週刊金曜日 編集後記

1284号

▼前回の続き(1281号)で、連休中ずるずるとスクラップの整理をしていたら、1973年9月7日の『朝日新聞』夕刊がまるごと出てきた。なぜ47年間も取っておいたのだろう? その日、札幌地裁第一部であった判決が、「歴史的判決」だったからだと思う。
 長沼町馬追山にある、国が指定した「水源かん養保安林」を、自衛隊の地対空ミサイル(ナイキ)基地を作りたいために保安林解除した国に対して(解除しないと伐採できない)、「解除処分取り消し」と「同処分の執行停止」を地元住民が求め提訴した判決で、地裁(福島重雄裁判長)は、「自衛隊は戦力であり、憲法違反である」として住民勝訴の判決をくだした。なんとも明快な判決。国は即日控訴したものの、このときのすがすがしい気持ちはいまだに忘れない。
『「無罪」を見抜く 裁判官・木谷明の生き方』(岩波現代文庫)を読んでいたら、その当時の札幌地裁の裏話が語られている。「平賀書簡問題」も含めて興味深い。(土井伸一郎)

▼ときに「民度」という言葉には差別的なニュアンスが含まれる。
 麻生太郎財務相の「民度が違う」発言に驚きはない。彼は市民の愛国心を刺激し、独裁体制を築いた「ナチスの手口」に学んでいるからである。日本を誇り、他国を貶めるのは、彼の常套手段だ。
 同様に優越思想を前面に打ち出す政治手法で支持率を拡大させたのがトランプ米大統領である。
 5月25日、ミネアポリス郊外で警察官によるアフリカ系米国人殺害事件が起きた。その遠因は、「白人は優れており、黒人は民度が低い」とする白人至上主義だ。
 小池百合子東京都知事は「ファースト」という言葉を濫用するが、それは「至上」とほぼ同義であり、「排外主義」の危険性を孕む。
 そして安倍晋三首相は、自身に抗う市民を「こんなひとたち」と蔑み、権力を振りかざしている。
 今回の新型コロナ騒動で大きな被害を受けているのが、貧困、差別、抑圧に苦しむ社会的弱者である。「民度が違う」のであれば、己を誇るのではなく、彼らに寄り添うべきである。(尹史承)

▼世界的なゴリラ研究者である京都大学の山極壽一総長が5月25日にテレビ(NHK)で、人々がそれぞれみんな違うんだということを前提にする自覚は(逆に)今度の新型コロナウイルスのときにできてきたのではないかと思う。そういうことを前提としながらグローバルな社会を再構築していくことができるのではないか。再び国境が開いたときにもっと人々は「寛容」になれるのではないか。連携の仕方がこれまでと違う形で行なわれていくのではないかという気がする。と語っていて、コロナ禍の閉塞感のなか、その言葉に勇気づけられた人も多いと思う。
 米国・黒人暴行死をきっかけとした人種差別への抗議デモが全米をはじめ世界各地で相次いでいる。「民主主義はなくとも自由がある」香港を守りたいから、静かに声をあげ続ける人々がいる。コロナ後(渦中)の世界は今、大きなうねりのなかにある。「寛容」か「不寛容」か、我々はどんな未来を選択するのだろうか。人類が生き残るための「想像力」と「直感力」が問われている。(本田政昭)

▼先週末、半年分たまったレシートや領収書などを帳簿につけたら、3月以降の出費が例年よりもぐんと減っていた。
 これはもちろん外出自粛の影響が大きいが、ネット通販もさほど使っていない。外出できないストレスを消費で発散するようなお金の使い方はしていないようだ。
 他方、家にいる時間が長くなる分、ネットを見る機会は増えた。それでネット回線を太くしたから、その分の出費は増えている。ともあれ、コロナ以前は当たり前だった消費や出費が、コロナ以後はそうではなくなるのかも......と書きかけて「ホントかいな」と自分にツッコミを入れてしまった。
 映画はやっぱり映画館で観たいし、旅行にも行きたい。たまには外食もしたい。そういった消費の機会がないのはつまんねえ。
 とはいえ、お金を使えなくても近所の散歩とか野菜の栽培とか、手頃な楽しみを見つけてやり過ごせることも分かったわけで、まったくコロナ以前に戻ることはないのであろうなあ。(斉藤円華)