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国の“基地負担軽減策”が沖縄の自治体を圧迫(黒島美奈子)

沖縄県内に6カ所ある養護老人ホームの一つ「具志川厚生園」(以下、厚生園)内に、沖縄初の視覚障害者用居室ができたと聞いて5月下旬、県視覚障害者福祉協会の視察に同行した。

養護老人ホームは、介護者がいなかったり、経済的困窮にある高齢者の福祉施設。そのうち視覚障害者を対象にした施設を「盲養護老人ホーム」という。戦後、全国で設置が広がり、これまで未設置県は鳥取と沖縄だけだった。離島県の沖縄では早くから必要性が指摘されてきたが、戦後72年たったこのほどようやく、既設ホームを改装する形で実現した。

トイレや浴室への音声案内、居室の点字表示、廊下の誘導テープ、階段の転落防止柵などの整備を確認した「県視力障害者の生活と権利を守る会」事務局長の渡嘉敷綏秀さんは「これで先輩たちに紹介できる」と感慨深げだった。

一方、視察後の金城清安厚生園園長との懇談では気になる話題が出た。養護老人ホームの入所者が年々減少しているという。他県の入所率が80~90%で推移しているのに対し、県内の養護老人ホームの入所率は5割程度で、厚生園では現在40%台まで落ち込んだと心配していた。低所得の高齢者が利用する特別養護老人ホームには毎年、入所待機者が数千人も出る。無届けの低料金有料老人ホーム開設も後を絶たないという状況で、金城園長は「養護老人ホームのニーズはある」と話す。にもかかわらず入所が進まない要因に「自治体が措置しない」ことを挙げた。

養護老人ホームに入所するには自治体の措置が必要だ。措置費は高齢者1人当たり1カ月約20万円。別枠で国の補助対象だったが2005年に一般財源化された。金城園長によると、以降、県内では養護老人ホームへの措置が極端に低迷している。一般財源化後も、高齢者を措置すればその分の補助が自治体に入る仕組みに変わりはない。県内の低迷について金城園長は「一般財源化で補助が目に見えなくなり、自治体の負担分が際立ち、敬遠されているのではないか」とした。

それを聞いて、琉球政府の福祉部に在職していた元県生活福祉部参事・西表孫称さんの話を思い出した。県内では、人口当たりの特別養護老人ホームや認可保育園の設置率も他県に比べ低い。理由を尋ねたら西表さんは「基地問題で有形無形に割かれる自治体の負担が影響しているのだろう」と語っていた。

他県にはない新たな自治体負担がことし5月にも明らかになった。昨年発生した米軍属による暴行殺人事件を受け、国が全額補助する「防犯灯・防犯カメラ等緊急整備事業」。当初国は県内37市町村に13億円の交付を決めたが、整備台数や自治体の数が、国が見込んだ半数程度になる見込みだ(5月14日付『沖縄タイムス』)。維持管理費が自治体負担となることが主な理由。事件後に国が事業化した「沖縄・地域安全パトロール隊」の予算約9億円も昨年、沖縄関係予算に組み込まれ県から反発が出ている。

国が次々と打ち出す基地負担軽減策が、県や自治体の財源負担としてブーメランのように返る構図。それは復帰から45年間、澱のように溜まり続け、県民生活に影響を及ぼしている。そこにいかほどの国税が投入されてきたかも、国民は知るべきだと思う。

(くろしま みなこ・『沖縄タイムス』記者。6月2日)

連合の弱み象徴する神津里季生「同級生交歓」(佐高信)

今度、『“同い年”ものがたり』(作品社)という本を出した。「〈世代〉と〈人物〉で語る昭和史」である。大正13年生まれの村山富市を筆頭に、昭和35年生まれの香山リカまで、七つの世代の102人を取り上げた。昭和8年生まれの森村誠一が同い年の現天皇をどう見ているかにも触れている。昭和27年生まれの田中優子と松元ヒロは同時期に同じ法政大学に学んでいた。

これを書く時に注意したのは、本多勝一が1970年5月号の『エイムズ』で批判し、斎藤美奈子も『AERA』の2001年10月22日~11月26日号でバッサリやった『文藝春秋』の「同級生交歓」のような「功成り名遂げて」にならないように、ということである。当時まだ30代だった本多は、いまはなくなった『中央公論』の「遠縁近縁」と並べて「同級生交歓」について、こう書く。

「私の感想を一口にいえば、『ヘドが出そうだ』とは正にこのことだ。ニヤけきった顔といい、ニヤけきった文章といい、ギャーッと叫びたくなる。そんなに不愉快なら見なければいい? 確かに。めったに見ない。しかし旅先の、とくに国外にあるとき、たまたま日本の雑誌が目につくと、ついなつかしくなって丹念に見てしまったりする。

そのようにあまり見ない私でも、ここに登場した人の中には、かなり知っている人(個人的という意味でも少しあるが、名前を知っているという意味が大部分)もいる。それまでに尊敬していた人だとこれでグッと点が低くなるし、軽蔑していた人だと『やっぱり彼奴らしい』と思う。ここに出てくる顔こそ、貧困なる精神の象徴だ。貧困でない精神の人でも、ここに登場するときだけは少なくとも貧困なる瞬間である」

そして本多は自分の小学校時代を振り返り、進学した者はごく少数だったが、しなかった者も「平均的庶民として地域社会の中で地味な仕事についている」と共感を寄せながら、「そういう感覚のない成り上がりの俗物、自分が『出世』し、おたがい『出世』した奴同士といった下劣の心情」があふれている「同級生交歓」を難詰するのである。

「ニヤけきった文章」

それからおよそ30年後、今度は斎藤美奈子が「社会の第一線で活躍するかつての級友がズラッと登場する」このグラビアについて「社会階層の何たるかを、これほど如実に教えてくれる企画もない」とし、「写真に顔をそろえているのは大企業の社長や重役、大学教授、政治家、官僚、マスコミ人等。肩書もイヤミだけれど、彼らが大学ではなく小中高校の同級生であるのがまたイヤミ。登場するのは、国立大学付属小中学校、地方の名門進学校、都市の名門私立校」と続けて、「いい学校を出て出世して、いつかは『同級生交歓』のページに載る。明治以来、脈々と受けつがれてきたこの国の伝統、そして人生の目標をよくあらわしているじゃないですか」と結ぶ。

試みに最新6月号のそこを開けば、昭和46年に東京学芸大学附属小金井中学校を卒業した駐ブルネイ大使の伊岐典子、連合会長の神津里季生、内閣府特命担当大臣の加藤勝信、東京海上日動火災保険顧問(前財務次官)の田中一穂が並んでいる。確かに本多の指摘する「ニヤけきった文章」をここで書いているのは神津だが、もちろん彼は本多や斎藤の批判など夢想だにしなかっただろう。そういう人間がトップであるところに現在の連合の弱みがある。

世代論は不毛とも言われるが、大正11年生まれのダイエーの創業者、中内功は「明治生まれの人間が戦争を計画して、大正生まれのわれわれが一銭五厘の旗の下でやらされた」と繰り返し言っていた。

(さたか まこと・『週刊金曜日』編集委員、6月2日号)

G7の隠れ孤立男、安倍首相(浜矩子)

「6対1だった。」ドイツのメルケル首相の言葉だ。5月26・27日に、イタリアのタオルミナでG7サミット(主要国首脳会議)が開催された。上記のメルケル発言は、この会合について語る中で出てきたものだ。

この「6対1」は、「トランプ米大統領対その他6カ国首脳」を意味している。今回のサミットで、トランプ大統領は少なくとも二つのテーマについて他の国々の首脳たちと衝突した。その1がパリ協定。その2が貿易である。

パリ協定は、地球温暖化対策に関する国際的枠組みだ。2015年にG7各国を含む国々の間で合意を得ている。ところが、トランプ大統領はパリ協定を受け入れるか否かの判断を留保した。何しろ、大統領選を闘う中で「地球温暖化はでっち上げだ」と叫んでいた人だから、スンナリ受け入れられるわけがない。

貿易に関する焦点は保護主義だ。大統領就任演説の中で、トランプ氏は「保護は豊かさをもたらす」と宣言した。これまた、保護主義排除を謳い上げる共同宣言に、素直に合意できるはずがない。

貿易とのかかわりでは、サミット開催直前に、こともあろうにドイツを名指しして、対米貿易黒字が大き過ぎると不平不満をぶちまけた。「ドイツは悪い!」そう叫んでしまった。

こんなトランプ芝居に突き合わされれば、メルケル首相が「6対1だった」と不快感を露わにするのは、とてもよく解る。さぞかし、憤懣やるかたなかったことだろう。

ただ、それはそれとして、今回のG7サミットは、正確にいえば、「6対1」ではなかったと思う。確かに、表面的にはトランプ氏が1人で浮きまくっていた。だが、本当の構図は「5対1対1」だったと思う。もう1人の「1」が、日本の安倍晋三首相である。なぜなら、彼には、このサミットで決して明かすことがなかった大いなる野望がある。

安倍首相の野望とは、「世界の真ん中で輝く国創り」である。これが、今日における彼のメイン・テーマだ。主旋律である。そうだということを、今年の1月20日、通常国会の冒頭における施政方針演説の中で、安倍首相はみずから高らかに宣言している。

これは凄いことである。トランプ大統領の「アメリカ第一」などとは、野望度の高さがまるで違う。「アメリカ第一主義」は、ただ単に、アメリカはアメリカに引きこもりたいと言っているだけだ。アメリカはアメリカのことしか考えない。アメリカはアメリカの外に出ていかない。外からアメリカに入って来てほしくもない。引きこもらせて。ほっといて。そう言っているだけである。

だが、世界の真ん中で輝くとなると、これは、大変だ。要は、自分が太陽になるのだと言っている。その他大勢は、惑星どころか衛星と化して、我が周りを回っておれ。これは、世界一になりたいというのとも、大いに違う。世界一になるというのは、多くの競技者の中で一番になることだ。太陽になるつもりの人は、衛星たちと競ったりする気はない。これぞ、本当の孤立だ。G7の隠れ孤立男こそ、重大要注意人物である。

(はま のりこ・エコノミスト。6月2日号)

「のれん」に押しつぶされた東芝(佐々木実)

日本郵政が初めて赤字に転落した。2017年3月期連結決算の純損失は289億円。15年5月に買収した豪州の物流会社トール・ホールディングスの業績不振に伴い、4003億円もの特別損失を計上したことが原因である。

買収に失敗すると、なぜ損失が発生するのか。「のれん」という名の資産を減損処理しなければならないからだ。通常、企業を買収する際、買収額は買収される企業の純資産より大きい。買収した企業はこの差額を「のれん代」として、バランスシート(貸借対照表)の資産の部に計上する。買収の失敗が明らかになると、「のれん代」を減額しなければならず、損失が発生するわけである。

「のれん」は「ブランド力」とか「超過収益力」などと説明されることも多いが、買収の失敗は「のれん」の過大な評価から生じる。日本郵政はトールを約6200億円で買収したが、あとで巨額損失を被ったのは「のれん代」が巨額だったからにほかならない。

日本郵政の長門正貢社長は4月下旬の会見で、巨額買収劇の背景について「株式上場前に成長ストーリーを示したいという意図もあったのでは、と思う」と語った。買収当時、日本郵政は株式の上場を控えていた。トールの買収は弱点と見られていた郵便事業で「海外展開で成長」の「成長物語」を投資家にアピールするねらいがあった。法外な「のれん代」には、バラ色の成功物語の値段が上乗せされていたわけだ。

「シッポが犬を振り回す」というが、「のれん」はときに企業を振り回す。最悪の例が、東芝である。

東芝は2006年に米国の原子力会社ウェスティングハウス・エレクトリック(WH)を約6400億円で買収した。WHの純資産は約2400億円で、およそ4000億円を「のれん」に相当する無形資産として計上することになった(「のれん代」の3507億円とは別に「ブランド代(非償却無形資産)」として502億円を計上)。

現在、東芝は上場廃止さえ懸念されているが、迷走の原点はWHの買収だ。福島原発の事故後、巨額にのぼるのれん代の減損処理が必至だったにもかかわらず、東芝は「のれん代の償却は必要ない」と強弁し続けた。のちの不正な会計や不自然な企業買収を誘発する土壌をつくってしまった。「原子力ビジネスで成長」の夢から醒めたとたん、「のれん」に押しつぶされたのである。

「のれん」は不思議だ。企業の将来にわたる総合的な評価を、現時点で現金に換算するのだから、必ず不確実性が伴う。未来を正確に予測できないように、「のれん」を正確に算定することなどできない。

しかし一方で、「のれん」は企業を膨張させる。ソフトバンクは16年に英国のアーム・ホールディングスを約3兆3000億円で買収した際、約3兆500億円もの「のれん」という見えない資産を手に入れた。まるで魔法の杖だ。

結果的に買収が成功するか失敗するかにかかわらず、「のれん」には「物語」が潜む。資本主義の主役たる「企業」が商品として売り買いされるとき、資本主義に内在する幻想性が「のれん」となって姿を現す。そう解釈することもできるのではなかろうか。

(ささき みのる・ジャーナリスト。5月26日号)

黒田氏の次の日銀総裁は?(鷲尾香一)

黒田東彦(くろだはるひこ)・日本銀行総裁の2018年4月8日の任期終了まで1年を切った。日銀総裁人事は国会同意人事のため、根回し期間を考えれば次期総裁候補者の名前がそろそろ挙がってきてもよさそうなものだが、本命不在の状態だ。

過去の日銀総裁人事は、日銀プロパーと旧大蔵省(現財務省)OBの“たすき掛け人事”が慣例だったが、1997年の日銀法改正とともに、たすき掛け人事は終焉を迎え、黒田総裁の前の日銀総裁は、速水優氏、福井俊彦氏、白川方明(しらかわまさあき)氏と日銀OBが3代続いた。

白川総裁誕生の時には、旧大蔵省OBの武藤敏郎・元事務次官が総裁候補として最有力だったが、当時の民主党(現民進党)などの反対により国会同意を得ることができず、日銀OBで副総裁の職にあった白川方明氏が総裁に就任している。黒田総裁は98年まで総裁を務めた松下康雄氏以来、実に15年ぶりの旧大蔵省OBの日銀総裁誕生だった。

さて、次期日銀総裁については、巷間さまざまな憶測が出ている。黒田総裁の続投、日銀プロパー総裁の復活、そして、当然のことながら旧大蔵省OBも虎視眈々と椅子を狙っている。

それでも、有力候補者の名前が挙がらず、本命不在の状況なのは、次期日銀総裁に課せられるだろう困難な命題にあると思われる。

それは、取りも直さず、黒田総裁が推し進めた「異次元の金融緩和政策」の変更にある。今や国債発行残高に占める日銀の保有比率は4割を超えているのだ。

次期総裁は、この日銀依存となっている国債消化を従来(黒田総裁が行なっている金融緩和以前)の市中消化に戻していかなければならない。加えて、すでに日銀が保有している400兆円を超える国債の処理も問題となってくる。

国債だけではない。日銀は16年度にETF(上場投信)を5兆5870億円も買い入れた。

当然、国債やETFのように価格が変動する商品では、日銀の金融政策次第で価格が大きく変動する可能性がある。価格が下落すれば日銀が巨額の含み損を抱えることになる。それにも増して、国債の場合には価格の下落は金利の上昇となり、急激な長期金利の上昇に結びつく可能性を秘めている。

つまり、次期総裁は黒田総裁とはまったく違った金融政策を立案・実行し、金融市場を本来の姿に戻すという使命を帯びている。

中央銀行総裁である以上、政府・政権の経済政策に協力するのは致し方ない部分もある。しかしそれは、政権におもねる政策を行なうのとは意味が違う。

米国の中央銀行にあたるFRB(米連邦準備制度理事会)議長にイエレン氏が就任したのは14年。任期は18年2月3日までだ。黒田総裁よりも先に任期を終えることになるが、イエレン議長はあれだけ強烈な個性のトランプ大統領が誕生しても、何らおもねることなく、淡々と中央銀行として必要な政策を進めている。

高い資質を持った人物であればグローバルな人材の活用も選択肢の一つだろう。たとえば海外では、カナダ銀行総裁を務めたカーニー氏がイングランド銀行総裁に、イスラエル銀行総裁を務めたフィッシャー氏がFRB副議長に就任しているのである。

(わしお こういち・経済ジャーナリスト。5月19日号)

賃上げ闘争のため、新たに「秋闘」を(高橋伸彰)

黒田東彦・日本銀行総裁による異次元の金融緩和から4年を経ても、2%の物価安定目標を達成できないのは、デフレの真因が貨幣量の不足ではなかったからだ。1990年代後半以降20年近くにわたり、グローバル競争での生き残りを口実に大手輸出企業が先頭に立って賃金を抑制したからデフレに陥ったのである。

そのことに安倍首相も気づいたから、財界主導の「官製春闘」で賃上げを図ろうとしたのではないか。実際、2014年9月の経済財政諮問会議における榊原定征経団連会長の「法人実効税率を真水で2%下げれば、賃上げに回すことができる。今年の賃上げ、しかもベアが実行できたのは総理の御英断で、復興特別法人税を1年間前倒し廃止したことが、非常に大きな力になった」という発言を受け、安倍政権は早々に法人税率を従来の25.5%から15年度は23.9%、16年度に23.4%、18年度以降は23.2%への引き下げを決定した。

しかし、労働者にとっては脱デフレを図り、アベノミクスを成功に導くことが賃上げの目的ではない。現在の生活を守り、将来の安心を確保するのが目的である。それにもかかわらず、連合は主要企業の集中回答があった3月15日のアピールで今春闘を「『経済の自律的成長』実現に向けた労使の社会的責任や人への投資が企業の存続と成長に寄与することを訴え(中略)4年連続して賃上げの回答を引き出している」と総括する。

鉄鋼労連で長年にわたり春闘の賃上げ闘争を支え、連合の政策委員長も歴任した千葉利雄は、自戒も込めて日本経済の発展や企業の生き残りに対して労働組合が協力するのは、あくまで「例外的なもの、つまり危機管理的な、緊急避難的な手段と位置づけるべき」(『戦後賃金運動』)と述べ、危機が去れば「労働組合は機を失せずに本来の積極的な分配闘争に立ちもどって、主体性を強めていかないと、運動の生命力が弱くなっていく」(同)と警告する。

かつての石油危機とは異なり、現在のようにマクロ的にはプラス成長が続き企業収益も好調を示す中、労働組合があえて賃上げは経済成長や、人への投資を通して企業の成長や存続にも寄与すると訴えて春闘に臨む必要はない。

また、もしかりに大企業労組が中堅・中小労組や未組織労働者を気遣い、本来勝ち取れるはずの賃上げを自制しているなら、それこそ本末転倒である。なぜなら大企業労組が賃上げ要求を抑えたことで増える企業収益は、結果的に経営者の報酬や株主の配当に回り、日本全体で見れば階層間の格差が拡大するからである。

前出のアピールで連合が「すべての働く者の処遇の『底上げ・底支え』『格差是正』の実現をめざしている」と訴えるなら、傘下の大企業労組はむしろ可能なかぎり大幅な賃上げを獲得したうえで、身銭を切って中堅・中小労組や未組織労働者を支援すればよい。

賃上げの不足による個人消費の停滞は、労働者が現在の生活に苦しみ、将来の生活に不安を抱いているあらわれにほかならない。連合には春闘で取り残した分は、新たに「秋闘」を組織しても取り返すくらいの気概をもって賃上げ闘争に臨んでほしい。

(たかはし のぶあき・立命館大学国際関係学部教授。5月12日号。一部敬称略)

国家主義者は救国の伝道師ではない(浜矩子)

「東が西から遠いほど、わたしたちの背きの罪を遠ざけてくださる」。旧約聖書の一節だ(詩篇103.12)。神の力を謳い上げている。聖書講座を開講しようとしているのではない。フランス大統領選の成り行きを見守る中で、この「東が西から遠いほど」というフレーズが頭に浮かんだのである。

最終的に誰が勝利するかはさておき、候補者たちの主張を聞きながら、奇妙な点に気がついた。それは、いまや、どうも東が西からあまり遠くなさそうだということである。聖書の上記の言い方は、東と西が対極にあるところに眼目がある。人間からこれ以上遠くはなりえない遠方に、神は罪を追いやってくださる。それが、この一節の勘所だ。

政治の世界において、対極的な位置づけにあるものは何か。それは右と左だろう。右翼と左翼が政治的信条の両極だ。この両端を結ぶ直線上に、中道右派とか中道左派があったりする。右翼から最も遠いところに向かって進めば、左翼にたどり着く。左翼から遠ざかれば遠ざかるほど、右翼に近づく。東から西が遠いほどに、左翼は右翼から遠い。そのはずである。

だが、今のフランスでは少々状況が違う。今回の選挙に向けて最右翼に陣取ってきたのが国民戦線を率いるマリーヌ・ルペン氏だ。極左ポジションから急浮上したのが、ジャン=リュック・メランション氏である。フランス政治の信条測定定規において、この両者が左右の両端を画している。そういうことだ。ところが、この2人が言っていることは、驚くほど似通っている。反グローバル・反自由貿易・反EU。2人とも、ロシアのプーチン大統領がお気に入りだ。

いみじくも、選挙キャンペーンの本格始動に当たって、ルペン氏が次のように言っていた。「いまや、右翼も左翼もない。あるのは、グローバル対愛国の対決だ。」メランション氏も、これには大いに同感しそうだ。

対極的に遠い関係にあるのは、いまや、右と左でも西と東でもなくて、グローバルと愛国なのか。こんな対極意識が広がってしまうのは、実に危険なことだと思う。グローバルを悪役に仕立てることで、国家主義者たちが救国の伝道師であるかの自画像を打ち立てる。このまやかしに乗せられると、人々は、それこそグローバルなスケールで国家権力の餌食と化していく。

グローバル化という現象は、確かに扱い方が難しい。だが、国境を超えた相互依存関係が深まれば、それだけ、誰も偉そうな顔が出来難くなる。誰もが誰かのお世話になっている。これほど人々を謙虚にしてくれる構図はない。これほど、人々がお互いに愛想良くすることを容易にしてくれる時代はない。親分がいないから、誰もが責任をもって全体のことを考えなければならない。なかなか、麗しい風景だ。グローバルは愛国で、愛国はグローバル。実は、それが今日的時代状況であるはずだ。

この感覚で、西と東が手を結び、右翼と左翼が抱き合うなら、確かに、人類は罪から最も遠いところにいけるかもしれない。神よ、何とぞ、そこに向かって我らを導き給え。

(はま のりこ・エコノミスト。4月28日・5月5日号)

「働かざるもの食うべからず」を続けるのか(佐々木実)

社会が閉塞感に覆われている現状を、「財政」という視点から、これほど明快に解き明かしている入門書もめずらしい。『財政から読みとく日本社会』(岩波ジュニア新書)を著したのは、財政社会学を専門とする井手英策慶應義塾大学教授である。3月の民進党大会での熱弁が話題になったが、民進党のブレインとしてではなく、財政学者としての井手氏の学説に触れてみたい。

井手教授の慧眼は、自己責任や自助努力を重んじる日本型福祉国家の本質を「勤労国家」と捉えた点にある。1961年に国民皆保険・皆年金制度の運用が始まるとき、政権を率いたのは大蔵省出身の池田勇人首相で、借金なしで予算を組む際、税の負担率を国民所得の20%以下に抑えることを目指した。高度経済成長の立役者とされる池田首相は「社会保障をぜいたくだと考えていたむき」があった。

とはいえ、政界の保革対立が激しかった70年代前半、田中角栄政権は高齢者医療費の無料化に踏み切るなど社会保障を大幅に拡充した。この時期、日本はヨーローッパ型の福祉国家の道を歩むかどうかの別れ道に立っていた。

70年代後半、石油ショックなどを乗り切るために財政投融資を活用した日本独特の土建国家路線が確立され、結果として、税の負担率を高めて福祉を充実させたヨーロッパとは異なる道を選択した。

高度成長が終焉して土建国家の財政赤字が深刻になると、大平政芳政権は社会保障費を切り詰めるために「家庭基盤の充実」を謳った。家族像にも勤労国家が投影され、専業主婦が福祉サービスの担い手として期待された。

結局、勤労国家の政策は、公共事業(おもに地方での雇用創出)と所得減税(勤労者への褒美)に収斂した。経済成長を前提とするなら整合性をもつ政策だが、バブル崩壊後の90年代に繰り返された所得税の大減税と巨額の公共投資は、政府の借金を雪だるま式に膨らませた。

一方で、90年代には高齢化が進み、共働き世帯が専業主婦世帯を上回った。医療や介護、子育て、教育などのサービスが求められるようになり、財政ニーズの面からも、土建国家、勤労国家の枠組みはもはや完全に時代遅れとなったのである。

ところが2000年以降、財政組み替えの余裕などなく、むしろ勤労国家の仕組みが逆回転して公共投資や社会保障費を削り落とし、地方や低所得者を狙い撃ちする「袋叩きの政治」が社会を分断した。

井手教授によれば、勤労国家とは生存権と勤労の義務を結びつける社会であり、いわば「働かざるもの食うべからず」の社会である。勤労国家という制度的要因を背景に、自分がギリギリのところで「中の下」にとどまっていると信じている多くの日本人は、格差問題を他人事として受けとめている。

井手教授は、ある意味で、70年代の歴史的な選択を問い直している。「人間に共通のニーズをみたすため、社会のメンバー全員を現物給付の受益者にする」という構想には強い反発が予想されるけれども、少なくとも、井手教授が描いた「勤労国家」という自画像はあるべき制度設計を議論する際の出発点となる分析である。

(ささき みのる・ジャーナリスト。4月21日号)

政府の中長期財政収支見通しは“取らぬ狸の皮算用”(鷲尾香一)

国際公約となっている2020年のプライマリーバランス(基礎的財政収支、以下PB)の黒字化。結局、達成はできないということが白日の下に晒された。

PBはわかりやすく言えば国債関連の収入・支出を除いた財政を指す。つまり、税収を中心とした歳入で歳出が賄われている姿だ。

企業にたとえれば、無借金経営の上、黒字化となれば儲けが出ている状態になる。

では、今の国家財政はどうなっているのか。当欄でも以前に指摘したが、16年度予算では、三度も補正予算を組み、当初、赤字国債の発行は計画していなかったにもかかわらず、税収不足などから赤字国債を発行するに至った。

16年7月時点での一般会計のPBは11兆6000億円の赤字だったが、今年1月に出された政府の中長期財政収支見通しによると、16年度一般会計のPBの赤字は16兆7000億円と昨年7月時点から5兆1000億円も増加している。

赤字増加の要因は、税収下振れ額が1兆7000億円、社会保障費や交付税以外の歳出増が3兆5000億円となっている。つまり、予算での歳入の見通し、目論見が見事にはずれたのだ。

しかし、中長期財政収支見通しによると、16年度の三度にわたる補正予算による景気対策効果があらわれ、17年度からは税収が着実に増加する見通しにある。

16年度55兆9000億円だった税収は17年度57兆7000億円、18年度59兆6000億円、19年度62兆9000億円、20年度には67兆1000億円まで増加すると予測される。

ただし、この税収見通しは16年7月の時の中長期財政収支見通しと比較すると、各年度とも2兆円程度下方修正されている。

一般会計でのPB対象経費は、16年度が77兆9000億円であったのに対して、17年度73兆9000億円、18年度74兆9000億円、19年度77兆円、20年度79兆6000億円というように、税収が増加する見通しにもかかわらず、19年度までは16年度を下回る水準にある。

つまり、20年度までは歳出を抑制して、一般会計のPB黒字化に向けた努力をしているという“格好”だけでも示そうという浅知恵が見て取れる。

実際、一般会計のPBの見通しでは、20年度の赤字額は6兆8000億円、国と地方を合わせたPBは8兆3000億円の赤字と黒字化など程遠い見通しとなっている。

だが、政府の中長期財政収支見通しは、一般会計でのPB対象経費を抑制していることでも明らかなように、補正予算を組まないのが前提となっている。本当にそんなことが可能だろうか。

百歩譲って政府の見通しのように景気が回復して税収が増えたとする。しかし、景気の回復は日本銀行が実施しているゼロ金利政策を踏まえた未曽有の金融緩和策の終焉を意味する。

ゼロ金利で最も恩恵を受けているのは、タダ同然の金利で国債を発行している政府なのだ。景気が良くなり、金利が上昇を始めれば、国債の利払いが増加し、国債費が膨張することになる。結果、PBの黒字化は遠のく。

政府の中長期財政収支見通しは究極の“取らぬ狸の皮算用”ということになる。

(わしお こういち・経済ジャーナリスト。4月14日号)

雇用環境改善だけでは消費は増加しない(高橋伸彰)

現在の安倍政権が誕生してから政府の景気判断(『月例経済報告』)で、「回復している」という総括判断が示されたのは、消費税率引き上げ前の駆け込み需要があった2014年1月から3月までの3カ月にすぎない。翌4月には「緩やかな回復基調が続いている」と判断が下方修正され、その後は今年3月に至るまで36カ月連続の「回復基調」、すなわち「回復の途上にある(道半ば)」が続いている。

「回復している」と「回復基調」の間にどのような違いがあるのかを一般論として論じるのはむずかしいが、安倍政権下の景気に焦点を当てるなら個人消費が鍵を握っている。というのは政府が個人消費が「増加している」と判断したのも、14年1月から3月までの3カ月にすぎないからだ。つまり日本の景気が「回復している」という結果を出せずに、いつまでも「回復基調」という道半ばで足踏みしているのは、GDP(国内総生産)の6割を占める個人消費が増加しないからである。

一方、政府の景気判断によれば雇用情勢は15年12月以降、16カ月連続して「改善している」。この3月末に公表された「労働力調査」でも完全失業率は2.8%と22年ぶりの低水準となり、昨年11月以降すべての都道府県で有効求人倍率が1.0を上回っていることと併せ考えれば、雇用の需給が逼迫していることは間違いない。

それにもかかわらず雇用情勢の改善が、賃金上昇を通して個人消費の増加に波及しないのはなぜだろうか。政府・日本銀行は五右衛門風呂の例えを使って、釜は熱くなっているが、釜の湯が温まるまでにはなお時間を要していると嘯くが、ここまで湯が冷えたまま(消費が増加しない)なのは、そもそも湯を温められるほどに釜は熱くなっていない(賃上げが不足している)からではないか。

実際、『朝日新聞』は失業率が22年ぶりに低水準となったと報じる4月1日付の紙面で「人手不足感が強まっているにもかかわらず、賃金の伸びは鈍い」と指摘、『日本経済新聞』も同日付で「人手不足が賃金や物価上昇に波及する経済の好循環は実現していない」と報じている。安倍首相は「官製春闘」で賃上げを実現すれば消費も増えると目論んでいたようだが、今春闘の失速ぶりをみれば当てが外れたのは明らかだ。

筆者は本誌への寄稿(「永遠の『道半ば』に潜む安倍首相の真意」、2017年1月20日号)で、累計約340兆円の「失われた賃金」こそが消費不調の主因だと述べたが、その責任は経営側だけでなく積極的な賃上げ闘争を怠ってきた労働組合にもある。言うまでもなく、雇用の需給が逼迫したからといって市場メカニズムの作用で賃金が自動的に上がるほど現実は甘くない。賃上げは労働組合が対立覚悟で経営側と交渉して勝ち取るものであり、そのために団体交渉権やスト権行使などの闘争手段が法律で認められている

連合は一部大手組合の賃上げをもって春闘を総括するのではなく、すべての労働者が失われた賃金を奪還するまで間断なく闘争を続けるべきだ。そうでなければ安倍政権の命運が尽きる前に、連合に対する労働者の信頼が失われてしまうのである。

(たかはし のぶあき・立命館大学国際関係学部教授。4月7日号)