『ゴールデンカムイ』最終話を再考する 無視されたアイヌ先住権
千本木 るりこ・アウトドアガイド見習い、物書き。|2026年5月28日4:02PM
少年漫画誌からスタートし、アニメ、実写映画と人気を博す『ゴールデンカムイ』。日露戦争後の北海道を舞台にした日本軍人とアイヌ少女の冒険譚だ。少年マンガの世界で取り上げられてこなかったアイヌを主人公に据えたことは評価できる一方で、先住民族に対する看過できない問題もはらんでいる。

明治末期の北海道を舞台に、アイヌの金塊と土地権利書をめぐる冒険を描いた漫画『ゴールデンカムイ』(野田サトル)は、累計発行部数3000万部を超え、アニメ化・実写映画化も相まって社会現象とも言える大ヒットを記録した。本作がかつて「滅びゆく民族」として固定化されていたアイヌ像を「かっこいい存在」として描き直し、文化への関心を飛躍的に高めたことは事実である。
しかしその熱狂が過熱すればするほど、無視できない違和感がある。物語の結末が現実のアイヌ先住権に関する歴史を和人にとって都合よく矮小化し、現在進行形の差別構造を「解決済みの過去」として塗りつぶしているのではないか、という懸念である。本稿では、本作を入り口に、マジョリティたる和人社会が無意識に加担している構造的差別の危うさに言及する。
最終話における問題点
2022年4月に掲載された最終話(注1)は、連載8年を締めくくる大団円として多くの読者に好意的に受け入れられた。しかし先住権回復の視点から読み解くと、看過できない点がいくつかある。それらは主に、本作の主人公で元軍人の杉元佐一と、その相棒であるアイヌの少女・アシㇼパが、物語舞台の明治時代から未来を見据えた最終盤のモノローグの場面に現れる。
一つ目の問題点として、「アイヌ文化が博物館で展示されること」が一面的に好意的に描かれた節が挙げられる。博物館収蔵品の背後には、かつての研究者らによる墓暴きや安価な買い叩きなど、尊厳を蹂躙した収奪の歴史がある。展示イコール保護・そして文化の継承と一律に美化することは、略奪の歴史を透明化させてしまう。
そうした歴史への応答として、近年、アイヌ民族の文化を自らの手で後世に伝えようとした動きを見る必要がある。民族の権利回復に尽力した萱野茂氏が自ら収集・復元した民具を展示した萱野茂二風谷アイヌ資料館が代表的だ。また、2020年に白老町に開館したウポポイ(国立アイヌ民族博物館)もまた、アイヌ民族当事者が運営に参画し、展示の言語・解釈においてアイヌ側の主体性が重視された試みである。こうした動きが求められ、重視されるのは、かつて主体性が剥奪されていた歴史があったからであり、手放しに博物館への収蔵と展示をよかれとすることには疑問が残る。
二つ目の問題点として、「アイヌと和人の協力によってアイヌ文化は後世に伝わった」という描写だ。アイヌ文化の破壊を主導したのは、和人国家による同化政策と入植に伴う土地奪取である。一部の協力的な和人は確かにいただろう。しかしながら、その「協力」も圧倒的な権力勾配の中にあり、それは対等な協力関係とは言いがたい。また、こうした構造的暴力を美しい物語へとすり替えてしまえることも、一種のマジョリティ(和人)的権力のなせることと言える。
三つ目に、物語終盤に登場する土地権利書の結末である。この土地権利書とは、アシㇼパの父・ウイルクら数人のアイヌが、箱館戦争(己巳の役)時に榎本武揚から一万貫(金37・5トン)で購入した蝦夷地の広大な土地の権利書を指す。父と先人たちの想いを継いで、アシㇼパはこの権利書をもとに政府と交渉し広大な土地を「国立公園」に指定させることで自然を守った、と描かれる。一見、文化が息づくための土地保護の成功例に見えるが、土地の国立公園化とは「国家による土地占有と、そこでの利用を許可される従属関係」を追認・固定化するものでもある。こうした視点が欠落しながら、現実にも続く問題に蓋をすることは、はたして大団円といえるのだろうか。







