週刊金曜日 編集後記

1152号

▼「不倫」疑惑が報じられたが否定している山尾志桜里議員が離党に追い込まれるなら、どうして「不倫現場写真」を撮られた自民党の今井絵里子議員や後藤田正純議員(2011年時)は離党を求められないのだろうか。14年には自民党内で中川郁子議員と門博文議員の「不倫路チュー」報道があったが、いずれも離党や辞職をしていない。党による違いなのか。しかし民進党だって前身の民主党時代に「路上キス」を撮られた細野豪志議員は離党もせず議員辞職も求められなかったではないか。
 テレビ報道の盛り上がりぶりからしても、注目の女性議員への嫉妬や野党叩きの思惑があると感じる。中川・門両議員の時も、独身の中川氏のほうが叩かれていたし、男性に甘く女性に厳しい性のダブルスタンダードも見える。
 仮に事実だったとしても、大人同士の私人間の問題である。犯罪を犯したわけでもない議員を「守りきれない」と切った民進党には失望しかない。「不倫」疑惑と「権力私物化」のどちらが国の大問題なのか。「もり・かけ」を霞ませてどうする。(宮本有紀)

▼芥川賞作家・目取真俊さんのブログ「海鳴りの島から」をよく見る。先月、友人から「辺野古行き『平和市民』貸し切りバス運行継続のための資金カンパ」要請の話があったとき、日々、カヌーを漕いで抗議行動を続けている目取真さんのブログを見ると状況がよくわかるよ、と教えてもらったのがきっかけ。米軍基地前で抗議行動をしていた市民2人が車のひき逃げにあったというニュースは、そんな時に飛び込んできた。ひょっとしたら政権側の嫌がらせ?という疑念がわいてしまったが、数日後犯人がつかまり思い過ごしだったことが分かったものの、抗議行動を封じ込めようとする安倍政権への不安はつきない。「県民は安倍政権・警察庁からの指示による『転び公妨』的弾圧が続くなかでも、『決して諦めず』違法工事阻止行動を継続しています」という沖縄平和市民連絡会では、那覇からの毎日の「辺野古送迎貸切バス運行」をいままでカンパで補填してきたが、8月からの補填が非常に厳しくなってきたと要請文で伝えていた。(柳百合子)

▼9日、東京・町田市にある西東京朝鮮第二幼小中級学校のルーツをめぐるフィールドワークに参加した(朝鮮学校を支える町田市民の会主催)。創立当時の朝鮮学校は神奈川県との県境を流れる境川の河川敷にあり、環境は決してよくなく、悪臭がしたり、洪水になったりすることがあったという。
 保護者らは学校を守ろうとコンクリートやレンガのがれきを利用して、素人ながらもていねいに石垣を積み上げた。頑丈にできているらしく、今も残っていて胸が熱くなる。近くには相模ダムや旧日本軍の施設が多くあり、記録はほとんど残っていないが、労働者としてつれて来られた朝鮮の人々が多く住まわされていたようだ。
 今週号の「脱・混迷ニッポン」で取り上げた宋富子さんも記事中で相模ダムについて触れている。在日1世や2世たちは自分のことだけでもきびしい状況のなかで朝鮮学校(ウリハッキョ)をつくり、守ってきた。戦後、解散命令が出たときには800人の警官が町田の学校に捜索に入ったが、後日警察署に1000人で抗議に行ったという。(吉田亮子)

▼「正義の暴走」「行き過ぎた平等」などなど、昨今、巷に流行る不思議な文言。なにを正義として、なにを不正義とするか、あるいはどのような状態を平等とし、なにを不平等とするか。そういう判断を避けつつ対象を揶揄する場合にこうした言葉は便利だ。共通するのは、言及や関与はしたいのに、自らの立場は、徹底的にはぐらかしたいという傍観者的気分だ。なんとなく賢く見える、というのもあるのかもしれない。
 ネットで放言を繰り返す医師がナチスを賛美して問題化している。二十数年前の『マルコポーロ』廃刊事件を思い出す。結局、当時も日本社会内部からの批判によって事態が決着したわけではなかった。それ以上に日本社会の、「表現の自由」を一つの拠り所とした、なにが不正義か、という判断を避ける歴史修正主義への親和的態度は、その後の教科書問題でくすぶり続け、昨今のヘイトスピーチ問題で再燃しているように思う。正義を忌避するシニシズムとの決別なくして、真に公正な社会は実現できない。(原田成人)