〈「万歳」から見えるもの〉崔善愛
崔善愛・『週刊金曜日』編集委員|2025年10月14日6:35PM

毎年9月1日になると、1923年の関東大震災で起きた大惨事を思う。わが身を守ることで必死だったはずの人々が、なぜ朝鮮人や中国人を殺そうなどという意思や力を持ったのか。「震災時のデマ」だけでは腑に落ちない。
父・崔昌華は70年ごろ、こんな話を聞いた。
横浜市内にある清水ヶ丘教会の倉持芳雄牧師(1915~90年)が8歳の時、東京の下町・月島で朝鮮人が捕らえられてゆく様子を目撃。その中に、手を針金で縛られ土管の中に押し込まれた、白衣(チマチョゴリ)を着た白髪のハルモニがいて、自分をじっと見つめて微笑んだ。それ以来、なぜかこのおばあさんの夢を見るようになったという。父は初めて朝鮮人虐殺を知り、虐殺を覚える「9・1集会」を75年から開催した。
今年この集会が50年を迎え、あらためて記録映画『払い下げられた朝鮮人』(86年、呉充功監督)を観た。これまで自分の中で問い続けてきた「なぜ虐殺におよんだのか」を知る手がかりがいくつかある。そのなかの二つを紹介したい。
日露戦争で軍都となった千葉県習志野。ここにはロシア人捕虜の陸軍習志野収容所があった。23年9月、朝鮮人・中国人虐殺が海外に知られることを恐れた軍部は、生き残った朝鮮人約3200人をこの習志野収容所へ運んだ。ここで「保護」されるのかと思いきや、地元の農民や自警団に一部の朝鮮人を「払い下げ」、殺させた。53人が殺害された経緯を知る船橋警察巡査は、「殺した人は万歳、万歳で船橋まで帰った」と語る。
映像には、こんな元兵士の手記「関東大震災の想い出」(越中谷利一著)もある。
〈ぼくがいた習志野騎兵連隊が出動したのは、9月2日正午少し前、上からの突然の命令で武装し、さながら戦争気分だった。千葉街道を通り、亀戸に到着したのは午後2時ごろ。駅は罹災民であふれていた。超満員の列車をとめ、朝鮮人はみな、ひきずり下ろされた。白刃と銃剣のもとに次々と倒れていった。日本人避難民から嵐のように巻き起こる「万歳」の歓呼。「国賊」、「朝鮮人を皆殺しにしろ」。ぼくたち連隊はその日の夕方から本格的な朝鮮人狩りをやりだした〉(要約)
「巻き起こる『万歳』」には信じがたい思いとともに戦慄するが、これが当時の日本の「侵略戦争」の実態ではなかったか。大陸への侵略を貫徹するためなら中国人・朝鮮人を殺してもかまわない、「侵略」は「虐殺」を含んでいた。
(『週刊金曜日』2025年9月12日号)
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