週刊金曜日 編集後記

1068号

▼『しんぶん赤旗』日曜版の山本豊彦編集長が9日、「謝罪をしたい」と弊社に来られました。単行本『1★9★3★7』の著者、辺見庸さんのインタビューを直前に取りやめた件に関してです。
 簡単に経緯を説明しますと、同紙から11月12日、弊社を通してインタビュー依頼があり、担当編集者が辺見さんと日程を調整し、翌13日に「17日で確定した」と伝えました。ところが約1時間後、同紙より「インタビューを取りやめたい」と連絡がありました。不可解な対応に編集者が理由を聞いたところ「年内の紙面が埋まってしまった」との返事。「来年でも構わない」と伝えると、「新刊紹介は刊行から2カ月が原則なので無理」という返答でした。弊社としては納得ができず、ただちに平井編集長が同紙担当者に電話で抗議しましたが、「スケジュールの問題で私のミス。大変、申し訳ない」の一点張りでした。
 このたび弊社を訪れた山本編集長からも、私と平井に「『金曜日』と辺見さんに対して非礼をお詫びしたい」と謝罪がありました。ただ理由に違和感があったので、「辺見さんがブログでSEALDs(シールズ)批判をしたことに関係があるのか」と質しました。山本編集長は「本紙が(政治的に)辺見さんを拒否することはありえない」と話し、11月15日付の日曜版をもってこられました。書評欄に『時代の正体――権力はかくも暴走する』が掲載されています。『神奈川新聞』が15人の識者の声をまとめたもので、確かに辺見さんの発言を取り上げています。これをもって疑念が解消されたわけではありませんが、同紙の辺見さんに対する今後の姿勢をみていきたいと思います。また、「直接、辺見さんに謝罪をすべきでは」とお伝えしたものの、前向きな返事をもらえませんでした。
 この問題に関し「『週刊金曜日』は共産党を批判できないのではないか」という疑問の声がありますが、弊誌は特定の政党や組織・団体への批判をタブー視したことも、することも断固としてありません。改めて読者のみなさまにお伝えしたいと思います。 (北村肇)

▼野坂昭如さんが12月9日の夜亡くなられた。その2日前の7日に今週号「俺の舟唄」22回目の原稿をいただく。締め切りは8日だったが1日早く下さった。
 ファクスで送られてきた口述筆記原稿5枚のゲラが上がる10日の朝、矢崎泰久さんから電話、急ぎ2人で杉並のご自宅に向かう。もうすでに報道陣が門前に。
 この1年は野坂さんの体調とにらめっこしながらの連載だった。10月には桜井順さんに2回ほどピンチヒッターもお願いした。そして妻の暘子さんのご努力がなければ成立しない「俺の舟唄」。今年最後の原稿をいただいてちょっとほっとしたところだった。
 1975年1月15日の日比谷公会堂、成人の日記念講演会の壇上にいたのは野坂さん、客席には私がいた。「人間は失敗する。それを恐れるな」。この言葉は『国家非武装 されど我、愛するもののために戦わん。』とともに私の深いところに刻まれた。
 40年後に編集者として最後の原稿をもらうとは......。野坂さんハチャメチャだけど、あなたがいて心強かった。 (土井伸一郎)

▼ナチのガス室最初の犠牲者は障がい者や難病患者だったことを、Eテレの「それはホロコーストの"リハーサル"だった」で知った。ドイツ精神医学会は5年前、医師が率先して殺害に関与したことを認めて謝罪。今秋、「介護負担を減らし、よい遺伝子だけを残すためだった」との調査をまとめた。"強い国家" を目指す当時のヒトラーがこの動機に目をつけて、"生きるに値しない人"に"恵みの死を施す"極秘指令を出し、人目につかない所にガス室がつくられた。
 まわりの誰もが沈黙するなか、ある司教が「これは"恵みの死"ではなく殺人だ。非生産的な市民を殺してよいとするなら、我々も老いたら殺されるだろう」と説く。この説教が手書きのコピーで広まり、世論を気にしたヒトラーは中止を指令。しかし一線を越えた流れは止まらず、20万人以上が犠牲になった。そのノウハウはやがてユダヤ人大虐殺に利用される。
 安倍内閣の「一億総活躍社会」は、障がい者らすべてが活躍できるよう、あらゆる制約を取り除くことだそうだ。しかし、その実現策をもっと示してもらわないと、かえって心配になる。 (神原由美)