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取っておいた2通の手紙(佐高信)

整理はきわめて苦手だから保存も得意ではないのだが、その2通の手紙は袋に入れて取ってあった。ちょうど50年前のことになる。教師1年生だった私は、組合の機関紙にこんな「感想文」を寄せた。

〈その昔、宗教改革のノロシを上げて焚殺に処されたヤン・フスは、十字架にかけられた自分の下に勤勉に火あぶりのための薪を運ぶ老婆を見て、「おお、神聖なる無知よ!」と叫んだと言われるが、わが国の戦前の教育は馬車馬的勤勉さをほめたたえる点において、この老婆の勤勉さと同じ性質のものであった。その勤勉さが何をもたらすかを見通さない目先だけの「誠実」、私は10・26闘争の過程で、授業カットはいやだというこの目先だけの勤勉さに何度も出くわした。彼らは「戦争」の体験に何も学ばなかったのか?〉

何へのマジメさかを問わず、マジメであること自体をよしとする誠実主義を“まじめナルシシズム”と名づけて批判したこの「感想」に、当時、奥行きのある手紙を2通もらった。1通は『死にがいの喪失』(筑摩書房)の著者で大阪大学教授となった井上俊からで、もう1通は教師時代に「魯迅を読む会」を一緒にやっていた共産党員の教師からである。まず、前者の要の部分を引こう。

〈マジメ主義批判というものは、私の考えでは、声高に語ってはいけないもので、常に声低く語るべきものだと思います。(中略)マジメ主義批判はそれ自体としては「正論」になりえない性格のもので、無理に「正論」化しようとすると、マジメ主義の単なる裏返しとなり、マジメ主義批判のマジメ主義化という奇妙なおとし穴に落ちこんでしまいます。それをチェックするものは何なのだろうかと時々考えます。もしかするとそれは、「マジメ」の価値を認め尊重しながら、しかもなお批判せざるをえない者の一種の「負い目」意識のようなものかもしれません〉

京都大学の作田啓一門下の兄弟子として上野千鶴子が一目も二目もおく俊秀の井上らしい行き届いた批判である。

「資本主義の走狗」と断罪された手紙

次の先輩教師からの批判は、私が『わが筆禍史』(河出書房新社)に収録した若き日の共産党批判に対する反発もあってか、かなり辛辣である。しかし、その苦みも含めて、私はこの手紙を捨てることができなかった。

「あなたのマジメ主義批判、感心しません。そういうあなたこそマジメ主義そのもので(マジメなくせにそうでないふりの文章を書くと、見えすいたいやらしさとなります)。世間ではこれを称して、目くそが鼻くそを笑うという。私からこう言われるのはあなたには不本意であるでしょうが、あなたの書くものなぞ、どれもこれもそういうトーンを帯びているではありませんか。

あなたはしきりに汚れたがっていますが、そのポーズが私にはますますストイックに見えます。ストイックな心をどこかに持っていたいとする点では私も似たようなものですが、ああ、私は汚れを洗い落したい。あなたのような大胆な行動ができぬ、汚れにどっぷりとひたっている自分を悲しく思う。ただ私はその汚れを他人様に見せびらかすことをしたくない、と思うだけです」

あえて名前は明かさないこの先輩は、私が教師をやめて経済誌の編集者となった時、「あなたは資本主義の走狗になった」と断罪する手紙もよこした。

私はすごく厭な気分になったが、しかし、あの手紙が、私が文字通り「資本主義の走狗」になることを食いとめたのかもしれない。亡くなってすでに久しいその先輩を思いながら、こう考えている。

(さたか まこと・『週刊金曜日』編集委員、9月1日号)

この時代にプロテストソングは可能か(小室等)

三〇年以上前、大岡信さんと谷川俊太郎さんの対談(『対談 現代詩入門』一九八五年八月、中央公論社刊)の中で谷川さんは、
「ぼくの個人的な印象で言うと、小室等という人があらわれて、大岡の詩とかぼくの詩とかを、まったく詩集からそのまま、へっちゃらで作曲してうたっちゃったといのがとても新鮮だった記憶があるんだよ。それまでは、ぼくなんかも歌の作詞はしていたけれども、やっぱり、歌のために作詞するというある構えがあって、一番、二番、三番なんて書いてね(笑)。そうしないと歌にならないと思ってたのね。ところが、小室等を初めとして、高石友也なんかもそうだけれども、いわゆるフォークの新しい人たちっていうのは、われわれの書いている現代詩の中に同時代の声というものを聞きとって、それを歌にのせる一種の方法を持って登場してきたわけね」
と言っている。

その谷川さんと『プロテストソング2』というアルバムを現在作っている最中。なぜ「2」かというと、谷川さんとは一九七八年、すでに『プロテストソング』というアルバムを出していて、今回、久しぶりに今の時代にプロテストソングってありなのかを問うてみようということで、「2」なのです。

「2」のトラックダウンが済んで、谷川さんが毎年夏を過ごす群馬県の別荘にmp3(音声データ)で送ったら、
「mp3聴きました。ギターを手放さずに言葉を伝えるフォークソングの正統に感動、歌になると活字で黙読してると気づかないものに身体が反応する。いろんな友人、知己に聞いてほしい」
というメッセージが届いた(「聞いて」は「聴いて」の変換ミスか、いや言葉の権威がそんなミスない?〈笑〉)。はい、ま、端的に自慢話。わかっております。

わかっておりますが、「九条変えましょうよ、だって九条があると戦争しにくいじゃないですか」とか、「北朝鮮からミサイルが飛んできたら迎撃しなくていいの? ね? しっかりと戦争できるようにしておかないとね」とか、国全体がそんな空気、なんかほっとけないじゃないですか。

六〇年代にはアメリカの、日本の、世界のシンガーソングライターたちがプロテストソングを歌った。七八年にぼくと谷川さんは、ぼくたち流の『プロテストソング』を作った。今あらためて、この時代にプロテストソングは可能か。

七〇過ぎと八〇過ぎの二人の“老人”が、「戦争反対」とダイレクトに言うのではない、詩の言葉でのプロテストソングが成立するかを試そうとしているのです。

(こむろ ひとし・シンガーソングライター、8月25日号)

非良心的兵役拒否のすすめ(佐高信)

「映画運動家」の寺脇研を司会として西部邁と私の『映画芸術』での対談が続いている。今年の夏の460号で、22回目。そんなになるのかという感じだが、今回は『ハクソー・リッジ』と『戦争のはらわた』を観ての闘論だった。

『ハクソー・リッジ』は宗教的信念から銃は持たないとして衛生兵となって従軍した者の話だが、私には強烈な違和感が残った。

それで、西部が「信念を曲げたくないなら志願しなければいい」と言った後に、こう応じた。

「西部さんとは違う意味で、この映画に違和感を覚えたのは、『良心的兵役拒否』というのは昔から嫌いだからです。鶴見俊輔さんにも言ったことがあるんですが、戦争を『善』として、それを『良心的』に拒否するということでしょう。では、どうして『非良心的兵役拒否』はダメなんだと思ってしまうわけです。鶴見さんは、そんな考えもあるなと笑っていましたが、ともかくすごく嫌なんです。自分のどこかを満足させるだけのことで、それを良心的といえば許されるのかと」

西部と私の暴言の連続で、映画人からはヒンシュクを買っている闘論らしいが、そんなことも意識して、ちょうど同じころに観ていた『兵隊やくざ』(増村保造監督、勝新太郎と田村高廣の共演)の方が興味深かったと私は発言している。もちろん、戦争は戯画化して済むものではない。しかし、力が入れば入るほど国家を厳粛化してしまうことにつながるのではないか。

明治初期に徴兵令が出た時、民衆はそれを「血税」と呼んで抵抗して回避しようとした。

『良心的兵役拒否の思想』(岩波新書)で阿部知二は「単なる本能的恐怖あるいは厭悪にもとづく逃亡的行為」にとどまらずに、それが思想にまで昇華されたものを「良心的兵役拒否」と称しているように見えるが、「単なる本能的恐怖あるいは厭悪」から兵役を拒否しては、どうしてダメなのか?

選ばれた者だけの抵抗にしないために

たとえばキリスト教のクエーカー派は絶対に人を殺さないことを信条としている。それで「良心的兵役拒否」を申し出ると、厳重な審査を受け、それを通った場合に、病院で傷病兵の看護をすること、あるいは土木工事、鉱石採掘等に従事することを命じられる。

それも間接に戦争に協力することだとして拒絶すると獄につながれるのである。

この国では1939年に「灯台社」事件というのがあった。灯台社はニューヨーク州に本部を置く「ものみの塔聖書冊子協会」の日本支部として、1927年に明石順三を中心に結成されたキリスト教系団体で「エホバの証人」と呼ばれる新宗教である。彼らはエホバ以外の被造物に礼拝することはできないとして、宮城遥拝や御真影奉拝も拒んだ。そのため不敬罪等で検挙されたが、拷問を受け、傍聴禁止の秘密裁判で懲役12年の判決を言い渡される。そこで、明石はこう陳述している。

「私は今まで法律に触れるやうな行為をやつて来たとは思ひません。すなはち聖書も公刊物でありますし、この聖書に基いて私が発行した出版物は全部当局の検閲を受けてをります。(中略)私が今までに申し上げた真理は神の言葉です。絶対に間違は有りません。現在私の後について来てゐる者は四人(非転向者。――妻の静栄、崔容源、玉応連、隅田好枝)しか残つてゐません。私共に五人です、一億対五人の戦です。一億が勝つか五人が言ふ神の言葉が勝つか其は近い将来に立証される事で有ませう」

原理はこの通りだが、選ばれた者だけの抵抗にしないために、私は「非良心的兵役拒否」をすすめたい。

(さたか まこと・『週刊金曜日』編集委員、8月18日号)

和泉洋人・首相補佐官は「ポスト・ホント国」の住人か(浜矩子)

この人たち、ポスト・トルース(post truth)の国の住人なんだな。加計問題等々に関する国会閉会中審査の模様を観ながら、つくづくそう思った。ポスト・トルースの意味するところが、初めて実感的に解った気がした。

ポスト・トルースは、2016年を象徴する言葉だ。かのオックスフォード英語辞典によってそのように認定された。いわば世界版流行語大賞を授与された格好である。ポスト・トルースを日本語で言えば、「脱真実」あるいは「超真実」という感じか。筆者は「ポスト・ホント」という言い方をすることに決めている。

ポスト・ホント国とウソ・イツワリ国とは、どう違うか。端的に言えば、後者は確信犯の世界。前者は、ご都合主義犯の世界である。「そのウソ、ホント?」と聞かれた時に、「ウソなんてとんでもない。私はホントを言っています」と反論するのが、ウソ・イツワリ国の住人だ。それに対して、ポスト・ホント国の答えは「そんなのどうでもいいじゃん。私にとってはこれがホントなんだから」ということになる。

閉会中審査の中で、和泉洋人・首相補佐官なる人が「そうした記憶はまったく残っていない。したがって言っていない」と発言していた。おお。これぞ、ポスト・ホント的模範解答だ。自分が記憶していない。自分の記憶に残っていない。そのようなことは、ホントであろうがなかろうが、なかったことなのである。これが、僕のホントです――。

ことほど左様にポスト・ホント連にとっては、客観的にホントかどうかはそもそも本質的に問題ではない。自分がどう記憶しているか、自分にとってどうなのか。それですべてが決まる。イメージがすべてで、すべてがイメージなのだ。自分の都合に従って、選択的にホントを選ぶ。それが「ホントを超える」ということなのだろう。

思えば、だからこそ「印象操作」という言い方への執拗なこだわりが出てくるのだろう。ポスト・ホント国の人々にとっては、まさに印象がすべてなのである。「これホント」イメージが成り立てば、それが「ホントにホント」なことになる。どんなに客観性があっても、どんなにしっかり記録されていても、ポスト・ホント国においてそれは何の証明にもならない。すべては「だってそうなんだもん」基準、「やっぱりそうなんだもん」基準で判定されてゆく。

ところで「記憶はない。だから言っていない」と大見得を切った上記の御仁は、追及の中で「言った、言わない」のテーマとなっている件について、結局は「言わなかったと思う」という言い方をするにいたっていた。ふーん。この「思う」という表現、ポスト・ホント的にはどうなのだろう。まぁ、自分が思っていないことはホントじゃない。自分が思っていることはホント。そんな風に整理されるのだろうかと推察する。

ポスト・ホント国は、何とも怖い世界だ。その住人たちは、何ともかわいそうだと思う。結局は、印象操作合戦の中で共食いの末路をたどるのだろう。誰も彼らを信じられない。誰にも信じてもらえない者たちは、誰にも助けてもらえない。

(はま のりこ・エコノミスト。7月28日号)

ヒロちゃんのほんと(小室等)

近所でヒロちゃんのライブがあるよと言うので、娘夫妻とうちのかみさんと連れ立ち、7月17日、埼玉県・フォーシーズンズ志木ふれあいプラザに行ってきた。恒例の紀伊國屋ホールとは一味違って、志木おやこ劇場主宰の女性連に囲まれ、会場もヒロちゃんのパフォーマンスも手作り感漂うライブだった。近刊絵本『憲法くん』(絵・武田美穂)を紹介しながら、いつものように政治ネタで大いに笑わせ、会場は爆笑の渦。

圧巻は、三上智恵監督作品の記録映画『標的の村 風(かじ)かたか』の語り。高江で強行されるオスプレイのヘリパッド建設に抵抗する住民。若い機動隊員とデモに加わった若い女性が、互いに目をそらさずにらみ合いを続けるが、たまらず若い機動隊員が目をそらすシーンのヒロちゃんの表現が圧巻だ。

次にヒロちゃんの話は永六輔さんの一生を駆け抜ける。ヒロちゃんの話に笑わされ、泣かされ、ほとんど知っている話なのに、永さんの身に起きたことをヒロちゃん流につなげていくから、まるではじめて永さんに出会っている気がしてくる。ヒロちゃん、芸というのはすごいね。いや芸がすごいのは言うまでもないことだが、実際のところ、ヒロちゃんと僕が同じ出来事を、同じように見ているとは限らないものね。

それで思い出したけど、中津川・全日本フォークジャンボリーのステージジャック小室等犯人説というのがある。先だって亡くなられたフォークジャンボリーの仕掛け人のひとり笠木透氏は、長い間小室犯人説を信じていたようだ。

なんの犯人かというと、ジャンボリーの運営に不満を感じた一部の観客にステージジャックされ紛糾した1971年のフォークジャンボリーで、その観客を挑発煽動した犯人は小室だというのだ。

たしかに、サブステージでいまや伝説となっている吉田拓郎の「人間なんて」絶唱を収拾させるため、観客に向かって「そろそろみんなでメインステージに行こうぜ!」と叫んだのは僕だったかもしれない。だからと言って、煽動したのは小室だなんて。あれ、この話、前にもしたかな。

ヒロちゃんの話に戻ろう。ヒロちゃんが映画を語るのは、マルセ太郎さんの「スクリーンのない映画館」のヒロ版だね。ヒロちゃんの語りを聞き、僕は映画を観たいと思った。観た結果、違う感想になることもよくある。が、かまわないのだ。マルセ太郎さんの『生きる』はマルセさんの、黒澤明監督の『生きる』は黒澤監督の、それぞれのほんとがあるのだ。ヒロちゃんのほんとは観たから、三上監督のほんとも観に行かなくちゃ。

(こむろ ひとし・シンガーソングライター、7月28日号)

清い水と汚れた水(小室等)

「僕はテレビを観る人達に知って貰いたい/芸能史の暗い影を/それを求めた観客の貧しさを/健全娯楽をつくる前に/娯楽というものの/淫靡な素性を見極めなければ/無意味であることを。

☆(中略)

僕は昭和八年に生れた。/十二才の時には/戦禍の廃墟に立っていた。/日本の伝統が灰になっていた。/二十才の時にテレビ放送が始まり/僕はそこで働くようになった。/テレビは飢えた豚のように/あらゆる文化・芸能を/その胃袋の中におさめようとする。/その現場から/芸の伝統を解きほぐし/一九六九年 昭和四十四年の時点で/テレビが芸能史をどのように受けとめたか/この本はその体験的なエッセイであり/テレビスタジオからの報告でもある。」

永六輔さんが物した力作『芸人たちの芸能史~河原乞食から人間国宝まで』(番町書房)のまえがきの一節だ。そしてあとがきで、かさねて言う。

「日本の芸能史が賤民への差別が根底となり、そこから生れ育ってきた背景のあることは書いて来た通りである。この素性の後めたさを、歴史の中でどう受けついで行くかが僕達の明日の芸能を決めてゆくことになる。世界を例にとった場合でも芸能ならびに芸人が同じ差別で育っている例は多い。多くの大衆歌曲、ブルース、タンゴ、サンバ、ボサノヴァといったものがスラムから発生していることでもわかる。ジャズにしたってギャングと売春婦に育てられた。ここでも芸人とやくざと女郎は一身同体なのである。」

つまり、すばらしい芸人たちは決して清い水の中に生まれ育った連中ではない。清廉潔白などではないのだ。悪党がいいと言っているのではない。しかし、善人では、悪党よりも始末が悪いのだ。

たとえば、関東大震災の中、ちょっとした流言飛語で朝鮮人虐殺を犯してしまえる善人・一般人の脆さ。戦争末期、特攻隊に志願し、残念ながら自爆攻撃をしてしまえた“純な”青少年たちの脆さ。

翻って、そのような脆さに立ち向かえるとしたら、それは汚れた泥水で育った芸人たちだと、永さんは言いたかったのだと思う。

そこでわれら永六輔の下に集まった者たち、佐久間順平、竹田裕美子、李政美、伊藤多喜雄、こむろゆい、小室等、オオタスセリ、松元ヒロ、きたやまおさむ、中山千夏、矢崎泰久の面々。せめてその名を「永六輔とその一味」と名乗り、七月六日、成城ホールに集い、六輔お頭一周忌とするのだ。

それはそれとして、国会や霞ヶ関に棲息する連中って、一体どんな水で育ってきたのだろうか。

(こむろ ひとし・シンガーソングライター、6月30日号)

永さんのルーツ(小室等)

「墓参に来る人は、必ずしも檀家の人ばかりではない。故人の知己友人なども参るから、顔見知りでない人も多勢来る。三十くらいのキレイな、素人ばなれのした女性がお参りに来た。私の知らない人である。去年亡くなったある女性の墓参に来たのだが、大きな蟹のゆでたのを持っている。

『あの人、とても蟹が好きだったんですよ。蟹と来たら、ホントに目がないの。バケツに一杯くらいたべちまうんですのよ。だから今日、あたし、蟹もって来ちゃった』

いいとも、いいとも、貴方の気持なんだから、とは言ったものの、あとでなまものだから、腐ったりして、ヘンな臭いなどするようになると、ほかの人たちに悪いし、一日お供えしたら、これは片づけた方がいいだろうと思った。あくる日になって、掃除に行ったら、もう、夜のうちに、野良猫がこの蟹を引きずり下ろして、喰いちらかしたと見えて、そこら中に、蟹の鋏や甲羅や、白い肉片が散乱し、目もあてられないありさまになっていた。掃除には手がかかったが、昨日あの女性はきっと、『あなたの好きな蟹、もって来てあげたわ』と、友達の墓に供えたのだろう。やっぱり、いいなあと思った。掃除など、ちっとも苦にならなかった。」
(『街=父と子 おやじ永忠順との優雅な断絶』永六輔著、毎日新聞社)

ちっとも苦にならなかった人は当時、元浅草最尊寺住職永忠順氏で、それは永六輔さんの御父上。素人ばなれした女人、蟹を喰いちらかす野良猫。硬軟分け隔てなくよろず受け入れる下町の寺。そうか、永さんの優しさのルーツは忠順さん、あなただったんですね。

忠順さんの話、もう一つ。

相撲取りになるはずだった末の息子を亡くした中島さんの話。

「暑い夏の炎天干しの日に、中島さんは、いつものジュースのほかに、大きな氷のかたまりを、縄で結わいてブラ下げて、お参りに来た。あの氷をどうするつもりなのか。中島さんが帰ってから、お墓へ行って見たら、お墓の頭の上に、氷がのせてあった。溶けた分が水になって、何本もの糸のように、石塔を濡らしていた。夏の日盛りには、石がやけるから、お墓は手で触っても熱いくらいになる。お前暑いだろうなあ。大きな氷を持って来て、子供の墓の上にのせてやる。親の心のやるせなさに、涙が出て来た。合理主義など、こうなったら、どこへでも行ってしまへ。下町には、下町のやり方があるのだ。」(同)

下町のやり方。

平和ってここからだよね。上のほうでドンパチやるんじゃなくて、いま目の前にいる人に思いを至らせること、なんですね永さん。

(こむろ ひとし・シンガーソングライター、6月16日号)

〈編注〉2017年7月7日で、永六輔さんが亡くなられてから1年になります。

連合の弱み象徴する神津里季生「同級生交歓」(佐高信)

今度、『“同い年”ものがたり』(作品社)という本を出した。「〈世代〉と〈人物〉で語る昭和史」である。大正13年生まれの村山富市を筆頭に、昭和35年生まれの香山リカまで、七つの世代の102人を取り上げた。昭和8年生まれの森村誠一が同い年の現天皇をどう見ているかにも触れている。昭和27年生まれの田中優子と松元ヒロは同時期に同じ法政大学に学んでいた。

これを書く時に注意したのは、本多勝一が1970年5月号の『エイムズ』で批判し、斎藤美奈子も『AERA』の2001年10月22日~11月26日号でバッサリやった『文藝春秋』の「同級生交歓」のような「功成り名遂げて」にならないように、ということである。当時まだ30代だった本多は、いまはなくなった『中央公論』の「遠縁近縁」と並べて「同級生交歓」について、こう書く。

「私の感想を一口にいえば、『ヘドが出そうだ』とは正にこのことだ。ニヤけきった顔といい、ニヤけきった文章といい、ギャーッと叫びたくなる。そんなに不愉快なら見なければいい? 確かに。めったに見ない。しかし旅先の、とくに国外にあるとき、たまたま日本の雑誌が目につくと、ついなつかしくなって丹念に見てしまったりする。

そのようにあまり見ない私でも、ここに登場した人の中には、かなり知っている人(個人的という意味でも少しあるが、名前を知っているという意味が大部分)もいる。それまでに尊敬していた人だとこれでグッと点が低くなるし、軽蔑していた人だと『やっぱり彼奴らしい』と思う。ここに出てくる顔こそ、貧困なる精神の象徴だ。貧困でない精神の人でも、ここに登場するときだけは少なくとも貧困なる瞬間である」

そして本多は自分の小学校時代を振り返り、進学した者はごく少数だったが、しなかった者も「平均的庶民として地域社会の中で地味な仕事についている」と共感を寄せながら、「そういう感覚のない成り上がりの俗物、自分が『出世』し、おたがい『出世』した奴同士といった下劣の心情」があふれている「同級生交歓」を難詰するのである。

「ニヤけきった文章」

それからおよそ30年後、今度は斎藤美奈子が「社会の第一線で活躍するかつての級友がズラッと登場する」このグラビアについて「社会階層の何たるかを、これほど如実に教えてくれる企画もない」とし、「写真に顔をそろえているのは大企業の社長や重役、大学教授、政治家、官僚、マスコミ人等。肩書もイヤミだけれど、彼らが大学ではなく小中高校の同級生であるのがまたイヤミ。登場するのは、国立大学付属小中学校、地方の名門進学校、都市の名門私立校」と続けて、「いい学校を出て出世して、いつかは『同級生交歓』のページに載る。明治以来、脈々と受けつがれてきたこの国の伝統、そして人生の目標をよくあらわしているじゃないですか」と結ぶ。

試みに最新6月号のそこを開けば、昭和46年に東京学芸大学附属小金井中学校を卒業した駐ブルネイ大使の伊岐典子、連合会長の神津里季生、内閣府特命担当大臣の加藤勝信、東京海上日動火災保険顧問(前財務次官)の田中一穂が並んでいる。確かに本多の指摘する「ニヤけきった文章」をここで書いているのは神津だが、もちろん彼は本多や斎藤の批判など夢想だにしなかっただろう。そういう人間がトップであるところに現在の連合の弱みがある。

世代論は不毛とも言われるが、大正11年生まれのダイエーの創業者、中内功は「明治生まれの人間が戦争を計画して、大正生まれのわれわれが一銭五厘の旗の下でやらされた」と繰り返し言っていた。

(さたか まこと・『週刊金曜日』編集委員、6月2日号)

共謀罪と松本人志(小室等)

前にも書いたと思うけど、僕の伯父は、あの太平洋戦争で中国に連れていかれ、制圧(?)した村で水たまりに引きずり出した村民の男の首を連隊長が日本刀で切り落とすのを目撃したと僕たちに語った。別の叔父は、東南アジアの雨のジャングルで、濁流に足を取られた戦友の手を必死に摑んだが力及ばず手は離れ、戦友は濁流の中に消えていったと語ってくれた。

戦争体験は僕のところまでは語り継がれている。

フジテレビの「ワイドナショー」を見ていたら、共謀罪について、松本人志の「冤罪事件を生むかもしれないリスクが多少あっても、テロなどの事件を未然に防ぐことのプラスの方が多いような気がする」という発言が飛び込んできた。

事件を未然に防ぐためには冤罪の一つや二つの犠牲はかまわない。この理屈に今の世間は頷く。

街中に無数に設置された防犯カメラで四六時中僕らは監視されているというのに、そのことを気持ち悪いと思わない今の世間。

そう言えば、近所の連帯を表す「向こう三軒両隣」という標語は、戦時中には助け合いの裏に監視し合う機能があったらしい。向こう三軒の密告を促し、反戦思想者や共産党員をあぶりだす機能を果たした。向こう三軒両隣という「世間」が、共産党員ならあぶりだされてもしゃーないやろ、と考えるなら、僕は世間じゃない。

本土決戦まで時間を稼ぐ持久戦としての、その名も「捨て石作戦」。その沖縄戦での沖縄人の死亡者、〈沖縄県出身軍人・軍属(現地召集を受けた正規兵のほか、防衛隊・鉄血勤皇隊など)2万8228人。戦闘参加者(日本軍に協力して死亡した準軍属と認定された人数)5万5246人。一般住民3万8754人(推定)。地上戦域外での餓死者・病死者、疎開船の撃沈による被害なども含めると沖縄県民の犠牲者は15万人とする場合もある〉(ウィキペディア)。

沖縄の犠牲が多少あろうとも本土決戦を未然に食い止めることのプラスの方が多い、と言えてしまえる? たかだか共謀罪をすぐに大げさな話にすり替える、って?でもね一九四一年三月、共謀罪と同じ内容の改正治安維持法が可決されたよね。その年の一二月、日本は真珠湾攻撃を仕掛けて太平洋戦争にまっしぐら。結末は沖縄一五万人の死。「未然に防ぐことの方がプラス」なのは共謀罪でしょ。

どんなに嫌な奴でもひたすら旦那をヨイショし、後ろ向きになったときペロッと舌を出すのが芸人、と聞いたことがある。松本人志さんはどんな芸人かな。同じマツモトさんでもいろんなマツモトさんがいるね、ヒロさん。

(こむろ ひとし・シンガーソングライター、6月2日号)

私たちも彼らも同じ人間──ニューギニア高地人1(本多勝一)

交易のためにザシガからナッソウ山脈を越えてやってきたアヤニ族の男たち(藤木高嶺うつす)。彼らがザシガへ帰るとき、藤木氏と私とは、彼らに従って山を越えていった。護衛の兵隊はもちろん、武器の類など一切もたなかった。

1963年の12月17日。『朝日新聞』の藤木高嶺記者と私は、インドネシアの西イリアン島北海岸から内陸高地のエナロタリへ、現地のカトリック教会専属の小型セスナ機で飛んだ。

そのとき小飛行場の滑走路でセスナ機をとりかこんだのは、この写真のような人々だった。日本人とは、共通点の少なすぎる形相と挙動。何を考えているのか――歓迎しているのか、何かたくらんで(?)いるのか、心中を読みとり難い表情……。

この7カ月ほど前、カナダの北極圏でエスキモーたちと初めて対面したとき、私は何の不安も感じなかった。日本人とよく似た彼らの顔が笑うとき、それは笑顔以外の何ものでもなかった。彼らの感情が、そのままこちらに伝わってくるように思われた。が、ここでは逆だ。暗色の顔が白い歯をみせて笑うとき、笑顔には違いなくとも、私たちの不安をむしろ募らせる。

「ニューギニア」と言えば、すぐに「ヒト食い人種」とこだまが返る。その彼らと共にジャングルを歩き、彼らと共に岩かげでゴロ寝しては夜を明かした。それでも私たちは“殺されずに”帰ってきた。

私たちの肉がマズイと思われたわけでもなければ、文明の波が山奥まで浸透したわけでもない。理由はひとつだけ。――私たちが人間であるのと同じ程度に、彼らも人間だったからである。
(ほんだ かついち・『週刊金曜日』編集委員)

※この記事は、本多編集委員がかつての取材をもとに『週刊金曜日』で連載しているものです。ニューギニア高地人は1964年に『朝日新聞』夕刊で連載され、後に単行本や文庫本にまとめられています。連載当時の社会状況を反映しているため、いまの時代にそぐわない表現があることをお断りします。