週刊金曜日 編集後記

1520号

▼今号の映画評で紹介された『能登デモクラシー』の五百旗頭幸男監督に取材した(インタビュー記事は次号掲載)。監督はマスメディアであるテレビ局に勤めながら、個人が始めた小さな手書き新聞に注目し、過疎の町で定点観測を続ける。大きな報道機関でも過疎地に多くの記者は割けない。それでも信念を貫き、石川県穴水町に通い続けた監督の努力に敬服する。

 筆者は『朝日新聞』記者だった頃、一人で8市町村を受け持ったことがある。すべての定例議会を傍聴するのも至難の業だ。自ずと過疎地の取材は手薄になる。取材ができないと、不正を見逃しかねない。

 米国ではかつて地元紙が廃刊したロサンゼルス郊外のベル市で、行政官が大統領の倍の報酬を得ていたことが長年見過ごされた。市幹部らの報酬は一般会計予算の1割を占めたという。地方に広がる「ニュース砂漠」の弊害として、よく引き合いに出される事例だ。

 映画では監督の継続取材で穴水町のさまざまな問題が明らかになる。と同時に民主主義を担う市民の底力も垣間見える。タイトルには「not democracy」のほか「能登でも暮らしイイ」との意味も込められているという。(平畑玄洋)

▼エラ・フランシス・サンダース著、前田まゆみ訳『翻訳できない世界のことば』(創元社)を時折り読み返す。「翻訳できない」というのは「りんご=apple」のように一語で置き換えられず「他の国のことばではそのニュアンスをうまく表現できない」という意味だ。カリブ・スペイン語の「コティスエルト(シャツの裾を絶対ズボンの中に入れようとしない男の人)」はいつ使うのだろうと思っておかしくなる。スウェーデン語の「モーンガータ(水面にうつった道のように見える月明かり)」に北欧の厳しく美しい自然を思い浮かべ、ウルドゥー語の「ナーズ(だれかに無条件に愛されることによって生まれてくる、自信と心の安定)」に心がじんわり温まる。

 日本語からは「侘び寂び」「木漏れ日」「ボケっと」「積ん読」がエントリー。「ボケっと」は「なにも特別なことを考えず、ぼんやりと遠くを見ているときの気持ち」で「日本人が、なにも考えないでいることに名前をつけるほど、それを大切にしているのはすてき」とある。この解説こそ素敵だ。

 多様な文化の素晴らしさに気づくこの本を、争いあう各国の為政者たちに送りたい。(宮本有紀)

▼公開中のドキュメンタリー映画『太陽の運命』(佐古忠彦監督、129分)を観ました。凄い作品です。沖縄でティダとはかつて「リーダー」を表す言葉だったそうです。スポットをあてるのは二人の沖縄県知事、大田昌秀さん(任期1990~98年)と翁長雄志さん(任期2014~18年)。政治的立場は正反対であり、互いに反目しながらも、県民のために国と激しく対峙してゆきます。

 制作意図を佐古監督は〈「沖縄県知事」が国との対応に苦悩する姿を描くことで日本の問題を浮き彫りにできないか〉(映画パンフレットより)と書いています。

 映画では、大田さんが『醜い日本人』(初版は1968年。新版は岩波現代文庫)で冒頭に書いた〈日本人は醜い――沖縄に関して、私はこう断言することができる〉が紹介されます。文字通り、沖縄に負担を押しつける日本政府を選んでいる「日本人」一人ひとりに責任があると私も考えます。

 沖縄戦をめぐって西田昌司参議院議員(自民)によるひどい発言が出ました。「醜い日本人」から変わるためにはなにが必要なのか、ぜひ映画を観て考えていただきたいと思います。(伊田浩之)