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真理はあなたたちを自由にする(佐藤優)

カール・マルクス著『資本論』第1巻の発刊から今年で150年になります。弊社では、150年を記念して鎌倉孝夫さんと佐藤優さんによる『21世紀に『資本論』をどう生かすか』 http://www.kinyobi.co.jp/publish/002411.php を発刊しました。

いまの社会問題の根本がどこにあるかを考えるために、マルクスの『資本論』は最強の武器であり続けています。ただし、『資本論』は革命の手引き書ではありません。一般向けの講義をまとめた本書は、資本主義の内在論理をあきらかにするとともに、『資本論』の誤読されやすい部分をていねいに解きほぐしています。

佐藤優さんによる「まえがき」を佐藤さんのお許しをえて公開します。ご関心をもたれたらぜひ、本書をお手に取り下さい。(編集部 伊田浩之)

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真理はあなたたちを自由にする
佐藤優

今年2017年は、カール・マルクスの『資本論』第1巻初版が1867年に刊行されてから150年になる記念の年だ。『資本論』は有名だが、実際にこの本を通読した人はそれほど多くない。この点については、マルクス自身も予想していたようだ。初版の序文でこんなことを述べている。

〈何事も初めがむずかしい、という諺は、すべての科学にあてはまる。第一章、とくに商品の分析を含んでいる節の理解は、したがって、最大の障害となるであろう。〉(マルクス[向坂逸郎訳]『資本論(一)』岩波文庫、1969年、11ページ)

本屋の店頭で本を手に取ると、通常はまず序文を読む。その序文に「この本は難しい」ということが書いてあると、怖じ気づいて買うのを躊躇してしまう人が多いと思う。21世紀にプロの編集者がついていたならば、マルクスがこのような原稿を書いても、修正を要求したであろう。しかし、『資本論』の論理を正確に理解したいと考える人にとって、マルクスが序文で、この本の第1章の商品の分析を含んでいる節が難しいと予告していてくれたことが、真理に到達するための重要な「導きの糸」になる。

〈資本主義的生産様式の支配的である社会の富は、「巨大なる商品集積」として現われ、個々の商品はこの富の成素形態として現われる。したがって、われわれの研究は商品の分析をもって始まる。〉(前掲書67ページ)

という『資本論』の冒頭に記された商品がどのようなものであるかについては、二つの解釈がある。

第一は、この商品は古代から現在に至るまであらゆる時代に存在した商品であるという解釈だ。

この解釈をすると資本主義社会の特質がまったくわからなくなってしまい迷路に陥ってしまうというのが鎌倉孝夫氏と私の認識だ。

第二は、この商品は、資本主義社会の商品を抽象したものであるという解釈だ。

宇野学派といわれるマルクス経済学者の宇野弘蔵氏(1897~1977年)の『資本論』解釈を踏襲する人々がこの解釈を支持する。資本主義より前の社会とは異なり資本主義社会では、労働力の商品化が行なわれている。その結果、資本が生産過程を支配することが可能となり、資本主義が自律的な社会システムとして自立することになる。『資本論』第1巻冒頭の商品を資本主義社会に特有のものであるという解釈をすると、この社会が資本家、地主、労働者の三大階級によって構成されているということがわかるというのが宇野学派の『資本論』解釈だ。もっとも鎌倉氏は、この解釈では飽き足らずに、資本主義社会は、資本家と労働者の二大階級によって構成されているという結論を導く。その論理的道筋については、本書でていねいに示されている。

さて『資本論』を基盤とする経済学には、マルクス主義経済学とマルクス経済学という二つの潮流がある。

マルクス主義経済学の立場に立つ人は、共産主義革命を起こすというイデオロギーを重視する。そして革命の聖典として、イデオロギー的に『資本論』を読んでいく。このような読み方に、根本的な異議を申し立てたのが宇野だ。宇野氏によれば、『資本論』は科学の書である。それだから、労働者、資本家、地主、あるいはこの三大階級に入らない小商品生産者、作家、芸術家などが読んでも資本主義社会の論理をつかむことができると宇野氏は主張した。そしてみずからの経済学をマルクス経済学と規定した。マルクスの流れを継承する経済学という意味だ。

21世紀のわれわれから見れば、宇野氏の主張は、当たり前のことのように思えるが、1980年代末にソ連体制に揺らぎが生じる前の左派的情報空間において、宇野氏のような『資本論』解釈は、理論と実践を切り離す悪しき科学主義、客観主義とみなされた。

ちなみに、宇野氏は資本主義社会を理解する上でも社会主義(もしくは共産主義)イデオロギーの重要性をよく理解していた。社会主義イデオロギーを持っている人は、資本主義的偏見から自由になることができる。例えば、貨幣を根本から疑うことができる。1万円札を作成するのに必要な費用は22~24円である。それにもかかわらず1万円札で1万円に相当する商品やサービスを購入すること自体が、資本主義イデオロギーの下で可能になることなのである。マルクスは、独特なイデオロギーを持っていたことで、資本主義イデオロギーの偏見から解放され、資本主義社会の構造を客観的かつ実証的に分析することができると考えたのだ。

宇野氏の理解を敷衍するとマルクス経済学は、歴史学の一分野となる。すなわち資本主義という特定の時代を客観的かつ実証的に分析することがマルクス経済学の課題なので、これは歴史学に属するのである。

本書では詳しく説明されていないが、宇野には三段階論と呼ばれる特殊な方法論がある。経済学の場合、自然科学のような実験は不可能だ。したがって、頭の中で純粋な資本主義社会を想定する必要がある。しかし、この想定は、思考実験によって任意に構成される理念型ではない。現実の歴史過程から抽象されなくてはならない。宇野は『資本論』序文の以下の記述からヒントを得た。

〈経済的諸形態の分析では、顕微鏡も科学的試薬も用いるわけにいかぬ。抽象力なるものがこの両者に代わらねばならぬ。〉(前掲書12ページ)

こうした抽象力を行使して、資本主義社会の内在的論理を解明するのが原理論(経済原論)である。原理論は、『資本論』の論理に基づいて組み立てられるが、マルクスが書いたのだから『資本論』は絶対に正しいというような宗教的立場は取らない。論理性、実証性に照らして問題のある点は、いくらでも修正しても構わないというのが宇野の考え方だ。鎌倉氏も宇野氏のこの方法論を踏襲している。

歴史において、純粋な資本主義は存在し得ない。それは国家による経済過程への干渉があるからだ。それは、重商主義、自由主義、帝国主義というような経済政策の形で現れる。宇野氏はこれを段階論と名付けた。私は、ここでは国家の介入が主たる問題になるのだから段階論を国家論と読み替えてもいいと考える。ちなみに『資本論』では、国家を括弧の中に入れて論理が展開されている。国家は官僚制を持ち、徴税を行なう。この点を考慮するならば、現実の社会には国家と結びついた官僚という階級が存在すると哲学者の柄谷行人氏は述べる。この点については、私は柄谷氏と同じ見方だ。本書ではほとんど展開されていない国家、徴税、官僚に関する議論をいずれ鎌倉氏と徹底して行ないたいと考えている。

そして、原理論と段階論を踏まえて現状分析を行なうと宇野氏は説く。宇野氏は経済学の究極目標は現状分析であるというが、農業問題を除いて宇野氏自身の現状分析に関する作品はない。宇野学派の中で、鎌倉氏が占める特殊な立場は、原理論、段階論だけでなく現状分析にも積極的に取り組んでいることだ。私は高校生時代に社会党の青年組織・社青同(日本社会主義青年同盟。社青同を名乗る組織はいつくかあったが、私が所属していたのは向坂逸郎氏が代表をつとめていた社会主義協会系の“社青同協会派”とか“社青同向坂派”と呼ばれた組織)だった。このとき埼玉大学助教授で、労働者サークルの『資本論』研究会を主宰していた鎌倉氏と知り合った。私は鎌倉氏の『日本帝国主義の現段階』(現代評論社、1970年)、『日本帝国主義と資本輸出』(現代評論社、1976年)を読んで鎌倉理論の虜になった。いまでも私は、国家独占資本主義に対する鎌倉氏の理論は正しいと思っている。

本書で、鎌倉氏も私も『資本論』の論理は商品の分析で始まり、諸階級で閉じているという解釈を強調した。閉じているということは、その外側が存在するということだ。内部と外部をつなぐ回路について、鎌倉氏は労働力商品化を基礎とするシステムを超克し、人間が主体性を回復する革命を考えている。これに対して、日本の外務官僚としてモスクワでソ連崩壊を目の当たりにし、その後も日本国家の外交とインテリジェンスに関与した私は、革命を含め、政治的な事柄を根源的に信用しなくなってしまった。しかし、いつか外部の力によって千年王国が到来するという希望は失っていない。

本書を通じて、私と鎌倉氏が伝えたかった事柄を私なりの言葉で表現すると、かつてイエス・キリストが述べた、

「真理はあなたたちを自由にする」(「ヨハネによる福音書」8章32節)
ということだ。

安倍政権の「GDPかさ上げ疑惑」(佐々木実)

「2016年度のGDP(国内総生産)は史上最高ですよ」

テレビニュースの党首インタビューで、安倍晋三首相が「史上最高のGDP」を誇示するのを見て、「基準変更」への疑問が再び頭をもたげた。

今年2月にこのコラムで触れたが、安倍政権は昨年12月にGDPの算出基準を大幅に変更している。その時点で最新のデータだった2015年度は、従来の基準で501兆円のGDPが、新たな基準のもとで532兆円。基準変更のみで30兆円以上増えていた。

2015年9月に自民党総裁に再選された安倍首相が「GDP600兆円の達成」を掲げたこと、安倍政権がGDP算出基準をさらに「大改訂」する作業を進めていること、をコラムでは紹介したのだが、内容は踏み込み不足だった。

明石順平氏は『アベノミクスによろしく』(インターナショナル新書)で「GDPかさ上げ疑惑」という章を設け、昨年12月のGDP算出基準の変更を検証している。

基準変更をかいつまんで説明すると、主な理由は二つあり、「基準年」の変更と、「算出基準」を国際基準にあわせ変更したことだった。

ところが、じつはこれ以外に「その他もろもろの変更」があり、この根拠不明な変更で安倍政権の時期の数字だけが「かさ上げ」されていた。たとえば、安倍政権発足前の2012年度は0.6兆円しか増えていないのに、2015年度は7.5兆円も増えている。こうした「操作」の積み重ねが、安倍政権に都合の悪いデータを「削除」する効果をもったのである。

明石氏によると、昨年12月の基準変更によって、マクロ経済統計から読み取れる「アベノミクス失敗」を象徴する五つの現象がすべて消えた。「戦後初めて2年度連続で実質民間最終消費支出が下がった」などの現象である。2016年度のGDPが史上最高を記録したのも、旧基準なら史上最高の1997年度が相対的に低く修正された結果だった。「歴史の書き換えに等しい改訂がされた疑いがある」と明石氏は疑問を呈している。

選挙戦で安倍首相は、過去に遡って「改訂」されたマクロ経済統計を存分に活用している。彼は「経済運営の成功」というイメージづくりが、自らに強い求心力を与えてくれることを身をもって知っている。投資家に大歓迎された「異次元金融緩和」は結局失敗に終わっているが、安倍首相には今なお「成功体験」と映っているのではなかろうか。

英国在住のブレイディみかこ氏の「反緊縮を進める欧州左派」(『世界』11月号)という論考が参考になる。欧州各国で左派が反緊縮政策を唱える背景には、極右が先にこうしたポピュリズム的政策を手にすると危険だという切迫した危機感があるという。欧州の歴史には、ヒトラーという悪しき成功例があるからだ。

今年6月の英国の総選挙で躍進した労働党のコービン党首が、金融緩和政策を「ピープルズ・クオンティテイティブ・イージング(人民の量的緩和)」と呼んで支持したことは示唆に富む。欧州は政治抜きに経済を語れない危うい状況に突入しているが、他人事ではない。アベノミクスもこうした文脈のなかで捉え直してみる必要がある。

(ささき みのる・ジャーナリスト。10月20日号)