1521号
2025年05月23日
▼今週号から「政治時評」欄の執筆者に能條桃子さんが加わった。メッセージをいただいている。「普段は、若者・女性の政治参加を促進する二つの団体(NO YOUTH NO JAPAN/FIFTYS PROJECT)の代表として活動しています。活動しながら見える視点を読者の皆さんにご共有できればと思っています」
昨年の衆院選挙総括の特集に登場いただいたときは、若者の投票率が低いこと、女性の候補者・議員が少ないことは本人たちの責任ではなく「構造的問題」であることをデータとともに指摘されていた。また、政治への信頼が損なわれている今、信頼回復や民主主義の維持のためには有権者が「その中にいる」と思える必要があり、そのためには「候補者や議員としての顔が見えることや政策議論などで身近な困り事や課題意識がアジェンダとして設定されている必要がある」とも。
今回取り上げられた選択的夫婦別姓法案は、まさに後者の代表例だろう。政治を政治家任せにするのではなく市民としてできることに地道に取り組む――年代は違えど本誌読者に共通するスピリットを感じる。これまで同欄で健筆を揮ってくださっていた長谷川綾さんは、別の形で登場いただく予定だ。(小林和子)
▼少なくとも10代半ばまでの私にとって「ジャーナル」といったら「朝日」ではなく「鉄道」でした。その『鉄道ジャーナル』が、先月の発売号を最後に休刊。個人的に少年時代から50年近くも愛読してきた雑誌の終幕にはさすがに少々感傷的なものも覚えましたね。
ちなみに趣味の分野では他にも「将棋」「航空」など、私が20代で最初に就職した業界誌や専門誌の世界にも「放送」「広告」「CM」等々、「○○ジャーナル」を謳った媒体が数多くありました。媒体名ではないけれど「黒田」を思い出す方もいることでしょう。けれども気がつけば、右に挙げた老舗の方々は今やすべて鬼籍に。
「レガシーメディアだからさ」と言ってしまえばそれまでですが、あるいはそれは特定の専門領域について深く、はたまた先達の志を受け継いで世の事象を掘り下げてゆく「ジャーナル」のメディアが難しい時代になっている、ということかもしれません。だとすればかつて「朝日」を冠したメディアの休刊を受け、「ジャーナル」の誌名はともかく使命を受け継いだ本誌がその精神の根本に置くべき「○○」とは、はたして――? 答えはみなさんの、そして私たち編集者それぞれの胸の中に。
(岩本太郎)
▼今も色褪せない記憶がある。20年ほど前、修学旅行で沖縄のおばぁから聞いた壮絶な戦争体験の話だ。語り部の強烈な憤怒は今も脳裏に焼き付く。あれほど人を怒らせるものは何か。その疑問が原動力となり、沖縄が歩んだ苦難の歴史と、不条理な差別と弾圧が現在も続く現実を知り、私は平和活動へと導かれた。西田昌司参議院議員(自民)が事実にないことを理由に「ひめゆりの塔」の展示と歴史教育を中傷し、今も姿勢を改めないことに激しい怒りを覚えた。
怒りのエネルギーは周囲を巻き込み幾度も社会を前進させてもきたが、負の側面も存在する。怒りに任せた発言で泉房穂元明石市長は職を辞した。米国ではラストベルトの怒りが再びトランプ大統領を作り出した。SNSでは人びとの怒りが金儲けの手段として利用され、際限なく憎悪が溢れる。
誰かの怒りに出会ったとき、それが何に対しての怒りか、そこに他者への尊重は存在するか、背後にある加害と被害の関係性、そしてその怒りに道理があるか。どうしたら分断と不寛容を止められるか。深層を見つめ、心を抉りながら何度も考え続ける。私自身も差別や不条理に対して、非暴力不服従のもと、全力で怒りを表現できる人になりたい。(上野和樹)