週刊金曜日 編集後記

1268号

▼徘徊団4回目、東武伊勢崎線沿線は寒いというより、くらかった。西新井駅前の「ドン・キホーテ」の明るさが逆に嘘っぽい、少し幻想的でもあった。
 休もうと思っても、お店がない。荒川と隅田川のあたりで、股関節と、後十字靱帯欠損の左膝が「まだ歩くのかよ」と責め立てる。
 始発電車に座って少し休もうとの思惑は木っ端みじんだった。混み具合に驚いた。始発電車だぜ!スーツ姿のヒトはほとんどいない。そして二つ目の西日暮里駅に着いた途端に、乗客が走り出したのにもびっくり。
 何が何だか分からないうちに一緒に降りた徘徊団は、駅前のこれまた満員の「吉野家」と「松屋」を見て唖然とする。ここに向かっていたのだ。ほんの10分で朝食をとり職場に向かうのだろう。
 吉野家のハムエッグ納豆定食は368円で三つの惣菜とご飯、味噌汁がつく。牛丼並に味噌汁お新香セットだと500円で収まらない。同じ駅前の「マック」はガラガラ、ソーセージマフィンとコーヒーで200円だが見向きもされないのだ。(土井伸一郎)

▼「俺」、「僕」、「私」。男性が自分のことを書いたり語ったりする時には、いろいろな一人称が出てくる。自分だったらどうだろうかと、ふと考えてみた。
「僕」、「ボク」は、女子高の頃同級生の『アニメージュ』を読んでいた一群が使っていてうらやましかったが、クラスで数人レベルだったので使わずじまい。今どきも歌詞で使われたりはするけれど、一般的じゃない。しかも、今の年齢ではさらに無理かも。「俺」ともなると、自分のことを考えるときに頭をかすめたこともない。
 友人との会話を思い返すと「あたし」と言っていることもあるが、書き言葉で「あたし」となるとニュアンスが変わってくるし、実際書いたことはない。「うち」とかを使う地域でもなかった。そうなると「私」一択? 一人称を選べないことが、なんか悔しい。しかしまあ、選べたら選べたで使い分けで思い悩むのか? 周囲を見回して「僕俺分布図」を脳内作成してみると、悩んでなさそうな顔も多数。なんにしろ、選べた方がいいに決まってる。(志水邦江)

▼マスクがない。新型コロナウイルスの影響で店頭は品切ればかり。石油ショック時のトイレットペーパー騒動を思い出してしまう(歳!)が、買い占めて通販で高く売るような「火事場泥棒」は当時もいたのだろうか。酷い話だ。
 火事場泥棒の最たるものがドサクサ紛れの「緊急事態条項」提言だ。自民党の伊吹文明元衆院議長の「憲法改正の実験台」発言は、暴言だが本音だから始末が悪い。
 そもそも、インフルエンザも含めてマスクにはウイルスの拡散防止効果はあっても、予防効果はあまりないことは多くの専門家が伝えている。それゆえ海外からは奇異な目で見られる日本人のマスク姿は、大正時代のスペイン風邪大流行の際、政府のマスク着用通達から一般化したらしい。当時、『大阪毎日新聞』がマスク強制を「箝口令」という表現で皮肉ったが、着用しない者は乗車を拒否されたとか。昨今日本のメディアが報じる中国での乗車拒否も日本が先だ。歴史は繰り返す。「緊急事態宣言」が出て「非マスクは非国民」とされ、本物の箝口令が敷かれる日に備えねば。(山村清二)

▼特集の取材で林香里さんに話をうかがっていて「ジェンダーへの姿勢は、リベラルのほうが自分は人権重視・平等主義者と自負している分保守より始末が悪い」という指摘があった。広河隆一氏のハラスメント問題などを調査した調査委員会の報告書でも「反権力を掲げる組織ほど、自分たちは人権のことはよくわかっているとの思い込みが強くなるという陥穽に陥りがち」で「自分たちの言動が人権侵害や差別に当たるかどうかの自省を弱めてしまう」と指摘されている。これ、反権力・反差別・人権派を謳う団体・組織(NGOでもメディアでも法律事務所でも)にいる女性たちが共感する「リベラルおやじあるある」だ。
 小社も例外ではない。今でこそ役員は男女半々だが、長いこと男性だけで、言行不一致を指摘しても「私が女性を差別するわけないじゃないか」と怒る役員もいたし「ジェンダー情報にフェミニズムばかりとりあげるな」と意味不明な要求をする編集長も存在した。今がジェンダー課題を誌面に反映させている初の編集長の時代。やっと理念に近づいた。(宮本有紀)