循環する時間に生きる
想田 和弘|2023年3月3日7:00AM
ニューヨークから瀬戸内海の街・牛窓へ移り住んで、2年以上が経つ。
ここに来て以来、仕事は最低限しかしていない。なのに結構忙しい。何に忙しいのか自分でも謎だったのだが、よくよく考えたら「生活」に忙しいのだと思う。
ご飯を作ったり、食べたり、買い物したり、洗濯したり、掃除したり、瞑想したり、ジョギングしたり、散歩したり、景色を眺めたり、ご近所さんと井戸端会議をしたり、地域の猫の世話をしたり、遠方からのお客さんとゆっくり時間を過ごしたり。
そういう生活の一つ一つを丁寧にやっていると、あっという間に一日が終わってしまう。振り返れば、大都会に住んでいたころは仕事を優先順位の最上位に置き、生活の一つ一つを「雑事」と呼んで邪魔にしていた。その雑事が今はメインになっている。
詩人の山尾三省さんの言葉に「直進する時間」と「循環する時間」というのがある。
直進する時間とは、昨日よりも今日、今日よりは明日と、進歩する文明の時間である。たとえばスマホは去年より今年の方が必ず進歩している。逆はない。この直線的で決して後戻りせぬ時間は、現代社会を支配している時間である。すでに大儲けしている企業も毎年さらに利益を増やさないと失敗のように言われるのは、人類が直進する時間にどっぷり浸かっているからだ。
一方、循環する時間は自然の時間だ。たとえば太陽は東から上り西へ沈んで、また東から上る。季節も春夏秋冬を繰り返す。一巡した後「春2.0」に進歩したりしない。
こう書きながら、ご飯を食べたり、猫と遊んだり、散歩したりといった生活の時間は、循環する自然の時間に属していることに気づいた。同時に、こういう時間を過ごすことこそが、実は生きるということではなかったかと感じている。そして驚くべきことに、猫だの魚だの樹木だの、人間以外のすべての生き物は、循環する時間だけに生きていることに気づかされる。
おそらく近代以前の人類も、主に循環する時間を生きていたはずである。しかしいつの間にか直進する時間に取り憑かれて、循環する時間は蔑ろにされた。そして際限なき開発と競争と拡張に明け暮れて、自然を破壊しつくしている。それは紛れもなく自滅への高速道路だが、僕もその道をずっと走ってきた。そしてやっと最近、その道から降りようとしている。
(『週刊金曜日』2023年2月24日号)