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開沼博の正体(前編)──原発事故被害を「漂白」する伝道師(明石昇二郎)

良識ありげにデタラメを言う人が、なぜこれほど“評価”されるのだろうか。福島をめぐる見解、とくに安全性にかんする言説には両極端があり、被災者を悩ませている。だからこそ、私たちは「事実」を重視すべきだ。デマの垂れ流しを放置してはならない。

2011年4月10日、東京・高円寺で行なわれたデモ。

「『即座に原発をなくせ』ということが、ただでさえ生活が苦しい原発立地地域の人間にとっては仕事を奪われることになる。それがどれだけウザいか。『奇形児を作らせるな』と障がいがある方もデモに参加している中で叫ぶ。新たな抑圧が生まれかねない状況がある以上、手放しでは見過ごせません」

社会学者・開沼博氏が「日刊サイゾー」に寄せたコメントである(http://news.livedoor.com/article/detail/5769413/)。彼が批判したのは、今から6年前の2011年4月10日、東京・杉並区高円寺でおよそ1万5000人が参加して行なわれた「原発やめろデモ!!!!!」のことだ。

1万5000人の反原発デモは「ウザい」

翌12年6月の「首相官邸前20万人デモ」の端緒となったこの大規模デモは、福島第一原発事故とそれに伴う計画停電の衝撃が冷めやらぬ中、行なわれていた。

その「高円寺デモ」を、明石も取材している。デモとデモの参加者たちから受けた印象を、拙著『刑事告発 東京電力』(金曜日)の中で次のように書いた。

「彼らは三月一一日以降、大地震の揺れに見舞われ、帰宅難民となり、原発の爆発で肝を冷やし、首都圏まで飛んできた放射能で被曝を強いられ、水道水や野菜が放射能で汚染されたことで恐怖のどん底に突き落とされ、計画停電によって(鉄道の運転本数減をはじめとした)不便や(道路の信号機が点かないなどの)危険を強いられ、それでも、この日まで耐え忍んできた。そんな我慢を重ねてきた彼らがこの日、ついに感情を爆発させ、こんなことはもうゴメンだと、怒りの意思表示をしたのだ――」(カッコ内は筆者注)

同じデモを見ていながら、受ける印象はこうも違うものなのかと驚かされる。ただ、開沼氏が指摘する「奇形児を作らせるな」との叫び声は、デモの取材中、一度も耳にすることはなかった。

この日の高円寺デモにこれほど人が集まるとは主催者でさえ予想しておらず、それはデモを規制する警察や、デモを取材するマスコミにしても同様だった。同じ日に港区の芝公園周辺でも反原発デモが行なわれており、大半のマスメディアは「芝公園デモ」のほうを取材していたのである。

だが、社会学者の開沼氏は、毎日出版文化賞を受賞した自著『「フクシマ」論』(青土社)の中で次のように「高円寺デモ」を評論する。

「主催者は『大成功』だったと公式サイトで振り返る。ところが、『大成功』の一方で参加者やそこに共感を寄せる者が満足できなかったことがある。それはテレビ・新聞という大手旧来型メディアがこの一五〇〇〇人の『大成功』のデモをとり上げなかったことだ」

この日は、統一地方選の投開票日でもあった。当たり前のことのように思えるが、マスメディアは「反原発デモ」より選挙結果に紙面や放送時間を割き、原発推進を掲げた首長や議員が軒並み再選を果たしたことを報じていた。開沼氏は、こうした選挙結果を根拠に、原発の大事故が起きてもなお、原発で禄を食む人々のために「原発は維持」されるとして、

「原発を動かし続けることへの志向は一つの暴力であるが、ただ純粋にそれを止めることを叫び、彼ら(原発の仕事で収入を得ている人々)の生存の基盤を脅かすこともまた暴力になりかねない」(カッコ内は筆者注)

と、デモを敵視する。

しかし、開沼氏は「高円寺デモ」当日、取材で新潟県を訪れていたのだという。当の『「フクシマ」論』に、そう書かれていた。

恐れ入ったことに開沼氏は、高円寺に来ないで「高円寺デモ」を批判していたのである。その上で開沼氏は、見ていないデモを「ウザい」「見過ごせません」などと罵倒していた。

ルポというより「エッセイ」

1984年生まれの開沼氏の出生地は、福島県いわき市。自身のオフィシャルサイトによれば、現在の肩書は立命館大学准教授である。

氏の著書『漂白される社会』(ダイヤモンド社)は、著者によれば「ルポルタージュ」(ルポ。現地報告)でもあるのだという。

『Voice』13年5月号で開沼氏本人が語っていたのだが、彼には実話誌『実話ナックルズ』でライターをしていた経歴がある。その頃に取材したネタを「社会学風」(本人談)に書き換え、ウェブサイト「ダイヤモンド・オンライン」で連載したルポを一冊にまとめたものだ。

同書のタイトルにもなっている「漂白」とは、開沼氏の定義によれば「これまで社会にあった『色』(偏りや猥雑さ)が失われていく」ことなのだという。そしてそれらは、治安上「あってはならぬもの」と警察が考えているものらしい。その具体例として同書で挙げられているのが、「売春」「生活保護の不正受給」「女衒」「賭博」「脱法ドラッグ」「過激派」「偽装結婚」などである。

東海地方の観光地を訪ねた「売春島ルポ」では、客引きのおばあさんを取材してはいるものの、売春行為の当事者である売春婦や客は登場しない。

そして、その観光地のそばには、かつて原発の立地計画があったと、唐突に語られる。そこでの売春の歴史と原発計画の間には何ら関連性がないのだが、参考文献を読み漁って書いた「解説」が、現地ルポより長く感じられるほど延々と続く。

開沼氏はこうした文章を「ルポルタージュ」と呼んでいるが、その実態は「エッセイ」(随筆)に近い。言うまでもなくエッセイは、本から得た知識や自身の体験や見聞をもとに、それに対する感想や印象、思想を書き記した文章のことである。

「過激派ルポ」での創作疑惑

開沼「ルポ」の最大の弱点は、作文を書く上での大原則「5W1H」(いつ・どこで・誰が・何を・なぜ・どのように)がハッキリ書かれていないことだ。そのため、追試や検証ができない。これは、ルポのリアリティや説得力にも関わってくることだ。

「調査対象者を傷つけない」ことを理由に、意図的に省略しているのだと開沼氏は説明する。だが、その理由では説明がつかない“5W1Hの省略”も彼の「ルポ」には存在する。

12年に書かれた「過激派ルポ」は、時期も場所も伏せられた「脱原発デモ」の描写から始まる。

「『ゲンパツイラナイ』『ゲンパツイラナイ』……。
先導する女性の声に呼応して響くシュプレヒコール。
そこにいる人々の表情は、『暗かったり』『重々しかったり』……とは程遠い。笑顔を浮かべる若者も年長者も、男女問わず、それぞれが自由に声をあげて体を動かす。しかし、その一群の姿からは、他の参加者とは違う、どこか “慣れた”様子が感じられる」(同書260ページ)

そして「『普通の市民ではない』彼らも帰途につく」として、開沼氏が過激派「A」のアジトを訪問した話へと繋がる。脱原発デモに参加していた人物が、公安警察にマークされている過激派のアジトにも出入りしているのか――という印象を読者に抱かせる文章構成になっている。

そこで疑問が浮上する。過激派「A」アジトの取材は、いつ行なわれたのだろうか。以前取材してストックしてあった過激派ネタを“在庫一掃セール”よろしく、12年当時の脱原発デモと安直に結び付け、「過激派ルポ」として仕立て直したのではないか――。

そんな不信感を抱くのは、前掲の『Voice』インタビューで開沼氏が、実話誌ライター時代に取材したネタを「社会学風」に書き換えたと語っていたからに他ならない。

現にアジトの描写では「脱原発」に関係する話題は何ひとつ登場せず、「三里塚のヤサイ」の写真がひときわ目を引くありさま。なぜ過激派「A」が脱原発デモに参加するのか、取材者である開沼氏は「A」のメンバーに訊ねてもいない。ひょっとすると、「過激派ルポ」の冒頭で登場する過激派は、「A」とは別のセクトなのか? そんな基本的なことさえ、開沼「ルポ」は説明を省く。ルポとして不自然である上に、不完全なのだ。

脱原発デモを「過激派」と結び付けるのであれば、読者を納得させるだけの理由や必然性がなければならない。例えば、以前取材したことのある過激派メンバーを、たまたま脱原発デモで見かけたのならば、そのままを書くのが「ルポルタージュ」である。「社会学」もまた然り。下手な演出は、読者をミスリードするだけである。

「漂白」される原発事故の健康被害

2016年4月21日付「WEDGE REPORT」。(撮影/編集部)

開沼氏は「脱原発」を唱える人々が嫌いである。そして、福島県民の健康問題を指摘する声にも、開沼氏は“鉄槌”を加える。

「甲状腺がんの問題もよく話題になりますが、『福島で甲状腺がんが多発している』と論文にしている専門家は、岡山大学の津田敏秀さん以外に目立つ人はいない。その論文も出た瞬間、専門家コミュニティーからフルボッコで瞬殺されています」

16年4月21日付「WEDGE REPORT」における開沼氏の発言だ(http://wedge.ismedia.jp/articles/-/6618?page=1)。科学者のコメントとは思えないほど意味不明だが、悪意だけはしっかりと伝わってくる。

原因はさておき、福島第一原発事故以降、福島県内で甲状腺がんが多発しているのは事実である。それは小児ばかりか、大人でも言えることだ。国の「全国がん登録」データを検証したところ、同原発事故以降、福島県で大人の甲状腺がんが増加していることが確認されたため、本誌16年7月22日号でその事実を明石が報告した。その記事では、疫学と因果推論などが専門の津田敏秀・岡山大学大学院教授のコメントも紹介している。

論文には論文で対抗するのが科学界のルールだ。津田論文が「フルボッコで瞬殺」されたかどうかは、当の論文が掲載された医学雑誌上での議論の結果、判断される。だが、津田論文が「瞬殺」された事実はなく、同論文は取り下げられてもいない。開沼氏が言うような「専門家コミュニティー」が審判役を務めるわけでもない。そしてこのことを、科学者である開沼氏が知らないはずがない。

「専門家コミュニティー」がどんな人たちのことを指すのか説明はないが、津田論文に不快感を表明している人の大半は、いわゆる「原子力ムラの御用学者」たちである。

国際環境疫学会が発行する医学雑誌『エピデミオロジー(疫学)』のオンライン版に津田論文が掲載されて以降、津田教授と原子力ムラの御用学者たちの対決が、新聞紙上や公開討論会等で繰り広げられてきた。そうした対決や論争を新聞記事で確認すると、津田教授は「フルボッコで瞬殺」などされていない。だが、見てもいない反原発デモさえ敵視する開沼氏にはそう見えるのか。開沼氏にとって、原発事故に伴う被曝による健康被害は「あってはならぬもの」、つまり漂白されるべきものなのだろう。しかし、だ。

「社会学者」の開沼氏が科学的根拠を示さぬまま、悪意を持って名指しで疫学者の名誉を棄損し、事実でない話を得意げに言いふらすのは、科学のルールを著しく逸脱しており、科学者失格である。

(あかし しょうじろう・ルポライター。4月7日号掲載。後編は4月14日号に掲載しています)