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「オールドバイオリン」のような声 内田樹

内田樹・思想家。|2026年6月2日7:42PM

内田樹・思想家。(撮影/編集部)

 高校の国語の先生たちの集まりに呼ばれて、講演をしてきた。国語教育の現場は、タブレットの使用、AIによるレポート代筆、文字筆記力の低下など問題山積である。国語教育について私の話すことはいつもわりとシンプルである。それは「国語教育とは何のためにあるのか」という原点に立ち戻って考えることである。国語教育の目的は「美しく、豊かで、響きよい母語話者を育てること」だと私は考えている。その目的達成に資するのかどうか、それだけを基準にして、国語教育にかかわる制度や施策の適否は考量されるべきだ。私はそういう意見である。

「美しく、豊かで、響きのよい母語」を身に付けさせるために最も効果的なのは、国語の教師自身が教壇で「美しく、豊かで、響きのよい母語」を語ることである。それだけで十分だろうと私は思う。その言葉はまっすぐ生徒たちの身体に浸み込み、そのまま身体の中にとどまり、言語的滋養となり、彼らを言語的に成熟させてゆく。

 逆を考えればわかる。どれほど出来の良い教科書を使おうとも、教師ができあいの定型句を、癇に障る声でがなり立てて、生徒たちが自己防衛のために思わず耳を塞いでしまうような環境では、生徒たちの言語的成熟は期し難い。当然だ。

 以前、やはり国語教員たちの集まりで講演したことがあった。私が演壇に立つ前に、若い男の先生が小学低学年の児童を相手に模擬授業を行なっていた。聴いていて心温まる、よい授業だった。終わったあとにベテランの教師たちが登壇して、授業の進め方について、あれこれと注文を付けた。教材の出し方がどうとか、設問の仕方がどうだとか。それが済んで私の講演の番になったので開口一番「今の模擬授業は素晴らしかったと思う」と述べた。「残念ながら、ベテランの先生方は誰も指摘しなかったが、今の授業で私が一番素晴らしいと思ったのは、先生の声である。柔らかく、深く、穏やかで、優しく子どもたちの身体に触れるような声だった」。

 この声で語られた言葉なら、それが理解できようと理解できまいと、子どもたちの身体の皮膚の中にまで浸み込んで、長くそこにとどまるようになるだろう。そして、ある日、何かの機会に、子どもは身体に浸み込んだその言葉のうちの一つを口にする。口にした瞬間に子どもはその言葉が何を意味しているのかを理解する。そういうものなのである。人は言葉を出力することを通じて意味を理解する。聴いて理解するのではない、語って理解するのである。

 子どもたちの言語資源を豊かにするという点で言えば、この優しく深い声の持ち主であった先生は卓越していると私は思った。でも、彼が卓越した教師であることは、今はまだ証明できないのである。あと何年かした後に、彼の教え子の一人が、皮膚の下に浸み込んだ言語資源を「自分の言葉」として出力した時にはじめて彼が卓越した国語の教師であったことがわかる。そういう機序なのである。

 合気道の師である多田宏先生からは「武道家はすべからくオールドバイオリンのような声で語らなければならない」と教えられた。「オールドバイオリン」はヨーロッパの古い館に収蔵されている17世紀、18世紀の頃のバイオリンのことである。音は小さい。でも、ヨーロッパの石造りの家で、いくつもの壁を通り抜けて、遠くの部屋にまで音が響く。そういう声の持ち主にならなければならない、そう教えられた。

 それから何十年かずっとそのことを考えてきた。国語の先生にそういう話をしてきた。

(『週刊金曜日』2026年5月29日号)

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