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元自衛官が「内部文書」元に証言、「私は自衛隊で毒ガスサリンの製造に関わっていた」(5/5)

     毒ガス製造の「編成組織」図

 Aさんの提示した一連の文書の中に、「編成組織」との表題のついた組織図があった。そこには、班や係の名称とともに研究員と思われる者や技官、医官らの姓と階級が記されている。

 この中に、今も付き合いのある人か連絡がつく人はいるのかと、Aさんに訊いた。Aさん以外の当事者の裏付けをとるためである。

「なにせ四半世紀以上前のことですからね。誰ともお付き合いはありませんし、彼らが今も健在かどうか、連絡先も、どこに住んでいるのかもまったくわかりません」とAさんは言う。「それに」と、Aさんはつけ加えた。

「研究員はみな退官後も待遇がよく、恵まれていますからね。かりに所在がわかり、会ってくれたとしても、本当のことは言わないでしょう」

 それももっともだとは思ったが、そうなると、Aさんの証言を裏付けることができない。

 私はこの組織図を手がかりに、当時の研究班メンバーの足どりを追った。すると、一人の重要人物に突き当たった。(この続きは『週刊金曜日』の連載でお読み下さい)
 

◆◆毒ガスと法規制◆◆
 〈3/5の年表〉にあるように、1899年に「毒物使用禁止」が宣言されたものの、その後も毒ガスの生産・開発は続けられ、第一次世界大戦(1914年~18年)によって近代的な化学兵器として本格使用されていく。

 化学の発展とともに残酷な大量殺戮が可能となり、時の権力者たちは毒ガスの開発・生産に何度も歯止めをかけようとしてきた。しかし結論から言えば、現在に至るも大量殺戮の手段である化学兵器は存在する。四月末には内戦中のシリアでのサリン使用疑惑が報じられた。人間は理性や良心を授けられている(世界人権宣言第一条)のと同時に、同類を殺す本性も併せ持つようだ。

 20世紀以降の流れを見ると、1925年に採択されたジュネーブ議定書で戦争時の使用は禁止されたが、開発・生産・貯蔵は禁止されず、米国、ソ連、日本などが毒ガスの生産、使用を続けた。

 日本がこのジュネーブ議定書(条約)を締約したのは、敗戦後四半世紀を経ての1970年。Aさんが化学学校でサリンなど毒ガスの製造に関わっていたと証言した時期は、その数年後である。つまり条約上は開発、貯蔵は禁止されていなかった。

 日本が95年9月に批准した現行の化学兵器禁止条約では、サリンなどの化学兵器の開発、生産、保有が包括的に禁止されているが、ここにも抜け道がある。

 同条約によれば、「生産量が年間一トン以下なら製造施設に当たらない」(第二条8)し、「防護目的」の生産・保有なら「この条約が禁止していない目的」(第二条9)に入る。国際機関である化学兵器禁止機関(OPCW)に申告し(第三条)、OPCWの査察を受け入れればその生産、保有・廃棄などが可能だ。

 防衛省によれば、同条約に基づき、1997年から2012年6月までに計8回、OPCWの査察を受け、申告内容に問題がないことが確認されている、という。

元自衛官が「内部文書」元に証言、「私は自衛隊で毒ガスサリンの製造に関わっていた」(4/5)

     毒ガス製造を示す手書き文書

 男性(仮に「Aさん」という)は一九七〇年代初めに大宮駐屯地に配属され、七〇年代半ばから八〇年にかけて化学学校の研究部装備研究課に所属。Aさんはそこでサリンなどの毒ガス製造に関わったという。「これが当時の内部文書です」。Aさんは数枚の紙をバッグから取り出した。

 ワードプロセッサー(ワープロ)さえ普及していなかった七〇年代。手書きで記された文書には、「サリン」や「VX」の文字が並ぶ。

「秘」と大書きされた文書には「サリン」とあり、数枚にわたり段階別の製造法が記されている。

「VX」と書かれた文書は「昭和五二年つまり一九七七年の文書です」とAさんは言う。文書には「5月23日(月)」から「27日(金)」までの五日間で、「準備」から始まり、いくつか製造工程を経て、「除染」までの工程表が記されている。その年の曜日を調べると、確かに一九七七年五月二三日は月曜日だった。

「毒ガスの性状」と題する一覧表になった資料文書もある。左欄には、窒息ガス(ホスゲンなど)から始まり、神経ガス(タブン、サリンなど)、血液中毒ガス(青酸、塩化シアンなど)の順に計二五の毒ガスの化学式・記号が列記され、上の欄にそれらの分子量や凝固点、沸騰点、揮発度、分解温度、解毒の速度、安定度などが記されている。きわめて専門的な記述内容だ。

「これは発行元も日付もありませんが、米軍の資料ではないかと思います」と、Aさんは推測する。

     自衛隊専用用紙に複雑な化学式

 前記したように、日付の入った文書もあるが、作成部署・作成者名など発行元はなく、これらがAさんの言うように「陸上自衛隊化学学校」で作成、使用されたことを示す表記もない。

 いつ、どこで、誰が作成したのかが不明である文書は通常「怪文書」とされる。

 しかも、化学式や構造式が並べられ、専門的な記述による工程などが記されていても、それを判読するだけの知識と経験のある人はごく少数だろうし、「どこかの研究所から出た文書」だと言われても判定のしようがない。

 その旨を話すと、Aさんは別の文書を提示した。横罫の入ったレポート用紙風の紙に、手書きで「タブン合成」と書かれ、なにやら複雑な方程式のような化学式が並ぶ。

「ここを見てください」とAさんが指で示した欄外を見ると、左端に〈起案用紙2号〉、中央部に〈陸上自衛隊〉、そして右端に〈(財)防衛弘済会納〉と印字されている。

 Aさんは説明する。

「これは当時、陸上自衛隊で使用されていた専用の用紙です。ここに書かれているのは、タブンの合成法です」

 しかし、これもまた発行元や作成年月日などが特定されていないため、その内容はともかく、どの程度の信憑性を担保できるのか、依然として疑問符がつく。かりに陸上自衛隊の専用用紙だとしても、これが化学学校発出の文書だと明記された記載もない。

 さらにAさんは数枚の文書を取り出した。いわゆる青焼きコピー文書をさらにコピーしたもので、紙全体が黒ずんでいるが、文字ははっきり読み取れる。

      73年に最新毒ガスBZ合成に成功?

 Aさんは言う。

「これは、研究員が化学学校長に提出した命題研究の報告書の一部です」

 命題研究? Aさんが続ける。

「化学学校の研究には命題研究と自主研究の二つがあって、予算の付く命題研究が九九%で、残りが自主研究です。この文書はBZ(ビーズィー)の合成法が書かれていますが、この中に合成した年度がはっきりと書かれています」

 BZガスとは米陸軍が開発した無能力化ガスで、当時としては最新の毒ガスだという。

「これを吸い込むと一時的に身体機能が奪われ、瞳孔が拡大し、錯乱し、銃さえ持てなくなるということです。死ぬことはなく、数時間で元に戻るそうです」
(Aさん)。

 文書にはこうある。

〈S47年度において、No.2の物質を合成し動物実験によって性状抗力を検討した結果、期待された効果が得られなかった。〉

〈S48年度以降、残されたNo.1の物資及びその同系列物質を合成し、各種実験を行なった結果、極めて良い成果が得られた。この結果、無能力化剤BZは次の化学構造であると推定した。〉

 ここでは「No.2」および「No.1」の化学物質が何かを明示しないが、「S47年度」=一九七二年度から「S48年度」=一九七三年度にかけての実験によってBZの合成に成功し、化学構造を明らかにしたことが報告されている。

 また、そのBZを「紫外線吸収スペクトル」という分析機械で特定した記述や、「半数致死量試験」に「マウス♂」が使われたことも記されている。他の文書には「犬を用いた実験」を実施した記録もある。

 Aさんは言う。

「当時最新と言われたBZの製造を一九七三年に成功したとすれば、サリンやタブン、VXなどはそれ以前に合成に成功していた可能性があります」

 しかしこの文書もまた、作者名も発出先もなく、誰が誰(どこ)に出した文書なのか、明示されていないのである。(つづく)

元自衛官が「内部文書」元に証言、「私は自衛隊で毒ガスサリンの製造に関わっていた」(3/5)

     第一〇一化学防護隊サリン事件で出動

 JR大宮駅から直線距離で二キロメートル近く。中山道(国道17号線)を越えてしばらく行くと、信号の向こうに白い建物が建ち並ぶ。さいたま市北区日進町にある陸上自衛隊大宮駐屯地の官舎である。

 信号を左に曲り、広い道路を行くと、やがて駐屯地入口。そこに「化学学校」「第三十二普通科連隊」「中央特殊武器防護隊」の三つの看板が並ぶ。

 地下鉄サリン事件発生時、大宮駐屯地からは化学学校とその配下にある第一〇一化学防護隊(中央特殊武器防護隊の前身)が初めて実働派遣された。同じく首都防衛の要とされる第三二普通科連隊を中心にサリン除染部隊が編成され地下鉄駅構内や車両内で「除染」を実施。これは当時のニュースでも報じられ、その活動が評価・称賛された。

 一方で事件当時、オウム教団の中に現役の自衛隊員や警察官などの信者がいたことから、オウム真理教と自衛隊の関係に疑惑の目が向けられた。しかし、陸上自衛隊もこのサリンを開発・製造していた(いる)と報じたメディアは当時なかった。当時のみならず現在もなお、自衛隊がサリンなどの毒ガスを製造していることは知られていない。化学学校の活動自体が闇に包まれている。

 ところで、その化学学校の法的な位置づけは次のようになる。

 地下鉄サリン事件の起きた翌月(九五年四月)に施行された「化学兵器禁止法」(化学兵器の禁止及び特定物質の規制等に関する法律)では、「何人も、化学兵器を製造してはならない」(第三条)とされるが、第三四条によって「特定施設についての特例」が定められている。

 特定施設とは、「特定物質の毒性から人の身体を守る方法に関する研究のために特定物質の製造をする施設」を言う。その特定施設に指定されているのが「陸上自衛隊化学学校」であり、そこで製造される「特定物質」の量は「年間十キログラムとする」と定められている(同法施行令第六条)。

 下の〈年表〉にあるように、この年(九五年)の九月に日本は化学兵器禁止条約を批准しており、その国際条約に対応するために作られたのが化学兵器禁止法だ。

 しかし、男性の証言によれば、その法律ができる二〇年以上も前から、化学学校でサリンが製造されていたことになる。(つづく)

◆◆化学兵器をめぐる条約と日本国内の動き◆◆
1899年 ハーグ陸戦条約発効。戦争における毒物の使用を禁止。
1911年 日本がハーグ陸戦条約を批准。
1914年 日本陸軍が毒ガス調査研究を開始。
1923年 日本海軍が東京・築地に化学兵器研究室を開設。
1925年 ジュネーブ議定書で、戦争時における窒息性ガス、毒性ガス等の使用を禁止。開発、生産、貯蔵は禁止されず。日本政府は署名のみ。
1929年 日本陸軍が広島県大久野島で毒ガスの製造開始。
1937年 陸軍関東軍技術部化学兵器班(のちの化学部)が創設。通称「満州第516部隊」。満州に駐留しマスタードガス、ルイサイトなど製造。
1943年 日本海軍が神奈川県寒川村で毒ガスの生産を本格化。
1945年 第二次世界大戦終結。
1969年 沖縄の米軍・知花弾薬庫で毒ガス漏洩事故。
1970年 日本政府がジュネーブ議定書を締約。
1993年 化学兵器禁止条約、パリで署名式(1月)。同月、日本政府も署名。サリンなどの化学兵器の開発、生産、保有など包括的に禁止。米国とロシアなど保有の化学兵器を原則10年以内に全廃と定める。
1994年6月 松本サリン事件発生。
1995年3月 地下鉄サリン事件発生。
1995年4月 化学兵器禁止法制定。
1995年9月 日本政府が化学兵器禁止条約を批准。北海道の屈斜路湖で旧日本軍の遺棄毒ガス弾発見。
1997年4月 化学兵器禁止条約発効。
1999年7月 日中両政府が「中国における日本の遺棄化学兵器の廃棄に関する覚書」締結。翌年から処理作業を開始。
2002~03年 神奈川県寒川町、平塚市の旧相模海軍工廠化学実験部跡地から旧日本軍の毒ガス入り容器発見。
2003年 中国黒竜江省チチハル市で旧日本軍が遺棄した化学兵器からの毒ガス流出で1人死亡、43人負傷。
茨城県神栖町の井戸水から旧日本軍の化学兵器に使用された有機ヒ素化合物(ジフェニルアルシン酸)検出。
環境省が「旧日本軍毒ガス等全国調査」結果発表。
2007年 千葉市稲毛区で旧日本軍の毒ガス弾計175発見つかる(2010年まで)。
2012年12月 化学兵器禁止条約締約国は188カ国。

元自衛官が「内部文書」元に証言、「私は自衛隊で毒ガスサリンの製造に関わっていた」(2/5)

     NBC兵器の防護研究

 かつて国会で次のような質問主意書が出たことがあった。質問者は参議院の井上美代、緒方靖夫、阿部幸代、畑野君枝の各議員(当時)。質問主意書は第一五〇回国会中の二〇〇〇年一一月九日付で出された。

〈政府、防衛庁の進める核・生物・化学兵器対処研究が、大都市部で公然と行われることに対し、基地や研究施設などの周辺地域住民を始め、多くの国民は不安を持っている。生物・化学兵器の禁止が世界の流れとなっている中で、なぜ今、生物・化学兵器対処研究が必要なのか〉
〈埼玉県大宮市にある陸上自衛隊化学学校は、これまで、核・生物・化学兵器対処研究とのかかわりで、どのようなことを行ってきたのか。(略)明らかにされたい〉(抜粋。地名は当時)

 これに対し、同年一二月一日付の答弁書で森喜朗総理大臣(当時)は、化学学校について次のように答えている(その部分のみ抜粋)。

〈陸上自衛隊化学学校においては、これまで、NBC兵器が使用された場合の偵察、防護及び除染を行うため、化学防護、化学技術等に関する研究を行ってきた。今後、同学校においては、(略〉引き続き、かかる研究を行っていく予定である〉

 きわめて具体性を欠いた答弁であるが、「核・生物・化学兵器対処関連事業」として一九九九年度は二億九〇〇〇万円余、二〇〇〇年度には二四億三六〇〇万円余とゼロが一つ増え、一三年度はさらにその約三倍の七一億八二〇〇万円余の予算が付いている。通算すれば巨額な税金が投入されているものの、「防護」のための活動内容は以上のとおり抽象的な域を出ない。

 陸自・化学学校はNBC兵器(下の記事参照)の防護要員であり、「防護」研究のために化学兵器と放射性物質を扱うことのできる日本で唯一の機関である。前身である化学教育隊が化学学校に昇格(一九五七年)してから半世紀余り。現在の学校長は二〇一一年八月に就任した川上幸則陸将補である。(つづく)

◆◆毒ガスとは◆◆ 
 核兵器(Nuclear=ニュークリア)生物兵器(Bio=バイオ)化学兵器(Chemical=ケミカル)の頭文字をとって「NBC兵器」というが、このうち毒ガスC(ケミカル)兵器に属する。生物兵器=B(バイオ)兵器が天然痘ウイルスやコレラ菌、炭疽菌、ボツリヌス菌などの生物剤を用い、自然発生の疾病との区別が困難なのに対して、化学兵器は人の手で開発された毒性の化学剤を用い、弾薬などを爆発させることで一度に多くの人を殺傷する大量殺人兵器である。
 外務省総合外交政策局が公表している資料によると、化学兵器として開発された毒性化学物質は大まかにわけ、【1】血液剤(塩化シアンなど血液中の酸素摂取を阻害し身体機能を喪失させるもの)、【2】窒息剤(ホスゲンなど気管支や肺に影響を与えて窒息させるもの)、【3】糜爛剤(マスタードなど皮膚や呼吸器系統に深刻な炎症を引き起こすもの)、【4】神経剤(サリンなど神経伝達を阻害し筋肉痙攣や呼吸障害を引き起こすもの)――などの種類がある。

元自衛官が「内部文書」元に証言、「私は自衛隊で毒ガスサリンの製造に関わっていた」(1/5)

 世界を揺るがした地下鉄サリン事件より数十年も前から、陸上自衛隊がサリンの製造をしていたことが複数の資料と証言で明らかになった。サリンだけではない。VX、タブンといった猛毒の殺人ガスも……。非核三原則と同様、日本政府は毒ガスについても「持たず、作らず、持ち込ませず」などと表明していたが、自衛隊によるサリン製造が事実なら、毒ガスをめぐる戦後の歴史が塗り替えられる可能性がある。陸自・化学学校に所属していたという元自衛官の証言から連載を始める。(本誌編集部/片岡伸行、5月17日号)
※連載「自衛隊とサリン」の第1回を特別に配信します※
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「私は埼玉県にある陸上自衛隊化学学校でサリンなどの毒ガスの製造に関わっていました。一九七〇年代のことです」

 東京都内のある喫茶店の一角で、「元自衛官」と名乗る六〇代の男性はそう切り出した。白髪交じりの短髪。口調は柔らかだ。

 サリンと言えば、一九三八年にナチス・ドイツが開発した有機リン化合物の神経ガスである。九四年六月の松本サリン事件、翌九五年三月の地下鉄サリン事件でその名が広く知られることになる。いずれもオウム真理教が起こした、世界で初めての神経ガスによる無差別殺人事件で使用された。青酸カリの五〇〇倍とも言われる猛毒で、体内に取り込むと筋肉が麻痺・痙攣し、呼吸停止を引き起こす。

 そのサリンを、地下鉄サリン事件より二〇年以上も前に陸上自衛隊で製造していたという。にわかには信じがたい話だが、そもそも陸上自衛隊化学学校とはどのような組織なのか。(つづく)

放射性廃棄物最終処分場の立地場所――ドイツの超党派が合意

 福島第一原発事故の三カ月後、ドイツは全原発を二〇二二年までに廃止する政策を決定した。残された最大の課題は高レベル放射性廃棄物(原発ゴミ)を処理できる最終処分施設の立地場所を決定し、処理を開始することだ。

 四月九日、ドイツ連邦政府や州政府代表、主要四党代表など超党派の政治家たちが、最終処分施設立地場所の決定時期や立地場所選定の進め方などについて協議し、合意に達した。今回の各党合意により、最終処分施設建設地の決定を目指して大きく一歩、踏み出したことになる。

 各党の政治家たちは協議の結果、(1)二〇三一年までに放射性廃棄物最終処分施設建設の立地場所を決定すること(2)二四人からなる諮問委員会が一五年までに最終貯処分施設の設置基準の設定(3)新たに設けられる監督官庁と連邦放射線防護庁はこの設置基準に基づいて数カ所の候補地を探し、地上の予備調査を開始する(4)連邦議会は二三年末までに二カ所の地下採掘調査を行なうこと(5)放射性廃棄物の最終処分施設を選定するための新たな法律は、七月五日までに連邦議会と連邦参議院で審議、決議する――など具体的合意を得た。

 新しく設けられる諮問委員会の委員長には、メルケル首相に二二年までの段階的原発廃止を提言した諮問倫理委員会の共同委員長を務めたテップファー元連邦環境相(元国連環境計画事務局長)などの名前が挙がっている。

 協議の後、アルトマイヤー連邦環境相は「最終処分場探しは市民参加のもと、オープンに進める」と語った。ドイツでは原発の運転で増え続ける高レベル放射性廃棄物最終処分場の決定が最大の課題。

 高レベル放射性廃棄物の最終処分施設は、日本を含めまだどの国も持っておらず、具体的な場所をこれまでに決定することができた国はフィンランド、スウェーデン、フランスの三カ国だけだ。

(川名英之・環境ジャーナリスト、5月10日号)

福島原発告訴団が総会――「検察は厳正な捜査と起訴を」

参加した告訴人たちから「さらなる責任追及」を求める意見が続出した=4月27日。(撮影/明石昇二郎)

参加した告訴人たちから「さらなる責任追及」を求める意見が続出した=4月27日。(撮影/明石昇二郎)

 福島県郡山市の労働福祉会館周辺では四月二七日、毎時〇・八マイクロシーベルトを記録した。国が定める「放射線管理区域」の基準(毎時約〇・六マイクロシーベルト)を上回るレベルである。原発事故の発生から二年が過ぎ、被災地・福島に対する世間の関心がいくら風化しようとも、放射能はやすやすと風化してくれない。

 その同会館大ホールで同日、東京電力福島第一原発事故の責任者らを集団刑事告訴した「福島原発告訴団」の第二回総会が開かれた。福島県内をはじめ全国の告訴人二〇一人が参加し、

「なぜ検察はいつまで経っても強制捜査しないのか」

「事務局の対応は生ぬるいのではないか」

「証拠をもっと積極的に検察へ提供していくべきではないか」

 など、告訴団事務局を“鼓舞”する意見が続出。予定の終了時間を一時間もオーバーするほどの熱い議論が繰り広げられた。原発事故で放射能汚染を引き起こした責任者たちの刑事責任がいまだ問われていないことに、告訴人たちの憤りはかえって増すばかりの様子で、会場は汗ばむほどの熱気に包まれた。

 昨年三月の告訴団結成から一年が過ぎ、告訴人の総数は一万四七一六人に達し、検察当局に対して「厳正な捜査と起訴を求める」緊急署名では全国から一〇万八〇〇〇筆以上を集めるに至っている。

 今後、告訴団では五月三一日(金)午後一時半から、東京・日比谷野外音楽堂で「福島原発事故の厳正な捜査と起訴を求める大集会」を開催する予定。同日午後四時からは東京地検前での「検事激励」行動、午後五時半からは東電前での抗議行動を計画している。

 告訴団では同日、福島県からの直行バスを運行する予定だ。問い合わせは福島原発告訴団 TEL 080-5739-7279 または Mail info@1fkokuso.orgまで。

(明石昇二郎・ルポライター、5月10日号)

ブルームバーグ社の控訴棄却――解雇は再び「無効」

 米経済通信社ブルームバーグの記者へのPIP(パフォーマンス・インプルーブメント・プラン=成績改善計画)を利用した解雇に再び無効判決が言い渡された。東京高裁(坂井満裁判長)は四月二四日、会社側の控訴を棄却。満席の傍聴席に「よしっ」の声と拍手が響いた。

 同社の記者、Aさん(五一歳)が退職勧奨を受けたのは二〇一〇年四月。一カ月間にわたって達成不可能な課題を与えるPIPを三回繰り返された末の仕打ちだった。会社は団交で要求に一切応じず、八月に正式解雇となった。昨年一〇月五日の東京地裁で全面勝訴したが、会社は即日控訴していた。控訴審は初回で結審し、和解協議が三回で打ち切りとなり、今回の判決に至った。

 今回の判決後の記者会見で新聞労連と弁護団が連名で出した声明は、「解雇の規制緩和や大企業による退職強要が横行し、労働者の雇用環境が悪化しつつある中で貴重な判決である」と高く評価した。

 控訴審判決は、原告の職務能力の重大な低下を示す客観的証拠がないことを、一審判決を補強して認定した。PIPを課す必要性がそもそもなく、解雇の手段にすぎないことを裏付けたに等しい。また、「国際企業と一般的な日本企業との雇用形態には差異がある」という会社の主張についても、「単なる一般論に過ぎず」「解雇事由の判断に影響を与えるようなものではない」と一蹴した。

 記者会見でAさんは、政府の産業競争力会議などで解雇自由化の主張が出ていることに触れ、「金さえ払えば首を切れるということになると、一番切りやすいのは能力不足」とPIPに警鐘を鳴らし、「解雇自由化の流れを許してはならない。社会が監視して歯止めをかけなければならない」と訴えた。

 新聞労連は加盟単組に呼びかけて、会社に上告断念を求めるファクス行動を展開中だ。

(米倉外昭・新聞労連副委員長、5月10日号)

今週の憲法審査会――改憲めざす自民党の空席目立つ

 改憲をめざす第二次安倍政権下で、憲法審査会はすでに参議院で二回、衆議院では五回開催され、四月は毎週開催になった。衆院の審査会は五〇人の委員構成中、九条改憲反対の政党からは共産党の笠井亮氏一人という状況だ。

 四月二五日、衆院憲法審査会は憲法第八章「地方自治」を検討。冒頭に説明聴取をした衆院法制局の橘 幸信部長が、明治憲法では軽視された「地方自治」が現行憲法では重視された意義などを確認。八章の憲法問題の議論でいつも焦点となる「地方自治の本旨」にかかわる論点、道州制、条例制定権、地方財政、定住外国人の参政権、特別法の住民投票問題など、この日の審議で論ずべき点は少なくなかった。しかし各党代表の一通りの意見表明の後の自由討議は全体として低調で、一二時終了予定が一一時頃には議論が「尽きて」(保利耕輔会長)はやばやと終了した。

 今回も自民党席の空きはひどく、開始六〇分ほどにもなると一五人(自民党委員数三一人)ほどになり、七五分頃には一三人くらいになってしまった。共産党の笠井委員が「一番開催を急ぐ自民党に相当空席がある。幹事も二人(自民党の幹事は六人)だけ。この状況で毎回、大事な憲法問題の議論をやるのがいいのか。無理に日程設定するのをやめよ」と発言。自民党の保利会長と船田元筆頭幹事は苦笑いしていた。

(高田健・許すな!憲法改悪・市民連絡会、5月10日号)

安倍内閣の閣僚参拝、首相の言動に批判集中――「日本の右傾化」欧米も懸念

「参議院選までは経済中心。低姿勢」とネコをかぶっていた安倍政権がどうやら本性を現し、「安倍カラー」が全開し始めた。閣僚は靖国参拝、首相は「強い国」を前面に出し、かつての戦争を正当化する右翼改憲路線。韓国、中国だけでなく、欧米各国のメディアも緊張の拡大に眉をひそめる。首相は「わが閣僚はどんな脅かしにも屈しない」と意気軒昂。だが、もともと安倍晋三首相は、欧米の感覚では「超右翼」。その姿勢は、今後一層問われることになるだろう。

【閣僚4人、議員172人】

 四月二三日、春の例大祭の靖国神社に、黒の式服に身を包んだ国会議員一六八人が訪れ、参拝した。「みんなで靖国神社に参拝する国会議員の会」(尾辻秀久会長)のメンバーで、前日までに参拝した麻生太郎副総理・財務相、古屋圭司拉致問題担当相、新藤義孝総務相の三閣僚、翌日の稲田朋美行革担当相を加え参拝議員は一七二人に上った。「(前回の)首相在任中に参拝できなかったのは痛恨の極み」と表明した安倍首相は、参拝はしなかったが、真榊を供えた。

 これに対して、中国、韓国は当然反発。韓国は予定していた尹炳世外相の訪日を取りやめ、中国外務省の華春瑩副報道局長は、四月二二日の定例会見で「厳正な申し入れを行なった」と述べ、「侵略の歴史を反省しない限り未来は開けない」と批判した。中国関係では日中友好議員連盟(会長・高村正彦自民党副総裁)が五月に予定していた訪中も中止になった。

 中国共産党機関紙『人民日報』は「私人での参拝だとしても、その意図は明らかだ」と批判。訪中した民主党・江田五月元参院議長らと四月二八日会談した蔡武文化相も、「右翼的な政治家の言動はいかがなものか」と苦言を呈した。

 韓国の反応はさらに厳しい。韓国国会は二九日、閣僚の靖国神社参拝や、安倍首相の歴史発言を非難する決議を、出席議員二三九人のうち、棄権一人を除く圧倒的な賛成多数で採択。決議は「非理性的な妄動や妄言は、未来志向の韓日関係構築や北東アジアの平和定着に深刻な悪影響を及ぼす外交的な挑発行為だ」と述べ、靖国参拝や過去の侵略を否定する発言をやめ、多くの人に苦痛を与えた過去を反省し、謝罪を表明するよう求めた。同時に、韓国政府に「日本の軍国主義回帰の動きについて、あらゆる外交的手段を動員して強力な措置を取ることを求める」と強調。アジア諸国などにも共同して対処するよう呼びかけている。

【批判は中韓だけではない】

 こうした反応は、中韓だけではない。四月二三日付『ニューヨーク・タイムズ』社説は、「無用な日本の軍国主義」と題して、「安倍氏には第二次大戦中の日本の行為を擁護した前歴がある」「北朝鮮の核開発問題解決に協力して取り組む必要がある時に、日本が中国と韓国の敵意を煽るのは特に無謀なこと」と批判した。また、安倍首相が「侵略の定義は国際的に定まっていない」と述べたことに、『ワシントン・ポスト』も「日本が韓国や中国を侵略したのは疑いのない事実だ。中韓の反日感情は安倍氏の歴史修正主義を正当化する理由にはならない」と批判した。

 英国の『フィナンシャル・タイムズ』は二九日付社説で、経済政策を評価しながら「日本の侵略に疑問を提起する本心をのぞかせた」とし「よく見ても乱心、悪く言えば物騒なこと」と指摘した。

 米国務省のベントレル報道部長も二六日、「公式な抗議」はしていないとした上で、「中国や韓国同様、他国も懸念を表明している」と述べ、安倍政権に中韓を刺激しないよう自制を促した。オバマ政権は、日本政府へ外交ルートで非公式に懸念を伝えているという。

 しかし、右翼政権と改憲グループの暴走は止まらない。閣僚や議員の靖国神社参拝、政府主催の四月二八日の「主権回復の日式典」に続いて、三〇日には「新憲法制定議員同盟」(中曽根康弘会長)、五月三日には「新しい憲法をつくる国民会議」(清原淳平会長)が集会を開き、改憲実現を訴えた。

(丸山重威・ジャーナリスト、5月10日号)