映画『Black Box Diaries』めぐる対立・分断 被害者自らに調査させたメディアの頼りなさを自問する
長谷川綾・『北海道新聞』記者|2025年4月30日4:33PM
人権侵害と闘う性暴力被害者が、そのために他者の人権を侵したと指弾されている。伊藤詩織監督の映画『Black Box Diaries』をめぐる論争だ。被害者側が疲弊する陰で疑惑の解明は進まない。黒澤明監督の映画『悪い奴ほどよく眠る』のように。

あなたたちメディアは捜査が歪められた疑惑を解明できなかった、だから、当事者の私は、密かに記録をとり、手記を書き、映画をつくった──。映画を見た時、伊藤詩織さんにそう言われた気がした。
25歳、駆け出しのジャーナリストだった詩織さんは2015年、就職の相談をしたTBSワシントン支局長にレイプされたと刑事告訴した。安倍晋三首相に最も近いとされた記者だ。警察には「日本のメディアで働けなくなる」と言われた。捜査に疑問を感じ、密かに録音・録画を始めた。準強姦容疑で逮捕状が出たが、なぜか執行されなかった。嫌疑不十分で不起訴になった。
17年5月、『週刊新潮』が当時の警視庁刑事部長・中村格氏に「私が(執行ストップを)決裁した」と認めさせた。
権力のもみ消し疑惑に
中村氏は安倍政権の菅義偉官房長官の元秘書官。権力による事件のもみ消しが疑われるニュースだ。当時衆院議員の若狭勝・元東京地検特捜部副部長は「所轄(担当)警察署の逮捕状の執行を警視庁刑事部長がストップすることは通常、絶対にありえない」とブログで猛批判した。国会での追及に安倍首相は「私が(事情を)知り得るわけがない」と突っぱねた。政治の場で疑惑は解明されず、メディアも『新潮』を超える報道はなかった。
報道関係者によると、中村氏は記者対応の良さで知られ、当初からオフレコで記者たちに政治圧力の疑惑について「それは違う」と否定していた。だが、中村氏の弁明が新聞で報道されたのは4年もたった21年の警察庁長官就任会見。「法と証拠以外の他事で判断したことはない」と述べた。報道関係者は言う。「(中村氏に)歴代世話になった記者が大勢いる。だから書かないのだろう」
『新潮』報道の19日後、詩織さんは記者会見を開いた。日本テレビはニュースで特集した。桶川ストーカー殺人事件の警察署の告訴もみ消し報道でも知られ、当時日テレにいたジャーナリストの清水潔さんが手がけた。「『新潮』、日テレが報じ、他社も続くと思ったら、扱いが小さくて驚いた」「なぜみんなで中村氏に取材攻勢をかけないのかって? 警察を批判したらどうなるか、北海道警の裏金問題を暴いた『北海道新聞』がいじめられたのは有名な話でしょ」
東京・高輪署の捜査員A氏は、逮捕にストップをかけたのは「警視庁のトップ」と詩織さんに伝える。映画で、米国から帰国するTBS記者を成田空港で待っていたら「上のほうから(逮捕を)待てと言われた」と語るシーンは迫力がある。だが、そのA氏とのやり取りは無断で録音したものだ。
詩織さんは8年前に出版した手記『Black Box』で、A氏を「戦友」と呼び詳述していた。警察の人定とその後の処遇は容易に想像できる。さらに詩織さんが民事裁判の証言を頼む場面。A氏は組織にいられなくなるという文脈で「養ってもらえますか」「結婚してくれれば」と断る。酔った上での発言とはいえ、これでは晒し者との批判が巻き起こる。
詩織さんは本誌3月21日号の石橋学『神奈川新聞』記者によるインタビューで、こう釈明した。
「捜査員には感謝の気持ちもあった。当時はすがる思いだったが、お願いして捜査してもらうこと自体がおかしいと周囲から指摘され、気づけた」「捜査ができる権力を持つ人が冗談でも口にしてはいけない言葉。アンバランスな力関係で出てきた言葉だ。構造的な問題で、同じことは今も繰り返されている恐れがある。個人的な思いと天秤にかけ、公益性が勝るという結論に至った」
無断録音・録画はこれにとどまらない。性暴力被害の裁判は、代理人も精神的負担が大きい。8年半、代理人を務めた西廣陽子弁護士は、法廷では詩織さんの背中をさすり、ネットの中傷を秘書と一緒にチェックした。「酷い誹謗中傷は、私自身も心が抉られる気持ちに幾度もなったが、彼女の代わりに見なければと思った」。その後、電話が無断録音・録画され、映画に使われたと知った。「ズタズタにされた」
裁判だけに使うとホテルに誓約した防犯カメラ映像も許諾が得られないまま使用した。性暴力という重大な人権侵害を立証するため、防犯カメラ映像の使用はぎりぎり許されると私は思う。TBS記者によって、意識がなく人形のようにタクシーから引きずり出される映像は、不同意を示して余りある。ホテルにも、人権侵害を許さない社会的責任を果たしてほしい。だが、人権を守るため協力した人たちにも人権がある。
悪い奴が眠っている予感
日本上映はまだ見通せない。詩織さんを支持する言論、批判する言論が対立し、詩織さんも、彼女を支えた市民、弁護士たちも、心を重くしている。かつては共に#Me Too を闘ったリベラルなのに。
こうした対立を右派のメディアは頻繁に取り上げている。『産経新聞』は、詩織さんが元代理人弁護士に紛議調停を申し立て、懲戒請求も検討とネットで速報。詩織さんが提訴した望月衣塑子『東京新聞』記者の反論も一問一答で伝えた(紛議調停、記者提訴は取り下げ)。8年前、『新潮』のスクープ直後、TBS記者を擁護する『月刊Hanada』編集長のコラムを載せた媒体だ。
17年12月、東京の集会で詩織さんと初めて会った。「夕張に何度も取材に行ってます」と聞いて驚いた。ドキュメンタリーの撮影中という。逮捕にストップがかかった時、「日本のメディアでは雇われない」と覚悟し、海外メディアに企画を売り込んだ。「孤独死」のテーマが採用され、次に「超高齢化社会」の現場、夕張を選んだ。
ジャーナリストになる夢を捨てず、生き延びた。そして今回の映画を完成させた。体調が回復したら、記者会見で密かに記録するに至った事情を語ってほしい。元代理人らと対話し、再編集を進め、早く上映にこぎ着けてほしい。
映画『悪い奴…』で汚職を暴こうとする若者、役人の末端は切り捨てられる。政界の黒幕とおぼしき巨悪は、枕を高くして眠る。
民事裁判で性暴力が認定されたとはいえ、捜査が歪められた疑惑の真相は藪の中だ。自省を込めてメディアが頼りない。そしてどこかで悪い奴ほどよく眠っている予感がする。私たちメディアが、疑惑解明を諦めるわけにはいかない。
(『週刊金曜日』2025年4月11日号「政治時評拡大版」)