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第26回「週刊金曜日ルポルタージュ大賞」佳作入選作

在特会壊滅への道

 

山口祐二郎

  オープニング

 

現在、人種差別団体『在日特権を許さない市民の会』(略称 在特会)は衰退の一途を辿っている。

在特会の桜井誠は会長職を退任し在特会を引退。桜井誠をいつも護衛し、関西で差別活動をおこなう中心団体であった『純心同盟』は解散した。

今は副会長だった八木康洋が在特会会長に就任しているが、差別デモの参加者は激減していき、目立った活動はないし、全く勢いはない。在特会への政府、警察、検察、裁判所の対応は変わり、まだまだ甘いが徐々に厳しいものになっていったのだ。

在特会がおこなうヘイトスピーチ(差別扇動表現)は、社会問題として広く世間に知られるようになり、国会ではヘイトスピーチを対策する法規制まで議論されている。

ヘイトスピーチとは広義では、人種、宗教、性的思考、性別、などの、生まれついて変えることのできない、また変えることの非常に困難な属性、社会的弱者のマイノリティーを偏見、差別する表現行為である。

ニコニコ動画、生放送を運営する株式会社『KADOKAWAD・DOWANGO(角川ドワンゴ)』は、在特会公式チャンネルを閉鎖。法務省はヘイトスピーチの防止を啓発するポスターを作成し、中央省庁や出先機関、自治体などに配布し啓発活動をするまでになった。

そのような状況になったのは、在特会に対し、今まで多くの方々がカウンターと呼ばれる抗議活動をしてきた成果もある。だが、在特会が求心力を失った背景には、私が会長をしている『憂国我道会』の活動が結果的に大きく関わることになった。この文章ではそれを書きたいと思う。

まず、在特会について知らない人がいるかもしれない。在特会がどんな集団だかを最低限の説明をしよう。

在特会は二○○六年に生まれた。会員は一万五千人以上、日本最大の市民団体といわれている。

しかし、実際にはそんな大勢の会員を見たことがなかった。それは、在特会の会員にはネット会員というカテゴリーがあり、登録用の申し込みフォームに書き込むだけで入会できるからだ。名前は仮名でOK、電話番号も記す必要はない。

在特会の活動理念は実にシンプルだ。団体名の通り、日本で暮らす在日朝鮮人には特権があるとして、在日特権を許さないという一点に尽きるといってもいい。

ちょっと調べれば分かることなのだが、在日特権などはない。しかし、在日特権があるというデマが、日本には都市伝説のように広がってしまっている。ネットを見たりすると在日特権があるように書いてあるので、ひょっとしたらあるのかなとデマ情報を鵜呑みにしてしまう人が多いだろう。実際に調べるまでいかない人が、大半だからだ。

そして在日特権なる嘘のせいで、日本国民による在日朝鮮人への憎悪がモロに出てしまっている。昨今の嫌韓本などはまさにその象徴だ。私はそれを危惧している。

実際に、拉致問題や竹島問題などを理由に、在日朝鮮人を嫌いになってしまう人間が多く見てきた。その嫌悪感を抱いている層の受け皿が、在特会をはじめとする人種差別団体になっていたりする。政府と民は関係ないのにである。政府と民を、一括りにして差別をするのだ。

ネット右翼といわれる2ちゃんねるなどのネット掲示板で、「チョン死ね」などと、過激な排他発言を行なう層が、リアルな世界に出てきて街頭で活動するようになった感じだろう。

在特会は自ら愛国者と称し、日の丸の旗を掲げている。しかし、在特会の運動は、社会的弱者(マイノリティー)の在日朝鮮人を差別する運動というのが真相である。

そんな運動体になぜ多くの人が集まったのか。活動は差別で良くないことだが、在特会は運動体としてはかなり優れたものであった。

在特会には既存の多くの右翼、左翼団体と違い、活動の参加数などノルマがない。うるさい決まりもないし、会員でも会費も取られない。もちろん、破門や除名もない。このシステムはとても良くできている。

また、大抵、右翼、左翼団体というのは団体の所属のかけ持ちは禁止である。しかし、在特会はかけ持ちはOKだ。そして、在特会のような似た団体が数多くある。
気楽に団体に入り、活動に参加して仲間ができる。そして活動に慣れてきたら、自分でも団体を立ち上げてリーダーになれるのだ。

みんながかけ持ちなので、すぐに入会してくれる。リーダーになって活動を主催しても、色々な団体に所属しているので仲間は多く、参加者に困ることはない。人種差別をする仲間たちで、いかなるときでも協力し合えるようになっている。みんなに光が当たり、リーダーだけ目立つようなこともないのだ。

そして、しばしば合同で大々的な活動やるのだ。実際には、ほとんどのメンバーがいくつかの団体をかけ持ちしている。それでも、デモは最盛期で五○○人程の参加者がいて、既存の右翼活動なんて比べ物にならない動員力が在特会にはあった。

今は壊滅状態で、ほとんどのデモで五○人も集まっていないと思う。

 

自己紹介と憂国我道会

 

私は二○○七年に、『統一戦線義勇軍』という団体に入り、右翼活動を始めた。それはどうしようもない理由からだった。

大学を中退し、仕事に就いても続かない。私は自分の生きる道を追い求め、飯を食える手段を探した末にヤクザか右翼のどちらかになろうと考えた。アウトローになって金持ちでモテモテになりたかったのだ。

けれども、入会をすると計算違いが起きた。飯を食うために右翼になったのに、活動をしても一銭にもならないのだ。むしろ、交通費などでマイナスになった。全然モテモテにもならない。

それでも私は団体をやめなかった。なぜかというと右翼活動が、私の中で金やモテモテ以上の生き甲斐になったからだ。

だが、いくら活動しても結果は出なかった。駅前で街頭演説をしても誰も聞いていないし、大使館に抗議をしても大した効果を感じられなかった。

私は絶望をし、テロを実行することを決意した。時の政権である第一次安倍内閣の下、アメリカの傭兵化が進む防衛省に火炎瓶と短刀を持って侵入し、火炎瓶を投擲し炎上させ逮捕をされた。全国ニュースで犯罪者として名前が報道された。

裁判では、右翼の事件にありがちな金絡みの背後関係などなかったのもあり、実刑判決ではなく、奇跡的に執行猶予付きの判決となり四ヶ月程度で出所できたのだ。

出所したら右翼業界で私は英雄扱いをされた。世の中は何も変わっていないのに、事件を起こしたことを褒められた。私は急に馬鹿らしくなって活動の情熱が冷めた。

自分のために生きよう。右翼団体から離れ、金とモテモテを求め歌舞伎町のホストになった。

ホストの世界で、私は結婚詐欺のようなありとあらゆる非道な手段をおこなった。しかし、同棲していた女性客を自殺未遂までさせた時に、こんなことをしていたら駄目だと気付いた。ホストをやめ、ヒモになったのだ。

ヒモになると暇なので、他にやることもなく右翼活動をまたやりたくなった。私は、統一戦線義勇軍に戻る。でも、昔のような情熱はなく、だらだらヒモ生活をしつつ時々活動をする程度だった。

自堕落な暮らしをしていたが、二○一一年の東日本大震災によって起きた原発事故に衝撃を受け、私は右翼活動を再び活発にするようになる。

脱原発運動に力を入れ、東電会長宅前で断食断水のハンガーストライキなどをした。結局、私は統一戦線義勇軍の中で勝手な行動をしまくり、迷惑をかけたケジメとして二○一二年二月に脱退をした。

私は、その翌月の二○一二年三月に『我道会』という団体を立ち上げた。この我道会が、後の憂国我道会である。

初期の我道会は、人数も少なく活動もあまりしていなかった。だが、私が二○一三年二月からカウンターを始めてから仲間が増えて、今までと違い精力的に活動していくことになった。

それから我道会は在特会に加担する既存右翼団体にカウンターをかけたりするなど、今までになかった独自の活動をしていく。そのうち、どうせリニューアルした訳だし、メンバーとの話し合いで我道会という団体名も変更しようという話になった。

こうして、我道会は憂国我道会という団体名に変わったのだ。憂国というと、右翼団体丸出しの団体名だろう。しかしながら、憂国我道会には右翼も左翼もいる。このことは本当によく批判される。

そう、右翼であれば左翼からは批判される。左翼であれば右翼から批判される。憂国我道会は右翼も左翼もいるから、右翼からも左翼からも批判されるのだ。おまけに、中道(リベラル)からしても意味が分からないと批判される。

けれども、私は批判されても気にしていない。そして矛盾もしていないとはっきり言える。なぜならば私は、憂国我道会は右翼団体ではなく、民族派団体だと思っているからだ。

色々な民族を尊重することは、真剣に世の中を、国を、人を想っているならば右翼も左翼も共通する。憂国我道会は、右翼民族派と左翼民族派が共に活動している、民族派集団なのだ。

けれども、私が右翼だからか憂国我道会は右翼団体に見られがちである。それが在特会には不都合だったらしい。どうしても在特会は自分らに敵対する勢力は左翼にしたかったからだ。愛国者を自称する在特会などの差別主義者を叱る右翼という構図のカウンターは、確実にダメージを与えていったのだ。

 

 

在特会との対立以前

 

私は最初から在特会と対立していたわけではない。世の中を良くしようとしている右翼だったら、在特会みたいな人種差別団体を許せないのは当たり前だ。だが、私は在特会の存在を二○○七年から知っていたのにも関わらず、二○一三年まで実際に在特会を止めようと動けなかった。ここでは、私がカウンターに至る前の在特会との関係を書きたい。

私が右翼活動を始めた二○○七年頃から、他の右翼団体とは異なる集団が目に付くようになった。右翼と同じく日の丸を掲げてはいるのだが、人種差別をする集団が出てきたのだ。

「朝鮮人は出て行け!」

そんなコールを叫ぶ差別デモをおこなう人種差別団体が在特会だった。在特会といえば、二○一四年一○月二○日。元会長(当時会長)の桜井誠が、大阪の橋下市長(当時)と意見交換会をして喧嘩になり話題になったことが記憶に新しいだろう。

在特会は、アナログな既存右翼と違い、ネットを大いに活用した。活動の模様を撮影し、動画をネットに流す。ニコニコ生放送で生中継、そして後からユーチューブで動画をアップする。この活動時のネットの作業に尋常じゃないくらい力を入れていた。

何の活動をしているか分からない既存右翼とは違い、在特会の活動はネット上で拡散され周知されていく。ヘイトスピーチをおこなう在特会の活動動画はどれも再生回数が多い。それは、ネット上にはネット右翼といわれる、在日朝鮮人を差別する一定の層がいるからである。

在特会の活動の参加者は瞬く間に増大し、動員数は既存右翼団体よりも多くなっていった。在特会の躍進とは別で、既存右翼は存在感を失っていく。日本の愛国者は、在日朝鮮人に向けてヘイトスピーチをする、排外主義の考えを持つ集団と誤解されていくようになる。私は既存右翼団体にいて、勢いのある在特会に嫉妬するようになっていた。

既存右翼の活動が下火な中で、私の右翼の先輩や仲間たちも在特会の活動に参加するようになった。

「在特会には可能性がある」

そう言われ、私なども在特会の活動に誘われた。当然、私は在特会に批判的だったし、いつも断っていた。

私は在特会を批判していたが、同じ日の丸を掲げている者同士なので敵対しようとまでは思わなかったし、在特会側も同様で私のことを一目置いてくれていた。

実際にカウンターに至るまでは、私の批判とは裏腹に在特会はどんどん酷い活動をするようになっていく。

在特会が最初に大きな問題になったのは二○○九年だった。旅券を偽造していたとして、最高裁は長く日本に暮らしていたフィリピン人一家、埼玉県に住むカルデロン一家の両親に帰国を命じた出来事から始まる。強制退去を言い渡された両親は、中学生の子供一人を残して帰国しなければいけなくなってしまったのだ。

在特会は、このカルデロン一家の娘の中学生が住む街で一〇〇人程でデモをし、自宅前や在籍している中学校まで押しかけたのである。両親と違い、中学生の子供には帰国をしなくて良い立場なのにである。

「カルデロン一家は犯罪者! ゴミはゴミ箱へ!」

そんなコールをトラメガで叫ぶ。デモ隊には「カルデロン不要」などというプラカードまで掲げる者までいた。

さらには、二○○九年の一二月、在特会会員などを中心とした『チーム関西』が、起こした京都朝鮮学校襲撃事件だろう。

平日昼間。チーム関西は拡声器で京都朝鮮学校の前で抗議街宣をした。

「朝鮮人はウンコでも食っとけ!」

「スパイの子やんけ!」

抗議理由は、近くの勧進橋児童公園のグラウンドの使用に関する件であったのに、全く関係ないヘイトスピーチを抗議で使う。

子どもたちは約一時間、ヘイトスピーチの嵐に耐えるしかなかった。一時間、朝鮮学校の子どもたちはヘイトスピーチを浴びせられた。

結果的にはその後、朝鮮学校側にチーム関西は刑事告訴をされ、メンバー四人が威力業務妨害罪の容疑で逮捕をされた。裁判でも四名には有罪判決が下された。

しかし、在特会はこの事件後にも勢力を伸ばしていく。全国で会員は増加し、名前も京都朝鮮学校事件で売れ、何か活動をやる度に注目が集まる。

在特会はその後も差別主義を前面に押し出し、ヘイトスピーチをして運動を先鋭化させていき、デモに三○○~五○○人も集まるようになる。

そんな状態になってしまったのは、まず、今までの右翼の責任があるだろう。既存の右翼活動が盛り上がらずに衰退していたからこそ、在特会のような人種差別主義グループが台頭した。

在特会に対し、既存右翼はどのような態度を取ってきたか。私もそうであったが既存右翼は在特会ときちんと向き合ってこなかったのだ。実際に、既存右翼は在特会を放置してきた。

既存右翼は在特会を評価するか、そうでなくても口では批判するだけだった。表向き在特会をけしからん集団だと批判をしても、実際には現場で対峙をし差別行為を止めようと動かなかった。

既存右翼から在特会に流れる仲間も多かったので、そういった人間を既存右翼のお偉い方や私が呼び出して飲み会で説教することはよくあった。だが、そもそもが既存右翼に批判的な在特会だ。既存右翼に疑問を感じたからこそ、在特会に移行したのである。失望しリスペクトしていない既存右翼の話を聞くはずもない。それでも対立はしない曖昧な関係を既存右翼と在特会は続けていた。

 

 

カウンター始動

 

このまま私は何もしないでいたら駄目だ。自分自身に我慢ができなくなり、やっと答えを出した。私は、二○一三年二月から『レイシストをしばき隊(二○一三年九月に解散)』に参加をし、在特会と対峙をするようになる。カウンターと呼ばれる抗議活動をするようになったのだ。カウンターをするまで、実に在特会の存在を知ってから約五年間も経過していた。本当に私は情けない男だ。

まずは、私もメンバーだったレイシストをしばき隊について書こう。二○一二年から在特会はヘイトスピーチを撒き散らすデモを、新大久保で頻繁に開催するようになる。

「朝鮮婆ブスブスブス!」

「朝鮮人は嫌いですか! ウジ虫! ゴキブリ! 朝鮮人!」

こんなコールがついには出るようになった。そのような差別デモに驚くことに、毎回二〇〇~三〇〇人が集まっていたのだ。

新大久保でデモをする理由は、コリアンタウンがあり、多くの在日朝鮮人がいるからだった。デモ後には、コリアンタウンの細路地に入り、「お散歩」と称する商店街への嫌がらせ行為をするようになる。

「朝鮮人を皆殺しにしろ!」

こんなことを韓国人店員に言いながら、唾を吐いたり、看板を蹴っ飛ばしたりするのだ。

二○一三年二月、新大久保のコリアンタウンに嫌がらせをする在特会にカウンターをする集団が現れた。レイシストをしばき隊だ。この頃はまだ、レイシストをしばき隊は在特会のデモにはカウンターをせず、お散歩を阻止するためだけに動いていた。

レイシストをしばき隊はコリアンタウンを警備し、在特会の侵入をブロックする。そうして、商店街への嫌がらせを防いだのだ。

やがて新大久保には、レイシストをしばき隊の他にも、さまざまな人たちが現れてカウンターをするようになる。レイシストをしばき隊は、多様なカウンターのきっかけになったのだ。

二○一三年三月。お散歩はできなくさせたレイシストをしばき隊は、在特会のデモにカウンターをするようになる。差別デモに対しプラカードを掲げたり、横を並走しトラメガで抗議をしたりするのだ。

最初はカウンターの人数は少なかったが、徐々に増えていった。みんながツイッターを中心としてネット上でカウンターを呼びかけ、それに共鳴した人が新大久保の街にやって来てカウンターをする。差別デモがある度に、新大久保はケンカ祭りのようになる。

そして、二○一三年六月一六日。カウンター側四名、差別デモ隊側四名の大逮捕劇が起こった。暴行罪や公務執行妨害罪などである。報道でもデカデカと出る。こうなれば、もはや抗争。新大久保の街は騒乱状態だ。

ここまでなってしまったのは、ヘイトスピーチを垂れ流す差別デモを法律で規制できないことに原因があるだろう。もちろん法律を破るのはあまり良くないことだ。しかし、許せない差別デモが合法的におこなわれている場合、どうやって止めればいいのだろうか。カウンターの逮捕者は、身体を懸けるしかなかったのである。

現行法では、差別デモを取り締まることはできない。ヘイトスピーチを取り締まる法律は日本にはない。憲法で保障されている表現の自由の名のもとに、申請されたら許可を出さざるを得ない。だが、これに対しておかしいとカウンターは諦めずに交渉した。

だが結局、在特会の差別デモは申請が通ってしまい無くならなかった。私はカウンターの限界を感じてきていた。

 

 

男組

 

私はカウンターを始めてからお世話になった右翼の先輩方との関係も気まずいものとなっていた。説教されたり愛想を尽かされたりして精神的にも参っていた。在特会を許せなかったが、カウンターには限界を感じ先が見えないで長期化しそうなので、やめようかと迷っていたこともあった。

けれども、どうしてカウンターを続けたかといえば、後に武闘派反差別ヒール集団『男組(二○一五年三月に解散)』の組長となる高橋直輝氏との出逢いがあったからだ。高橋氏の本名は添田敦啓。高橋直輝という名前は、活動名のようなものだ。

高橋氏との出逢いは、二○一三年五月一二日だった。私は川崎で開催された差別デモにカウンターをしていた。

その現場に、どう見ても暴力団にしか思えない大柄なサングラスをかけた男がいた。差別デモ隊に突っ込んで警察に止められている。激しすぎるカウンターだ。明らかに他のカウンター参加者とは異色であった。

その男をどこかで見たようなことがある気がしていた。すると、私の顔を見て近寄ってくる。本能が警戒した。一体、何者なんだ。

「山口君ですか? はじめまして高橋です」

手を差し出され、握手を求められた。私は反射的に両手で握手をした。

名前を聞いて誰だかを気付いた。高橋。最近まで、カウンター側と揉めていた人物であった。そう、その人物が後にカウンターの中心人物となるのだ。

なぜ高橋氏とカウンターが喧嘩していたかというと、元々、高橋氏はツイッターでヘイトスピーチをしていたし、在特会のデモに参加していたからだ。私は差別デモ隊にどう見ても暴力団の高橋氏がいるのが気になっていた。そう、高橋氏と私は差別デモ隊側とカウンター側として、最初は対峙をしていたのだ。

なぜ、差別デモに参加していた男が、真逆の立場になって激しいカウンターをしているのだろう。とても驚いたが、私も後ろめたいことが過去に沢山ある人間だし気にしないでいた。

高橋氏とはそれから新大久保を始めとする、カウンター現場で何度も会うようになる。高橋氏はいつもど迫力のカウンターをおこなっていた。最初は本気でカウンター側になったのか半信半疑だったが、その姿を見て遊び半分でカウンターをしているのではないのが分かった。

カウンター後は、高橋氏としょっちゅう一緒に飲みに行くようになった。酔っていてあまり覚えていないが気付いたら意気投合をしていた。高橋氏は服を脱ぐと全身刺青まみれだった。佇まいが完全に暴力団だったから気付いていたが、過去は聞かなくても想像できた。

男組始動前は、高橋氏はカウンターの際には刺青を隠していた。それはなぜかというと、他のカウンター参加者に迷惑をかけないようにという配慮だった。カウンターが暴力団などならず者の集まりだと思われないように気にしていたのだ。

私はレイシストをしばき隊のメンバーだったが、高橋氏といつの間にかカウンターで一緒にいる時間が多くなっていた。正直、こんなヤバイ男と一緒にカウンターしていて大丈夫かなと不安だった。

しかし、私も恥ずかしながら前科者だし、女を騙して喰い物にしてきたりなど悪いことばかりやってきた人間だ。今更、真面目ぶれることなどできないクズである。

だから私は、クリーンぶらず、ガラ悪くカウンターをしてなんぼだと思っていた。それが私の役目だと思っていた。高橋氏といると私が本来望んでいたカウンターをできたし、居心地が良かったのだ。

私がどんなにクズでも、目の前にある差別を止めるのは悪いことだろうか。そうじゃないはずだ。そういう気持ちで、高橋氏と共にカウンターをした。

やがて私は高橋氏と接していて、本当に尊敬するようになっていた。私は高橋氏を慕い、いつからか担ぎたいと思うようになっていた。お世辞じゃなく、高橋氏はそれだけの人望とカウンターとしての存在感があった。

常日頃から高橋氏がトップのグループを作って欲しいと思っていた。だが、それは高橋氏が決めることだ。

だが、ある飲み会で私は酔っていてよく覚えてないのだが、

「団体作ってくださいよ」

と言っていたらしい。それが男組の始まりだったのだと、後に高橋氏から聞いた。まあ、私じゃなくてもそのうち誰かが言っていただろう。

男組のメンバーを募集するとそれなりに多くの人間が集まった。高橋氏の人望だった。

二○一五年六月二九日。この日のカウンターが、男組として一番最初の行動だった。新大久保で開催された差別デモにカウンターをかけたのだ。それも差別デモの集合場所の大久保公園からである。

この時の動画はユーチューブにもアップされている。この日から高橋氏は、刺青を隠さなくなった。他のメンバーもガラ悪い連中ばかりだった。

差別デモの集合場所の大久保公園で、差別主義者を叱りまくるガラの悪い男組。慌てて静止する警察。その光景を写した動画は、あまりにもインパクトがあったのと、ネット上で驚異的に多い再生数となり爆発的に拡散された。カウンターは不良の集まりだと、差別主義者が広げたのだろう。どう見ても第三者から見れば、差別主義者より男組の方が悪そうだ。しかし、それは男組の想定内だった。

そう、男組は凶悪な外見を前面にアピールした。刺青を見せるのをはじめ、徹底的にガラの悪いカウンターをする反差別ヒール集団だったのだ。

 

 

男組の超圧力と相次ぐ逮捕劇

 

批判は当然に凄かった。これじゃただのチンピラではないかと。例えば、反差別運動に悪いイメージが付く、在日朝鮮人の気持ちを分かっていない、自己満足にすぎない、などの批判の声があった。

でも、それで良かったのだ。男組は、あえて悪人のレッテルを引き受けることで、汚名を着せられながらも、差別主義者に超圧力をかけた。差別主義者は気になって仕方がなかったはずだし、攻撃の矛先がこちらを向いた。

私はカウンターの限界を感じていたが、男組ならその壁を越えられると思った。そこまでやるのか、という批判は沢山きた。しかし、男組は「非暴力超圧力」を掲げているし、これも予想の範囲であり、さして気にもしなかった。

そうして男組は、カウンターのヒール集団として数々の逮捕劇を起こし新聞沙汰になっていく。共倒れのように、差別主義者にあらゆる手段でダメージを与えてきた。

最初の逮捕は、二○一三年九月二九日。警視庁新宿署に、高橋氏と男組メンバーの木本拓史氏の二名が逮捕された。二○一三年七月八日に、新大久保で開催された差別デモへのカウンターで、在特会側への暴行容疑だった。二人共、四八時間拘留で釈放。この事件は全国報道で流され、完全に男組は一躍、在特会側の恐怖の対象となった。

次に、一一月一八日。今度は警視庁麹町署に、高橋氏と木本が逮捕をされる。二○一三年一一月一日、この日は在特会主催の抗議街宣へのカウンターで、国会議事堂駅内で在特会側への傷害容疑だった。しかし、この時は在特会側も傷害容疑で逮捕をされた。相打ちである。

この件では高橋氏と木本氏は二十日拘留後に起訴。本裁判となり二○一三年二月に判決で、懲役一○ヶ月、執行猶予三年の刑が言い渡された。

おまけに二○一四年一月一九日。警視庁麻布署に、男組メンバー手塚空氏が在特会側の差別デモ隊に自転車で突っ込み暴行容疑で現行犯逮捕。後に不起訴で釈放。実は手塚氏は寸前で自転車を停止させていたのだ。非暴力超圧力という男組のポリシーをしっかり守っていたのだ。在特会側への暴行の事実はなく、不起訴で釈放された。

さらには、二○一四年五月二五日。埼玉県警の川口署に、男組メンバー、松本英一氏が逮捕をされた。同日に開催された在特会側への暴行容疑だった。この件では、在特会側も暴行容疑で逮捕されている。松本氏が在特会側に顔面骨折をさせた疑い、在特会側が松本氏の腕に擦り傷を負わせた疑いだった。二人共、その後は傷害容疑に切り替えての捜査となった。

後に、在特会側は一○日拘留からの処分保留で釈放。松本は二○日拘留からの処分保留の釈放。埼玉県警の対応には疑問を持つ逮捕案件だった。

そしてこれが一番大事件だったのだが、二○一四年七月一六日。大阪府警に、高橋氏をはじめとする男組メンバーら八名が逮捕された。容疑は、二○一三年一○月に差別デモに参加しようとした在特会側の男性を、集団で取り囲み暴行しようとした「暴力行為等処罰に関する法律」、略して暴処法の疑いだ。

暴処法なんて法律は、一般的にまず見ない。警察が、極左過激派などを弾圧する時にたまに用いる法律だ。長年、社会運動をしてきた私も、まさか男組が暴処法で逮捕されるとは思わなかった。どこか、弾圧の雰囲気を感じた。

気がかりだったのは、高橋氏と木本氏が執行猶予中だったことだ。完全に実刑になって数年は刑務所に行くだろうと思っていた。何としてでも起訴を免れなくてはいけなかった。

ありがたいことに、男組はヒールだと思っていたのにも関わらず、八名の釈放願の署名を呼びかけると、みるみるうちに多くの署名が集まったのだ。その結果もあり、幸いなことに二○日拘留付かずに八名全員釈放された。

最後に二○一四年九月二三日。警視庁麻布署に、男組メンバー一名が公務執行妨害罪の容疑で現行犯逮捕。四八時間拘留で釈放された。

私は正直、これだけ逮捕者を出す男組にいて、相次ぐ逮捕に疑問を抱いたこともある。けれども、男組が逮捕される度に全国ニュースとなり、多くの人々に在特会とカウンターの争いが世間に知れ渡った。

男組はどんなにガラが悪くても、差別反対という大義があった。社会問題化した際に、人種差別団体の在特会の方を問題視していくのは必然だったのだろう。

これだけ逮捕をされれば在特会とカウンターの争いをメディアも無視できなくなっていた。今まで見て見ぬ振りをしていたメディアも頻繁に在特会がおこなうヘイトスピーチを取り上げる。その影響もあり、クリーンなイメージでカウンターをする人たちは増加していった。多くの議員や著名人も反対するようになっていく。

警察も検察も、しょっちゅう在特会とカウンターがバチバチ争って事件になっていたらやっていられないはずだ。国会ではヘイトスピーチの問題が盛んに議論されて法規制まで検討されるようになる。

男組のメンバーが身体を懸けて逮捕をされたのは確実に結果を出していった。暴力は決して賛美はしないが、能書きばかり垂れてずる賢くカウンターをしていた自分が恥ずかしくなった。

 

 

ヘイトスピーチ規制法

 

ここで、ヘイトスピーチ規制法の話をしたい。ていた。

現在、ヘイトスピーチを取り締まる法律は日本にはない。憲法で保障されている表現の自由の名のもとに、ヘイトスピーチを撒き散らす差別デモだろうが申請されたら許可を出さざるを得ない。

日本は一九九五年に、「あらゆる形態の人種差別の撤廃に関する国際条約(人種差別撤廃条約)」に加入している。この第四条において、あらゆる差別唱道を犯罪として禁止している。つまりヘイトスピーチを犯罪と禁止している。しかし、日本は第四条において、留保という立場を取っている。日本国憲法で保障されている表現の自由があるからだ。

なので、ヘイトスピーチは現行法では取り締まれない。だが、これが二○一四年に下された京都朝鮮学校襲撃事件の民事訴訟の判例によって変化したのだ。

京都朝鮮学校側が起こした民亊裁判の一審では、とても厳しい一二二五万円の賠償支払いの判決が在特会側に出たのだ。さらには、抗議の枠を超えたヘイトスピーチだと認定される。人種差別撤廃条約に照らし違法と断じた初の判例になった。

高裁でも、大阪高裁は一審判決を支持し、在特会側の控訴を棄却した。最高裁でも裁判官五人全員一致の意見で、在特会側の控訴を棄却。在特会らが朝鮮学校の子供におこなったヘイトスピーチを、司法が明確に許されない差別行為だと認め、違法だと判断したのだ。

在特会側の言動は、ヘイトスピーチだと認定され、人種差別撤廃条約が禁止する人種差別で違法だとしたのだ。そして、賠償金は通常の不法行為よりも高額になったのだ。日本は人種差別撤廃条約の四条では留保という立場を取りつつも、初めて裁判の判決で人種差別撤廃条約が適用されたのだ。つまり、現行法でもヘイトスピーチに対し法的制裁を与えられるということが証明されたのだ。

しかし、民事訴訟を起こすのは弁護士代などお金もかかるし、手間も時間もかかるので大変なことである。住所も晒さなくてはいけない。マイノリティーからすればリスクがでかすぎるのだ。やはり、そこで民事でなく刑事で対応できる、ヘイトスピーチ規制法を求める声が多くあった。

社会問題となり、ヘイトスピーチ規制法が国会をはじめ、リアルに議論されるようになってきた。実際に、ヨーロッパなどでは法規制している国が数多くあるので、日本でそうなっても全然おかしくないのである。法規制するにしても、表現の自由を考慮したうえで慎重にやっていかなければならない。民族差別を規制する文言を作ることはさほど難しいことではないかもしれないが、差別問題には宗教のことも含まれることを考えれば大変なことかもしれないと思う。

LGBTS(セクシャルマイノリティー)への差別については、私は日本は先進国なのにかなり遅れていると思う。ドンドン進めていかなければならないだろう。二○一五年四月には、東京都渋谷区で同姓パートナーシップ条例が可決された。同性婚も法で認めていくべきだろう。セクシャルマイノリティーへの差別は、厳しく取り締まるべきだ。

だが、宗教を含めると難しい。日本は、他の国と違ってさまざまな宗教を信奉する人がいる。なので、法的に規制をするとしたら、宗教批判でさえ許されなくなってしまう状況を作らないようにしなくてはならない。私はヘイトスピーチ規制法賛成派なのだが、カウンターの中でも、賛成派と反対派で分かれている。

日本は、ヘイトスピーチ規制法ができる流れに確実になっている。カウンターが生み出したヘイトスピーチ規制法の流れを、決して悪いものにならないように監視していかなくてはならない。いくらでも利用としようとする悪い政治家は出てくるはずだからだ。

日本社会に合うヘイトスピーチ規制法にしなくてはならない。

 

 

八・一五事件に至るまで

 

私は、カウンターが有利になってきたと感じていた。そんな時に事件は起こった。二○一四年八月一五日。日本が敗戦した日。憂国我道会は私を含めて六名で、東京都千代田区九段下にある靖国神社にいた。

この日、八月一五日は、全国から右翼が靖国神社に集まり参拝に来るのが恒例である。俺も仲間たちといつも通り、祀られている霊に哀悼の意を捧げるために、朝に集合した。

しかしながら、毎年とは様子が違った。憂国我道会の周りには警察がぴったりと張り付いていた。それはなぜかというと、在特会のせいである。在特会の当時会長であった桜井誠が、ツイッターとブログに「しばき隊・男組・朝日新聞関係者は見つけ次第、叩き出すこと」と書いたことが理由だ。

つまり、これは私のことだ。しばき隊で男組で朝日新聞系列のハフィントンポストに取材を受けたことがある。私以外いない。そう、書き込みを見る限り、桜井誠率いる在特会は八月一五日、靖国神社から私を叩き出そうと計画していたのだろう。そのせいで、憂国我道会と在特会が喧嘩しないように警備が厳重になったというわけだ。

けれども午前中は、在特会が憂国我道会を靖国神社正門前で待ち構えているなどはなかった。特にトラブルはなく、憂国我道会は昇殿参拝を終えた。

憂国我道会は水道橋に向かう。なぜ水道橋に向かうというと、夕方に反天皇制運動連絡会(反天連)のデモがあるからだ。その反天連の集会場所が水道橋のとある会場だったのだ。

八月一五日に靖国神社で、反天連のデモと遭遇したことがある方なら分かると思うが、毎年まるで右翼と左翼によるケンカ祭り騒ぎである。

憂国我道会が反天連の集会場所に近付こうとするも、当然なのだが警察に阻まれてしまった。仕方なく、憂国我道会は水道橋を出て、いつもデモが通る靖国神社近くの九段下交差点付近を目指して歩いていた。憂国我道会は反天連デモにカウンターをするつもりだった。

憂国我道会は一○名程で反天連デモにカウンターをする場所を探して、九段下交差点付近に近付く。だが、急に警察がピリピリし出す。そう、九段下交差点の手前のガード下で在特会が街宣をしていたのだ。

在特会が街宣をしている場所を通り過ぎようとした。すると、桜井誠が私に絡んできた。

「山口! 反天連の骸骨人形を持っているのはお前の仲間か!」

全くそんな人間は私の仲間ではないのにである。これをきっかけに、憂国我道会と在特会は言い合いになる。

「朝鮮人! 山口死ね! 韓国人を叩き殺せ!」

在特会は聞くに堪えないヘイトスピーチをする。

「ゴミ! 差別主義者! 差別をやめろ! 靖国神社には朝鮮人の英霊も眠っているんだ!」

さすがに頭にきてしまった。靖国神社には朝鮮民族や台湾民族の霊も眠っている。そう、大日本帝国の時代に植民地だったため、日本人として戦争で闘ったのだ。靖国神社でヘイトスピーチをするとは、私にとっては腹立たしくて仕方がない。

結局、憂国我道会と在特会は罵倒し合い揉みくちゃになりながら、大量の警察に引き離されて争いは終わった。

警察に引き離され、遠くでは在特会がヘイトスピーチ街宣をする。この光景を見たら、靖国神社に祀られている霊は何を想うだろうか。

私はその後、焦燥感に駆られつつも反天連デモにカウンターをし、デモ解散場所近くの水道橋駅付近まで併走した。憂国我道会は、四、五○分程度バトルを繰り広げ、カウンターを終えたのだ。

終わった頃にはみんな着ている服は汗でビシャビシャだった。声もガラガラだ、少しだけ日が落ち、暗くなっていた。温度も下がり、汗が冷えて涼しくなる。その涼しさが争いをした後の虚しさを増させた。

「飲み行きますか?」

カウンターをした憂国我道会の仲間たちで、近くに居酒屋があるか適当に探す。少し歩くと、丁度良い安い居酒屋があった。迷わず、入店した。

夕方六時ぐらいだった。みんなで飲みながら今日の活動のことや、今後のことなどをくだらない話も交えて楽しく飲んでいた。汗をかいて、喉が渇いていたのもある。そんな状態で、仲間と飲む酒は格別に美味い酒だった。悲しみや嬉しさを共有する。言いたいことを言い合う。そうして信頼関係は生まれる。

憂国我道会の結束力は、この飲み会が理由だと思う。金がないくせに、結束力を高めるために飲みまくっている。どうしようもないと思うかもしれないが、この結束力こそが、後の在特会ら逮捕に繋がった。そう、憂国我道会の固い絆は全くブレなかったのだ。

 

 

運命の鉢合わせ

 

二○一四年八月一五日。夜八時過ぎ。一次会を終えた。憂国我道会メンバーは、九人で飲んでいたのだが、三人が水道橋駅から帰宅。残った俺を含めた六人は二次会へ行く。金もないくせに当然のように二次会をするのだ。この不毛なノリが、後に在特会側を逮捕に繋がる偶然の鉢合わせに導いたのだ。まあ、結果論かもしれないが……。

憂国我道会は、六名で水道橋駅から飯田橋駅に歩いて向かっていた。なぜかというと、私の個人的な友人二人と会うためだった。この友人二人が偶然にも飯田橋駅近くの居酒屋で飲んでいたので、合流して飲むことにしたのだ。そうして、在特会らが宴会をしていた飯田橋に偶然行くことになったのだ。

午後九時頃。友人二人との待ち合わせ場所である飯田橋駅に着く。私を含め憂国我道会のメンバー六名と友人二名の計八名で、飯田橋駅を出てすぐの大通りを歩きながら居酒屋を探す。横道があり、多くの居酒屋が目に付く。とあるビルが目に入った。黄色い派手な看板が見える。居酒屋、金の蔵の看板だ。

「あ、金の蔵ありますね」

「良いんじゃないですか」

「安いし、ここで飲みましょう」

憂国我道会は金の蔵に入店しようとする。ビルの地下一階だった。地下への入口の手動ドアを開ける。間の前には地下に下りる通路が広がる。店は地上の階段から、螺旋階段で地下に降りて入る作りだった。階段を降りようとする。すると、いきなり知らない地味な容姿の女性が立ちはだかる。階段の入口を塞がれる。

「駄目です」

「えっ何で?」

意味が分からなかった。最初は店員だと思った。だが、どう見ても金の蔵の店員じゃないことに気が付いた。

女性が急に背中を向けた。何か階段の下に話しかけている。すると、在特会の姿が見えた。この時に私は、今入ろうとしている店が、在特会が宴会をしている場所だったことを把握したのだ。

現場には、在特会の他に純心同盟をはじめ、いくつもの人種差別団体がいた。これから文中では在特会側と書く。

「山口! 何しに来たんだ! 帰れ!」

「うるせえ! ただ飲みに来ただけだ!」

階段を在特会側が塞ぐ。私は入店できない。どうして、金の蔵に飲みに来ただけで帰れなどと言われなければならないのか。それも店員でもない在特会側にである。ふざけた奴らだ。

「朝鮮人!」

「帰れ!」

在特会側はヘイトスピーチをし始めた。腹が立った。だが、いつもカウンターをかけてきたので冷静だった。

店の中からウジャウジャ在特会側の人間が出てくる。とてつもない人数だ。少なくとも五○人はいると思った。こちらは八名。しかもプライベートな友人二人含めてだ。

しかし、私はどうしてもこの時、一旦引くことを考えられなかった。目の前にヘイトスピーチをしている人種差別団体がいる。自分の中で逃げるなんて、できなかったのだ。俺自身の心が許さなかったのだ。

私は階段の下にいる在特会側を見降ろしながら、中指を立てた。言い返す。

「おらおらおら! 黙れ差別主義者の馬鹿どもが!」

興奮した在特会側はヘイトスピーチを叫びながら怒り狂う。

「カチコミか!」

「朝鮮人コラ!」

「山口死ね!」

在特会側大勢が、階段を上がってきた。私は押し出された。無数の手が私を襲う。人数が多すぎて誰に殴られているかは分からないが、隊服に殴られた気がした。在特会側で隊服を着ているのは、純心同盟ぐらいだ。純心同盟は、関西で差別活動をする中心的な団体だ。こいつらが逮捕されれば、在特会側に与える打撃はかなり大きい。

何回も顔面から火花が散る。何人もから髪の毛を掴まれ、殴られる。私以外の憂国我道会のメンバーや友人も殴られていた。

「チョンコ!」

「山口!」

殴られながら、ヘイトスピーチが聞こえた。大勢の差別主義者が、私に暴力を振るってきた。桜井誠の指示があったからだろうか。最初の一人の暴力がトリガーを引いたのだろうか。憂国我道会側が少数で、在特会側が大人数だったからだろうか。みんなが酒に酔っていたからだろうか。

差別主義者が多勢でマイノリティーを襲う異様な下卑た空気。私はその空気を、殴られながら強烈に感じていた。

 

 

あえて袋叩きにされることを選んだ

 

私は在特会側に殴られながら押し込まれる。そして、入口の手動のドアまで押し付けられる。ビルの外に出される。

さらに暴力が増した。階段という狭い空間ではなく、広い空間になったからだ。周囲を在特会側に囲まれていた。顔や腹を中心に、身体のあらゆる部分を私は暴行される。アドレナリンのせいか痛みはない。が、自分の身体が衝撃で揺れているのが分かる。自分の骨の軋む音が聞こえる。少し離れた場所から桜井誠が煽っているのが分かった。

たて続けに拳や蹴りが飛んでくる。私はあえてよけないで攻撃を喰らった。反撃はしない。このまま殴られ続けてやると、最初に数発手を出された時に決意していたのだ。一緒に殴られている、私以外の憂国我道会のメンバーや友人も同様だった。

店の前の道路で、在特会側から殴られる。髪の毛を引き抜かれる。殴られる。転ばされた。殴られ蹴飛ばされる。典型的な袋叩き状態だ。大勢すぎてどの差別主義者から暴行されているのか分からない。

四方八方から拳や脚が飛んでくる。ここでも隊服に殴られたのが分かった。私は起き上がる。

「ふざけんなてめーら! 差別をやめろってんだ!」

私は反撃をせず言葉で応戦する。私への暴力はエスカレートする。だいぶ遠くに離れたビルの壁まで押し付けられた。壁を背中にして、扇形に在特会側に包囲された。至る角度から、全身にパンチが飛んでくる。髪の毛を掴まれ、ぶち抜かれる。まるでサンドバッグだ。

どれだけ殴られているのか分からない。とにかく沢山殴られている。自分の顔面が、パンチングボールのようになっているのは分かった。私は前を向き続ける。決してガードをせず、非暴力で攻撃を受け続ける。

「山口!」

「死ね! 殺せ!」

「朝鮮人!」

直接暴行をしない人間たちも、周囲を取り囲み煽っていた。カメラで撮影している在特会側の人間もいる。袋叩きにされている私を見ながら、桜井誠や多くの人間が終始、煽りながらヘイトスピーチをしていた。トラメガを使用し、叫んでいる在特会側もいた。

パトカーのサイレン音が聞こえた。当然、近くにいた歩行者たちからなど警察に通報がきたのだろう。人通りの多い、繁華街でリンチが起きているのだ。それも人数が数人規模ではない、スケールが桁違いなリンチである。通報されるのは当たり前だった。

サイレン音を聞いたからか、在特会側は急に弱気になりだした。暴力がピタリと止んだ。袋叩きが終わる。

パトカーが到着する。パトカー以外にもいくつもの車が止まる。わんさか警察が出てきた。私は警察に状況説明をする。

「山口が襲撃にきたんだ」

在特会側は逮捕に脅え、嘘でたらめを警察に話している。

「事情は署で聞きます」

そうして双方、麹町警察署で事情を聞かれることになったのだ。

 

 

事情聴取

 

私は警察車両の中で揺られていた。色々考えなきゃいけないことが沢山合った。何としてでも暴力を振るった在特会側を逮捕させなくてはいけない。憂国我道会のメンバーも同じ気持ちなはずだ。殴り返すことはできたのに、やり返さないで耐え切ったのだ。

リンチをされながらも、私にはヘイトスピーチが聞こえていた。私は日本人なのだが、在特会の思考回路では自分らに反対する人間イコール朝鮮人なのだ。

とんでもないことである。つまり、これは朝鮮人への差別意識が根底にあるリンチ事件だったのだ。紛れもない朝鮮人への憎悪に基づくヘイトクライムなのだ。被害者になったのが、たまたま私というだけである。

かつて日本では関東大震災が起こった後、朝鮮人が犯罪をしているなどというデマが飛び交い朝鮮人大虐殺が起きた。いつでも、デマとレッテル張りは差別主義者の常套手段であるのだ。

なので、自分だけの問題じゃないと思った。だから、私は反撃せずいくら袋叩きにされても我慢をした。殴り返したら、おそらく相被疑となりお互い様で双方逮捕されずに終わってしまう。私が殴られることで在特会側が逮捕をされ、差別で傷つく人がいなくなるならそれでいい。そう考えたのだ。

私の見栄やメンツなんてどうでもいい。カッコを気にして差別を止められないなら、そんなくだらないプライドはいらない。私は自分が笑われようが馬鹿にされようが、在特会側にダメージを与える道を選んだ。

警察署に着く。麹町警察署だった。

私は取り調べ室に案内された。狭い部屋だ。

「山口君、はじめまして刑事のAです」

「お疲れ様です」

「うちらも現場で何があったか分からないんだ。何があったか事実をちゃんと教えて欲しい。通報が七件もあったから、その人たちからも様子を聞いてる。後で相手側の話やカメラなどを調べて確認するから、段々分かってくると思う。宜しく」

A刑事は中年の刑事だった。優しそうだが、怒ると恐そうな雰囲気だ。

事情聴取が始まる。私は言われた通りに事実をありのまま話す。何も隠すことはなかったからだ。

私は偶然、二次会に飲み行こうとして入った店が在特会の宴会場所で、鉢合わせをしてトラブルになった。そして、こちらは一切手出しをしないで一方的に殴られたことを話した。純心同盟や在特会側の大勢から殴られ、終始桜井誠は煽っていたことを話して調書を取った。

「疑うわけじゃないから気を悪くしないでね。在特会がいるのは本当に知らなかった?」

「はい。本当に偶然ですよ」

「凄い偶然だよね」

「俺も驚いてますよ。運の良さに」

「祐二郎君」

「あ、先生」

弁護士先生が来てくれた。誰かが連絡してくれたのだろう。ありがたいことだ。

そうして私は暴行の被害届を出し事情聴取を終えたのだ。

事情聴取を終えて部屋を出る。一緒にいた憂国我道会のメンバーや友人たちも調べが終わっていた。話を聞くと、被害届が受理されたのは私ともう一人のメンバーだけだった。

「これから病院に行きましょう」

怪我が心配だったからではない。病院に行かなくてはいけない理由があった。傷害の被害届を出すには病院から出して貰う診断書が必要だからだ。

暴行罪より傷害罪の方が罪が重い。早く、暴行の被害届を傷害の被害届に切り替えたかった。しっかり結果を出さなくてはいけない。

病院に向かう。夜中だったが、すぐに救急で医者に診て貰った。結果を聞いて驚いた。病名は、頭部擦過傷、顔面打撲、頚椎捻挫、両下肢打撲、右第九、十、肋骨骨折。全治二~三ヶ月。中々の重症だった。

もう一人のメンバーは、首などの怪我で全治一~二週間の診察結果だったらしい。軽症といったところか。

こうして、診断書を取って病院を出る。仲間が車で送ってくれて家に帰る。シャワーを浴びてすぐ布団に入った。もう外が明るくなっていた。鳥のさえずりが聞こえる。八月一五日の喧騒と違って、嘘のように静かだ。

携帯が鳴る。

「会長、大丈夫ですか? あばら折れてるらしいじゃないですか?」

現場にいなかった仲間たちからだった。こんな早朝からありがたいことである。

「大丈夫ですよ。もう家です」

「勘違いして始発で麹町警察署に行って、友人と怒鳴り散らしてきちゃいましたよ」

「もう俺いないのに……」

「それでですね。今、二人で飲んでるんですけど来ません?」

私はこんな仲間を持って幸せだと思った。

八月一五日の事件後、私はどんなに怪我が痛んでも、何ら今までとは変わらずに活動をした。仲間と酒を浴びるように飲んだ。そう、在特会側の暴力は本当に無意味なものとなったのだ。

 

 

デマを吐きながら示談の持ちかけ

 

こうして、在特会側逮捕までの警察との長いやり取りが始まった。

事件後、すぐに桜井誠をはじめとする在特会側にデマを流された。それは在特会側が被害者だというデマだった。憂国我道会側に襲撃されて、手を一四針縫う怪我を負わされたなどと嘘を発信し出したのだ。

そんな事実はない。憂国我道会側は偶然、金の蔵に入ろうとして在特会側と鉢合わせをした。そして、袋叩きにされながらも反撃せず我慢をした。それなのにも関わらず、ネット上をはじめ現実世界に真実とは異なるデマを拡散されたのだ。

みるみるうちに短時間でデマは広がった。ネットを見れば、憂国我道会側は在特会側を襲撃した卑劣な集団となっていた。

翌日、私は麹町警察署に診断書を提出し、暴行の被害届を傷害の被害届に切り替えた。

「山口君、本当に金の蔵が在特会の宴会場所だったのは知らなかったんだよね?」

「何度も言ってますが、知らなかったですよ」

「あと、本当に憂国我道会側は手を出してないよね?」

「もちろんですよ。防犯カメラの動画とかありますよね? ちゃんと見てくださいよ」

「いや、見たんだけどね。映ってない部分があるんだ。今、必死に集めているんだけど」

「ある動画見せてくださいよ」

「それはできないんだ」

不安になった。A刑事は私を探っている顔付きをしている。金の蔵が入っているビルや、付近のビルには防犯カメラが設置されていた。ばっちり光景は写っているはずだと思ったが、あれはダミーカメラだったのだろうか。その他にも在特会側が撮影していた動画がある。けれども馬鹿じゃなきゃ、暴行現場が映っているので消しているだろう。

動画がなければ、証拠は近くにいた目撃者の証言や、憂国我道会側と在特会側の証言だけになってしまう。在特会側は、憂国我道会側から襲撃を受けたと言っている。憂国我道会側は潔白なのだが、その証明が証言だけになってしまうのだ。

「まさか在特会側が被害届出してるとかないですよね?」

「それがだな、在特会側も被害届を出しに来たんだ」

「俺らは本当に暴力振るったりしてないですよ。受理してないですよね?」

「それは答えられない」

こういった嘘をついて被害者面をする在特会側の動きも私は想定していた。だからこそこちらは、警察とのやり取りをしっかりしなくてはならない。何としてでも、真実を証明し、在特会側を逮捕に持っていかせなければだ。

例え上手くいかなかったにしても、殴られ続け在特会側の逮捕に我慢して懸けたことは、私の中では恥ずかしいことじゃなかった。こんなヘイトクライムが二度と起こらないようにしたかった。

そんな中で、ある人物を通じて、私に示談にしないかという話が持ちかけられた。その人物を通じてなので、本当に在特会側が示談を持ちかけていたのかは分からない。

在特会側は事件後すぐに緊急会議を開いたのだという。そこで、もし山口祐二郎が被害届を出して立件されたら大人数逮捕事件になってしまうので、何とか示談したいという話になったらしい。

当然、断った。最初から示談のつもりなどない。在特会側を逮捕させるために、私はあえて袋叩きにされたのだ。

デマを吐きながら、示談を持ちかけてくるなんて汚い連中だ。そういった神経に、狂いそうなぐらい腹が立った。

 

 

二ヶ月以上の警察とのやり取り

 

憂国我道会側は、毎日のように事情聴取で麹町署に行くことになる。単なる傷害事件ではなく、政治思想が絡んでいる公安事件扱いだった。現場にいた人数も、憂国我道会側が八名、在特会側が百人以上という大人数なのもあり、事情聴取はとても念入りなものだった。

現場検証は、刑事が何十人も集まっておこなわれた。被害を受けた流れや、どの位置でどんな風に暴力を振るわれたかを事細かに写真を撮る。駅近くの人通りが沢山ある居酒屋だ。通行人にジロジロと見られる。こんなことをしなくても防犯カメラがあれば分かるだろうと思った。カメラの映像はあるのか。そこが気にかかってしょうがなかった。

私がカメラの映像があることを確信したのは、現場検証後の警察とのやり取りだった。警察車両で自宅に帰りやすい路線の駅まで送って貰った時だ。

話をしていて憂国我道会側が加害者であると微塵も疑っていないことを悟った。おそらくカメラの映像を見たのだろう。間違いなく私が袋叩きにされている映像はあることが分かって安心した。

私は事件以降、仲間が冤罪で捕まらないか不安でしょうがなかった。自分ならまだしも、仲間が捕まった場合、会長として本当に責任の取りようがないと思っていた。夜中に何度も起きたし、眠れない日々が続いた。大体の令状逮捕の時間帯である、朝六時~七時ぐらいになると目が覚めてしまうのだ。

それからも気を抜けないことばかりだった。誰に殴られたかなどの人定も、大人数のために大変なものだった。警察が所有しているファイルの、在特会側の写真を見せてくれるのだが、現在の姿と違う人間もいる。おそらく、免許などの写真だと思う。人間は、髪形や眼鏡をかけているかいないかなどで、大分印象は変わる。

在特会側は本名も隠している者は多い。活動する時の姿も、帽子を被っていたりサングラスをかけたりマスクをしたりしている者ばかりだ。写真を見ても分かり辛くて仕方がない。それでも、袋叩きにされていた時の記憶を辿り慎重に調書を取っていった。

特に聞かれたのは、やはり金の蔵で鉢合わせするまでの経緯だった。そして、在特会側が憂国我道会側にどうしてあからさまな暴力を振るったのかだった。

警察は、憂国我道会側が一次会は水道橋駅近くの居酒屋で飲んでいたのに、わざわざ移動して飯田橋駅近くの金の蔵でなぜ二次会をしようとしたかを根掘り葉掘り聞いてくる。

それは本当に偶然、私の友人二人が飯田橋の居酒屋で飲んでいたからたまたまだった。だが、どうしても警察は、私がもともと在特会側の宴会場所を知っていたのではないか、もしくは友人二人が宴会場所を私に教えたりしたのではないかと疑っていた。

確かに、とんでもない偶然だった。私が警察でも計画的に乗り込んだのではないかと疑うだろう。事細かに携帯の履歴や、交わした会話、どの道を歩いてきたのかなど徹底的に調べられたのだ。

私をはじめ、過去に逮捕された経験があるメンバーは調書慣れをしていたのだが、他のメンバーは初めてだった。事実通り話してくれれば大丈夫なのだが、被害者側であるが刑事とのやり取りだ。精神的に疲弊しないか気がかりだった。

また、仕事をしながら忙しい中で事情聴取を受けるのはとてつもなく負担になる。時間を割くために仕事を休んだりしなくてはならない。休まなくても休日が潰れてしまったりなどで、こういった事情聴取の時間で生活に影響が出てしまうのだ。

だが、憂国我道会側はこの事情聴取をみんなで乗り切った。刑事も偶然の鉢合わせだったと捜査をするうちに信じてくれた。そして、なぜここまでの暴力を振るわれたかは、当日八月一五日の靖国神社の時からの、山口祐二郎を見たら叩き出せという、桜井誠の指示があったからではないかと伝えた。

A刑事をはじめとし、警察は本当によく捜査をしてくれた。毎日のように、在特会側から事情聴取をしていた。また、在特会側は全国各地から当日は集まっていたので、現地まではるばる出張をして事情聴取をおこなっていた。他の事件も扱っている中、とても頑張ってくれたのだ。

その時間で二カ月余りを要したというわけだ。私からしてみれば、すぐ逮捕しちゃえば良いのにと思っていたのだが、警察がそれができなかった理由があった。

理由は映像だった。最初に憂国我道会側と在特会側が接触し、憂国我道会側が暴力を振るわれたビルの入り口の階段での映像だけがなかったのだ。他のシーンはあったのだが、そこだけは防犯カメラはなく、いくら在特会側の撮影者にガサを入れて動画を押収してもそのシーンだけは出てこなかったのだ。そのせいで逮捕するまで時間が長くなったというわけだ。

私はあるいくつかの情報元からの連絡で、いつ在特会側にガサが入ったかを知っていた。逮捕をされる日も分かっていた。私は在特会側逮捕の日を待ち続けた。

 

 

在特会側五名逮捕

 

そして一○月二五日の早朝。在特会側の、山本雅人(当時、純心同盟)、篠田佳宏(当時、純心同盟)、水谷架義(当時、純心同盟)、新妻真一(当時、護国志士の会)、伊藤広美(当時、在特会)の五名が逮捕をされた。

山本雅人、篠田佳宏、水谷架義、新妻真一は私への傷害容疑、伊藤広美はもう一人のメンバーへの傷害容疑である。八月一五日から二ヶ月以上も捜査を費やした末の逮捕劇だった。

テレビや新聞など全国ニュースで大々的に報道される。マスコミ各社で、在特会事務所など数箇所に家宅捜索が入り、会長の桜井誠も事情を聞かれることになったと報道される。逮捕をされた五名の顔と名前も全国報道で流され、ネット上にも名前が拡散された。
在特会側は、逮捕後から今度は異なるデマを流し始めた。在特会側だけが捕まり、憂国我道会側が逮捕をされていない。憂国我道会側に襲撃をされたとデマを吐いて被害者ぶるのは難しくなったからだろう。

在特会側は、憂国我道会側に襲撃をされて喧嘩になり、私を土下座させて謝罪させたなどの行為で逮捕されたと発信し始めたのだ。私は襲撃をしていないし、土下座など断じてしていない。とても悪質なデマである。

ここで特徴的なのは、事実を捻じ曲げて、さも在特会側の暴力が正当化されるようなデマを流しているところだ。私を悪人に仕立て上げ、在特会側が憂国我道会側に暴力を振るったのが正義と言わんばかりだ。

このデマを言って理由付けをする手段は、まさに関東大震災時に朝鮮人が犯罪をしているというデマを吐き、朝鮮人大虐殺を肯定した人間たちと同じではないか。歴史を見れば、関東大震災時の朝鮮人大虐殺はそうだが差別とデマは常に隣り合わせのセットだ。差別をする側は、常に被害者意識を主張する。

在日朝鮮人が日本を悪くしているなどと、差別をする理由付けのデマを吐くのだ。それに惑わされる人の何て多いことか。私は酷いデマを流され身を持って感じた。

立件後は警察ではなく、検察とのやり取りになった。逮捕まで持ち込んでからも、憂国我道会側は検察からの事情聴取に時間を割かれることとなる。逮捕とはまだ疑いの容疑者である段階。起訴をされて有罪判決が出て初めて有罪となる

こうして、東京都千代田区霞ヶ関の東京地方検察庁に通う日々になる。担当は公安部のトップ検事だった。初めて検事と会った時に、まず検事を通じて在特会側の弁護士から示談をしたいという話がきていることを知らされる。

もちろん弁護士とは話さずに、検事に示談はしないと言い拒否をした。以前からもそうだが、表で卑劣なデマを散々吐いておきながら、裏では示談をお願いしてくるとは最低すぎる奴らだ。

「良かった。この件は示談しないで欲しかったんだ」

検事も示談をできればしないで欲しいという考えだった。これには驚いた。通常、こんなケースだと検察や警察は示談を進めてくることが多い。捜査は面倒だし、起訴まで持ち込むには相当な証拠固めがいるからだ。

だが、示談を進めてこないというところから、検事も在特会側に厳しい処分を下そうという意図が明確に見えた。

こうして検事との調書作りと人定が始まる。

「本当に、山本と篠田に殴られた?」

「はい」

「本当に?」

なぜか、検事が執拗に聞いてくる。

「そうだと思います。どうしてですか?」

「とりあえず一緒に動画を見ようか」

私はこの時に、警察が見せてくれなかった現場の映像を初めて検事に見せて貰った。映像は、複数のビルの防犯カメラと、在特会側が撮影していた動画をガサ入れで押収したものだった。

見るのはドキドキしたが、大体予想通りの映像だった。在特会側に、私が袋叩きにされている。だが、気になることが三つあった。一つは逮捕されている山本雅人、篠田佳宏が私を殴っている映像がないこと。二つ目は、現在逮捕されている人間以外も私を暴行していること。三つ目は、桜井誠をはじめとする、直接暴力は私に振るっていないが周囲でリンチを煽っているのは罪にならないのかということだ。

検事に問う。一つ目について。これは、憂国我道会と在特会側が最初に接触したビル入り口のドアを開けてすぐの螺旋階段。そこで言い合いになって私が殴られたシーンの映像がないらしい。検事いわく、このシーンだけが防犯カメラがないので、今必死に撮影していた在特会側がいないか探しているらしい。

二つ目について。人数が多すぎて取り囲まれすぎていて誰が殴っているか判断が難しいのだという。確かに私が見ても、周囲を取り囲まれながら複数の人間から殴られているので、誰にやられているのか分からない攻撃ばかりだった。検事いわく、これは超スローで映像を解析し慎重に確かめていくという。

三つ目。ここは私が譲れないところだった。私に手を出さないが、周囲には山程リンチを煽っていた在特会側の人間がいた。この場合は、そういった人間たちは共謀共同正犯か暴力行為等処罰に関する法律(暴処法)に引っかかるのではないか。そう思わざるを得なかった。 これについては、検事はきちんと共謀共同正犯や暴処法を視野に入れ、捜査していると答えてくれた。だが立件は難しいらしい。中々、この罪名で捕まえるケースはないのだという。

私は連日、事情聴取、調書作成に忙しく取り組んだ。

 

 

最後の動画

 

調書を検事と作っていく日々をこなしていき、五名の拘留満期の二十日が経過しようとしていた。二十日拘留の後に、起訴か不起訴かが決定する。起訴になれば日本では九九パーセント有罪だ。略式起訴という罰金判決でなければ、いよいよ裁判になる。そこで判決が決まる。不起訴であれば無罪というわけだ。

最後の調書を取りに行く日。

「新しい動画が出てきたんだ。階段で鉢合わせになった部分の映像だ」

と検事から言われた。よし、やったと思った。遂に、山本雅人と篠田佳宏に私が殴られたことが証明できる映像が見つかった。

「さっそく見てよ」

その映像を見て、私は言葉を失った。そこには、私とはるか遠くで言い合いをする山本雅人と篠田佳宏の姿が映っていたからだ。そう、私は山本雅人と篠田佳宏に殴られていなかったのだ。

「殴られていないね」

「はい……」

「分かっていると思うけど、この二人については傷害容疑では起訴できない」

こうして、山本雅人と篠田佳宏が不起訴になることが分かった。私はどうして勘違いをしていたのかショックを受けた。記憶と現実のズレが恐くなった。

「まあ、よくあることだよ。これだけ顔面を殴られているんだ。記憶がおかしくなるのは当然だよ」

「そうなんですね」

「で、今回の件。在特会側にどんな判決を下してほしい?」

「と、いうと」

「色々まああるじゃない。厳罰を望むとか、更生のために軽い刑を望むとか。被害者の意見を言ってくれれば大丈夫」

「私が袋叩きにされても殴り返さないで我慢していたのは、在特会側に差別をやめさせたかったんです。私のことは関係なくて、本当の被害者はお分かりだと思いますが在日朝鮮人なんです。なので反省して欲しいので厳罰ですかね」

「分かった。悪いようにはしないよ」

「よろしくお願いします」

そのやり取りの後、あることを私は検事から諭される。

「でさ、最初接触した時に、すぐ逃げたら良かったじゃん? 何で、一旦引かなかったの?」

「ヘイトスピーチをされて頭にきちゃって、逃げるとか考えられなかったんです。今、目の前にある差別を許せなくて」

「気持ちは分かるよ。でも、君は会長なんだ。実際に仲間を巻き込んじゃったでしょ。みんな忙しい中、事情聴取の日々だ。そこは考えなきゃじゃないかな。君を会長として持ち上げてくれているのは、君より年上の仲間ばかりなんだし」

私の胸にその言葉は突き刺さる。

「後さ。検察的になんだけど。君が中指立てたりして逃げないで殴られているのは、とてもマイナスになるんだ。ようは被害者が、ただ殴られたのと、挑発行為をして殴られたのでは全然加害者の罪の重さが変わるんだ。いくら差別を止めたくても、挑発はしないようにね」

笑うしかなかった。そりゃそうだ。こうして私は検察調べを終えたのだ。

 

 

在特会会長桜井誠引退、純心同盟解散

 

在特会側五名逮捕から、二○日勾留が経過した二○一四年一一月一四日。検事から電話がきた。内容は五名の処分についてだった。

五名のうち、水谷架義、新妻真一、伊藤広美は略式起訴。山本雅人、篠田佳宏は不起訴という処分だった。

不起訴になった山本雅人、篠田佳宏の二名は私の勘違いだったのでともかく、他三名が略式起訴という処分だったのには驚いた。略式起訴とは、本裁判までいかない罰金刑の判決だ。有罪判決ではあるのだが、いくら何でも重症を俺に負わせたのに罪が軽すぎるだろう。罰金額は略式起訴された三名共に、傷害罪では最高額の五○万になったが、納得のいく判決ではなかった。

「ちょっと刑が軽すぎますよ」

検察や警察への不満が自然に口から出てしまった。

「山口君にとって、きっと悪い判決じゃないと思うよ。まだまだ終わりじゃないから見ていて」

そう言われてしまい、諦めるしかなかった。この事件は明確なヘイトクライムだと、国会でも話をされたのだ。警察も検察も示談を進めてこなかった。それなのに何て軽い判決なのだろう。悔しくて仕方がなかった。

「桜井誠の引退、急だったでしょ。うちらも厳しく粛々とやったつもりだ。納得してよ」

ハッとした。もしやと思った。私からすれば処分の重さ云々よりも、在特会側に差別をやめさせるのが目的だった。検察や警察はそれを分かってくれたのだろうか。

そう、憂国我道会側との事件で逮捕をされた在特会側五名の拘留中に、在特会会長の桜井誠は引退発表をしたのである。

桜井誠は任期満了の二○一四年一一月末で在特会から退会することも明らかにし、今後は一個人として活動していくと述べた。憂国我道会側との事件により、在特会の中でどんな動きがあったのか。外部からも内部からも情報を流してくれる人間がいたので、私はよく分かっていた。

在特会側は今回の件で、とても動揺していると聞いていた。それはそうだ。まだ事件は捜査が継続中だったからだ。なぜかといえば、他にも私を殴った在特会側の人間が沢山いるからだ。そして、直接的な暴行をしていなくても、立件は微妙だろうが桜井誠をはじめとして煽っていた人間は山ほどいる。検察や警察からの圧力が、在特会側にあったと想像するのは当然だろう。

そしてその後、二○一四年一一月二四日。二○年の歴史があった純心同盟は解散をした。ここまで結果が出たことに私自身が驚いていた。たまたまリンチをされたのが私だったことが功を奏したのかもしれない。右翼と警察は、元来ヤクザとマル暴の関係のように、不思議な信頼関係があるのだ。検察や警察からすれば印象が良い、右翼だったから得したわけだ。

もちろん、それまでに憂国我道会側は大変な労力を割いた。それができたのも、現場で殴り返さず我慢できたのも、メンバーが差別反対の純粋な気持ちを持っていたし、検察や警察にその想いを伝えられたからだろう。

在特会会長の桜井誠の後任は、設立当初から桜井誠を支えてきた副会長の八木康洋に決まった。在特会ホームページにアップされた挨拶文を読んで、私はこれまた笑うしかなかった。

「在特会の公式な活動中での逮捕や訴訟については責任を持つが、活動前後のトラブルや活動以外のところでの不法行為については在特会が責任を一切負う事はないし、それらの結果としての逮捕や訴訟に対する在特会からの援助は無いものと理解してくれ」と書かれていたのだ。こんなことは今までの在特会ではなかったことだ。

これは、明らかに活動後に起きた逮捕事件、つまり憂国我道会との事件からの影響だろう。そして、これから事件で処分される人間をサポートしないといわんばかりではないか。

その後、二○一四年一ニ月一五日。在特会側の、藪根新一が、一二月一六日に麻生照善が書類送検からの略式起訴の有罪判決となったことを検察から知らされた。罰金は傷害罪では最高額の五○万円。顔も名前も聞いたことがない人間だった。

こうして、相次ぐ有罪判決を受け、桜井誠が引退した在特会は求心力を失う。在特会から離れていく者が続出し、急激にデモの動員は減っていったのだ。

 

 

男組解散、そしてこれから

 

衰退していった現在の在特会は、さらに被害妄想の塊のような集団となっていった。日本国内で日本人が差別されているという妄想を叫び、在日特権というデマ理論は完全に破綻していった。在特会の影響力は格段に落ちていったのだ。

そうして、二○一五年三月、男組組長の高橋氏は解散を宣言し、解散イベントを新宿ネイキッドロフトでおこなった。なぜ解散をするのか。それは、在特会がもう下火になったからだ。男組は役目を終えた。それだけだった。

新宿ネイキッドロフトは、新大久保のコリアンタウンにある。男組はコリアンタウンで生まれ、コリアンタウンで消えるとは粋だった。

会場は多くの人々が溢れ返り、新宿ネイキッドロフト史上、最高の動員人数を記録した。男組が活動したのは二年にも満たない期間であったが、身体を懸けて全力で差別主義者と闘ってきた。男組がどんなにガラの悪いどうしようもない集まりでも、そのことをみんなが分かってくれたからだろう。嫌われ者でやってきたので、何だか照れくさかった。

イベントでは、男組結成をしてから解散までの出来事を話した。実行が未遂に終わった危険な計画のことなども暴露された。

その後は新宿中央公園で盛大に解散式の花見を開催した。樽酒と枡が用意され、狂ったように皆で飲みまくる。

私は達成感からか笑顔だったが涙が出ていた。それは今まで逮捕をされてまで闘ってきた、高橋氏をはじめとした男組の仲間のことを考えていたからだった。どんなに差別反対の想いがあろうと、仲間が塀に入ってボロボロになっていくのは辛かった。もう、それが終わる。酔わずにはいられなかった。記憶がなくなるまで飲んで気付いたら朝になっていた。

こうして桜が散るように、在特会衰退と共に、男組は潔く解散をした。男組が解散し、これから私はどうするか。まだやることがある。

私はこれから在特会側に民事訴訟を仕掛けるし、かつての先輩方である民族差別をするエセ右翼団体にもカウンターをしている。それ以外でも憂国我道会は、色々とやっていくつもりだ。

男組や憂国我道会が在特会を壊滅状態にさせても、日本には差別的な空気が根深く蔓延している。政治家や保守論客でヘイトスピーチをする人間がいるし、居酒屋で飲んでいたり電車に乗っていてもヘイトスピーチを聞くことがある。いじめがなくならないように、差別も完全にはなくならないけれども、モグラ叩きしていくしかないのだ。

本当は、私みたいな人間は元々、反差別以前に人として問題ありだ。必要なくなればカウンターから消えて日陰にいるべきだ。私のようなクズが、カウンターの最前線にいることがおかしいのだ。こんな、日本ではいけないはずだ。

差別で傷つく人が少しでも減ることを願う。

 

【筆者プロフィール】

やまぐち ゆうじろう・思想家、作家。