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清い水と汚れた水(小室等)

「僕はテレビを観る人達に知って貰いたい/芸能史の暗い影を/それを求めた観客の貧しさを/健全娯楽をつくる前に/娯楽というものの/淫靡な素性を見極めなければ/無意味であることを。

☆(中略)

僕は昭和八年に生れた。/十二才の時には/戦禍の廃墟に立っていた。/日本の伝統が灰になっていた。/二十才の時にテレビ放送が始まり/僕はそこで働くようになった。/テレビは飢えた豚のように/あらゆる文化・芸能を/その胃袋の中におさめようとする。/その現場から/芸の伝統を解きほぐし/一九六九年 昭和四十四年の時点で/テレビが芸能史をどのように受けとめたか/この本はその体験的なエッセイであり/テレビスタジオからの報告でもある。」

永六輔さんが物した力作『芸人たちの芸能史~河原乞食から人間国宝まで』(番町書房)のまえがきの一節だ。そしてあとがきで、かさねて言う。

「日本の芸能史が賤民への差別が根底となり、そこから生れ育ってきた背景のあることは書いて来た通りである。この素性の後めたさを、歴史の中でどう受けついで行くかが僕達の明日の芸能を決めてゆくことになる。世界を例にとった場合でも芸能ならびに芸人が同じ差別で育っている例は多い。多くの大衆歌曲、ブルース、タンゴ、サンバ、ボサノヴァといったものがスラムから発生していることでもわかる。ジャズにしたってギャングと売春婦に育てられた。ここでも芸人とやくざと女郎は一身同体なのである。」

つまり、すばらしい芸人たちは決して清い水の中に生まれ育った連中ではない。清廉潔白などではないのだ。悪党がいいと言っているのではない。しかし、善人では、悪党よりも始末が悪いのだ。

たとえば、関東大震災の中、ちょっとした流言飛語で朝鮮人虐殺を犯してしまえる善人・一般人の脆さ。戦争末期、特攻隊に志願し、残念ながら自爆攻撃をしてしまえた“純な”青少年たちの脆さ。

翻って、そのような脆さに立ち向かえるとしたら、それは汚れた泥水で育った芸人たちだと、永さんは言いたかったのだと思う。

そこでわれら永六輔の下に集まった者たち、佐久間順平、竹田裕美子、李政美、伊藤多喜雄、こむろゆい、小室等、オオタスセリ、松元ヒロ、きたやまおさむ、中山千夏、矢崎泰久の面々。せめてその名を「永六輔とその一味」と名乗り、七月六日、成城ホールに集い、六輔お頭一周忌とするのだ。

それはそれとして、国会や霞ヶ関に棲息する連中って、一体どんな水で育ってきたのだろうか。

(こむろ ひとし・シンガーソングライター、6月30日号)

永さんのルーツ(小室等)

「墓参に来る人は、必ずしも檀家の人ばかりではない。故人の知己友人なども参るから、顔見知りでない人も多勢来る。三十くらいのキレイな、素人ばなれのした女性がお参りに来た。私の知らない人である。去年亡くなったある女性の墓参に来たのだが、大きな蟹のゆでたのを持っている。

『あの人、とても蟹が好きだったんですよ。蟹と来たら、ホントに目がないの。バケツに一杯くらいたべちまうんですのよ。だから今日、あたし、蟹もって来ちゃった』

いいとも、いいとも、貴方の気持なんだから、とは言ったものの、あとでなまものだから、腐ったりして、ヘンな臭いなどするようになると、ほかの人たちに悪いし、一日お供えしたら、これは片づけた方がいいだろうと思った。あくる日になって、掃除に行ったら、もう、夜のうちに、野良猫がこの蟹を引きずり下ろして、喰いちらかしたと見えて、そこら中に、蟹の鋏や甲羅や、白い肉片が散乱し、目もあてられないありさまになっていた。掃除には手がかかったが、昨日あの女性はきっと、『あなたの好きな蟹、もって来てあげたわ』と、友達の墓に供えたのだろう。やっぱり、いいなあと思った。掃除など、ちっとも苦にならなかった。」
(『街=父と子 おやじ永忠順との優雅な断絶』永六輔著、毎日新聞社)

ちっとも苦にならなかった人は当時、元浅草最尊寺住職永忠順氏で、それは永六輔さんの御父上。素人ばなれした女人、蟹を喰いちらかす野良猫。硬軟分け隔てなくよろず受け入れる下町の寺。そうか、永さんの優しさのルーツは忠順さん、あなただったんですね。

忠順さんの話、もう一つ。

相撲取りになるはずだった末の息子を亡くした中島さんの話。

「暑い夏の炎天干しの日に、中島さんは、いつものジュースのほかに、大きな氷のかたまりを、縄で結わいてブラ下げて、お参りに来た。あの氷をどうするつもりなのか。中島さんが帰ってから、お墓へ行って見たら、お墓の頭の上に、氷がのせてあった。溶けた分が水になって、何本もの糸のように、石塔を濡らしていた。夏の日盛りには、石がやけるから、お墓は手で触っても熱いくらいになる。お前暑いだろうなあ。大きな氷を持って来て、子供の墓の上にのせてやる。親の心のやるせなさに、涙が出て来た。合理主義など、こうなったら、どこへでも行ってしまへ。下町には、下町のやり方があるのだ。」(同)

下町のやり方。

平和ってここからだよね。上のほうでドンパチやるんじゃなくて、いま目の前にいる人に思いを至らせること、なんですね永さん。

(こむろ ひとし・シンガーソングライター、6月16日号)

〈編注〉2017年7月7日で、永六輔さんが亡くなられてから1年になります。

連合の弱み象徴する神津里季生「同級生交歓」(佐高信)

今度、『“同い年”ものがたり』(作品社)という本を出した。「〈世代〉と〈人物〉で語る昭和史」である。大正13年生まれの村山富市を筆頭に、昭和35年生まれの香山リカまで、七つの世代の102人を取り上げた。昭和8年生まれの森村誠一が同い年の現天皇をどう見ているかにも触れている。昭和27年生まれの田中優子と松元ヒロは同時期に同じ法政大学に学んでいた。

これを書く時に注意したのは、本多勝一が1970年5月号の『エイムズ』で批判し、斎藤美奈子も『AERA』の2001年10月22日~11月26日号でバッサリやった『文藝春秋』の「同級生交歓」のような「功成り名遂げて」にならないように、ということである。当時まだ30代だった本多は、いまはなくなった『中央公論』の「遠縁近縁」と並べて「同級生交歓」について、こう書く。

「私の感想を一口にいえば、『ヘドが出そうだ』とは正にこのことだ。ニヤけきった顔といい、ニヤけきった文章といい、ギャーッと叫びたくなる。そんなに不愉快なら見なければいい? 確かに。めったに見ない。しかし旅先の、とくに国外にあるとき、たまたま日本の雑誌が目につくと、ついなつかしくなって丹念に見てしまったりする。

そのようにあまり見ない私でも、ここに登場した人の中には、かなり知っている人(個人的という意味でも少しあるが、名前を知っているという意味が大部分)もいる。それまでに尊敬していた人だとこれでグッと点が低くなるし、軽蔑していた人だと『やっぱり彼奴らしい』と思う。ここに出てくる顔こそ、貧困なる精神の象徴だ。貧困でない精神の人でも、ここに登場するときだけは少なくとも貧困なる瞬間である」

そして本多は自分の小学校時代を振り返り、進学した者はごく少数だったが、しなかった者も「平均的庶民として地域社会の中で地味な仕事についている」と共感を寄せながら、「そういう感覚のない成り上がりの俗物、自分が『出世』し、おたがい『出世』した奴同士といった下劣の心情」があふれている「同級生交歓」を難詰するのである。

「ニヤけきった文章」

それからおよそ30年後、今度は斎藤美奈子が「社会の第一線で活躍するかつての級友がズラッと登場する」このグラビアについて「社会階層の何たるかを、これほど如実に教えてくれる企画もない」とし、「写真に顔をそろえているのは大企業の社長や重役、大学教授、政治家、官僚、マスコミ人等。肩書もイヤミだけれど、彼らが大学ではなく小中高校の同級生であるのがまたイヤミ。登場するのは、国立大学付属小中学校、地方の名門進学校、都市の名門私立校」と続けて、「いい学校を出て出世して、いつかは『同級生交歓』のページに載る。明治以来、脈々と受けつがれてきたこの国の伝統、そして人生の目標をよくあらわしているじゃないですか」と結ぶ。

試みに最新6月号のそこを開けば、昭和46年に東京学芸大学附属小金井中学校を卒業した駐ブルネイ大使の伊岐典子、連合会長の神津里季生、内閣府特命担当大臣の加藤勝信、東京海上日動火災保険顧問(前財務次官)の田中一穂が並んでいる。確かに本多の指摘する「ニヤけきった文章」をここで書いているのは神津だが、もちろん彼は本多や斎藤の批判など夢想だにしなかっただろう。そういう人間がトップであるところに現在の連合の弱みがある。

世代論は不毛とも言われるが、大正11年生まれのダイエーの創業者、中内功は「明治生まれの人間が戦争を計画して、大正生まれのわれわれが一銭五厘の旗の下でやらされた」と繰り返し言っていた。

(さたか まこと・『週刊金曜日』編集委員、6月2日号)

共謀罪と松本人志(小室等)

前にも書いたと思うけど、僕の伯父は、あの太平洋戦争で中国に連れていかれ、制圧(?)した村で水たまりに引きずり出した村民の男の首を連隊長が日本刀で切り落とすのを目撃したと僕たちに語った。別の叔父は、東南アジアの雨のジャングルで、濁流に足を取られた戦友の手を必死に摑んだが力及ばず手は離れ、戦友は濁流の中に消えていったと語ってくれた。

戦争体験は僕のところまでは語り継がれている。

フジテレビの「ワイドナショー」を見ていたら、共謀罪について、松本人志の「冤罪事件を生むかもしれないリスクが多少あっても、テロなどの事件を未然に防ぐことのプラスの方が多いような気がする」という発言が飛び込んできた。

事件を未然に防ぐためには冤罪の一つや二つの犠牲はかまわない。この理屈に今の世間は頷く。

街中に無数に設置された防犯カメラで四六時中僕らは監視されているというのに、そのことを気持ち悪いと思わない今の世間。

そう言えば、近所の連帯を表す「向こう三軒両隣」という標語は、戦時中には助け合いの裏に監視し合う機能があったらしい。向こう三軒の密告を促し、反戦思想者や共産党員をあぶりだす機能を果たした。向こう三軒両隣という「世間」が、共産党員ならあぶりだされてもしゃーないやろ、と考えるなら、僕は世間じゃない。

本土決戦まで時間を稼ぐ持久戦としての、その名も「捨て石作戦」。その沖縄戦での沖縄人の死亡者、〈沖縄県出身軍人・軍属(現地召集を受けた正規兵のほか、防衛隊・鉄血勤皇隊など)2万8228人。戦闘参加者(日本軍に協力して死亡した準軍属と認定された人数)5万5246人。一般住民3万8754人(推定)。地上戦域外での餓死者・病死者、疎開船の撃沈による被害なども含めると沖縄県民の犠牲者は15万人とする場合もある〉(ウィキペディア)。

沖縄の犠牲が多少あろうとも本土決戦を未然に食い止めることのプラスの方が多い、と言えてしまえる? たかだか共謀罪をすぐに大げさな話にすり替える、って?でもね一九四一年三月、共謀罪と同じ内容の改正治安維持法が可決されたよね。その年の一二月、日本は真珠湾攻撃を仕掛けて太平洋戦争にまっしぐら。結末は沖縄一五万人の死。「未然に防ぐことの方がプラス」なのは共謀罪でしょ。

どんなに嫌な奴でもひたすら旦那をヨイショし、後ろ向きになったときペロッと舌を出すのが芸人、と聞いたことがある。松本人志さんはどんな芸人かな。同じマツモトさんでもいろんなマツモトさんがいるね、ヒロさん。

(こむろ ひとし・シンガーソングライター、6月2日号)

私たちも彼らも同じ人間──ニューギニア高地人1(本多勝一)

交易のためにザシガからナッソウ山脈を越えてやってきたアヤニ族の男たち(藤木高嶺うつす)。彼らがザシガへ帰るとき、藤木氏と私とは、彼らに従って山を越えていった。護衛の兵隊はもちろん、武器の類など一切もたなかった。

1963年の12月17日。『朝日新聞』の藤木高嶺記者と私は、インドネシアの西イリアン島北海岸から内陸高地のエナロタリへ、現地のカトリック教会専属の小型セスナ機で飛んだ。

そのとき小飛行場の滑走路でセスナ機をとりかこんだのは、この写真のような人々だった。日本人とは、共通点の少なすぎる形相と挙動。何を考えているのか――歓迎しているのか、何かたくらんで(?)いるのか、心中を読みとり難い表情……。

この7カ月ほど前、カナダの北極圏でエスキモーたちと初めて対面したとき、私は何の不安も感じなかった。日本人とよく似た彼らの顔が笑うとき、それは笑顔以外の何ものでもなかった。彼らの感情が、そのままこちらに伝わってくるように思われた。が、ここでは逆だ。暗色の顔が白い歯をみせて笑うとき、笑顔には違いなくとも、私たちの不安をむしろ募らせる。

「ニューギニア」と言えば、すぐに「ヒト食い人種」とこだまが返る。その彼らと共にジャングルを歩き、彼らと共に岩かげでゴロ寝しては夜を明かした。それでも私たちは“殺されずに”帰ってきた。

私たちの肉がマズイと思われたわけでもなければ、文明の波が山奥まで浸透したわけでもない。理由はひとつだけ。――私たちが人間であるのと同じ程度に、彼らも人間だったからである。
(ほんだ かついち・『週刊金曜日』編集委員)

※この記事は、本多編集委員がかつての取材をもとに『週刊金曜日』で連載しているものです。ニューギニア高地人は1964年に『朝日新聞』夕刊で連載され、後に単行本や文庫本にまとめられています。連載当時の社会状況を反映しているため、いまの時代にそぐわない表現があることをお断りします。

さようなら、花田春兆さん(佐高信)

5月19日、花田さんの通夜に行ってきました。91歳だったんですね。

「存命なのか、と気になっている俳人が二人いる。一人はホームレスの大石太であり、もう一人は脳性マヒの花田春兆(はなだしゅんちょう)である」

2005年11月18日号の本誌「風速計」欄に私はこう書いてしまいました。するとまもなく、花田さんから「生きてますよ」というメールが寄せられたのですね。恐縮して返事を送りましたが、私は花田さんが53歳の時に出した『折れたクレヨン――私の身障歳時記』(ぶどう社)を繰り返し読みました。

題名は「就学猶予クレヨンポキポキ折りて泣きし」という句から採られています。学校に行きたいのに「就学猶予願い」を出さなければならない無念を詠んだ句でした。2回目にそれを出す時には、隣家の年下の子の入学を横目に見ていただけに「どうにも我慢しきれないものが湧いて」きたのですね。

東風つのるな松籟にふと兵馬の声

この句を花田さんは次のように解説しています。
「なにかにつけて、そこに戦争への予兆を見てしまうのは、私たちの世代の特徴なのかもしれない。前後の世代なり他の人々から見れば、それは極端なアレルギー症状と映るかもしれない。ましてや、障害者なのだから兵役の心配もないのだから、関係など無いではないか、と言われるかもしれない。だが、それは違う。非常の事態になればなるほど、人間は動物的能力だけが問題になるのだ。動物的能力に欠ける障害者が、惨めな存在になるのは、あまりにも明らかである」

     「ぼくの場合、ボケの上にトがつく」

光る夏雲健ならば夙く戦死の身

花田さんは1944年春に徴兵検査を受けていますね。健かならば「南海の雲を墓標にしていた可能性は濃かった」のです。

春立つや身に副うは春兆の号ひとつ

花田さんの句の中で私はこの句が一番好きです。「学歴・職歴・家庭歴とすべてにわたって、これが自分のものだと言えるものがない。飾りとなり、重みとなるものが何一つ無い」当時の花田さんにとって、結局、わが身に付いているものは俳号だけでした。

その花田さんと2006年春に『俳句界』で対談しましたが、顔の色艶のよさと若々しさに圧倒されました。

電動車椅子で出かけた喫茶店で話している間も、二人でとにかくよく笑いましたが、私は不謹慎だとは思いませんでした。そんな形式ばった礼儀を吹きとばすようなエネルギーが花田さんにはあふれていたからです。

「花田さんと話していると、油断できませんね。私も去年還暦を迎えましたが、ボケてはおられません」
と私が言うと、花田さんは、
「ぼくの場合、ボケの上にトがつく」
とかわすので、私は、
「なるほど、トボケね。そうやって人生を煙に巻いて生きているんでしょう、参った!」
と言わざるをえませんでした。

そんな花田さんは「人を喰って生きている」と言われることもあったとか。

生まれたころの医学水準では12歳で死ぬと言われていたという重度の脳性マヒの花田さんは、それに抗うように91歳まで生きました。

花田さんに会った人はみんな、その明るさに元気づけられたと思います。

そう言ったら花田さんは、
「入った学校の名前は“光明”でした」
と茶化していましたが、花田さんが亡くなって、この世の明るさが確実に減りました。花田さん、あの世からこの世を照らし続けて下さい。

(さたか まこと・『週刊金曜日』編集委員、5月26日号)

「原爆の図」と僕(小室等)

原爆の図丸木美術館で開館五〇周年特別展示「本橋成一写真展〈ふたりの画家 丸木位里・丸木俊の世界〉」が七月一七日まで開かれている。五月五日の開館記念日のイベントでは、八〇年代に美術館に通い夫妻の日常を撮り続けた本橋さんと僕の対談があり、その後、僕のライブも。会場では、五〇周年を期に立ち上げられた「原爆の図保存基金」の呼びかけもあった。

〈「自然豊かな環境の中、作品を間近で見てほしい」という丸木夫妻の意向に沿い、ケースには入れずに展示。しかし、虫食いの白い部分が点在するなど、表面の劣化が進んでいるため、5億円を目標とした寄付を募っている。基金は温度・湿度管理や防虫機能を充実させた新館の増築費用や、デジタルアーカイブの整備に充てる〉(『毎日新聞』)。実現を切に願う。僕も基金呼びかけ応援メッセージを書かせてもらった。一部、再録。

「あれほどの個性と才能を持った者同士の合作など考えられようもないことなのに、なぜ位里先生と俊先生の合作はあり得たのだろうか。互いの表現を激しく受け止め合い、激しく否定し合うことから生じる厳しい批評性が、作品をさらに強固な芸術作品に高めたのかもしれないと、僭越にも思う」

「原爆の図」をはじめて間近に見たとき、僕はひるんだ。

「徹頭徹尾リアルに描こうと思った…」(『スライド ひろしまを見たひと─原爆の図丸木美術館─』解説より)と位里先生は言う。おふたりが身内の安否をたずねて広島に帰ったのは、原爆投下の三日あと。「爆心地を証言する人は死んだ。ふたりは、辛うじて生きのこった被爆者の話しを聞き、想像と写実のギリギリの接点で、あの日のヒロシマを描いた」(同)ことに僕はたじろいだのだろうか。

五月五日、相変わらずたじろぎがなかったわけではないが、しかし、おふたりが描かれた目をそむけたくなる光景の、久しぶりの「原爆の図」は、同時にすごく美しくもあった。愛などという言葉を安直に使うことを避けたいと思っているけれど、おふたりの描かれた「原爆の図」は愛に溢れていた。

あの日、広島、長崎で起きたことを持ち運ぶことはできないけれど、「原爆の図」は持ち運びが、たやすいことではないが可能だ。持ち運び可能な広島、長崎をおふたりは芸術作品として残してくださった。完成される新館で大切に収蔵していただき、ときどき、日本の優れた運搬技術で世界へも訪れ、その悲惨と美と愛を、とくに子どもたちに見てもらえたらどんなにいいだろう。そして、世界の要人たちにも見せたい。駆け付け警護より、百万倍も平和のためになる。

(こむろ ひとし・シンガーソングライター、5月19日号)

命をつなぐ(小室等)

「さんさ酒屋のコンサート」は岐阜県中津川上野の坂下地区にある蔵元「山内酒造場」で開かれる。主催は二一代当主、山内總太郎氏と満由美夫妻(總太郎氏は、あの伝説の全日本フォークジャンボリーの実行委員でもあった)。

コンサート当日は、小野櫻と春一番地の新酒が蔵出しされ、“かみさん連”の奮闘によるさまざまな手作り料理が並ぶ。仲間たちの畑でとれた新鮮な野菜、とりわけ僕の気に入りは、“みそマヨ”で食べる生の玉ねぎ苗。そう三月一九日、コンサートに招かれ、地付きのフォーク・グループ「我夢土下座」「土着民」らに混ざって歌ってきた。過去三回招かれたが、一八回目の今年が最終回であった。

四月になって、僕の好きな「春一番地」が届いた。同封の山内夫妻のメッセージがあまりに素敵なのでほぼ全文を紹介する。

〈今年も新酒が搾れ、恒例の「さんさ酒屋のコンサート」を催しました。私たち夫婦は今期限りで酒造りを引退することに決め、「さんさ酒屋のコンサート」も今回を最後といたしました。一九年、一八回(大震災の年は中止しました)もやってこられたのもフィールドフォーク(七一年から山内さんたちがはじめたフォークソング運動=小室注)の仲間たちのお蔭です。

私たちの活動は歌だけでなく、もの作りを生業にした者もあれば、農家農村からの情報発信をめざした交流体験農場「椛の湖農業小学校」もやってきました。

「農小」では、農と食に理解を深めてもらい、食の安全と自然や環境を守ることを一緒に考えました。子どもたちに農作業を教えるだけでなく、自然の中での暮らしぶりなど伝えたいことがいっぱいある中で、一番は「我らは野菜の命を途中でいただいて、命をつないでいる」ことを実感してもらうことでした。言葉を替えて言えば「命を大事にする人になってほしい」ということです。

自分の命を大事にする人は他人の命も大事にするはずで、それは自然や環境を大事にし、平和を守ることにつながると信じるものです。その「農小」は昨年度二三期で閉校しましたが、今は新しい交流体験の場を準備中です。

命がないがしろにされたり、平和が脅かされている時代にあって、フィールドフォークの仲間たちもそれぞれの歌や活動をつづけるなかで、小さな声でも上げ続けていくことでしょう〉

「さんさ酒屋のコンサート」は終わったが、山内さんたちの生きる活動はこれからも続く。人知れず、という言い方は適切ではないかもしれないが、人知れず素敵な人は“田舎”に住んでいる。

(こむろ ひとし・シンガーソングライター、4月21日号)

開沼博の正体〈後編〉──避難者の「死亡」原因が「反原発運動」?(明石昇二郎)

開沼氏の言説をていねいに追ってゆくと、根拠があやしいものが少なくない。一例を挙げれば彼が多用する、震災後の避難者の割合をたずねる「クイズ」がそうだ。どこが問題なのか。まずは、そこから検証しよう。

昨今、福島第一原発事故に関する評論を通じ、マスメディアで名前をよく見かけるようになった社会学者・開沼博氏。2016年4月21日付「WEDGE REPORT」で開沼氏は次のように語る(http://wedge.ismedia.jp/articles/-/6618?page=2)。

「拙著『はじめての福島学』では、冒頭で、あるクイズを紹介しています。福島から震災後避難して県外に移った人って震災前の人口の何%だと思いますかと講演などで聞くと、たいてい20~30%などという答えが返ってくる。避難者の話をよく聞いているという関西の地方紙の記者は40%と答えました。でも、正解は2%。極端な情報ばかり流れてきた証左です」

開沼氏は約1年後の『SIGHT』65号(17年3月1日発売)でも、同様の趣旨で語っている。この「クイズ」が相当気に入っているようだ。だが、ちょっと待ってほしい。

作為的に使われる避難者統計データ

東日本大震災直前の11年3月1日における福島県の推計人口は202万4401人。一方、福島県がホームページで公表している避難者数は、12年5月のピーク時で16万4865人である。最大で8・1%にも及ぶ県民が避難していた計算になる。

 一方、開沼氏が正解とする「2%」という数字は、14年当時の県外避難者数約4万6000人をもとに弾き出したものだ。ピークから2年後とはいえ、福島県が公表している「8・1%」とはかなりズレがある。

種明かしをすれば、彼が挙げている数字には、被災した地域から福島県内の別の地域に避難している「県内避難者」が含まれていないのである。

同県が公表している今年2月時点の避難者総数は、ピーク時のほぼ半数となる7万9446人。そのうち「県内」避難者数は3万9608人で、「県外」避難者数もほぼ同数の3万9818人(避難先不明者は20人。グラフ参照)。つまり、開沼氏は全国各地での講演で、半数の避難者をいないものとして説明しているのである。しかも開沼氏が掲げた数字には、震災が起きるまで暮らしていた地域への帰還を諦め、避難先で定住する道を選んだ人々の数は含まれていない。

開沼氏が「福島学」として語る「2%」という数字は、震災や原発事故によって故郷を追われ、避難している県民一人ひとりの苦悩や、故郷への帰還を諦めた県民一人ひとりの心の傷や悲しみといった「福島県民の感情」を作為的に削ぎ落として、他人事にする。震災被害や原発事故被害を矮小化して伝えたい時くらいにしか使えない。

こうした“学問”は、誰から歓迎されるものなのだろう。

都合のいい証拠に頼る「確証バイアス」の虜

関西地方の新聞記者氏が“粗忽者の見本”としてネタにされていたことからもわかるように、迂闊に開沼氏の質問に答えるのは大変危険である。話した内容が開沼氏の意に沿うように“つまみ食い”され、予期せぬ全く別のストーリーの中で使われる恐れがあるからだ。それも、匿名の人物が語った話として使われるので、ネタにされた当人は全く気づかない。

そのことを知ってか知らずか、開沼氏の「調査」や「取材」を受けたことがあるという人はかなりいる。それは、東京や福島をはじめとした各地で反原発運動をしている人々にまで及び、例えば「脱原発弁護団全国連絡会」の共同代表で弁護士の海渡雄一さんも、彼の“調査対象”にされた経験がある。彼の調査のため、わざわざ時間を割いて協力したのだという。

が、彼が書いた記事や書籍の中で、海渡さんが登場したことはない。海渡さんも、
「あれはいったい何のための取材だったのか」
と訝しがる。

ところで、認知心理学や社会心理学における専門用語に「確証バイアス」というものがある。15年3月31日付『毎日新聞』ウェブ版でインタビューに答えていた開沼氏の言葉を借りれば、「自分にとって都合のいい確証・証拠ばかり集めようとする偏見のこと」であり、自分の持論や主張に反していたり否定したりする事実や情報は無視してしまう傾向のことだ。

開沼氏は、反原発を主張する人々は確証バイアスに囚われている、と考えている。彼によれば、反原発派の人々は「福島は放射性物質で汚れている」「福島に行ったら病気になる」と唱え続け、その考えを補強する証拠や情報しか受け入れようとしないのだという。しかし、そういう開沼氏自身が確証バイアスに侵されている疑いがある。

「開沼博の正体〈前編〉」で紹介した、見てもいない11年4月10日の「高円寺デモ」を「ウザい」と決めつけ「見過ごせません」と罵倒した話や、疫学と因果推論などが専門の津田敏秀岡山大学大学院教授が行なった疫学研究に対して、社会学者でありながら自分でデータを検証しないまま「専門家コミュニティーからフルボッコで瞬殺されています」と他人の褌を借りて全否定してみせた話は、自らの持論や主張を否定する話への反発であり、開沼氏が確証バイアスに侵されていると考えれば辻褄は合う。

彼が確証バイアスの虜になっていることを疑わせる材料は、他にもある。

反原発運動にあおられた「過剰避難」で人が死ぬ?

横浜や新潟などで発覚した、福島県からの「県外避難者」児童や生徒に対するいじめの問題の背景を尋ねられた開沼氏は、「避難を続ける中で心身に不調をきたすことによる2次被害」があり、地震や津波による1次被害の死者数より2次被害による死者数のほうが多いとした上で、次のように答えている。

「この理由の一つとして考えられるのは、福島の惨事に便乗して過剰に不安をあおる人が現れ、『過剰避難』が生じたことです。一言で言えば福島への負の烙印。(中略)こうしたことを、私たちは風評被害と呼んできました」
「もう一つが差別・偏見の問題です。(中略)県内の通学路を地元の子供たちがゴミ拾いする活動に、『子供を殺す気か』といったメールやファクスが主催者に殺到したなど、例を挙げれば切りがありません。その流れの中で、当然いじめの問題が出てきた。そういう見方をしなければなりません」(『北海道新聞』17年1月14日付)

原発事故後の反原発運動が、被災者の死者数を増やし、いじめや差別の原因にもなっているというのだ。そこで疑問が生じる。

まず、「過剰避難」の規模を人数等のデータで示すことは可能なのか。次に、「過剰避難」による死者数は何人なのか。

それに「過剰」とは、避難する必要がないのに避難したことを意味するのか。その場合、「避難する必要がない」かどうかは、どのような立場の者がどのような基準で判定するのか。そしてその基準は、福島県等の行政機関から同意を得ているものなのか。それとも開沼氏の「偏見」なのか。

当の「県外避難者」男性が開沼氏に反論する。

「開沼氏が言うように、避難者は他人にあおられたから避難したわけではありません。東京大学や大阪大学の教授が『安全』を盛んにあおっていましたが、信用しませんでした。そうした御用学者らはメルトダウンも否定していましたが、私はメルトダウンを危惧して遠距離避難を選択したのです。
遠距離避難者の中には、関東地方など福島県以外から避難した人たちも多数います。開沼氏は全国各地で公演活動を行なう合間に、そうした避難者からも聞き取り調査をしている。にもかかわらず開沼氏は彼らを無視し続けています。多数の『福島県外からの避難者』の存在は“開沼『過剰避難』説”にとって不都合なのでしょう」

架空の人物を“徹底批判”

まだある。

開沼氏は、沖縄県で起きた大阪府警機動隊員による「土人」発言の問題を『琉球新報』紙上で論じた際も、唐突に福島県の話を引き合いに出し、
「今、インターネットで『福島』『子ども』と検索すると『奇形』『健康被害』という関連ワードが自動的に出てくる」「このようなワードを関連させて検索しているのは反原発の立場で福島を応援したいと願う人々である」
と、証拠も示さず反原発運動が“犯人”だと決めつける。そして、
「彼らにしてみれば、原発をやめる理由として『福島』の『子ども』が『健康被害』に侵されているという事実があるのだと思い込みたいのかもしれない」
とする。

開沼氏が言う彼ら――すなわち「奇形」「健康被害」というワードを関連させてネット検索している反原発の人々で、福島の子どもが健康被害に侵されているという事実があるのだと思い込みたい人――とは、開沼氏が作り上げた架空の人物であり、偏見以外の何ものでもない。その上で開沼氏は、
「このようなゆがんだ『正義心』が差別につながるのだということについても、われわれは改めて考えてみる必要がある」
と、大見得を切る(開沼氏の言葉は『琉球新報』16年11月10日付「機動隊差別発言を問う」より)。もはや妄想の次元である。

開沼氏を起用するメディアに「怒り覚える」

こんな調子で反原発運動に対する敵意を剥き出しにする開沼氏に対し、今回、6項目にわたる質問【質問内容は本誌サイトで公開】を同氏のオフィシャルサイトから送ったが、回答期限までに返答はなかった。

そんな開沼氏の“福島愛”は、福島県民からどのように受け止められているのか。

同県中通り在住の女性が語る。

「開沼さんは、反原発の運動をしている人も放射能被害を訴える人も大嫌いなのでしょうね。一方的に『福島は安全だ』と主張するばかりで、幼稚に見える。正直言って、このような人に福島県のことを語ってほしくない」

前出の「県外避難者」男性にも聞いた。

「開沼氏はまるで“福島県民の代弁者”のように振る舞っていますが、迷惑な話です。私をはじめ避難者の多くは、彼の発言に当初は怒りを感じましたが、今では呆れています。むしろ、開沼氏を“福島県民の代弁者”として起用し続けるマスメディアに対して怒りを覚えます」

開沼博氏の「正体」は、不正確な言葉を操り、自らの主観と事実を混同して語る稚拙な論客であり、ルポルタージュの方法も、科学者としての作法も知らないデマゴーグだった。したがって、より本質的な問題は、その正体に気づかずに起用し続けているマスメディアの側にある。猛省を促したい。

(あかし しょうじろう・ルポライター。4月14日号掲載。前編は4月7日号に掲載しています

♪おれ~俺 俺~詐欺~(小室等)

三月二六日、埼玉で「第12回ゆめ風であいましょう 永六輔さんを偲び『永縁』を紡ぐお話と音楽の集い」(共催/認定NPO法人ゆめ風基金・わらじの会・カタログハウスの学校)が催された。

永さんは、自然災害で被災した障害者を支援するNPO法人「ゆめ風基金」の呼びかけ人代表だった。同基金の全国ネットワークに参加する春日部市の団体「わらじの会」が今回の実動部隊。出演は、オオタスセリ、竹田裕美子、坂田明、中山千夏、李政美、こむろゆい、そして僕。

オオタスセリさんは、
♪おれ~俺 俺~詐欺~(サッカー応援歌)、
♪大飯の原発フル稼働 おじいさんの利権~(大きな古時計)、
♪じれったいじれったい 戦争するとか 派遣とかなら じれったいじれったい 駆けつけ警護も行きたくないわ~ 突然じゃない、みんなそうだわ 私たち、除隊Α(少女Α・中森明菜)、
♪風邪をひいたチキン、土の下に埋めて 渡り鳥が運ぶ 鳥の~インフルエンザ~(地上の星・中島みゆき)、
♪も~りと~もがくえん~払い下げ~ ハッハ~ハ 安倍がなく~ ハッハ~ハ 忖度だ~ ハッハ~(森へ行きましょう)
と、矢継ぎ早の替え歌であっという間に笑いと共感をつかみ取り、喉不調のハスキーが功を奏し、「ストーカーと呼ばないで」がGOOD!

昔ジャズピアニストが配偶者だった千夏さんとジャズ・サックス奏者の坂田明氏。波長は同期して、むやみな誉めそやし無縁の永さん話に花が咲いた後、千夏さんは小室と「老人と海」を歌う。久しぶりの芸能シーンは水を得た魚。

ルーツが済州島、在日二世のヂョンミさんは、東京・葛飾も私の故郷と「京成線」を歌った後、朝鮮民謡「珍道アリラン」と「密陽アリラン」をメドレーで。ヂョンミさんに流れる血が僕らの心を打つ。民謡は強い。

坂田氏は、顕微鏡の中のミジンコが「私を見て!」と言っているとオリジナル曲「Look At Me」の後、広島県呉出身の坂田氏、なんと呉の民謡「音戸の舟唄」をサックスとアカペラで弾き語りならぬ吹き語り。櫓をこぐ仕草を入れながらの歌に舞台が荒波に漕ぎ出る船と化し、ぐいっ、ぐいっと動きはじめた錯覚を覚える名唱。少年期、伝馬船を漕いでいた坂田明に流れる血も、ヂョンミさん同様、僕らの心を打つものであった。

核兵器禁止条約に日本が参加しないとか、大阪高裁が高浜原発再稼働を認めるとか、外ではいやな風が吹いているが、会場内には心地よい風が吹いていた。

夕方、スタッフたちは被災地障害者支援の活動に戻っていった。

(こむろ ひとし・シンガーソングライター、4月7日号)