週刊金曜日 編集後記

738号

▼NHKテレビの「私の一冊 日本の百冊」で、編集委員の雨宮処凛さんがAKIRA著『COTTON 100%』をあげていた。神保町の書店では見つからず、期待しないで入った自宅近くの書店の地下に二冊眠っていた。「少し汚れていますが、どちらがいいですか」と申し訳なさそうに差し出す店員さんのことばにまず感激。

 アーティストの杉山明さんが、北米大陸を十数回もヒッチハイクした二〇代の体験をまとめたこの小説は、「もし君がいきづまったり、いきぐるしかったり、死にたくなったら、オレと旅に出てみないかい?」ということばで始まる。

 平均台を歩いていけば安定した地位や成功、落ちたら真っ暗闇の地獄と脅されていたオレは、この旅で「落ちてった先には何があったと思う? 地面だよ」ってことを知る。そうなんです、恐れることは何もない。雨宮さんも「背中を押してくれた一冊」と話す。

 初刊は出版社の倒産で絶版になったが、共感したある編集者の情熱で現代書林から復刊された。

 本誌上でもAKIRAさんと旅ができないかな。(神原由美)

▼かなり前だが、父方の祖父母が残した土地で有機栽培の野菜を作ろうと「週末農業」に挑戦したことがあった。きっかけは、その土地を売ってほしい、という野菜農家の方の申し出。漠然とだが「食糧難」の時代が来るような気がして、いざというときに農作物を作れる土地を持っていたほうがいいと思い、「実は自分たちで育ててみたくて」と断ったことによる。

 田圃を貸して米を作ってもらっていた農家の中で「作っても儲けにならないから」と米作りをやめた家があったことも不安をかき立てた。田圃は一度潰してしまうと作り直すのが大変だ。このままの生産調整が続けばいつか国産米不足になるのでないかと懸念していたが、あの「漠然とした不安」が現実になりそうな気がする。

 ちょっと遠くて毎週末行けなかったこともあり、結局野菜作りはやめてしまった。食品への不安が高まる今こそ作りたいし、本当は米作りも学びたいのだが。何かに活用できないかな、と家族で話すのだがいい案が浮かばず、草だらけになった土地を見るたびにためいきをついている。(宮本有紀)

▼「立川・反戦ビラ弾圧事件」救援会、最後の集会が三月七日に東京・立川で開催される。弁護団の裁判戦術の記録や、五年間の全活動を記録したパンフレットの発行を最後に解散するとのこと。

 裁判には縁がなかった私だが一審、控訴審、上告審と傍聴券配布の長い列に並び、二回の傍聴に当選したが、昨年四月の最高裁を傍聴したときの悔しさったらなかった。たった二、三分の判決言い渡しのみで閉廷してしまったのだ。「権威」の塊のような法廷の雰囲気に圧倒される自分がイヤで、できるものなら近付きたくない場所だったが、反戦を訴えた身近な三人が逮捕されたことに怒りが収まらなかったのだ。「有罪」は確定してしまったが、その後も会の「判決を認めないキャンペーン」は続いていた。昨年一〇月三一日には「国連規約人権委員会」から日本政府宛に弾圧事件に異議を唱える「勧告」が出されている。

 最高裁判決後も、ポスティング弾圧事件が二件も起きている。いつになったら安心してビラが配れるのだろうか!(柳百合子)

▼連れ合いから、部屋を占拠する本やビデオ映画を指し、「何かの役に立つの?」としばしば問われる。モゴモゴと返答するが、説得できたためしがない。とりあえず、一冊本が増えたら一冊処分するとの休戦協定を結び、しのいでいる。それにしても、文字や映像に過剰な思い入れを抱いてきた私には、実用性で即断していく彼女の姿勢は、ある意味新鮮でさえあるが、やはり切ない。まあ、狭い部屋ゆえスペース闘争も仕方ないのだが。

 本号から廣瀬純さんの「生の最小回路」が始まる(月一回掲載予定)。政官財とメディアが結託した見せかけの物語(一〇〇年に一度の金融危機、二大政党論、etc.)は、私たちをどこまでも受け身にとどめ、能動的主体から限りなく遠ざける(最大回路)。「自己責任」「不況だから」などといった言葉をふりかざして。奪われた言葉、追いやられた生の「最小回路」を取り戻すために、文学や映画、哲学の潜勢力を、もう一度、信じてみたいと思う。ついでに、部屋のスペースも取り戻してみたいが、無理だな。(山村清二)