていることが分かった。原因はウイルス性とされた。
入院する前から異常は出ていた。2013年ごろから慢性的な頭痛、悪寒、腹痛に悩まされた。
入院中、ダグムさんの母親は会社から解雇通知を受け取った。仕事中に燃料タンクを壊すなど、問題行為が度重なっていたと説明を受けたが、納得のいくものではなかった。
ダグムさんと同じ症状を訴える同僚もいた。筋肉の弱体や吐き気を感じ、農薬空中散布の従事者に義務付けられている半年ごとの血液検査では、ピンク色に変色した血液が採血された。体が衰弱していき、何人かはそのまま息を引き取ったという。
血液から農薬が検出されれば、会社の責任を追及することもできる。医師にそう助言されたが、一回の検査にかかる費用は3万ペソと高額だ。もし検出されなければ、費用は自己負担。結局、断念せざるを得なかった。
入院治療費は合計95万ペソに上った。会社が加入していた保険が適用されたが、それでも31万ペソの借金が残った。家族の生計手段は、母親が作る自家製ピーナツバターの訪問販売だけ。毎月利子を支払うだけで精いっぱいだ。
「働きたくても働けない。それが一番辛い」
そう言ってダグムさんは顔を歪める。
インタビューの時、奥さんのジェニーさんのお腹には新しい命が宿っていた。出産予定は1カ月後だという。

私が再訪する直前、スララ町の反対運動は新しい局面に差し掛かっていた。
スミフル・フィリピンの担当者がスララ町の教会を訪れ、フランク神父たちと話し合いを行なったのだ。
前述の石井教授がスミフルの日本法人に手紙を送り、問題の解決を要請。これを受けてスミフルから担当者が派遣されたのだった。
結論から言えば、話し合いは平行線に終わった。フランク神父によると、農薬空中散布の問題について、担当者の説明は次のようなものだった。
・ 農園と住宅地との間は100メートル、水源や道路との間は20メートルの間隔を空けている。
・ 衛星利用測位システム(GPS)を使用して散布区間を管理しており、時速5キロメートルの風が吹いている時および一定の気温になった時は自動的に散布を停止するようになっている。
・ 散布地ではあらかじめ散布日時を知らせるようにしている。
・ 使用している農薬の濃度は非常に低く抑えている。
・ 農薬の空中散布を行なっている地域で農薬情報など正しい知識を広める活動を行なっている。

これに対しフランク神父は、規則がきちんと守られていないと反論した。私が見た限りでも、農園と隣接する民家は100メートルと離れていない。また散布日時の事前通知も行なわれている気配はなかった。
話し合いの過程で新たに分かったこともあったという。スミフルの飛行場をティボリ町の農園内に新設しており、1月初旬にも機能を移転するということだ。
南コタバト州担当のマネジャーはたびたび問題を起こしており、最近配置替えを行なったとも担当者は話していたという。スミフル内部でも問題が起きているようだった。
フランク神父の観察では、話し合いのあと、空中散布の時間は以前よりも短くなり、飛行機の台数もやや少なくなったという。


ここまでの取材を終えた段階で、私にはまだやっていないことがあった。そして、それは必ずやらなければならない取材だった。
農薬空中散布の現場を直接見る、ということだ。
私には、この取材に対してまだ迷いがあった。対象は日本の大企業だし、農薬の空中散布自体はフィリピンの法律で禁止されていない。スララ町の問題を取り上げることに果たして意味はあるのか。取材の価値を計りかねていた。
もしかしたら、空中散布をみずからも体験することによって、自分の中で何らかの決断を下せるかもしれない。そう考えるようになっていた。
考えあぐねた末、実行に移すことにした。クリスマス直前の12月半ば、私は勤めている新聞社から早めの正月休暇をもらい、みたび、南コタバト行きの飛行機に飛び乗った。
出発の前、会社の先輩にこれまでの取材内容を伝えた。年明けに何らかの形にして記事を書きたい、その調整に手を貸してください。そう頼み込むと、先輩は二つ返事でその面倒な仕事を引き受けてくれたのだった。

スララ町から車でさらに西へ30分ほど走ると、ティボリ町に入る。町役場がある中心部はスララ町ほどではないが、市場や学校もあって人でにぎわっている。スララ町と違うのは、周囲を山で囲まれていることだ。バナナ農園はこの山の高地に集中している。スミフルのホームページによると、標高700メートル前後にある高地でバナナを栽培すると、甘みが強いコクのあるバナナに育つという。ティボリ町などで作られる高地バナナは、今やスミフルの目玉商品になっている。
町中心部にあるティボリ教区教会で、教会に勤めているディゴイ神父と会った。農薬空中散布の現場を見てみたいと打ち明けると、フランク神父はすぐさまティボリ町の教区神父であるディゴイ神父に連絡を付けてくれた。
国民の9割以上がキリスト教徒であるフィリピンでは、教会の神父が市民運動の中心となることが多い。スララ町と同じく、ティボリ町ではディゴイ神父が農薬空中散布の反対運動を先導していた。フィリピンで住民の不満を代弁するのは、すべからく聖職者だ。
ディゴイ神父はまだ30代。教会宿舎には日本のアニメキャラクターの人形が飾られている。長髪を後ろに縛り、気さくな笑顔を見せるディゴイ神父は、日本のアニメの大ファンだという。聖職者とはいえ、普通の若者だ。
ディゴイ神父とは別にもう一人、反対運動のキーパーソンといえる人物が教会で私を待っていた。サルスティアーノ・シゴンラさん。すでに還暦に近いこの初老男性は、2013年までの9年間、バナナ農園で労働者の仕事を管理するスーパーバイザーを務めていた。
これから数日間、シゴンラさんが管理していた高山地帯に入り、農薬空中散布の瞬間を待つという計画だった。
教会で準備を進め、早朝オートバイに分乗して農園があるニュードゥマンゲス村へと向かった。
ニュードゥマンゲス村は人口約4000人、ティボリ町にあるバナナ農園の21%が集中する重要な栽培拠点だ。
ほとんどの村民は、バナナ農園の仕事に従事するか、家族の中に従事者を持っている。前回聞き取り調査をした現役労働者によると、スミフルの雇用規則には「会社に不利益な内容を他人に話した場合、その従業員は訴訟の対象となる」と定められているという。素性も分からない外国人、ましてや記者が突然村内を歩けば、みな警戒して口を閉ざしてしまうのは必至だ。
しかし、シゴンラさんやディゴイ神父という強い味方がいる私は、容易に協力者を見つけることができた。
高山に張り付くように存在するニュードゥマンゲス村は、村内でさらにトリル、ロオブ、デスデンの3つの集落に分かれている。そのうち、最も低い位置にあるトリル集落の村長宅に案内された。村長の弟のニコラスさんは地上からの農園への農薬散布者だ。
ニコラスさんに話を聞いた。
「マスクや手袋、ゴム靴といった作業具一式は会社から支給される。農薬の混合はたとえば、5000リットルの水に7・5リットルの薬品を希釈させるなど、厳しく定められている。薬品を一滴でもこぼすと叱られます」
農薬の管理は厳格に行なわれている。毎日午前5時から午前10時まで、6人の農薬散布者と1人の監督役で行動する。散布者に違反があれば即座にスーパーバイザーに報告されるという。休日は毎週日曜だ。
給与は15日ごとの支払いで、平均して3500ペソほど。そこから保険料や労働組合の会員費などが引かれ、手取りはだいたい3000ペソ前後になる。月計算だと基本給は7000ペソ前後。この土地の最低賃金が月6682ペソだから、農園の賃金はややそれを上回るか同額程度だ。
「今のスーパーバイザーはもともと教会で働いていた人で、優しい人です。2010年に会社がスミフルに移ってから、給与の遅延といった問題はなくなりました。診断書を用意すれば病欠も認めてくれます」
農薬の空中散布が始まってから、村の家畜がよく死ぬようになった。皮膚病の子どもが増えたとも。
ニコラスさん自身は、かゆみ、頭痛、関節痛、せき、体力の減少といった症状がある。ただ、その他の深刻な問題は特にないという。
翌朝、ニコラスさんの仕事を見せてもらうことになった。
ニコラスさんは夜も明けないうちから作業を始める。農薬の混合液を作って会社のトラックに積み込むのだ。
先に仕事場へ向かったニコラスさんを追って、日が昇ったころに集落に隣接する農園へ向かった。農園に横付けされたトラックの荷台には幅1メートルほどのポリタンクが2基、容器の中には真っ青な色をした液体が入っている。バナナにだけ発生する病気、「シガトカ病」を防ぐための殺菌剤や駆虫剤が混ざった水である。ポリタンクには小型の発電機のような機械が取り付けられており、そこから黄色いホースが伸びていた。
白くて分厚いフード付きの作業着とゴム長靴を着用した作業員が数人、荷台の上で作業していた。作業着のズボンにはスミフルのロゴが入っている。顔をフードとマスクで覆っているので、誰がニコラスさんなのか判別が付かなかった。突然現れた謎の日本人に何を思っているのか、表情が見えないので分からない。顔が見えるのはトラックの運転手と監督役くらいだ。運転手は笑顔を見せてくれたが、女性の監督役は終始不審そうな目をこちらに向けていた。
朝方の高地は南国フィリピンとは思えないほど肌寒く、長そでが必要なほどだったが、それでも作業着は暑いのではないかと思う。
しばらくして、ホースを持った作業員2人が農園に向かった。ホースの先端に付いている細長いステンレスの射出口が、太陽の光を反射して鈍く輝いた。
2人が一番手前のバナナの木に近づくと、射出口から混合液が勢いよく噴射された。そのままどんどん農園の中に分け入っていく。歩くスピードが思ったより速い。ちゅうちょすることなくどんどん奥へと進んでいくのだ。一見するとむやみやたらと辺りにまき散らしているようだが、よく観察すると、バナナの木一本一本に正確に農薬を浴びせている。立ち止まることなく進みながら、一本も取りこぼすことなくすべての木と葉に噴出しているのだ。その精密さは、もはや職人の域だ、と思わずため息をついた。
大きなバナナの葉にたたきつけられた農薬のシャワーが霧となって拡散し、小さな虹を作っていた。

農薬空中散布の現場をみるという肝心の目的は、苦戦を強いられた。
村の人に聞くと、一つの区域では週2回の空中散布が行なわれるという。私が訪れた時、ニュードゥマンゲス村の3集落ではすでに一度散布が行なわれていた。ここから週末まで滞在すれば、必ず一度は散布の瞬間を真下から目撃できるはずだ。しかし、私が訪れた初日の朝に空中散布が実施されることはなかった。
翌朝、最も標高が高いデスデン集落に行き、小高い丘に上って飛行機を待った。目下には農園のバナナの林がはるか先まで続いている。
午前6時ごろから待つこと数時間。
ブウーン。
ハチの羽音のような低音が遠くの山から聞こえてきた。それが少しずつ近づいてくる。丘にある建設途中の小屋の屋根に上っていた教会助手のロムロが、手をかざして遠くの方を見やる。
「だめだ、隣の山だ」
悔しそうに叫んだ。私も小屋に上ってみる。豆粒のように小さな黄色いセスナ機が、バナナの林の先に消えたり現れたりしているのが見えた。この日は、谷を挟んで隣の山にある集落が空中散布の対象だったようだ。
もしかしたら後でこちらにも寄るかもしれない。わずかな期待を持って待っていたが、セスナ機は午前11時前に山の奥へと飛び去っていった。
丘を降りてデスデンの集落に入った。農園から100メートルも離れていない距離にある民家で話を聞いていると、物珍しさからか村人が集まってきた。そのうちの一人が、その場にいる数人の子どもたちを指し示して言った。
「子どもたちを見てくれ。足に皮膚炎が出ている。こんなこと前にはなかった」
小学児童くらいの男の子や女の子の膝から下には、確かに白いはんてんや、かさぶたが目立つ。皮膚が裂けて赤い肉が見える子どももいた。しかし、これが農薬の影響なのかどうかは判別できなかった。
「ここには牧師様が住んでいる。その人に会って話を聞いてみたらどうか」と別の村人が話した。デスデン集落にはプロテスタントの牧師が長年滞在しており、農薬の空中散布にも抗議しているという。
村人が教会まで呼びに行くというので待っていると、数分もたたずに一人の男性が姿を現した。大柄で丸刈り、見た目はいかついが、優しい目をしていた。名はレイ、と言うそうだ。
「外国人がきたと村人が言うものだから、何事かと思った」と戸惑いながらも、レイ牧師は集落の教会に案内してくれた。礼拝堂はないが、小さな教室のような建物がある。ここでミサを開いたり、村の子どもたちに読み書きを教えたりするのだという。
レイ牧師の家はこの講堂に隣接している。レンガでできた小さな家で、テレビもない。奥さんと小学生の息子の3人で慎ましく暮らしている。
「見せたいものがある」と言うので、オートバイでレイ牧師の後に付いていった。山道をしばらく走ると、山の間にある谷底に至る。そこには緩やかに流れる小川があり、女性たちが衣類を洗っていた。楽しそうに水浴びする子どももいる。水は透き通っていて冷たい。
「川は農園の近くを流れている。村の人はこの川の水を飲み水としても使っているが、農薬の空中散布のせいで水源に毒が混ざっているかもしれない。できれは、何かが起きる前に空中散布をやめてほしい」
レイ牧師の言葉は重い。

レイ牧師の教会に拠点を移してさらに農薬の空中散布を待った。しかし、待てど暮らせど村の農園にセスナ機が来ることはなかった。
「ここに怪しい日本人がいると、すでに会社に伝わっているのかもしれない。だから今だけ散布を止めてしまっているのだろう」とレイ牧師は話した。
農薬空中散布の予定地やスケジュールは細かく決められているはずだ。大企業の管理下で、そんな都合良く予定を変更することなど本当にできるのだろうか。ただ、地上散布の現場にいた監督役は、明らかに私を不審に思っていた。しかも、この村の住民はみな、多かれ少なかれ会社とつながりを持っている。もしかしたらレイ牧師の予想は正しいのかもしれない。
村に滞在して4日目の夕方、丘をさらに上ってみた。丘は一面、ドール社の農場になっている。どこまでも見渡す限りのパイナップル畑だ。多国籍企業が運営する農園は、どれも異常なまでに広い。画一化された人工的な農園がひたすら続く光景は、山に自生する植物が織りなす自然の風景の中で、不自然さを際立たせている。
もともと土地にあったはずの特徴や個性は、多国籍企業の進出と農園の拡大によって、消し去られてしまった。その代わりに現れたのは、無機質で無慈悲な工業的農業と、農薬空中散布という不安の象徴だった。
この土地の伝統的な暮らしは、どこに行ってしまったのか。昔からここに根付いている何かを見つけ出したくて、農園の中をひたすら歩き回った。
パイナップル農園を奥に進み、バナナ農園とのちょうど境目まできた時だ。二つの農園に挟まれるようにして、小さなトウモロコシ畑を見つけた。二つの農園と違い、きちんとは整地されていない。しかし、その光景に不思議と暖かみを感じるのだ。その瞬間、前の日に見た何気ない生活の一場面をふと思い出した。
その日の朝、私は集落のある民家の軒下を借りて農薬の空中散布を待っていた。
手持ちぶさたでふと民家の中を見ると、ニッパヤシの壁で囲った台所のかまどで、おばあさんがイモを煮ているのが見えた。燃料に使っているのは、乾燥させたトウモロコシだった。
トウモロコシはフィリピン全土で栽培される、国の主要作物だ。主食としても食べるし、燃料や家畜の餌、肥料など多くの用途で使われる。ティボリ町でもトウモロコシの収穫量はバナナの2倍以上に上る。
「昔はトウモロコシにカモーテ(サツマイモ)と、たくさん作物が採れた。だが、今は別の作物を作る場所がない」と、ある村人が話していたのを思い出す。農地を企業に貸した農家は、農園で働く以外の生計手段を失った。多国籍企業の商業用農園は、土地の人から生活の選択肢を奪い、生きていく方法を一つに制限している。
とはいえ、農園が村の人に職を生み出しているのも事実だ。2004年にバナナ農園が作られて以来、村人は必死にその環境へ順応しようとしてきた。しかし、それも我慢の限界だったに違いない。農薬空中散布が始まった時、会社への不満が爆発した。
「文句があるのは空中散布に対してだけだ」
反対運動を展開する市民団体「バトアン」のプエルト神父が言っていたこととまったく同じ心情を吐露する村人もいた。
「農薬の空中散布だけは我慢できない」と。
伝統的なコミュニティに分け入って事業を行なうのであれば、企業はそんな村人の声に真摯に向き合わなければならないのではないか。
村人の苦しい叫びを明らかにし、それに対する企業の姿勢を問う。そのためにも、スララ、ティボリで起きている問題を記事にする意義があるはず。次第に私の迷いは晴れていった。
山に入って5日が過ぎた。結局、滞在期間中に農薬の空中散布が実施されることはなかった。翌日はマニラ行きの飛行機に乗らなければならない。当初の目的を達成できないまま、私はその日の昼過ぎに山を下った。

ブウーン
ハチの羽音のような低音が腹に響いた。急斜面の崖下に広大なバナナ農園が見渡せる。四角く広がるその農園の上を、黄色いセスナ機が何度も飛び過ぎていった。農園の真上まで来ると、バナナの木すれすれまで高度を下げる。同時に、飛行機の腹部から噴出された農薬の霧が、白く糸を引きながら農園に舞い落ちていった。
マニラに帰る日の朝、やはり空中散布を見なければ帰るに帰れないと思った私は、スララ町のフランク神父に頼み込んで車を出してもらった。ここなら必ず散布するだろうと見当を付け、スララ町内の農園を見下ろせる丘陵地まで連れていってもらったのだ。
待つこと2時間、空中散布のセスナ機が山向こうから現れ、こちらに向かって飛んでくる。待望の瞬間がついに訪れたのだった。
農園の上を一直線に通り過ぎた飛行機は、旋回して再び農園の上を通過する。何度も同じ動作を繰り返し、農園全体に農薬を散布するのだ。地上では、噴水のように吹き上げられた農薬が、バナナの木を濡らしながら農園内を移動していくのが見えた。トラックからの農薬散布だ。
セスナ機は農園を過ぎると噴射口を閉め、外に農薬が漏れないようにしている。しかし、白い霧は風に乗って農園の外にも降り注いでいる。その下を、一人の農夫が農作業用の水牛と共にゆっくりと歩いていった。

山を下りた私は、すぐにでも記事を出そうと心に決めていた。自分の中で一つの結論を出すことができた、と舞い上がっていたのだ。そんな矢先、突然携帯電話のベルが鳴った。見ると、会社の先輩からのメールだ。
「記事を出せるよう上に掛け合ったが、説得しきれなかった。すまない」
頭が真っ白になった。メールを何度も読み返したが、内容が頭に入ってこない。その時、私の頭は完全に思考停止していた。


正月の東京は身にしみるような寒さだ。久しぶりの日本の冬に、うんざりする一方で懐かしさも覚えた。東京西部では前夜に大雪が降り、翌日の昼まで積雪が道路を覆った。歩道は凍った雪で滑りやすくなっていた。移動するのも一苦労だ。
国際基督教大学の元教授で、アジア農村指導者養成専門学校「アジア学院」の理事を務める日本の農薬研究の権威、田坂興亜(こうあ)氏と会ったのは、そんな冬の一日だった。防寒着を着込んで長靴を履いた田坂理事は、いかにも好々爺といった感じだ。
会社で記事を出すことができないと先輩から聞いた後、直接上司に理由を聞いた。
「日本の企業を直接批判するような内容は、めでたい正月早々の紙面では出しにくい」「農薬と住民たちの健康被害との間にある因果関係が証明できない」「空中散布は合法だから問題視することはできない」といった答えが返ってきた。
再び暗礁に乗り上げた私は、日本で有毒化学物質に関する調査を続け、多くの問題提起を行なった田坂理事に助言をもらおうと考え、メールを送った。すると、すぐに「東京で会おう」と快諾の返信が届いたのだった。

実は、スララ、ティボリ両町で聞き取り調査を終えた後、農薬散布者や労働者から聞き集めた使用農薬について、田坂理事に意見を聞いていた。
聞き取り調査などで分かった、両町のバナナ農園で使用されている農薬の種類は次のようなものだ。

・ ダコニル(空中散布、地上散布)
・ ダイセン(空中散布、地上散布)
・ チラム(地上散布)
・ トレボン(用途不明)
・ ディアジノン(用途不明)
・ バイデック(幹への直接注射)
・ ローズバン(幹への直接塗布)
など。

これに対し、田坂理事の回答は以下だった。
・ディアジノン
イネ、果樹、野菜などの害虫に対して用いられている有機リン系の殺虫剤で、住友化学以外のほとんどの日本の農薬会社が製造、販売している。急性毒性は高く、頭痛、運動機能の低下などの症状を現し、過剰に体内に入ると死に至る。

・トレボン
ピレスロイド系の殺虫剤。ピレスロイド系農薬は、いわゆる「環境ホルモン」として、胎児への影響などが懸念されている。

・ダコニル
TPNとも呼ばれる殺菌剤。急性毒性は極めて低いが、構造からみると、体の健康を様々な形で損なうことが予測される。

・ダイセン
カドミウム、カルシューム、マグネシューム、鉄などの重金属と複合した形で用いられる殺菌剤。どの金属を含むものかを特定する必要がある。日本では認可されていない。

また、農薬の成分や毒性についてまとめた『農薬毒性の事典 第3版』(植村振作・河村宏・辻万千子著)からも次のような情報が得られた。

・ チラム
チウラムとも言われる殺菌剤で、急性毒性は低い。しかし、母胎に蓄積されると奇形児が生まれる可能性があり、発がん性もあるという。ゴムの加硫剤としても使用され、ゴム工場で働いていた女性に生理不順、不妊症、子宮系疾患が現れた事例も報告されているという。人体中毒症状は、咽頭痛、咳、痰、皮膚の発疹、かゆみ、目の結膜炎、腎障害などがある。

・ バイデック
有機リン系の殺虫剤、フェンチオン(MPP)の製品名。一定量の使用で劇物になる。鳥類への急性毒性が高く、人体中毒症状は、倦怠感、頭痛、めまい、吐き気、腹痛、下痢、けいれんなど。1988年、石川県松任市(現白山市)で農薬の空中散布直後にツバメが大量死する事件が発生した。この時に散布されたのがMPPだったという。

・ ローズバン
これも有機リン系の殺虫剤、クロルピリホスの製品名で、劇物に指定されている。奇形児出産の原因ともなり、人体中毒症状はバイデックとほぼ同じ。歩行困難や肺水腫も患うという。シロアリの防除に使用されていたが、毒性が高く人体への影響も指摘されたため、アメリカではシロアリ防除剤としての使用を2005年までに段階的に中止した。日本でもクロロピリホスを添加した建築材料の使用は禁止されている。

バナナ農園で使用されている農薬について、その毒性などについてはある程度把握できた。農薬の影響として指摘されている皮膚病や吐き気といった人間に対する症状や、動物の異常大量死は、確かにスララ、ティボリの両町でも報告されている。
ティボリの山中で農薬空中散布の瞬間を待っていた時、出荷基準に満たず、廃棄されたバナナを村の飼い犬や家畜が食べているところを見た。
また、ローズバンは、ビニールテープに染み込ませたものをバナナの幹に巻きつけて使用するのだが、集落の人たちはこのビニールテープを拝借して民家の庭木にも使っている。
「アリが寄って来ないから便利」と無邪気に話すが、農薬の危険性をきちんと把握できていないのだ。農園を管理している企業がしっかりと説明するべきではないか。
しかし、そういった問題点を指摘しても、記事にすることはできなかった。どこまで取材しても、結局は農薬散布と健康被害を結びつける「科学的因果関係」の証明が難しいからだ。農薬の専門家でもない素人のいち記者には限界があった。

「ほとんどすべての農薬は神経に影響する」
田坂理事は断言する。特に有機リン剤は神経毒性が強い化合物を含んでおり、中毒を起こすとけいれん、呼吸障害、肺水腫を引き起こし、最悪の場合、死に至る。低毒性の有機リン剤もあるが、繰り返し被ばくすると慢性毒性症状が発現する。具体的には免疫の低下やホルモン異常、生理不順、そして頭痛や吐き気、めまい、下痢といった自律神経障害が発生するという。1990年代にカルト教団のオウム真理教が起こした一連の「テロ事件」に使われたサリンも、有機リン系の神経毒だ。
バナナ農園での使用が分かっている有機リン系農薬は、ディアジノン、バイデック、ローズバンの3種だが、農薬の空中散布に使われているかは不明だ。しかし、前述のようにローズバンは農園周辺の民家でも危険性を知らないままに使われている。
空中散布の問題についても、田坂理事は言及する。上空からの農薬散布は、どれだけ気を遣っても風で流れて周辺に影響をもたらす。
実は、農薬空中散布をめぐる近隣住民とのトラブルは、日本でも他人事ではない。
日本では、松が赤く枯れ周辺の木に広がっていく「松枯れ病」の原因となる「松くい虫」を防除するため、一部地域で有機リン系の農薬空中散布を行なっている。地域によっては、これが近隣住民、特に化学物質に過敏な子どもたちへの健康被害につながっているという苦情が出ている。
2008年11月、島根県出雲市で、空中散布実施後に小中高校生473人が目のかゆみなどを訴え、154人が医療機関で受診。うち一人に視野狭窄が見られ、入院に至る問題が発生した。この際に空中散布で使用されていた農薬も松くい虫防除用の有機リン剤だった。
2006年6月、度重なる住民の苦情を受け、群馬県が全国で初めて有機リン系農薬の空中散布を自粛。数少ない農薬空中散布反対運動の成功例となった。群馬県の決定に対し、国内の農薬製造業者で構成される農薬工業会は「今回の自粛要請は、安全性が確認されて登録が認められている有機リン系農薬に対して、科学的・毒性学的事実を考慮しない極めて遺憾な措置と言わざるを得ません」(=有機リン系農薬の群馬県による散布自粛要請に対する当会の見解)とする抗議文を公表した。
近年、松くい虫防除のための空中散布に使用される農薬の主流は、ネオニコチノイド系農薬へと移り始めている。問題を指摘されることが多くなった有機リン系と違い、人畜への高い安全性と効果的な殺虫能力があるとうたっており、日本でもシェアが拡大した。しかし、このネオニコチノイドにも問題はつきまとう。
2005年、岩手県で700群のミツバチが大量死しているのが報告された。死骸からは、水田のカメムシ対策として散布されていたネオニコチノイドが検出された。
ミツバチの大量死は岩手県だけでなく、全国各地で報告されている。特定非営利法人「ダイオキシン・環境ホルモン対策国民会議」によると、ミツバチの大量死は1990年ごろから世界的に発生している問題で、その直接的原因がネオニコチノイドにある可能性が高い。ミツバチの大量死は、養蜂家の生計に大きな打撃を与えているという。
しかし、こういった問題が注目されることは少ない。農薬製造業者や農水族議員、厚労省・農務省といった関係機関による「農薬ムラ」の存在が大きすぎるからだ。

農薬空中散布をきっかけに地元住民が反対運動を起こしている。それについてどう考えているのか、スミフル・フィリピンに問い合わせた。英語で返ってきた回答の一部を次に書き記してみる。
「商業用バナナにはシガトカ病対策のために農薬散布が必要で、フィリピンの農園も例外ではありません。スミフルは空中散布による消毒作業について、定められた基準を常に尊重し守っています。また、農園があるコミュニティの安全を促進し、環境を大切にしてもいます。今回指摘された問題については調査を進めます。問題を深刻に受け止め、環境とコミュニティの保護に務めることを約束します」
回答は、A4用紙一枚分と短いものだった。

田坂理事によると、農薬や化学薬品の使用に対しては、「予防原則」という考え方がある。ある薬品や新技術を使用することによって、環境に重大な影響が出る恐れがある場合、科学的因果関係が十分に証明されなくても、その技術に対して規制措置を講じなければならないという考え方だ。
スララ、ティボリで起きている健康被害に予防原則を適用するならば、その原因である可能性が高い農薬散布に対しても、何らかの規制が必要ということになる。


年末のティボリ町訪問以来、私の足は農薬空中散布の現場から遠のいていた。
年が明けた2016年はフィリピンにとって選挙の年だ。5月には正副大統領や国会議員、地方の首長らが一斉に選出される統一選が控えていた。大統領選の取材で慌ただしく、なかなか時間がつくれない。そうやって自分をだまそうとしていたが、本当のところは、農薬空中散布の取材に行き詰まりを感じていたのだ。
マニラへ戻る直前に私は、記事が出せなくなったとフランク神父に告げた。フランク神父は笑って「仕方がない」と答えたが、その目には失望の色がにじみ出ていた。その目に気付き、気後れしたところもある。ただ、教会事務員のローデスさんとは定期的に連絡を取っていた。
スミフルの担当者がフランク神父に約束した飛行場の移転は、1月を過ぎても実行されることはなかった。
建設中の新飛行場が、多国籍企業の進出に抵抗する共産党系反政府武装勢力に襲撃されたことが理由だという。
石井教授が聞いた話によると、スミフルの担当者は3月に再びフランク神父を訪れ、農薬空中散布の縮小と速やかな飛行場の移転を提案した。
それに対し、「そういうことではない」とフランク神父は返したという。「われわれが求めているのは空中散布の廃止だ」
フランク神父は精力的に反対運動を続けた。ミンダナオ島全域での農薬空中散布に反対する全体集会が開かれた時も、スララ、ティボリ両町の現状を必死で訴えた。
2013年にスララの教会へと配属されてから、3年が経とうとしていた。フランク神父は、これまでの運動を通して何度も嫌がらせを受けている。教会の壁に「この町から出て行け」と書かれた。ミサの時、献金袋に銃弾を入れられたこともあった。

統一選が近づくにつれ、ローデスさんから気になる情報が届くようになった。
スララ町の現職町長、副町長は農園の経済効果を挙げて農薬の空中散布を擁護している。これに対抗するため、フランク神父ら反対運動グループが対立候補を擁立し、正副町長選に臨むというのだ。
地方選の話題としてならば、あるいは記事にできるかもしれない。淡い期待を抱いた私は、統一選投票日の前日、5カ月ぶりにスララ町を訪れた。
久しぶりに顔を合わせたフランク神父は、心なしか少しやつれたようだった。相変わらず明るい笑顔で冗談をとばすのだが、どことなく元気がない。選挙運動による疲れのせいだろうか。
選挙運動の手応えはどうだったのか。私はフランク神父に聞いた。その答えは、予想のほか明るいものだった。
「町の人々はわれわれのことを理解してくれたと思う」
フランク神父たちが擁立した対立候補は、これまで反対運動を豊富な知識で支援してきた人権弁護士だ。選挙で勝ったあかつきには、農薬空中散布の問題に法的な手段で対抗する構えだという。
「明日はパーティーだ」
フランク神父は最後にニカリと笑った。やっと本来の陽気さが戻ってきたようだ。


長かった乾期の終わりを告げるスコールが、アスファルトの道路を激しく叩いた。
何度も通った国道を、バスは西へと走る。5月の統一選で大統領に当選したのは、ミンダナオ島最大の都市、ダバオ市の市長だった。ミンダナオから初めての大統領が誕生した瞬間だ。一方、スララ町の正副町長選では、現職の正副町長が圧倒的な勝利を収めていた。フランク神父たちが擁立した候補はことごとく敗れ去ったのだ。
フランク神父に謝りたいことがあった。選挙の後、あるつてからフランク神父が私に不信感を抱いているという話を聞いた。農薬空中散布の問題がまったく報道されないことに失望しているというのだ。
その話を聞いた私は、すぐにローデスさんに連絡を取った。そして、彼女から返ってきたメールの内容にがくぜんとした。メールにはこう書かれていた。
「フランク神父は6月末で別の場所へ移ります」
メールを受け取ったのは6月の半ばだ。慌ててローデスさんに電話し、その週の土日のフライトを予約した。とにかくフランク神父に会わなければ、と私は考えた。会って何ができるわけでもないが、とにかく自分が無力だったことを謝りたい。そう思っていた。
スララの教会で会ったフランク神父は、あきらめと失望に包まれていた。
「私は、何もすることができませんでした」そう私が言うと、フランク神父はしばらく沈黙した後、言葉を返した。
「結局、政府が動かないと何も変わらないようだ」
それが、フランク神父の出した結論だった。自分たちがどんなに抗議しても、たとえ日本の研究者や記者が動いても、結局は何も変わらなかったのだ。
わずか数分のやりとりだったが、フランク神父が笑うことは最後までなかった。
選挙で何が起きたのか。ローデスさんは「前日に突然住民が心変わりした」と話す。現職町長の所属政党が有権者に食糧や金を配ったといううわさもあるが、それを確かめる術はない。
翌日、町で何人かの町民に話を聞いてみた。町の中心部では、ほとんどの町民が現職町長に投票していた。その多くは農家ではなく、乗り物の運転手や市場の売り子といったサービス業に従事している。みな、現職町長の政策に満足しているようだった。
「町長は道路を舗装し、市場を整備してくれた。農園での農薬空中散布は問題だが、使われている農薬は安全で、被害は少ないと聞いている」と話す人もいた。
翌朝、ティボリ町にも足を運んだ。ディゴイ神父も6月末で任期を終えると聞いたからだ。
教会で出迎えてくれたディゴイ神父は、今後の自分の進路について、意外にも明るい見通しを持っていた。
「次の赴任地に行く前に1年間の休暇をもらったから、運動に専念するつもりだ。もっと農薬の空中散布について勉強しないと」
去る者もいれば残る者もいる。選択肢は違うが、フランク神父もディゴイ神父も苦しんだ末に出した結論だった。
ディゴイ神父によると、最近になって改善したこともあるという。農薬の空中散布の時間が短くなり、しかも散布予定地や日程が事前に掲示されるようになった。
「きっと住民の怒りが伝わり始めているんだ」
そう話すディゴイ神父は、まだ希望を捨てていないようだ。

擁立候補の落選が決まった直後、フランク神父は聖書の一節を布に書き写し、聖堂の壁に貼り付けた。そこに、配属されてからこの教会で過ごした3年間の思いをすべて注ぎ込んだ。
それが、『新約聖書』コリント人への第一の手紙4章12・13節だった。
この節に込めたメッセージは何だったのか。フランク神父に直接聞いたが、照れくさいのか、はぐらかされるだけだった。
日曜の夕方、聖堂ではその日最後のミサが執り行なわれていた。聖堂中央にそびえるキリスト像が、オレンジ色に染まっていた。
私は、壁に貼られた聖書の一節の意味を知りたかった。ふと知り合いに日本人牧師がいることを思い出し、電話を掛けてみた。
「彼は素晴らしい方ですね」
事情を説明すると、牧師は即座に答えた。「人には限りがあるものですが、彼は誇りと信仰を持って闘ったのです」。
コリント人への手紙は、使途パウロが内部対立や問題を抱えるコリントの教会に送った書簡だ。パウロは手紙で教会の人間に対し、信仰の下に再びまとまるよう説いている。
空中散布の反対運動に敗れたフランク神父は、スララ町で起きている問題をコリント教会の問題にたとえたのだろう。どんなに苦しくても再びまとまって立ちあがってほしい、そんな願いをメッセージに託したのかもしれない。


薄暗い土の道をトライシクルは進む。雨でぬかるんだ土の匂いが立ちこめ、タイヤが泥をはねあげた。
市民団体「バトアン」のプエルト神父に、もう一度会おうと思った。連絡を取ると、神父は会わせたい人がいると言って私をトライシクルに乗せた。そうして今、暗い道を走っているのだ。周りの景色には見覚えがあった。
やがて、トライシクルは一軒の民家の前で止まった。家から出てきた中年女性は、私のことを知っているようだ。半年前にインタビューした車いすの元農薬散布者、ルデーン・ダグムさんの母親だった。
家にダグムさんがいないことに気付いた。プエルト神父が母親と言葉を交わす。嫌な予感に体を硬直させていると、同行していたローデスさんが教えてくれた。
「5月前に歩けるようになって、今はバイクにも乗れるのだそうよ」
ローデスさんの顔がほころんだ。思わず私も喜びの声を上げた。
しばらくして、ダグムさんが家に戻ってきた。いまだに足は引きずっているが、以前よりもすこしふくよかになったようだ。
治療に掛かった31万ペソの借金は今でも残っているという。ただ、奥さんのジェニーさんは無事に出産を終え、7カ月目のかわいらしい赤ん坊を抱いていた。
「なんとか生き残った」
ダグムさんは明るい声で言い切った。

帰るころには、陽はすっかり落ちていた。トライシクルのライトに照らされる道路の一部だけが辛うじて見える。夜になって降り出した雨が、サイドカーの屋根を叩いた。農園をめぐる問題を除けば、ここはのどかな田舎町だ。そんな当たり前のことに、ようやく気が付いた。
これからどうするのか。トライシクルの中で尋ねると、プエルト神父は迷わず答えた。
「人々がまだ困っているのだ。良いことが起きるまで戦い続けるよ」
サイドカーの車内灯に照らされたプエルト神父は白い歯を見せて笑った。フィリピン人特有の陽気な笑顔だった。(了)