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今の法体系では原発苛酷事故に対応できない

政府は6月16日午前、野田佳彦首相と枝野幸男経済産業相ら関係3閣僚による4者会合を開き、関西電力大飯原発3、4号炉(福井県おおい町)の再稼働を決めました。しかし、十分な安全対策は取られていません。関連する本紙記事をネット配信します。
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 福島第一原発事故当時、政府の中枢にいた菅直人前首相と枝野幸男官房長官(当時、現経産大臣)が、国会事故調で証言した。浮かび上がったのは原子力災害対策特別措置法(原災法)の不備。これでは原発再稼働は危険きわまりない。

「原発は国策として続けられてきた。事故の最大の責任者は国にある。事故当時、国の最高責任者として、事故を止められなかったことについて、あらためておわびする」

 菅直人前首相は五月二八日、国会が設置した東京電力福島第一原子力発電所事故調査委員会(国会事故調、黒川清委員長)の冒頭で謝罪した。会場は参議院議員会館の講堂。聴取は予定の二時間を約五〇分超過した。

国会事故調で証言する菅直人氏。

 菅前首相が公開で聴取にに応じるのは事故後初めて。”首相による現場介入”と批判された一連の経緯に注目が集まった。

 菅前首相は民主党結党時に、自分の考えを脱原発から容認へと変節させたことは結果として誤りだったと反省。三月一二日の早朝に福島第一原発を視察したことについて菅前首相は次のように説明する。

「上がってくるべき情報が上がらず、これでは手の打ちようがないという怖さを感じた」
「事故の発生直後から官邸に原子力保安院、原子力安全委員会、また、東京電力から派遣された技術担当者からいろいろ話しを聞いていた。が、原発の状況がどうなっているのか、どうなるのか、また、どういった対策が必要なのか。根本的な状況の説明が一切なかった。特に(原子炉内の圧力を下げるため放射性物質を含む空気を排出する)ベントについて、東電は了承したにもかかわらず、何時間経っても行なわれない。官邸に来ていた東電の人間に理由を尋ねても『わからない』と言う。福島第一原発事故の責任者と直接話すことで、少なくとも、現地の状況はわかるのではないかと思った」

   保安院は機能不全

 事故発災後、官邸には、菅首相を本部長とする原子力災害緊急対策本部が立ち上がった。そこでは、原子力・安全保安院が事務局を担い、事故の対応にあたっていたはずだが、本部長であった菅首相のもとに、情報が全く上がってなかったというのだ。

 原災法では、事業者(今回は東京電力)とのやりとりを含む事務局を、原子力安全・保安院が担う。だが、寺坂信昭原子力安全・保安院長(当時)は、震災が発生した三月一一日に首相官邸を出て、安全・保安院に戻っており、その理由について寺坂氏は今年二月一五日の国会事故調で次のように語っている。

「私は事務系の人間。これだけの非常に大きな事故、技術的な知見も極めて重要になってくる。私が残るよりも官邸に技術的により分かった人間が残ってもらうほうがいいと私自身が判断した」
「原子力工学その他理科系の訓練というか学問を積んで原子力安全行政をやってきたということではない」

菅前首相(右上)の証言を聞くため、5月28日の国会事故調には多くの人たちが詰めかけた。

 菅前首相は、保安院について「平時の対応しかしていなかった」と批判。「原災法が想定していた事故は、今回のようなシビアアクシデントに対応できていなかった。オフサイトセンター(原子力災害時に指揮系統機能を果たすために原発立地地域に設置)にしても地震と原発事故が同時に起こることは想定していない」

 一九九九年のJCO臨界事故を機に制定され、首相に強い権限を与えた原災法の枠組みは、今回まったく機能しなかったようだ。

 想定外の事態に、本来の役割以上のことをやらざるを得なかったという菅前首相は、混乱を招いたと批判された現地視察についても理解を求めた。

 だが、現地視察を終えた後でも、官邸と東電との間の溝は埋まらない。悪化していく原発の状況に、一五日午前三時ころには、海江田万里経済産業大臣(当時)から「東電から撤退したいという話がでいる」と、菅前首相に伝えられた。

 菅前首相は、「原発事故がどこまで拡大するのか。どこで止まるかわからない状況の中、撤退はありえない」と、直後、官邸に清水正孝社長(当時)を呼び出して伝えた。

 一方、東電側は「あくまで一部撤退を申し上げたつもりで、全面撤退の議論は出ておりません」(武藤栄元東京電力副社長・三月一四日の国会事故調)と証言するなど、全面撤退を認めていない。だが、後段で紹介する枝野幸男氏も「部分的に残す趣旨ではなかったことは明確」と断言しており、東京電力にはさらなる説明責任が生じたといえよう。

 菅氏の説明ではこの後、原災法の枠組みにない「統合対策本部」の設置を決断する。事故調で「統合本部を立ち上げてからは、ほぼすべてのことは統合本部で情報を掌握・相談し、必要なことだけ私に確認があり、物事が進む状況になった」「日々、新たな事象が起き、一五日以前に全体的なグランドデザインを考える余裕はなかった」と話している。

 原災法が不備だったことがここでも”証明”された。

   炉心溶融の可能性

国会事故調で証言する枝野幸男氏。

 一方、同二七日の国会事故調には、枝野幸男経産大臣が参考人招致された。問題となった「炉心溶融」について、枝野大臣は「炉心溶融の可能性を想定して事故対応にあたっていたことは、あまりにも当たり前だったため、きちんと説明していなかったかもしれない」と証言。政府の情報隠しを否定した。

 二〇一一年三月一三日の記者会見で「炉心溶融の可能性」について言及したと強調した枝野氏だったが、多くの国民は、事故後三カ月が経過した六月七日になって、初めて「炉心溶融」が起こっていたことをを知らされたのではなかったか。

 三月一三日以降は、原子力安全保安院についても、炉心溶融の可能性について、会見で記者からの質問に対して、言及を避けるようになっている。

 だが枝野大臣は、「国民に対して、わかりやすい言葉を使うこと。分からないことは分からないと言うこと。発表することは、同時に官邸に報告すること」を求めたとして、「本来であれば、安全・保安院が技術的・専門的な知識に基づいて説明すべきだと思っていた。が、専門的な事柄を国民にわかりやすく説明できる人間がいなかった」と、自らが広報官の役割を務めざるを得なかったことに理解を求めた。

   過酷事故対応は無理

 原発事故当時、政府中枢にいた二人の証言から浮かび上がってきたのは、原子力災害対策本部の事務局を担うはずの原子力安全・保安院が全く機能しなかったことだ。

 本誌が二八日の事故調後、原災法の枠組みが役に立つのかと黒川委員長にたずねると、次のような返答があった。

「適材適所になっていないということが一つの要因としてあると思う。責任のある地位にある人が責任のある対応ができるか。また、事故が起こることを国として仮定しているのか。(いくら枠組みを変えても)機能的に対応できる組織をつくっていくことだと思う」

 つまり、法の枠組みも組織もダメだったと示唆(しさ)したのだ。

 原子力規制庁をめぐっての国会審議が五月二九日から始まっている。が、少なくとも、現行の原災法では、再び苛酷事故が起きた場合に対応できないことが明らかになったといえる。これでは、原発再稼働など、とてもできないはずだ。

(本誌取材班、写真も、6月1日号)