週刊金曜日公式ブログ 週刊金曜日ニュース

国家主義者は救国の伝道師ではない(浜矩子)

「東が西から遠いほど、わたしたちの背きの罪を遠ざけてくださる」。旧約聖書の一節だ(詩篇103.12)。神の力を謳い上げている。聖書講座を開講しようとしているのではない。フランス大統領選の成り行きを見守る中で、この「東が西から遠いほど」というフレーズが頭に浮かんだのである。

最終的に誰が勝利するかはさておき、候補者たちの主張を聞きながら、奇妙な点に気がついた。それは、いまや、どうも東が西からあまり遠くなさそうだということである。聖書の上記の言い方は、東と西が対極にあるところに眼目がある。人間からこれ以上遠くはなりえない遠方に、神は罪を追いやってくださる。それが、この一節の勘所だ。

政治の世界において、対極的な位置づけにあるものは何か。それは右と左だろう。右翼と左翼が政治的信条の両極だ。この両端を結ぶ直線上に、中道右派とか中道左派があったりする。右翼から最も遠いところに向かって進めば、左翼にたどり着く。左翼から遠ざかれば遠ざかるほど、右翼に近づく。東から西が遠いほどに、左翼は右翼から遠い。そのはずである。

だが、今のフランスでは少々状況が違う。今回の選挙に向けて最右翼に陣取ってきたのが国民戦線を率いるマリーヌ・ルペン氏だ。極左ポジションから急浮上したのが、ジャン=リュック・メランション氏である。フランス政治の信条測定定規において、この両者が左右の両端を画している。そういうことだ。ところが、この2人が言っていることは、驚くほど似通っている。反グローバル・反自由貿易・反EU。2人とも、ロシアのプーチン大統領がお気に入りだ。

いみじくも、選挙キャンペーンの本格始動に当たって、ルペン氏が次のように言っていた。「いまや、右翼も左翼もない。あるのは、グローバル対愛国の対決だ。」メランション氏も、これには大いに同感しそうだ。

対極的に遠い関係にあるのは、いまや、右と左でも西と東でもなくて、グローバルと愛国なのか。こんな対極意識が広がってしまうのは、実に危険なことだと思う。グローバルを悪役に仕立てることで、国家主義者たちが救国の伝道師であるかの自画像を打ち立てる。このまやかしに乗せられると、人々は、それこそグローバルなスケールで国家権力の餌食と化していく。

グローバル化という現象は、確かに扱い方が難しい。だが、国境を超えた相互依存関係が深まれば、それだけ、誰も偉そうな顔が出来難くなる。誰もが誰かのお世話になっている。これほど人々を謙虚にしてくれる構図はない。これほど、人々がお互いに愛想良くすることを容易にしてくれる時代はない。親分がいないから、誰もが責任をもって全体のことを考えなければならない。なかなか、麗しい風景だ。グローバルは愛国で、愛国はグローバル。実は、それが今日的時代状況であるはずだ。

この感覚で、西と東が手を結び、右翼と左翼が抱き合うなら、確かに、人類は罪から最も遠いところにいけるかもしれない。神よ、何とぞ、そこに向かって我らを導き給え。

(はま のりこ・エコノミスト。4月28日・5月5日号)

「働かざるもの食うべからず」を続けるのか(佐々木実)

社会が閉塞感に覆われている現状を、「財政」という視点から、これほど明快に解き明かしている入門書もめずらしい。『財政から読みとく日本社会』(岩波ジュニア新書)を著したのは、財政社会学を専門とする井手英策慶應義塾大学教授である。3月の民進党大会での熱弁が話題になったが、民進党のブレインとしてではなく、財政学者としての井手氏の学説に触れてみたい。

井手教授の慧眼は、自己責任や自助努力を重んじる日本型福祉国家の本質を「勤労国家」と捉えた点にある。1961年に国民皆保険・皆年金制度の運用が始まるとき、政権を率いたのは大蔵省出身の池田勇人首相で、借金なしで予算を組む際、税の負担率を国民所得の20%以下に抑えることを目指した。高度経済成長の立役者とされる池田首相は「社会保障をぜいたくだと考えていたむき」があった。

とはいえ、政界の保革対立が激しかった70年代前半、田中角栄政権は高齢者医療費の無料化に踏み切るなど社会保障を大幅に拡充した。この時期、日本はヨーローッパ型の福祉国家の道を歩むかどうかの別れ道に立っていた。

70年代後半、石油ショックなどを乗り切るために財政投融資を活用した日本独特の土建国家路線が確立され、結果として、税の負担率を高めて福祉を充実させたヨーロッパとは異なる道を選択した。

高度成長が終焉して土建国家の財政赤字が深刻になると、大平政芳政権は社会保障費を切り詰めるために「家庭基盤の充実」を謳った。家族像にも勤労国家が投影され、専業主婦が福祉サービスの担い手として期待された。

結局、勤労国家の政策は、公共事業(おもに地方での雇用創出)と所得減税(勤労者への褒美)に収斂した。経済成長を前提とするなら整合性をもつ政策だが、バブル崩壊後の90年代に繰り返された所得税の大減税と巨額の公共投資は、政府の借金を雪だるま式に膨らませた。

一方で、90年代には高齢化が進み、共働き世帯が専業主婦世帯を上回った。医療や介護、子育て、教育などのサービスが求められるようになり、財政ニーズの面からも、土建国家、勤労国家の枠組みはもはや完全に時代遅れとなったのである。

ところが2000年以降、財政組み替えの余裕などなく、むしろ勤労国家の仕組みが逆回転して公共投資や社会保障費を削り落とし、地方や低所得者を狙い撃ちする「袋叩きの政治」が社会を分断した。

井手教授によれば、勤労国家とは生存権と勤労の義務を結びつける社会であり、いわば「働かざるもの食うべからず」の社会である。勤労国家という制度的要因を背景に、自分がギリギリのところで「中の下」にとどまっていると信じている多くの日本人は、格差問題を他人事として受けとめている。

井手教授は、ある意味で、70年代の歴史的な選択を問い直している。「人間に共通のニーズをみたすため、社会のメンバー全員を現物給付の受益者にする」という構想には強い反発が予想されるけれども、少なくとも、井手教授が描いた「勤労国家」という自画像はあるべき制度設計を議論する際の出発点となる分析である。

(ささき みのる・ジャーナリスト。4月21日号)

政府の中長期財政収支見通しは“取らぬ狸の皮算用”(鷲尾香一)

国際公約となっている2020年のプライマリーバランス(基礎的財政収支、以下PB)の黒字化。結局、達成はできないということが白日の下に晒された。

PBはわかりやすく言えば国債関連の収入・支出を除いた財政を指す。つまり、税収を中心とした歳入で歳出が賄われている姿だ。

企業にたとえれば、無借金経営の上、黒字化となれば儲けが出ている状態になる。

では、今の国家財政はどうなっているのか。当欄でも以前に指摘したが、16年度予算では、三度も補正予算を組み、当初、赤字国債の発行は計画していなかったにもかかわらず、税収不足などから赤字国債を発行するに至った。

16年7月時点での一般会計のPBは11兆6000億円の赤字だったが、今年1月に出された政府の中長期財政収支見通しによると、16年度一般会計のPBの赤字は16兆7000億円と昨年7月時点から5兆1000億円も増加している。

赤字増加の要因は、税収下振れ額が1兆7000億円、社会保障費や交付税以外の歳出増が3兆5000億円となっている。つまり、予算での歳入の見通し、目論見が見事にはずれたのだ。

しかし、中長期財政収支見通しによると、16年度の三度にわたる補正予算による景気対策効果があらわれ、17年度からは税収が着実に増加する見通しにある。

16年度55兆9000億円だった税収は17年度57兆7000億円、18年度59兆6000億円、19年度62兆9000億円、20年度には67兆1000億円まで増加すると予測される。

ただし、この税収見通しは16年7月の時の中長期財政収支見通しと比較すると、各年度とも2兆円程度下方修正されている。

一般会計でのPB対象経費は、16年度が77兆9000億円であったのに対して、17年度73兆9000億円、18年度74兆9000億円、19年度77兆円、20年度79兆6000億円というように、税収が増加する見通しにもかかわらず、19年度までは16年度を下回る水準にある。

つまり、20年度までは歳出を抑制して、一般会計のPB黒字化に向けた努力をしているという“格好”だけでも示そうという浅知恵が見て取れる。

実際、一般会計のPBの見通しでは、20年度の赤字額は6兆8000億円、国と地方を合わせたPBは8兆3000億円の赤字と黒字化など程遠い見通しとなっている。

だが、政府の中長期財政収支見通しは、一般会計でのPB対象経費を抑制していることでも明らかなように、補正予算を組まないのが前提となっている。本当にそんなことが可能だろうか。

百歩譲って政府の見通しのように景気が回復して税収が増えたとする。しかし、景気の回復は日本銀行が実施しているゼロ金利政策を踏まえた未曽有の金融緩和策の終焉を意味する。

ゼロ金利で最も恩恵を受けているのは、タダ同然の金利で国債を発行している政府なのだ。景気が良くなり、金利が上昇を始めれば、国債の利払いが増加し、国債費が膨張することになる。結果、PBの黒字化は遠のく。

政府の中長期財政収支見通しは究極の“取らぬ狸の皮算用”ということになる。

(わしお こういち・経済ジャーナリスト。4月14日号)

雇用環境改善だけでは消費は増加しない(高橋伸彰)

現在の安倍政権が誕生してから政府の景気判断(『月例経済報告』)で、「回復している」という総括判断が示されたのは、消費税率引き上げ前の駆け込み需要があった2014年1月から3月までの3カ月にすぎない。翌4月には「緩やかな回復基調が続いている」と判断が下方修正され、その後は今年3月に至るまで36カ月連続の「回復基調」、すなわち「回復の途上にある(道半ば)」が続いている。

「回復している」と「回復基調」の間にどのような違いがあるのかを一般論として論じるのはむずかしいが、安倍政権下の景気に焦点を当てるなら個人消費が鍵を握っている。というのは政府が個人消費が「増加している」と判断したのも、14年1月から3月までの3カ月にすぎないからだ。つまり日本の景気が「回復している」という結果を出せずに、いつまでも「回復基調」という道半ばで足踏みしているのは、GDP(国内総生産)の6割を占める個人消費が増加しないからである。

一方、政府の景気判断によれば雇用情勢は15年12月以降、16カ月連続して「改善している」。この3月末に公表された「労働力調査」でも完全失業率は2.8%と22年ぶりの低水準となり、昨年11月以降すべての都道府県で有効求人倍率が1.0を上回っていることと併せ考えれば、雇用の需給が逼迫していることは間違いない。

それにもかかわらず雇用情勢の改善が、賃金上昇を通して個人消費の増加に波及しないのはなぜだろうか。政府・日本銀行は五右衛門風呂の例えを使って、釜は熱くなっているが、釜の湯が温まるまでにはなお時間を要していると嘯くが、ここまで湯が冷えたまま(消費が増加しない)なのは、そもそも湯を温められるほどに釜は熱くなっていない(賃上げが不足している)からではないか。

実際、『朝日新聞』は失業率が22年ぶりに低水準となったと報じる4月1日付の紙面で「人手不足感が強まっているにもかかわらず、賃金の伸びは鈍い」と指摘、『日本経済新聞』も同日付で「人手不足が賃金や物価上昇に波及する経済の好循環は実現していない」と報じている。安倍首相は「官製春闘」で賃上げを実現すれば消費も増えると目論んでいたようだが、今春闘の失速ぶりをみれば当てが外れたのは明らかだ。

筆者は本誌への寄稿(「永遠の『道半ば』に潜む安倍首相の真意」、2017年1月20日号)で、累計約340兆円の「失われた賃金」こそが消費不調の主因だと述べたが、その責任は経営側だけでなく積極的な賃上げ闘争を怠ってきた労働組合にもある。言うまでもなく、雇用の需給が逼迫したからといって市場メカニズムの作用で賃金が自動的に上がるほど現実は甘くない。賃上げは労働組合が対立覚悟で経営側と交渉して勝ち取るものであり、そのために団体交渉権やスト権行使などの闘争手段が法律で認められている

連合は一部大手組合の賃上げをもって春闘を総括するのではなく、すべての労働者が失われた賃金を奪還するまで間断なく闘争を続けるべきだ。そうでなければ安倍政権の命運が尽きる前に、連合に対する労働者の信頼が失われてしまうのである。

(たかはし のぶあき・立命館大学国際関係学部教授。4月7日号)

アンパンの経済学(浜矩子)

開いた口がふさがらず、顎がはずれて地面に着きそうになった。道徳教科書の検定結果に関するニュースを聞いてのことである。小学校の道徳教育は、2018年度から正式に「教科化」される。それに対応して出版各社が作成した教科書に関する検定が行なわれた。

検定意見を受けて「パン屋」が「和菓子屋」に差し替えられることになった。お散歩の途上で、おじいさんに連れられた小学1年生がパン屋に立ち寄る。この想定が、「我が国や郷土の文化と生活に親しみ、愛着をもつこと」という学習指導要領が示す「内容項目」に合致しない。そういうことらしい。

一体どんな人たちが教科書検定にたずさわっているのだろうか。多くの審議会委員たちが、明治の富国強兵時代からタイムスリップして来ているのかもしれない。全国津々浦々のパン屋さんたちは、今、どんな気持ちでいるだろう。自分たちは、子どもたちが愛着を持つべき対象として認知されない。子どもたちの愛着の対象となってはいけない。そんな風に考え込んでしまわないといい。

一方で、「グローバル人材の育成」などということがやたらに言われる。このことと、パン屋は×で和菓子屋なら○だという発想の間には、いかなる脈絡があるのか。少し考えればすぐ解る。上記の「グローバル人材の育成」とは、視野がグローバルな人々を育てるとか、多様性を包摂できる感性を育むことを意味してはいない。目指されているのは、グローバル競争に勝てる人間軍団の育成だ。愛国的グローバル戦士だ。この「愛国」の部分を担当するのが、道徳教育だということなのだろう。

このおぞましきニュースが、どうも、今場所の大相撲のイメージと重なってしまう。「○○年振りの日本人横綱」という言い方が飛び交う。大奮戦した手負いの新横綱、稀勢の里関に拍手を惜しみはしない。だが、この間、相撲人気を支えてきた外国人力士たちは、今、どんな思いでいるだろう。それが気になるのだ。

ところで、本欄は「経済私考」である。だから、このパン屋問題も、経済的観点から考えておく必要がある。呆れるばかりの道徳教育の結果、日本の「文化と生活」の中からパン屋さんたちがいなくなったらどうなるか。端的にいって、和菓子業界も大いに打撃を受けることになるだろう。

なぜなら、世の中からアンパンが消えるからである。アンパンは芸術品だ。和と洋の絶妙なフュージョン。奔放な折衷コラボが生み出した至高の作品だ。残念ながら、筆者は甘い物が大苦手だ。その意味ではアンパン・ファンだとは言えない。だが、アンパンの経済効果は解る。アンパンから、子どもたちを和菓子の世界に誘導することだってできるだろう。

相異なる物たちの出会いが新たな創造につながる。多様なる人々の相互包摂が、新たな文化を生み出すのである。経済活動は、画一化と平準化が進めば進むほど、停滞する。人間社会は、多様性が低下すればするほど、消滅に近づく。これくらいのことは、教科書検定に当たるタイムスリップ人たちにも解ってほしい。筆者の顎の健康のためにも。

(はま のりこ・エコノミスト。3月31日号)

貧しい者、虐げられた者への共感が原点だったケネス・アローの経済学(佐々木実)

米国の経済学者ケネス・アローが2月21日に死去した。95歳だった。数理経済学者のアローの論文は抽象的かつ難解ということもあり、日本ではアローの名は一般にはあまり知られていない。訃報も小さな扱いだった。

アローは一般均衡理論と厚生理論への貢献で1972年にノーベル経済学賞を最年少で受賞した。同時代に活躍したポール・サミュエルソンは「20世紀で最も重要な理論家」と評したが、実際、アローの業績は多岐にわたり、いずれも根源的なテーマばかり扱っている。

ただ私にとってアローは、経済理論の礎を築いた天才という以上に、日本人の経済学者宇沢弘文を「発見」した人物として重要だった。宇沢の評伝を企画したときからいずれ会わなければと心に決めていたが、インタビューが実現したのは宇沢が亡くなって1カ月後の14年10月だった。

取材はスタンフォード大学で2日間にわたって行なった。初日はアローの研究室、2日目はファカルティークラブのレストランだった。高齢ながらアローの眼光は若いころの写真そのままの鋭さで、記憶の衰えもまったく感じさせなかった。

まだ無名だった20代の宇沢から論文が送られてきたときのことをたずねると、「論文を読んだその日か翌日には、ヒロに手紙を出しましたよ」と昨日のことのように語った。アローに招聘された宇沢はスタンフォード大学で才能を開花させた。「グレイト・コラボレーター(偉大な共同研究者)だった」とアローは讃えたが、アローに見いだされていなければ、宇沢が米国で活躍することもなかった。

宇沢は生前、アローからしばしば子どもの頃の思い出話を聞かされたと懐かしそうに話していた。食事の際にそのことを伝えると、アローは両親の話などを腹蔵なく語ってくれた。

アローの両親はともにユダヤ人でルーマニアからの移民だった。大恐慌のあおりでアロー家は破産、10年ほどのあいだアローは極貧生活を強いられた。最初に通った大学がニューヨーク市立大学だったのは授業料がタダだったからである。サンドイッチをほおばりながら、「学校はタダだったんだよ」「タダですよ」と何度も繰り返す天才理論家の姿に妙に親近感を覚えたものである。

『ニューヨーク・タイムズ』のアローの訃報記事に、「彼の政治的な立場は、明確にリベラルです」というロバート・ソローのコメントを見つけ、少々驚いた。かつて宇沢が語った言葉そのままだったからだ。「アローの経済学の原点には貧しい者、虐げられた者への共感がある」と宇沢は語っていた。

ソローもノーベル経済学賞受賞者で、アロー、宇沢の親友だった。じつは、アローに会う前に取材したのがソローで、ふたりの話から宇沢がアローとソローに特別な信頼を寄せていたわけが理解できた。「リベラル」への信奉が終生、3人を結びつけていたのである。

「リベラル」な態度を知の探求者の必須の条件とみなした彼らは、知識人が知識人でありえた時代の碩学だったように思う。時代は確かに変わった。アローの訃報に接して、「リベラル」の意味を今更ながら考えさせられている。

(ささき みのる・ジャーナリスト。3月24日号)

休眠預金活用法への拭えない疑問(鷲尾香一)

10年以上放置されている“休眠預金”を民間の公益活動に活用する「休眠預金活用法」をご存じだろうか。すでに昨年12月9日に法律が公布されている。

休眠預金の活用が最初に浮上したのは2012年。この時は銀行界を中心に反対の声が上がり頓挫したが、14年に超党派「休眠預金活用推進議員連盟」が発足し、ついに実現の運びとなった。

休眠預金とは最後の取引または最後の満期日等から10年以上経過した預金のこと。この時点で形式上は預金者の権利は消滅、金融機関は休眠預金を利益として計上し、その利益に課税される税金を支払わなければならない。

形式上というのは、日本の金融機関は休眠預金であっても預金者から払い出しの請求があれば応じているからだ。ただし、ゆうちょ銀行では07年9月30日を基準に20年2カ月を経過したものは権利が消滅する措置を取っている。

核家族化が進み、独居高齢者が増加していることも一要因となり、毎年、巨額の休眠預金が発生している。金融庁の「休眠預金の発生・払戻状況」によると、休眠預金は年度平均900億円程度が発生し、払い戻しが行なわれた後も600億円程度の残高がある。つまり国にとり、この年間約600億円が休眠預金活用の原資なのだ。

休眠預金活用法では、活用の範囲を「子どもおよび若者」の支援にかかわる事業、「日常生活又は社会生活を営む上での困難を有する者」(生活困窮者)の支援にかかわる事業、「地域社会における活力の低下その他の社会的に困難な状況に直面している地域」の支援(地域活性化等の支援)にかかわる事業、これらに準ずるものとして「内閣府令で定める」事業の3分野に限定し、「個人への給付ではなく、団体の活動」に対して、「助成あるいは融資」をすることになっている。

しかし、どの団体のどの事業を対象とするのか、助成と融資をどう線引きするのか等々、具体的な議論はこれから。法の施行は18年1月1日となっており、実際に助成・融資が開始されるのは19年秋頃になる見通しだ。

政府はこの春にも内閣府に休眠預金の活用に関する審議会を設置する。ここで詰めの作業をし、19年の春には対象となる団体の指定を行なう考えだ。

筆者はいくつかの懸念を持っている。たとえば東日本大震災の復興支援事業では、助成を受けるだけ受けてほとんど中身のある事業を行なわないまま消えてしまったうさんくさいNPO団体が少なくなかった。まっとうな団体と詐欺まがいの団体を見分けるノウハウはあれから確立されたのか。助成や融資を受けた団体がその資金をどのように活用しているのか、会計処理は適切に行なわれているのかなどを継続的に監視する体制の構築はできているのか。あるいは助成・融資を受けた団体が破綻し、損失が発生した場合はどのように処理するのか――こういった多くの疑問は解消されていない。

所有者が特定できない預金とはいえ、あくまでも“他人の財産”だ。他人の財布に手を突っ込む“筋の悪い”政策なのだから、せめて管理・運用だけは厳格に行なわれることが最低条件だろう。

(わしお こういち・経済ジャーナリスト。3月17日号)

南阿蘇村の地獄3兄弟(小室等)

「地獄三兄弟」に会ってきた。

熊本県南阿蘇村河陽の老舗旅館〈地獄温泉 清風荘〉。地元民にとって地獄と言えば、あの地獄ではなく、清風荘のことで、「熊本県地獄」で郵便物は届くそうだ。「地獄三兄弟」とは、その〈清風荘〉を営む社長の河津誠さん(五四歳、長男)、副社長の謙二さん(五三歳、二男)、専務の進さん(五一歳、三男)たち三人、正しくは「地獄温泉の三兄弟」です。

二〇一六年四月一六日、南阿蘇村、震度七の地震。江戸時代から二〇〇年以上の歴史を誇る地獄温泉も、本震で、施設の壁にひびが入るなど大きな被害を受け、村道が土砂崩れでふさがり、宿泊客、従業員計五一人が一時孤立するが、自衛隊ヘリで救出される。

地震から一〇日後、三兄弟はそれぞれ示し合わせたわけでもなく徒歩で山をかき分け宿に向かう。泉源と水の無事を確認、敷地内は地割れができ、明治時代に建てられた本館に歪みはあれど、風呂施設も無事。再開のめどは立つ。希望を胸に、調理の腕を生かして炊き出しなど、村民のためのボランティア活動に邁進するが……。

六月二〇日、熊本に豪雨。降り続く大雨で地獄温泉にも大規模な土石流。本館も、もっとも古い「元湯」も飲み込み、被害は全体の三分の二に及ぶ。気持ちが折れかかる。村全体としても、交通流通の要所、阿蘇大橋が崩落。地元民は不自然な崩れ方だと言う。「ぐるっとどんだけ見回しても、あのサイズの崩落はあそこしかない。もっと細く小さくしか崩れないんですね、山は」と誠さんも言う。四月一四日の前震で大橋が架かる地盤は緩んでいたはず。

五月になって、〈地震発生後、南阿蘇村にある九州電力水力発電所の水路から、阿蘇大橋の方向へ二〇万トンもの大量の水が流れ出ていた〉との報道。人的崩落の側面が考えられるのに、追跡されるべきニュースは途絶えていると言う。メディアは弱り切っている。

本当の地獄になってしまった地獄温泉、笑えない。それでも、泉源と水は生き残ってくれた。三兄弟は元気だ。異口同音に言う。村の仲間たちと家族が無事なら、何だってやり直せる。最低でも三年間無収入の覚悟を決めた三兄弟は今、文字通り地獄からの生還に全力を注いでいる。

隣の「垂玉温泉 山口旅館」の山口さんにも会った。メルヘン村のペンション「風の丘・野ばら」の栗原さんにも。南阿蘇村に復興の手が届く順番は後の方だろう。待っていられない。避難所で結束も生まれた。地震から一年、新住民、旧住民一つになって、南阿蘇村の村おこしがはじまっている。

(こむろ ひとし・シンガーソングライター、3月10日号)

消えた民進党の「2030年原発ゼロ」(高橋伸彰)

報道によれば、2月27日に民進党の蓮舫代表は今春の党大会における「2030年原発ゼロ」方針の表明を断念した。背景には同党の支持母体である連合の猛反発があったという。

実際、連合の神津里季生会長は本誌2月24日号のインタビューで〈最終的には原子力エネルギーに依存しない社会をめざしていく必要がある〉と述べたうえで、〈そこに至る道筋で雇用や国民生活に与える影響を最小化していく努力は不可欠で、その間の再稼働はありうる〉という。原発ゼロの具体的時期には触れず、旧民主党時代に定めた2030年代(2030年ではない!)でさえ連合の方針よりも「踏み込んで」いると評するのだ。

民進党のエネルギー・環境調査会が、党大会に向け策定中の「原発ゼロ基本法案(仮称)」に「2030年ゼロ」を明記する考えを示したのは2月2日。そこから連合傘下の産業別労組へ理解を求める蓮舫代表の説明行脚が始まる。だが結局、合意は得られなかった。これに対し冒頭の断念が報じられた2月28日付『朝日新聞』(名古屋本社版)には「国民や労働者の生命、健康を守らずして何が労働組合か。労組のナショナルセンターとして失格と言わざるを得ない」という読者の声が掲載された。

この声を聞き改めて思うのは、かつての公害闘争で被害住民よりも企業側に立ち、公害の実態を隠そうとした大企業労組の姿勢だ。 公害研究者の宮本憲一は、公害が発生しても企業擁護にまわった労組を批判したうえで「水俣病の初期にチッソの労働組合が患者と対立し、四日市公害裁判を四日市労働組合評議会が提起すると三菱系企業労働組合が脱退したことなどは典型である」(『戦後日本公害史論』)と述べている。

前出の神津会長が原発再稼働の理由に挙げる「雇用や国民生活への影響」も、その主語は誰かと問えば、今回の福島第一原発事故で生業や生活を奪われた被災者よりも、傘下の電力総連を中心とする大企業労組を優先しているのは明らかではないか。

確かに、経営者と一体になって生産性を高め、そこで得られた付加価値の分配と組合員の雇用確保に専念してきた大企業労組にとっては、公害や原発事故の被災者、下請けや未組織労働者、地域住民は自分たちの雇用や生活に無関係な外部者かもしれない。しかし、そうした排除の思想が市民との間に分断を生み、労働組合の組織率や発言力の低下につながってきたことを忘れてはならない。

福島第一原発事故後も再稼働を容認する連合の方針が、いかに時代遅れかは先の新潟知事選挙や世論調査の結果を見れば一目瞭然である。そんな連合の方針に抗せない民進党に政権復帰の資格はないし、また、ともに働き、ともに生きるすべての労働者と市民のために企業や職域を超えて「身体を張り身銭を切った」(熊沢誠『労働組合運動とはなにか』)運動を展開できない連合にも明日があるとは思えない。

市民の生命と健康を危険に晒してまで考慮すべきような「雇用や国民生活への影響」など、私たちが暮らす社会には存在しない。そう考えれば、原発ゼロは2030年でも遅すぎるのである。

(たかはし のぶあき・立命館大学国際関係学部教授。3月3日号)

国家予算が姿を消す日(浜矩子)

日本から国の予算が消えてなくなる。そんな日がひょっとすると近いかもしれない。

こう思えてしまうのは、近頃、妙な理論が巷ではやっているからだ。火付け役は、内閣官房参与の浜田宏一先生だ。彼が「シムズ理論」なるものに心酔したと宣言した。以来、何かにつけてメディアにこのシムズ理論が取り上げられるようになった。

シムズはクリストファー・シムズ氏の名字である。シムズ先生は2011年のノーベル経済学賞受賞者だ。シムズ理論は、またの名を「物価水準の財政理論」だ。これを言いかえれば、要は「意図的無責任財政の薦め」にほかならない。デフレから脱却したいなら、政府は財政赤字の解消を追求しないと宣言しなさい。赤字垂れ流し大作戦を展開することでインフレ経済化を促進しなさい。そうすれば公的債務の返済など屁の河童。簡単に返せてしまえるようになる。

政府が無責任財政宣言を行なえば、国民も増税など行なわれないと安心しますから、財布の紐も緩くなります。それどころか、将来の物価上昇を見込んで買い急ぎ行動に走るでしょう。一気にデフレ解消です。なまじ財政再建などにこだわるから、デフレ脱却の埒があかないのです。

ざっくり言えば、こういうことである。これだけでも、かなりの際物論法だ。だが、これで驚いていてはいけない。なぜなら、この無責任財政大作戦が功を奏するためには、一つ、条件がある。それは、財政と金融の一体運営である。要は、中央銀行による国債の直接引き受けを解禁するということだ。これをやらないと、いくら政府が赤字垂れ流しを敢行し続けようとしても、国債に買い手がつかなくなる恐れがある。

今の日本国政府がすでにその状態に限りなく接近しつつある。日本銀行も、市場からの国債の買い取りは何とか減らしていきたがっている。日銀の国債大量購入のおかげで、金利形成にせよ何にせよ、金融市場において一事が万事、まともに機能しなくなっているからだ。

だが、直接引き受けを解禁してしまえば、世界が変わる。金融市場から、政府も日銀も姿を消す。内々の相対取り引きで、政府は日銀からいくらでもおカネを借りることができるようになる。無責任財政の薦めを首尾よく実践するには、どうしてもこれが必要になる。

もしも金融と財政のどんぶり勘定化が実現すれば、その時をもって国の予算はわれわれの前から姿を消すだろう。中央銀行がいくらでもお小遣いをくれるなら、そのような国の政府はいちいち国家予算などと言うものを編成して国会審議にかける必要はなくなる。

時あたかも1月20日に行なわれた安倍首相の国会冒頭施政方針演説は、財政健全化に一切言及しなかった。20年度をめどに基礎的財政収支(借金返済分を除外した収支)の黒字化を目指すという文言も、施政方針の中から消えた。安倍政権下の施政方針演説において、いずれも初めてのことだ。

国家予算を雲隠れさせるための準備は、すでに始まっている。どうも、そういうことらしい。シムズ先生は、こんなことに加担させられていることをご存じか。油断も隙もあったものではない。

(はま のりこ・エコノミスト。3月3日号)