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ハンセン病回復者と地域で住まう選択(上) 「人生を取り戻したい」
大月えり奈・ルポライター、カメラマン、社会福祉士|2025年12月16日3:58PM
「らい予防法」が廃止されて30年目を迎えた。回復者が高齢化する中、望む地域で暮らしていくには、想定されなかった制度的・社会的困難が立ちはだかる。「共生社会」を絵空事で終わらせないために、何が必要か──
約90年にも及ぶ国の隔離政策により患者や回復者、家族への人権侵害が繰り広げられたハンセン病問題。誤った知識を国民に植え付け、恐怖心をあおった。戦前から戦後にわたり、すべての患者を地域から一掃しようと強制的に療養所に送り込む「無癩(らい)県運動」も官民連携で展開された。 こうしてもたらされた人生被害は甚大で、家族との縁を断ち切られ、頼れる人がいない回復者が多い。地域社会で受けた差別の記憶が脳裏から離れず、療養所で生涯を過ごす人が大半だ。そうした中、「最後だけでも〝一般の社会〟で」と療養所から社会復帰を決断する人もいる。栗生楽泉園に住む北野貞晴さんは、101歳にして10月からの社会復帰を目指す。また16年前に大島青松園を72歳で退所した本山恵子さん(88歳)は、縁もゆかりもなかった地域で再スタートを切った。この連載では、入所者の社会復帰に懸ける思いを知ることから始めたい。そして共生社会を目指す私たちに何が求められているか、一緒に考えたい。

8月上旬。引っ越しの準備を進める北野貞晴さんに会いに、群馬県草津町にある国立療養所栗生楽泉園に向かった。湯畑から約4キロメートル、尾根を切り拓いた標高約1100メートルの山深い場所にある。療養所の側面はすベて深い渓谷となっている。
北野さんの部屋は、常時の看護・介護を必要としない居住区「一般舎」にあった。部屋の入り口前に置かれた植木鉢には赤い花が咲いている。よく水やりがされているようだ。
ガラガラと引き戸を開けると、はっきりとした声で「おお、いらっしゃい」と笑顔で迎えられた。部屋には職員から贈られた「101歳おめでとう」と書かれたカラフルな色紙が飾られている。
後遺症で手足に知覚麻痺があるが、道具を使って身の回りのことは自分で行なう。介護は受けておらず、坂道の多い療養所内の道でも杖を使わず歩く。90歳からハーモニカを始め、100歳からは大正琴に挑戦した。
北野さんに過去を尋ねることに葛藤があったが、快く話してくれた。途中で休憩を入れようとしても、「まだまだこの先があるんだ」と続けてくれた。
80年以上を療養所で過ごしてきた北野さんが、大阪府での社会復帰に向けて動き始めたのはわずか半年前のことだ。数年前に親族で唯一連絡を取っていた弟の妻が亡くなり、それまで交流をしていなかった甥の息子に初めて連絡をした。すると大阪で会うことが叶い、やりとりができる関係を築けた。
ある時北野さんは、「最後は療養所を出て自由に生きたい」と積年の思いを打ち明けた。すると答えは「大阪に帰っておいで」。はるか彼方の夢だったふるさとでの暮らしが近付いた瞬間だった。

13歳で発症その後親元を離れる
北野さんは1923年、大阪府堺市で4人きょうだいの長男として生まれた。姉と弟を早くに亡くし、母も一番下の弟を出産してから間もなく他界した。
ハンセン病を発症したのは13歳の頃。顔に斑紋が出た。心配した父は北野さんを連れて病院を回ったがどこも診断を下さなかった。当時は無癩県運動の最中だった。「ハンセン病患者を診たとなると病院を消毒しなければならず、届け出義務もあって大変だったのだろう。医者はあえて病名を告げず、よそへの紹介状を出すだけだった」。父も次第にハンセン病ではないかと気付き、病院への受診をやめた。
北野さんは当時のことを、全員が全員、強制収容に積極的なわけではなかったと語る。「警察官は気付いていたようだけど見逃してくれた」
だが村では徐々に自分の噂が広がっていることを北野さんは感じ取っていた。大騒ぎになる前にと学校をやめ、自宅にこもる生活を送った。
父は新聞で病気に効くという薬を見ては遠くの薬局まで買いに行ってくれた。飲めば少しは効いた気もしたが、ひと月分で公務員の初任給を超えるほど高額だった。家計を圧迫することを気にし、親元を離れ、草津で温泉療法を受けることにした。14歳の時だった。これが長い別れになると予感した父は、辛さのあまり見送りに来られなかった。
「もう外では働けない」20歳で療養所に入所
当時の草津町では、全国から集まったハンセン病患者らによる湯之澤集落が形成されていた。人口は800人余りに及び、強制隔離政策下ではあったが、まだ解散させられる前だった。北野さんは患者専門の宿に泊まり、連日治療をした。だがこの宿の費用も高額で、実家からの仕送りはすべて旅館が握った。
家族に大きな負担をかけているとの思いから症状が改善すると宿を出た。集落内で土木関係の仕事をして自力で生活費を稼いだ。病気の影響が見た目に分かりにくかったため、東京まで仕事を求めて行ったこともある。
まだ10代の後半。北野さんは望郷の念に駆られ、実家に帰ったことがあると言う。だが一晩泊まっただけで家を後にした。「追い返されはしなかったけど、家族からは歓迎されていない雰囲気を感じた。村では噂が収まっていただろうし、やはり迷惑はかけられない。寂しかったよ」
その後、湯之澤集落が解散させられると、北野さんはハンセン病を隠しながら社会で生活していくことに限界を感じた。
「もう外では働けない、療養所に入らなければと思った」
まず静岡県にある神山復生病院に入所し、その後、東京都の多磨全生園に移った。そして、栗生楽泉園で新しい薬が使えるようになったという新聞記事を見つけ、「治るのなら何としても使いたい」と、藁にもすがる思いで全生園から逃走した。44年、20歳の時に栗生楽泉園に辿り着いた。
だがここには、全国の療養所から〝特に反抗的〟だとみなされた者が送りこまれ、死に至るほどの重罰に処される「重監房」があることは知らなかった。
戦況の悪化に伴い、療養所では栄養失調で病状が悪化する者が続出。手足に重度の後遺症がある人でも山の急斜面を何度も往復し、炭を運び続ける過酷な労働を強いられた。一日に何人もが命を落としたという。
「でも重監房があったから何も言えず、ただ耐えるしかなかった」
医療体制も劣悪だったと振り返る。戦後に入り特効薬のプロミンが使えるようになったが医師からは突然打ち切られ、せっかく良くなったのに、よく分からない薬に切り替えられたと語る。
「その薬で顔中に大きな結節(熱こぶ)が次々にできた。医師は熱こぶを欲しがり、研究用で大学に送っていたらしい。無法地帯のようなものだった。変わった治療を受けた仲間が2人亡くなった」
熱こぶが破裂すると真っ黒な痕になってしばらく残った。弟が面会に来たことがあったが、顔を見るなり怖がって逃げ帰った。「その時から関係がおかしくなってしまった」
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