市民の一人ひとりが
望月衣塑子だ
阿部岳|2019年5月5日7:00AM
自由な取材に基づく自由な表現は、市民のために存在する。権力をめぐる多様な情報がなければ、市民が判断材料を選び取ることもできない。ジャーナリストの目、耳、口がふさがれる時、市民が見る、聞く、話す力が弱められる。
だから、官邸の執拗な抗議に対し『東京新聞』が「記者は読者、国民の代表として質問に臨んでいる」と述べたのはごく当たり前のことだった。これに対し、官邸は「国民の代表とは選挙で選ばれた国会議員」「記者は国民の代表とする根拠を示せ」と迫った。
強気の背景には、市民の既存メディアへの反発が強まっていることがある。SNSを中心に「マスゴミに私の代表を頼んだ覚えはない」という声が存在感を増し、逆にメディアは弱気になっている。
でも、臆することはない。極論すればたとえ一人だけのためでも、ジャーナリストは市民に代わって職責を果たす。国会議員は、市民に代わって議論し、国の方針を決める仕事。どちらも民主主義社会の主役である市民の代行者にすぎない。
違うのは、国会議員が一部ではなくこの国に住む市民全体を代行している点だ。だから税金を使うことができ、その決定は全体を縛れる。すべての質問、意見に応答するのは義務である。事実と違うなら、そう説明すれば足りる。
言うまでもなかった根本のところから、民主主義が掘り崩されようとしている。この危機にあって、「私たち」という曖昧な主語は力が足りない。一人ひとりの「私」が自らの足で立って言葉を発し、その上でつながっていく覚悟がなければ、対抗できないように思う。(一部敬称略)
(あべ たかし・『沖縄タイムス』記者。2019年3月29日号)