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ハンセン病回復者と地域で住まう選択(上) 「人生を取り戻したい」
大月えり奈・ルポライター、カメラマン、社会福祉士|2025年12月16日3:58PM
大阪で過ごす時間が生きる支えに
北野さんは「この時期は谷底まで落ちた気がしたけれど、人生には悪い時もあれば良い時もある」と話す。
近年は大阪府の里帰り事業に参加したり、入所者の社会復帰を支援する「ハンセン病回復者⽀援センター」(大阪市。以下、支援センター)との関わりなどを通して、大阪に友人ができた。
電車に乗って大阪に帰るようにもなり、社会復帰をした回復者やボランティアらと集まって食事やカラオケを楽しむ。北野さんにとってこうした時間はかけがえのないものになった。
里帰りをずっと続けたいと、療養所のリハビリ室でサイクリングマシンを15分漕ぐトレーニングを毎日続けてきた。社会復帰をしても甥の息子に迷惑はかけたくないと心に決めている。できる限り自立した生活をしたいと、老人ホームではなく集合住宅で一人暮らしをする予定だ。
長年にわたり親身になってサポートを続けてきた⽀援センターの加藤めぐみコーディネーターは、「101歳だから私たちもドキドキしている」と微笑む。
「ハンセン病に特有の後遺症も、できるだけ今までに近い医療体制を整えたい。地域の関係者と情報を共有して準備を進めている。これからの人生を楽しんでもらいたい。もし何かが起きても私たちがいるから大丈夫だと思ってもらえるよう、精神面も精いっぱい支えていく」と言葉に力を込める。
私は北野さんに、「偏見や差別は怖くないか」と尋ねてみた。すると、「嫌う人もいるだろうけど理解してくれる人もいるからね。今はあまり感じることはないよ」と噛み締めるように語った。
これからは行きたい時に両親の墓参りをしたり、気ままに近所を散歩したり、自由に過ごしたい。
「歳だからどうなるか分からないけど、生活が難しくなってきたら第一段階として訪問介護や訪問診療。第二段階として介護付きの施設。それでもダメなら病院かな。療養所にはもう戻りたくないよ。やっぱり大阪で死にたいね」
本山さんは72歳で人生の再スタートを
16年前から大阪府のマンションで一人暮らしをする本山恵子さん(88歳)。瀬戸内海の離島にある香川県の大島青松園で50年以上を過ごした。72歳の時に、それまでの人生のすべてを失わせた療養所から出てやり直したいと強い覚悟で社会復帰をした。
本山さんは1937年、兄たちと弟との4人きょうだいの長女として香川県で生まれた。ハンセン病を発症したのは9歳、国民学校4年生の時だった。学校で健康診断をした医師が気付いた。
無らい県運動が激化していたが、その医師は強制隔離をするほどの病気ではないという自分の考えを持っていたようだった。本山さんを保健所に突き出すことはせず、密かに自宅療養ができるように計らってくれた。
医師が派遣する看護師が家に通い、当時使われていた薬「大風子油」による治療を受けた。11カ月休学した後に症状は治まり、医師の許可をもらって復学したが、すぐに他の親たちから猛抗議を受けた。
「1カ月も経たないうちに通えなくなり、学校との縁は切れてしまった」
当時はハンセン病患者だとわかると、着の身着のままで連行される人もいた。本山さんはそこから約5年、自宅に身を潜めて過ごすことになった。
15歳で大島青松園に入所
家族の食事や洗濯の手伝いをしながら、兄から借りた教科書で独学をした。敷地には背の高い菜の花畑があったため、中に隠れて少しだけ外に出る時もあった。だが客が来ても顔を出さないようにし、母からは「弟に絶対触れないように」と言われていた。
ある日新聞で、山梨県でハンセン病を苦に一家9人が青酸カリを服毒して心中する事件が起きたことを知った。家族は絶望の淵に追いやられた。
「自分は厄介者だからいなくなった方がよいと思った。どうにか死体が見つからない自殺方法はないか、子どもながらにずっと考えていた」
遺体が見つかるとハンセン病患者がその家にいたこともわかり、家族が迫害を受けることを恐れたのだ。
苦悩する日々の中、15歳を迎えた。本来であれば中学を卒業し、進路を考える年齢だった。
「自分が家にいると兄たちの結婚に支障が出る」
療養所行きは避けられないと考えた。
52年に大島青松園に入所した。大島は高松港からわずか8キロメートル。夜になると対岸の明かりが見える距離だが、今でも橋は架かっていない。絶対隔離の象徴のような場所だった。
入所した後にプロミンを使うことができ、あれだけ長年悩まされた熱こぶは、わずか3カ月でさっぱりと消えた。もう治ったのだから家に帰れるのではないかと考えた。
「でも」と本山さんは続ける。「よくなったからといって、周りの誰一人として退所のことは口にしなかった。症状がない人は他にもいたけれど、療養所では言い出しにくい雰囲気があった。やっぱりこういうことなら、ずっといなきゃならんのだろうなという感じがした」
「どうしても勉強がしたい」
療養所の中にも小中学校があり、これでようやく勉強ができると思ったが、その期待は打ち砕かれた。「あなたたちは一生この島で暮らすのだから教科書の勉強は必要ない」と教師は言い放ち、作文ばかりを書かされていたという。
卒業後は園内で割り当てられた強制作業を行なう日々を過ごしていた。だがある時、本山さんをはじめ、入所者たちが強く要望し続けていた高等学校が、全国で唯一、岡山県の長島愛生園に「邑久高等学校新良田教室」として設置されることが決まった。
「何がなんでも入りたかった。これまで学校にちゃんと行けなかったから、とにかく勉強がしたかった」。本山さんは猛勉強をし、多くの応募があった中、一期生として合格を果たした。
18歳で新良田教室に入学。各地の療養所から集まった15歳から30歳までの同級生と机を並べた。教員は白い予防着姿で授業を行ない、生徒は教員室には出入りができないといった明確な線引きが存在したが、それでも各学科を担当する教員が来て授業をしたことが本山さんは嬉しかった。
新良田教室を卒業した後は、同級生の中には社会復帰をして会社に就職する人や大学に進学する人もいた。
「自分はどうすべきか」――本山さんは悩んだ末、大島青松園に戻った。父もハンセン病を発症しており本山さんの1年後に入所していたのだが、まったく目が見えなくなり介護が必要だったのだ。島に戻った2年後には療養所内で結婚。その夫の体調が急速に悪化し、看病も重なった。
「もう社会には戻れないものだと思い込んでいた」

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