週刊金曜日 編集後記

1376号

▼「国境なき記者団」が5月3日、2022年の報道の自由度ランキングを発表した。第2次安倍政権が12年末に発足してから、日本の順位は13年に急激に後退(53位、12年は22位)し、その後もそれは止まらず、16・17年には過去最低の72位となり、昨年は67位、今年は過去最低に近い71位に落ちた。
 しかし、これを報じる記事などを見ても、無機質に順位のみを伝えていたり、ロシアが「非常に悪い」に分類される155位だったことをメインに取り上げていたりするものが主で、日本の報道状況の検証や分析はみられない。
『金曜日』にいると、たとえば国会や省庁取材ではその現場にいくまでの段階でも、報道の"不自由"を感じる場面は多い。国会取材をするには、大手メディアは記者証で出入りできるが、こちらはその都度、通行証を発行してもらうために奔走するところから始まる。省庁会見取材では省庁によって対応がまばらで、法務省は報道関連のどの協会にも所属していない『金曜日』が取材に入るには、どこかの協会所属のメディアから自分の名前入りの記事をいくつか流すことを条件としてきた。こんな不自由が山積みだ。(渡部睦美)

▼じつはキリスト教界でも当時、沖縄の復帰と同じようなことがあった。そもそも、戦時の宗教統制政策によって、沖縄を含むプロテスタントの諸教派が合同して成立したのが日本基督教団。敗戦後、沖縄のキリスト教は米軍施政下で独自の教会を形成してゆき、沖縄キリスト教団をつくっていた。
 そして沖縄の復帰が決定的になると、日本基督教団と沖縄キリスト教団はその先駆けとして、「復帰」ではなく「合同」することを選ぶ。1969年のことだ。しかし、その内実は「復帰」。本土の教会はなにも変わらなかった。
 やがて、このことへの疑問から「合同のとらえなおし」がはじまる。教団総会では長い議論の末、合同の象徴としてせめて名称変更だけでもと俎上に載せられたが、それもかなわなかった。沖縄の教会は抗議を示し、2004年以降、いまだ総会に出席していない。
 今号で建議書の作成に携わった平良亀之助さんは、「琉球がもはや日本の一県であるかのように」扱われたと怒りをもって書く。この思いを受け止めない限り、沖縄やキリスト教界がいまも抱える問題は解決しない。(吉田亮子)

▼ロシアのウクライナ侵攻が続く中、ヴァレンチン・ヴァシャノヴィチの『アトランティス』(2019年)『リフレクション』(2021年、ともに本誌3月25日号で紹介)、ヴィットリオ・デ・シーカの『ひまわり』(1970年)など、両国に関係するさまざまな映画が新旧を問わず上映されている。
 私が特に思い出すのは、旧ソ連の映画作家、アンドレイ・タルコフスキーの作品群だ。ウクライナ出身の詩人である父親の詩を劇中で度々引用した半自伝的映画『鏡』(1974年)をはじめ、この監督の作品は、ロシアやウクライナの地への郷愁に満ち満ちている。
 その一つ、『ノスタルジア』(1983年)に、世界を終末から救うべく祈るシーンがある。祈りといっても野外で風が吹く中、蝋燭の火を消さずに温泉を渡り切るというもの。他人からみれば笑いものでしかないが、映画完成後に亡命を選ぶ監督の、祖国への複雑な想いも投影された場面で、現在の状況への祈りにまで通じる気がする。タルコフスキー作品の多くを観たのは会社近くの岩波ホール。思い出の多いこの映画館も7月に閉館予定で淋しい。(山村清二)

▼佐藤さん、広島で大変なことが起きているんよ。取材してもらえん?
 広島市の定期購読者の方から、そんな電話を受けたのが4月の下旬だった。広島市の中央図書館など三つの施設をJR広島駅前の商業ビルに移転する、という問題だ。本号の7ページ、「きんようアンテナ」に原稿を書いたので、ぜひお読みいただきたい。
 背景には、1970年代に多く建設された公共施設の老朽化問題がある。たとえば、移転の対象となった広島市の中央図書館は74年10月の開館。こども図書館は70年代ではないが80年5月の開館である。市の資料には、どちらも「大雨の際には天井から雨漏りがある」と書かれている。
 今、全国各地で公共施設の集約化・複合化が進められている。それを後押ししているのが記事でも書いた国の「公共施設等適正管理推進事業債」である。
 それにしても広島市の場合は、いささか乱暴な進め方だったように思う。「集約化・複合化」よりも、経営に暗雲が垂れ込めている商業ビルの救済の方に目が向いていたのではないか。(佐藤和雄)