社会主義者や労組活動家が虐殺された「亀戸事件」、江東区で追悼会 今の世相に警鐘
東海林智・ジャーナリス|2025年11月4日5:06PM
関東大震災発生後の混乱の中、労働組合の活動家や社会主義者が虐殺された「亀戸事件」の犠牲者を追悼する集会が9月5日、東京都江東区で開かれた。〝白色テロ〟を風化させまいと地元では50年以上、追悼会が続けられている。

亀戸事件は震災発生後の1923年9月3日頃、戒厳令が布告される中で起きた。南葛地域(現在の江東区、墨田区など)で活動していた純労働者組合の平澤計七(34歳)や南葛労働会の川合義虎(21歳、日本共産青年同盟初代委員長)ら10人が亀戸警察署に連行され、その後陸軍に殺害された(年齢、団体名称はいずれも当時)。
事件当時、震災の混乱の中で、「朝鮮人や社会主義者が井戸に毒を投げ入れた」などの流言飛語が広まっていた。南葛地域は朝鮮人や中国人の労働者が多く働いており、噂を信じた在郷軍人や市民らの自警団が辻々に立ち、緊迫した雰囲気だったといい、多くの朝鮮人、中国人が殺害された。
この日の追悼会では、日本近代文学研究者で『評伝平澤計七』(恒文社刊)の共著者、大和田茂さんが講演を行ない、事件の背景や犠牲者などについて語った。中でも、平澤について詳述した話では、なぜ権力が彼を狙ったのかをうかがい知ることができた。
平澤は新潟県小千谷市出身。静岡県浜松市の鉄道工場で働きつつ労働者の相互扶助団体の友愛会の活動に共鳴、労働者の希望を見いだしたという。上京して南葛の工場で働き、現場で約400人を組織するなど活躍したが、友愛会の路線に不満を持ち20年10月に約300人で純労働者組合を結成する。
国家と民衆による犯罪
活動は多様だった。労働争議の支援を始め、労働会館の建設や現在の生活協同組合の源流ともなった共働社、労働金庫や労働者が学ぶ夜学などを立ち上げ、さらには労働劇団まで展開した。労働者が団結して闘うためのあらゆるアイデアを実践した活動家だった。
その他にも治安維持法の前身である「過激社会運動取締法案」の廃案闘争で中心となり活躍。前述した外国人労働者問題では「外国人がいるから日本人の賃金が上がらない」と不満を募らせる日本人労働者と中国・朝鮮の労働者の間に立ち、連帯を訴えた。実際、震災時も平澤は、朝鮮人を引き渡せと地区に訪れた自警団を説得し、追い返したという。
そうした平澤たちが権力にとって〝都合の悪い〟者たちだったことは容易に想像できる。大杉栄と伊藤野枝らがこの震災時に虐殺されたことと通底している。
大和田さんは権力の意図を説明すると同時に「(震災時の)平澤の行動が自警団や市民から警察、そして軍へと伝わって殺されたのではないか」との見方も示したうえで、「亀戸事件や朝鮮人など外国人の虐殺は、国家と民衆によるハイブリッドな犯罪だったという面もある」と強調。「だからこそ過去から目を背けず、歴史から学ばなければならない」と話した。
自国民優先主義が、この夏の参院選で注目のスローガンとなった。小池百合子・東京都知事は朝鮮人虐殺の追悼集会に9年連続で追悼文を出すことを拒否した。
過去に目を向け、学び、発言する者に対して「反日」の言葉が簡単に投げつけられる現在。その〝刃〟は、やがて民主主義を血まみれにするかもしれない。強固な反撃の基盤は、歴史を学ぶことからしか作れない。
(『週刊金曜日』2025年9月19日号)
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