週刊金曜日公式ブログ 週刊金曜日ニュース

「人づくり革命」は妖魔の森の家(浜矩子)

人づくり革命について議論した経済財政諮問会議。(首相官邸公式サイトより。撮影/『週刊金曜日』編集部)

『妖魔の森の家』という小説がある。ミステリーの妙手、ジョン・ディクスン・カーの短編だ。密室トリック物に関して、超絶技巧を誇る先生である。だが、それと同時に、先生の作品には、どこかに必ずオカルト的怪しさが盛り込まれる。それがことのほか怖い。

『妖魔の森の家』の中にも、そんなディクソン・カーの世界が凝縮されている。むろん、ここでその筋書きを紹介するわけにはいかない。ネタバレになる。そもそも、好きな小説を語るのが本欄の役目ではない。ここで言いたいのは、今、われわれは妖魔の森の前に立っているということだ。政治と政策の妖魔の森だ。

「人づくり革命」などという言葉が打ち出されてきた。それは、「生産性革命」と二人三脚の関係にあるのだという。この二人三脚を首尾よくゴールインさせるために、「人生100年時代構想会議」なるものが立ち上げられた。「人生100年時代構想推進室」というのも、設置されている。この体制が、「一億総活躍社会」化に向けての「本丸」だ。安倍首相がこのように言っている。

ヒト・モノ・カネ。これらが、経済社会を動かす三大要素だ。この中で、一番大事なのは、むろん、ヒトである。あくまでも、ヒトが主役だ。モノとカネは、主役を支える脇役だ。あるいは、小道具である。舞台中央に立つのは、常にヒトでなければならない。

このヒトという名のスターに向かって、妖魔たちの手がいよいよ本格的に伸びてきている。「人づくり革命」・「生産性革命」・「人生100年時代構想」・「一億総活躍社会の本丸」。これら一連の言葉のブロックによって築き上げられる構造物。それが今の日本における妖魔の森の家だ。筆者にはそう思える。

2017年3月末に、政府は「働き方改革実行計画」という文書を発表した。2016年9月に始まった「働き方改革実現会議」の議論を通じて取りまとめられたものである。「働き方改革実現会議」を立ち上げるに当たって、安倍首相が、これからは生産性大革命を目指す必要があると言っていた。それがあったから、「働き方改革」の次の目玉商品として「人づくり革命」が打ち出された時、筆者は、必ずや、そこに「生産性革命」というテーマが絡むに違いないと考えた。果たしてその通りであった。

労働生産性を革命的に引き上げる。そのことによって日本経済の成長力を高める。そして、その対外競争力を強化する。強い「お国」のための強い経済基盤を確立する。そのための人づくり革命だ。そのための人生100年時代構想だ。そのための一億総活躍なのである。お国のための人づくり。かくして、主役であるはずのヒトはクニに隷属することとなる。

妖魔の森の家は恐ろしい家だ。聞こえないはずの声が聞こえる。そこにいるはずの人がいなくなる。その中に入っていったはずの人が、出てこない。妖魔たちに拉致されてしまうのだ。妖魔の森の家は、人を騙す家だ。見かけとは違うだまし絵の家だ。この家に足を踏み込んではいけない。この家に誘い込まれてはいけない。妖魔の森に近づいてはいけない。

(はま のりこ・エコノミスト。11月24日号)

ナイキなど有名企業の税逃れ暴く「パラダイス文書」(佐々木実)

タックスヘイブン(租税回避地)と世界各国の政治家や企業、著名人との関係を暴いた「パラダイス文書」が波紋を広げている。トランプ政権のウィルバー・ロス商務長官とプーチン大統領に直結する企業とのつながり、英国のエリザベス女王の個人資産が英領ケイマン諸島のファンドで運用されていたなどなど、あまたのスクープが一挙に発信された。

1年半あまり前の「パナマ文書」と同じく、『南ドイツ新聞』にもたらされたリーク情報をもとに、国際調査報道ジャーナリスト連合(ICIJ)を通じて各国のメディアが取材、分析を進めた結果としての国際的なスクープ報道である。

今回の「パラダイス文書」では、どのようにタックスヘイブンがビジネスに利用されているのかも報じられている。たとえば、米国のスポーツ用品大手「ナイキ」。ロゴ「スウォッシュ」の商標権を所有する子会社を英領バミューダ諸島に設立、欧州での販売収益を「ロゴ使用料」の名目でこの子会社に移していた。2010年からの3年間だけでも38億6000万ドル(約4400億円)が子会社に移されたという。

有名企業ではないが、同じく英領バミューダ諸島に登記された医療機器メーカーのビジネスも興味深い。この企業のストックオプション(新株予約権)や未公開株を各国の医師や病院が取得していたことが明らかになったが、仙台厚生病院に勤務経験がある3人の医師も含まれていた。仙台厚生病院はこの企業の製品の治験を行なっていて、病院もストックオプションを使って売却益を得たという。

日本のメディアでは『朝日新聞』、共同通信社、NHKが「パラダイス文書」の取材に関わった。『朝日新聞』の奥山俊宏記者によると、出資のスキームを描いたチャートやタックスヘイブン法人の役員会の議事録などの資料が数多く含まれており、過去の秘密文書と比べてもパラダイス文書の内容は充実しているという。

〈当事者の目的は様々だ。税制だけでなく、外国人労働者使用の制約、労働法制、情報開示義務、為替管理法や会社法などの本国の規制を避けようとするケースもある。ほとんどは適法の範囲に収まっているとみられる〉

タックスヘイブンはまるで国境を超えた「特区」である。税を免れることができるだけでなく、情報公開の義務などもすべて免除される。「特区」に例えるのは、タックスヘイブンを利用した「逃税」が基本的には「合法」だからだ。実際、ナイキのように誰もが名前を知る企業が堂々と活用している。日本の企業も例外ではない。

英国の研究団体の推計では、タックスヘイブンにある金融資産は2010年時点で米国の国内総生産(GDP)の1・5倍に相当(21兆〜32兆ドル)するという。グローバル企業や有力政治家、富裕層にとって、タックスヘイブンは使い勝手のよい「特区」としてすでに十分機能している。

「パナマ文書」や「パラダイス文書」のような国際報道が今後も繰り返されるなら、世界は大いなる矛盾をはらんでいることになる。スクープの衝撃にもかかわらず、いつまでたっても制度の抜け穴が塞がらないことを証し立てることになるからである。

(ささき みのる・ジャーナリスト。11月17日号)

商工中金の巨額不正融資はなぜおきたか(鷲尾香一)

政府系金融機関の商工組合中央金庫(商工中金)は10月25日、政府の危機対応融資を使った不正に対する調査報告書を発表した。

同報告書によると、全100店のうち97店で不正が行なわれ、危機対応融資が実施された21万9923口座のうち、不正があるとの判定は4609口座、判定不能のため、疑義が払拭できなかったのが7569口座あった。

4609口座での融資実行額は2646億4900万円にも上り、これに関与した職員数は444人で、危機対応融資に当たった営業職員延べ約2300人の19.3%に上った。

そもそも、この不正とはどのようなものだったのかと言えば、本来、災害などで一時的に業績が悪化した企業に対して適用される危機対応融資を、健全な企業の財務資料などを改竄することで、業績が悪化したように偽装して融資を実行したものだった。

不正を実行した職員は、「危機対応業務は商工中金の一丁目一番地だと本部や支店管理職から言われていた」「危機対応業務の業務計画や個々人の目標値の達成率を少しでも上げるため」と話しており、ノルマに対する強いプレッシャーがあったことは明らかだ。

この調査結果を受け、経済産業省出身の安達健祐社長が引責辞任に追い込まれた。

しかし、問題の根源は危機対応融資にあるのではない。こうした不正が行なわれる環境があり、そうした土壌が作られてきたことにこそ問題が潜んでいる。

商工中金という政府系金融機関のベースは通産省(現経済産業省)からスタートしている。中小企業および中堅企業の資金供給の円滑化のために作られた組織だ。

現在の所管も中小企業庁にあるように、経済産業省の関連機関である。つまり、不正を生み出す環境や土壌は、金融を司る財務省(旧大蔵省)や金融庁のコントロールが効かないという「縦割り行政の弊害」から来ている。

バックに経済産業省があり、金融庁行政が及びづらい政府系金融機関となれば、“腐った土壌が醸成する条件”は十分に整っていたということだろう。

1990年終りから2000年初めにかけて、金融制度改革が花盛りとなり、民間金融機関が改革の大きな波に飲み込まれた。13行あった都市銀行は、合併・経営統合を繰り返し、現在のメガバンク3行とりそなの4行に集約された。

同じ政府系金融機関の農林中央金庫も農業の衰退と農家の後継者不足も影響し、その業容を大きく変化させた。

こうした中にあって、商工中金だけが、唯一無傷で“治外法権”の中で生き延びてきている。確かに、設立当時の協同組合から株式会社化はなされたが、幾度となく完全民営化は先送りされ、未だに政府系金融機関という位置付けにある。

政府の株式の売り出しによる完全民営化への検討過程では、衆参両院で附帯決議まで行なわれ、金融行政のうえで特に配慮を行なうこと等が決められるなど、優遇されている。

商工中金の不正は、政治家と政府が一体になって同金庫に対する利権争いを行なった結果、起こるべくして起きたものと言えよう。

(わしお こういち・経済ジャーナリスト。11月10日号)

「取材してほしい」(雨宮処凛)

最近、嬉しいことがあった。

それは7年くらい前、生活保護申請に同行した女性から届いた1本のメール。

そこには彼女が結婚し、最近女の子を出産したことが綴られていた。

「雨宮さんには本当にいろいろお世話になったので、あの時の恩をこの報告でかえさせていただきます」

その言葉が、本当に嬉しかった。

初めて出会った時、20代の彼女はホームレス状態だった。その数日前に住んでいたシェアハウスのようなところを追い出され、ネットカフェなどを転々としていた。ちょうど台風の時期で、ネットカフェに泊まるお金もなくなった夜は、暴風雨を避けるため、ずーっと商店街などを歩き続けていたということだった。

実家は「勘当同然」とのことで、東京に出てきてからは、風俗の世界に足を踏み入れていた。所持金も住む場所もない彼女には、寮付きの風俗店という選択肢しかなかった。一時期は彼氏ができて同棲したものの、凄まじいDVを受けていたという。

が、しばらくはそれでも逃げなかったそうだ。ここで逃げてしまったら、また風俗に戻るしかなくなる。DVか、風俗か。そんな究極の選択の中、彼女は彼氏と別れ、身体を売る世界に戻った。

今度は店舗勤務ではなく、インターネットで個人で客を探すという、ものすごくリスクが高いやり方だ。住んでいたシェアハウスのオーナー的な人が彼女の「売春」を管理するという生活の中、休む間もなく客をとらされていたという。困窮し、SNSで繋がった人の「仕事がある」という言葉を頼っているうちに、そんな生活になっていた。

そんな彼女からメールが届いたのが7年ほど前。一度も会ったことのない彼女からのメールには、現在の状況と、「取材してくれないか」という言葉が書かれていた。困っているから助けてほしい、ではなく、「取材してほしい」。

私は彼女が滞在しているネットカフェに向かい、ファミレスで食事し、後日、生活保護申請に同行した。どれほど困っていても、何日も食事をしていなくても、「助けて」ではなく「取材してほしい」という言葉に、胸が痛んだ。それほどに、「助けて」という言葉は禁句になっている。状況が厳しければ厳しいほど、口にはできない言葉になっている。

そんな彼女が、一児の母になったのだ。結婚相手がどんな人なのか、今、どこに住んでいるのか、詳しいことはわからない。だけど、彼女が私にメールしようと思ってくれたということが、すべての答えのような気がした。

「幸せにね」

メールの最後にそう書いた。今まで大変だった分、本当に本当に、幸せになってほしい。

(あまみや かりん・『週刊金曜日』編集委員。11月3日号)

「失われた20年」はむしろ「正常」(高橋伸彰)

豊かさや幸福感とは……。(提供/アフロ)

経済成長とは統計的にみればGDP(国内総生産)の拡大にすぎない。今回の総選挙で安倍晋三首相が自らの政策で過去最大になったと喧伝した名目GDPの「かさ上げ疑惑」については、佐々木実氏が本誌(10月20日号)で指摘した通りだが、いくらかさ上げしてもそれだけで人々の実感する豊かさや幸福感は高まらない。経済学者の小宮隆太郎が47年前に喝破したように「そんなことは経済学の常識」(『週刊エコノミスト』1970年11月10日号)である。

だが、戦後の日本では経済学の常識を超えて、経済成長は日本経済の「シンボル」のように捉えられてきた。安倍政権が実質2%、名目3%の持続的成長を日本経済再生の目標に掲げる理由もここにある。

確かに机上の計算では成長の効果は絶大だ。名目3%で成長すれば現在約540兆円の名目GDPは10年後に約726兆円となり、税収のGDP弾性値を1と仮定しても自然増収だけで国の税収は約20兆円増える。

しかし、成長できなければ自然増収は幻想に終わり、そのツケは財政赤字の累積となって将来世代の負担になる。1997年度末には258兆円だった国債残高が2017年度末には865兆円と、20年間で607兆円も増えるのは歴代の政権(大半は自民党政権)ができもしない成長目標を掲げて財政再建を怠ったからだ。

だから成長幻想は捨て、成長に依存しない財政再建策を立てるべきだと筆者は20年以上前から提言(『中央公論』1996年3月号)してきた。これに対し成長派のエコノミストから返ってきたのは、「成長が必要ないと言うなら、これから増える所得はすべて寄付しろ」という意味不明の反論だった。

誤解がないように付言すれば、成長は必要ないと筆者は言っているのではない。責任ある政権なら不確実な成長に依存せず、ゼロ成長でも国民生活の安心を保障する実現可能な分配政策を示せと主張しているのだ。

実際、ゼロ成長になったからといって企業のビジネスチャンスが枯渇するわけではない。毎年GDPの10%近い市場で新陳代謝が起きると想定すれば、ゼロ成長でも毎年50兆円の新しい市場が創造される。その大きさは1997年以降のゼロ成長下で普及したインターネットやスマホ、薄型の液晶テレビやDVD、あるいは通販や宅配など新しい製品やサービスの急速な市場拡大をみれば一目瞭然である。

また、今後、生産年齢人口(15〜64歳)の減少が予想される中では、労働者1人あたりの生産性が毎年1%程度上昇しなければゼロ成長すら維持できない。そこで生産性上昇に見合う賃上げが実現されるなら、ゼロ成長下でも定昇に加え毎年1%のベアを獲得できる。ゼロ成長とはけっして悲観的な経済ではないのだ。

いまだに持続的な成長こそが「正常」だと思い込んでいる政治家には、ゼロ成長は危機に映るかもしれない。しかし、人類の長い歴史を振り返れば成長がいつまでも続くほうが「異常」であり、97年以降の「失われた20年」はむしろ「正常」である。そう考えれば「正常」への回帰を危機と呼び、成長に固執して財政再建を先送りするアベノミクスは最初から狙う的を間違っていたと言えよう。

(たかはし のぶあき・立命館大学国際関係学部教授。11月3日号)

本当は弱い安倍政権(浜矩子)

総選挙明けの10月23日、月曜日に本稿を執筆している。今の心境はどうか。

やれやれまたか。もとより、この思いはある。自公で解散前勢力をほぼ維持した。なんとうんざりすることか。だが、その一方で、それなりのワクワク感が、実をいえばある。「立憲民主」を掲げる政党が誕生した。そして、野党第一党のポジションにつけた。

そしてさらに、一時は妖怪アホノミクスを凌ぐ毒の鼻息を吹き散らすかにみえた緑の妖怪、グリーンモンスターが色あせた。と同時に、緑の衣の下に潜む鎧の性格がかなりよくみえて来た。「改憲踏み絵」が鎧の色合いをよく示していた。

かくして、対峙の構図がかなりすっきりみえてきた。民主主義と国粋主義が正面切ってにらみ合う。この関係が鮮明に浮かび上がった。わけの解らない与野党対決の時代は終わった。これでいい。あるのは、市民側対権力側の攻防だ。政治家たちは、このいずれの側につくのか。そのことで、彼らの知性と品格が試される。

ところで、今回も盛んに「安倍一強」ということが言われた。「一強の驕り」が出ないよう、身を慎め。選挙後の自公政権に対して、多くのメディアがこのメッセージを投げかけた。重要な戒めだ。

ただ、彼らは本当に強い政権なのか。実はそうではないように思う。彼らは、本当は弱い政権なのだと思えてならない。弱虫政権である。

弱虫の特徴は何か。それは、空威張りをすることだ。彼らには自信がない。だから必死で突っ張る。すぐに被害妄想に陥る。そして、過激な言動をもって逆襲に出ようとする。弱虫にはゆとりがない。だから、批判を封じ込めようとする。逆らう者たちを黙らせようとする。言論の自由を制限しようとする。何とも肝っ玉が小さい。

弱虫には、怖いものがたくさんある。だから、それらの怖いものを全部押しつぶそうとする。弱虫は、決して謙虚になれない。なぜなら、彼らは臆病だからだ。臆病者は、常に虚勢を張っていなければ生きていけない。そのような者たちの中に、謙虚であるおおらかさは芽生えない。

その意味で、彼らが披露してみせているのは、「一強の驕り」ではない。あれは「一弱の怯え」だ。人間は、怯えれば怯えるほど、行動が無茶なものになる。過激になる。容赦なくなる。形振り構わなくなってしまう。

市民とともに闘い続けるまともな野党組の皆さんには、弱虫の怯えと上手に対峙し、それを上手に退治してほしい。その点で、一つやや気掛かりなことがある。選挙戦中、立憲民主党の枝野代表は「右でもない、左でもない」という言い方をしていた。多くの市民とともに前に進む。それはいい。だが、右はやはり少々まずいと思う。なぜなら、その道には、どうしても国粋につながる面があるからだ。国家主義に踏み込んでいく扉がそこに開いているからだ。

振り返ってみた時、今この場面が、日本における市民主義の本格的夜明けの場だったと思える。そのような時として、今を輝かせる。それがまともな野党組の使命だ。立ち去れ、弱虫政権と偽野党たち。

(はま のりこ・エコノミスト。10月27日号)

真理はあなたたちを自由にする(佐藤優)

カール・マルクス著『資本論』第1巻の発刊から今年で150年になります。弊社では、150年を記念して鎌倉孝夫さんと佐藤優さんによる『21世紀に『資本論』をどう生かすか』 http://www.kinyobi.co.jp/publish/002411.php を発刊しました。

いまの社会問題の根本がどこにあるかを考えるために、マルクスの『資本論』は最強の武器であり続けています。ただし、『資本論』は革命の手引き書ではありません。一般向けの講義をまとめた本書は、資本主義の内在論理をあきらかにするとともに、『資本論』の誤読されやすい部分をていねいに解きほぐしています。

佐藤優さんによる「まえがき」を佐藤さんのお許しをえて公開します。ご関心をもたれたらぜひ、本書をお手に取り下さい。(編集部 伊田浩之)

////////////////////////////////////
真理はあなたたちを自由にする
佐藤優

今年2017年は、カール・マルクスの『資本論』第1巻初版が1867年に刊行されてから150年になる記念の年だ。『資本論』は有名だが、実際にこの本を通読した人はそれほど多くない。この点については、マルクス自身も予想していたようだ。初版の序文でこんなことを述べている。

〈何事も初めがむずかしい、という諺は、すべての科学にあてはまる。第一章、とくに商品の分析を含んでいる節の理解は、したがって、最大の障害となるであろう。〉(マルクス[向坂逸郎訳]『資本論(一)』岩波文庫、1969年、11ページ)

本屋の店頭で本を手に取ると、通常はまず序文を読む。その序文に「この本は難しい」ということが書いてあると、怖じ気づいて買うのを躊躇してしまう人が多いと思う。21世紀にプロの編集者がついていたならば、マルクスがこのような原稿を書いても、修正を要求したであろう。しかし、『資本論』の論理を正確に理解したいと考える人にとって、マルクスが序文で、この本の第1章の商品の分析を含んでいる節が難しいと予告していてくれたことが、真理に到達するための重要な「導きの糸」になる。

〈資本主義的生産様式の支配的である社会の富は、「巨大なる商品集積」として現われ、個々の商品はこの富の成素形態として現われる。したがって、われわれの研究は商品の分析をもって始まる。〉(前掲書67ページ)

という『資本論』の冒頭に記された商品がどのようなものであるかについては、二つの解釈がある。

第一は、この商品は古代から現在に至るまであらゆる時代に存在した商品であるという解釈だ。

この解釈をすると資本主義社会の特質がまったくわからなくなってしまい迷路に陥ってしまうというのが鎌倉孝夫氏と私の認識だ。

第二は、この商品は、資本主義社会の商品を抽象したものであるという解釈だ。

宇野学派といわれるマルクス経済学者の宇野弘蔵氏(1897~1977年)の『資本論』解釈を踏襲する人々がこの解釈を支持する。資本主義より前の社会とは異なり資本主義社会では、労働力の商品化が行なわれている。その結果、資本が生産過程を支配することが可能となり、資本主義が自律的な社会システムとして自立することになる。『資本論』第1巻冒頭の商品を資本主義社会に特有のものであるという解釈をすると、この社会が資本家、地主、労働者の三大階級によって構成されているということがわかるというのが宇野学派の『資本論』解釈だ。もっとも鎌倉氏は、この解釈では飽き足らずに、資本主義社会は、資本家と労働者の二大階級によって構成されているという結論を導く。その論理的道筋については、本書でていねいに示されている。

さて『資本論』を基盤とする経済学には、マルクス主義経済学とマルクス経済学という二つの潮流がある。

マルクス主義経済学の立場に立つ人は、共産主義革命を起こすというイデオロギーを重視する。そして革命の聖典として、イデオロギー的に『資本論』を読んでいく。このような読み方に、根本的な異議を申し立てたのが宇野だ。宇野氏によれば、『資本論』は科学の書である。それだから、労働者、資本家、地主、あるいはこの三大階級に入らない小商品生産者、作家、芸術家などが読んでも資本主義社会の論理をつかむことができると宇野氏は主張した。そしてみずからの経済学をマルクス経済学と規定した。マルクスの流れを継承する経済学という意味だ。

21世紀のわれわれから見れば、宇野氏の主張は、当たり前のことのように思えるが、1980年代末にソ連体制に揺らぎが生じる前の左派的情報空間において、宇野氏のような『資本論』解釈は、理論と実践を切り離す悪しき科学主義、客観主義とみなされた。

ちなみに、宇野氏は資本主義社会を理解する上でも社会主義(もしくは共産主義)イデオロギーの重要性をよく理解していた。社会主義イデオロギーを持っている人は、資本主義的偏見から自由になることができる。例えば、貨幣を根本から疑うことができる。1万円札を作成するのに必要な費用は22~24円である。それにもかかわらず1万円札で1万円に相当する商品やサービスを購入すること自体が、資本主義イデオロギーの下で可能になることなのである。マルクスは、独特なイデオロギーを持っていたことで、資本主義イデオロギーの偏見から解放され、資本主義社会の構造を客観的かつ実証的に分析することができると考えたのだ。

宇野氏の理解を敷衍するとマルクス経済学は、歴史学の一分野となる。すなわち資本主義という特定の時代を客観的かつ実証的に分析することがマルクス経済学の課題なので、これは歴史学に属するのである。

本書では詳しく説明されていないが、宇野には三段階論と呼ばれる特殊な方法論がある。経済学の場合、自然科学のような実験は不可能だ。したがって、頭の中で純粋な資本主義社会を想定する必要がある。しかし、この想定は、思考実験によって任意に構成される理念型ではない。現実の歴史過程から抽象されなくてはならない。宇野は『資本論』序文の以下の記述からヒントを得た。

〈経済的諸形態の分析では、顕微鏡も科学的試薬も用いるわけにいかぬ。抽象力なるものがこの両者に代わらねばならぬ。〉(前掲書12ページ)

こうした抽象力を行使して、資本主義社会の内在的論理を解明するのが原理論(経済原論)である。原理論は、『資本論』の論理に基づいて組み立てられるが、マルクスが書いたのだから『資本論』は絶対に正しいというような宗教的立場は取らない。論理性、実証性に照らして問題のある点は、いくらでも修正しても構わないというのが宇野の考え方だ。鎌倉氏も宇野氏のこの方法論を踏襲している。

歴史において、純粋な資本主義は存在し得ない。それは国家による経済過程への干渉があるからだ。それは、重商主義、自由主義、帝国主義というような経済政策の形で現れる。宇野氏はこれを段階論と名付けた。私は、ここでは国家の介入が主たる問題になるのだから段階論を国家論と読み替えてもいいと考える。ちなみに『資本論』では、国家を括弧の中に入れて論理が展開されている。国家は官僚制を持ち、徴税を行なう。この点を考慮するならば、現実の社会には国家と結びついた官僚という階級が存在すると哲学者の柄谷行人氏は述べる。この点については、私は柄谷氏と同じ見方だ。本書ではほとんど展開されていない国家、徴税、官僚に関する議論をいずれ鎌倉氏と徹底して行ないたいと考えている。

そして、原理論と段階論を踏まえて現状分析を行なうと宇野氏は説く。宇野氏は経済学の究極目標は現状分析であるというが、農業問題を除いて宇野氏自身の現状分析に関する作品はない。宇野学派の中で、鎌倉氏が占める特殊な立場は、原理論、段階論だけでなく現状分析にも積極的に取り組んでいることだ。私は高校生時代に社会党の青年組織・社青同(日本社会主義青年同盟。社青同を名乗る組織はいつくかあったが、私が所属していたのは向坂逸郎氏が代表をつとめていた社会主義協会系の“社青同協会派”とか“社青同向坂派”と呼ばれた組織)だった。このとき埼玉大学助教授で、労働者サークルの『資本論』研究会を主宰していた鎌倉氏と知り合った。私は鎌倉氏の『日本帝国主義の現段階』(現代評論社、1970年)、『日本帝国主義と資本輸出』(現代評論社、1976年)を読んで鎌倉理論の虜になった。いまでも私は、国家独占資本主義に対する鎌倉氏の理論は正しいと思っている。

本書で、鎌倉氏も私も『資本論』の論理は商品の分析で始まり、諸階級で閉じているという解釈を強調した。閉じているということは、その外側が存在するということだ。内部と外部をつなぐ回路について、鎌倉氏は労働力商品化を基礎とするシステムを超克し、人間が主体性を回復する革命を考えている。これに対して、日本の外務官僚としてモスクワでソ連崩壊を目の当たりにし、その後も日本国家の外交とインテリジェンスに関与した私は、革命を含め、政治的な事柄を根源的に信用しなくなってしまった。しかし、いつか外部の力によって千年王国が到来するという希望は失っていない。

本書を通じて、私と鎌倉氏が伝えたかった事柄を私なりの言葉で表現すると、かつてイエス・キリストが述べた、

「真理はあなたたちを自由にする」(「ヨハネによる福音書」8章32節)
ということだ。

安倍政権の「GDPかさ上げ疑惑」(佐々木実)

「2016年度のGDP(国内総生産)は史上最高ですよ」

テレビニュースの党首インタビューで、安倍晋三首相が「史上最高のGDP」を誇示するのを見て、「基準変更」への疑問が再び頭をもたげた。

今年2月にこのコラムで触れたが、安倍政権は昨年12月にGDPの算出基準を大幅に変更している。その時点で最新のデータだった2015年度は、従来の基準で501兆円のGDPが、新たな基準のもとで532兆円。基準変更のみで30兆円以上増えていた。

2015年9月に自民党総裁に再選された安倍首相が「GDP600兆円の達成」を掲げたこと、安倍政権がGDP算出基準をさらに「大改訂」する作業を進めていること、をコラムでは紹介したのだが、内容は踏み込み不足だった。

明石順平氏は『アベノミクスによろしく』(インターナショナル新書)で「GDPかさ上げ疑惑」という章を設け、昨年12月のGDP算出基準の変更を検証している。

基準変更をかいつまんで説明すると、主な理由は二つあり、「基準年」の変更と、「算出基準」を国際基準にあわせ変更したことだった。

ところが、じつはこれ以外に「その他もろもろの変更」があり、この根拠不明な変更で安倍政権の時期の数字だけが「かさ上げ」されていた。たとえば、安倍政権発足前の2012年度は0.6兆円しか増えていないのに、2015年度は7.5兆円も増えている。こうした「操作」の積み重ねが、安倍政権に都合の悪いデータを「削除」する効果をもったのである。

明石氏によると、昨年12月の基準変更によって、マクロ経済統計から読み取れる「アベノミクス失敗」を象徴する五つの現象がすべて消えた。「戦後初めて2年度連続で実質民間最終消費支出が下がった」などの現象である。2016年度のGDPが史上最高を記録したのも、旧基準なら史上最高の1997年度が相対的に低く修正された結果だった。「歴史の書き換えに等しい改訂がされた疑いがある」と明石氏は疑問を呈している。

選挙戦で安倍首相は、過去に遡って「改訂」されたマクロ経済統計を存分に活用している。彼は「経済運営の成功」というイメージづくりが、自らに強い求心力を与えてくれることを身をもって知っている。投資家に大歓迎された「異次元金融緩和」は結局失敗に終わっているが、安倍首相には今なお「成功体験」と映っているのではなかろうか。

英国在住のブレイディみかこ氏の「反緊縮を進める欧州左派」(『世界』11月号)という論考が参考になる。欧州各国で左派が反緊縮政策を唱える背景には、極右が先にこうしたポピュリズム的政策を手にすると危険だという切迫した危機感があるという。欧州の歴史には、ヒトラーという悪しき成功例があるからだ。

今年6月の英国の総選挙で躍進した労働党のコービン党首が、金融緩和政策を「ピープルズ・クオンティテイティブ・イージング(人民の量的緩和)」と呼んで支持したことは示唆に富む。欧州は政治抜きに経済を語れない危うい状況に突入しているが、他人事ではない。アベノミクスもこうした文脈のなかで捉え直してみる必要がある。

(ささき みのる・ジャーナリスト。10月20日号)

情けない安倍首相の“いいとこ取り”(鷲尾香一)

安倍晋三首相は9月28日、臨時国会の冒頭で衆議院を解散した。何のための解散なのか、森友・加計問題を追及されるのが嫌だったのか、解散の大義がどこにあるのかわからないままの解散となった。

安倍首相は解散の理由を、2019年10月に予定されている消費税率10%への引き上げによる増収分の使途を変更し、債務返済に回すはずだった約4兆円の中から、教育や子育て支援に2兆円規模を充てることについて、「国民の信を問う」とした。

しかし、消費税率の引き上げによる増収は社会保障4経費(年金、医療、介護、子育て支援)に“すべて充当する”ことが、2012年の3党合意(民主党、自民党、公明党)による「社会保障と税の一体改革」で定められている。

事実上、民主党が消滅した現在、3党合意を安倍首相が勝手に破棄するという信義問題は置いておくとして、今回の消費税率増収分の使途変更は、よく見るとお得意の“安倍マジック”であり、安倍首相一人勝ちの構図が透けて見える。

債務返済を先送りするということは、財政は痛まないように思えるが、事実上、赤字国債の発行が続くことを意味する。

また、詳細は明らかになっていないが、教育や子育て支援の2兆円支援がいつから始まるかだ。消費税率が10%に引き上げられるのは、2019年10月の予定であり、その増収分がフルに入ってくるのは、2020年分、つまり、2021年になってから。それ以前に教育や子育て支援の2兆円がスタートするのであれば、その財源は赤字国債に頼るということになる。つまり、財政悪化要因だ。

また、消費税率10%への引き上げは、教育や子育て支援対象者にも、増税という負担を強いることにもなる。そして、何よりも問題なのは、安倍首相は、華々しく政策を打ち出すだけで、将来に待ち構える難問は、安倍政権後のあとの政権が取り組むことになる。

国際公約となっている2020年のプライマリーバランス(PB)の黒字化は、先送りされる。安倍首相は「財政再建の旗は降ろさない」と強弁するが、教育や子育て支援を開始すれば、債務返済の財源は少ない。安倍首相の任期は最大2021年9月までだから、PBの黒字化達成は、安倍首相の後の首相が負うことになる。ちなみに、今回の総選挙の当選代議士は、衆議院の任期が4年なので、任期満了は2021年10月と安倍首相の任期に合致する。

2020年の東京五輪が終われば、少なからず五輪景気の反動から、景気が落ち込むことは予想できる。つまり、税収も期待できない。

結果、消費税率の再引き上げに踏み切ることになろう。消費税率が8%になったのは、2014年4月。10%になるのは2019年10月。その間、約5年半。しからば、次の消費税率引き上げは、単純に5年半後なら2025年4月ということになる。つまり、安倍首相の後の首相の仕事だ。

債務の返済、PBの黒字化、あるいは次の消費税率の引き上げは安倍首相以外が対処しなければならないのだ。国会での検討もなく、世間受けする、安倍首相の“いいとこ取り”の政策が、衆議院解散の理由とは、何とも情けない。

(わしお こういち・経済ジャーナリスト。10月13日号)

地方創生こそ最優先課題だ(高橋伸彰)

地方はなぜ衰退したのか。その原因を究明せずに、国家戦略特区という名の治外法権をいくら「濫用」しても地方は創生しない。地方は戦後日本の経済成長に乗り遅れたから衰退したのではない。逆に、戦後の日本経済こそ地方の共同体を破壊し、地方から人材を奪い、地方に犠牲を強いて成長を遂げてきたのである。

本気で地方消滅という国難を突破しようとするなら、中央集権を牽引してきた霞ヶ関の大改革が必要だ。まずは、輸出大企業を優遇し国際競争力強化を錦の御旗に地方には工場だけを配置してきた経済産業省を解体し、替わりに中小企業の地方立地と創業を支援する中小企業省を創設したらどうか。

また、教科書の記述内容を細部にわたり検定し、画一的な指導要領を押しつける文部科学省も解体して、その予算と権限を地方の教育委員会に移譲し、地方で生まれ、育つ子どもたちの教育に対し地方が主体的に取り組めるようにしたらどうか。

さらには、国土交通省が牛耳る公共事業の予算配分や実施の権限も自治体に移譲し、税と予算を一手に握る財務省は廃止して予算の企画・立案機能を国会の常設委員会に移し、所得税や法人税については地方に税源移譲したらどうか。

いずれにしても東京に集中する政・官・民の巨大な機能、権限だけでなく、人的ストックも含めた有形・無形の資産を地方に分散しなければ地方創生はいつまでも夢物語だ。夢を実現するには国会をはじめとする首都機能の移転はもちろん、東京に本社(含む本社機能)を置く大企業にも本社を地方に移さなければ法人税率を罰則的に引き上げるとか、内部留保に特別資産税を課すといった「鞭」をふるう必要がある。こうした改革は戦後民主化の過程で断行された改革と比較すれば、けっして無理な注文ではないはずだ。

地方創生は限られた国土を有効に活用し、誰もが安心・安全に生活できる社会を構築するために時の政権が最優先で取り組むべきミッションである。それにもかかわらず今日に至っても達成できないのは歴代の政権が地方衰退を放置し、東京一極集中に抗する政策遂行を怠ってきたからだ。

経済の効率性よりも人間の心が大切だと主張し続けた経済学者の宇沢弘文は、GDP(国内総生産)などの経済統計で測った高度成長期の繁栄は見かけにすぎないと批判し、ゆたかな社会を築くためには市場メカニズムに依存せず地方で暮らす人々が地方の視点で、主体的に地方のコモンズ(社会的共通資本)を維持・管理することが重要だと説いた。

政策の成果を出すことよりも政策の看板を付け替えることに精を出し、数十年前から進行していた少子高齢化を今さら国難だと称し、その解決を大義にして臨時国会の冒頭で衆議院を解散するような安倍晋三首相には、戦後日本が直面してきた最大のアポリア・地方衰退を解決できる能力はない。

今回の総選挙で真正面から安倍政権に対抗するなら、党派を問わず野党は改憲や消費増税の是非だけではなく、いかに地方を創生するかを争点に掲げるべきだ。そうでなければ衰退する地方から希望は生まれないのである。

(たかはし のぶあき・立命館大学国際関係学部教授。10月6日号)